渓流斎上等兵、名誉の負傷で勇気ある撤退=金鑚神社参拝はまた次の機会に

本庄城址

ベルリン方面から「ミッション・インポッシブル」の指令が至急便のMP3で来ました。

映画のトム・クルーズ気取りもいいですが、これは映画ではなく、現実の指令です。都心から80分、埼玉県の本庄市に鎮座する「金鑚(かねさね)神社」は一度参拝することですね。ブログのネタになりますよ(笑)。「本殿」を設けない神体山(しんたいさん)を「本殿」とする神社は、日本広しと言えども、長野の「諏訪大社」と、奈良の「大神(おおみわ)神社」と、この「金鑚神社」の三つの神社しかありません。是非、このミッションの実行を。なお、このMP3の音声は、終了後、直ちに消去されます。。。。

うーん、スパイ映画みたいですね。

でも、私自身、本庄市は何度も通過したことはあっても、生まれてこのかた、一度も行ったことはありません。ちょっと調べたところ、市の名前の由来になった「本庄城址」もあるじゃありませんか。それに、私も大尊敬する、盲目のハンデを乗り越えて「群書類従」を編纂刊行した国学者の塙保己一(1746~1821)の出身地ではありませんか。この人、国際的にも有名で、あのヘレン・ケラーにも影響を与えたと言われてます。これは行くしかない。

しかし、高崎線本庄駅に到着して驚きました。ほとんど人が歩いておらず、駅前商店街は、今、全国的に何処でもそうでしょうが、シャッター商店街で、ほとんど開いてません。

私は無鉄砲ですから、行けばどうにかなるだろうとほとんど計画せず、行ってみましたが、観光案内所も見つからず、そのまま、北口の自転車屋さんに向かいました。レンタル自転車を借りるためです。(500円也)

私は、城好きですから、まず向かったのは、本庄城址。途中、高校生らしき少年に道を聞いたところ、市役所の裏手当たりだと教えてくれました。高校野球の熱戦も観ないでご苦労様なことでした。

城山稲荷神社

何回か、行ったり来たり、ウロウロしていたところ、城山稲荷神社の鳥居近くに看板が見つかりました。本庄城の由来は、「本庄実忠が弘治2年(1556年)に築城した平城である。云々。。。」と書いてありますから、そちらをお読みください。

この後、本庄市の「歴史民俗資料館」に立ち寄りました。何と、入場料無料。驚きました。上野の東京国立博物館で見た縄文土器と違わない立派な土器が展示されていたのです。えっ?本庄って、縄文文化もあったそんな古い土地だったんですか?

親切な64歳ぐらいの学芸員さんが出てきて「何でも質問してくだい」と言うので、「これから、金鑚(かねさね)神社に行きたいんですが」と道案内を乞うと、「そりゃあ大変ですよ。本庄市内には金鑚神社がたくさんありますけど、実は、皆、分社なんですよ。長野の『諏訪大社』、奈良の『大神(おおみわ)神社』と並ぶ本殿のない日本の三大神社の一つに行かれたいんでしょ?それは、本庄市じゃないんですよ。それは、隣町の神川町にあるんです。行政区画で、この地図は本庄市の発行ですから、ここには載ってないんです。えっ?自転車ですか?そりゃあ、無理とは言いませんけど、大変ですよ。山の方ですからここから上り坂になってますからね」と仰るではありませんか。

とにかく、決めたことですから、行くことにしました。

そば蔵「ざるそばセット」1050円

途中、主要幹線道路にあった「そば蔵」で腹ごしらえ。えらい別嬪さんが給仕してくれました(笑)。駅前商店街は寂れてましたが、皆さん、車社会なので、道路沿いには色々と食べ物屋さんは見つかりました。

さて、出発。学芸員さんの話だと、本庄駅の踏切を越えて、新幹線の「本庄早稲田駅」を越えて、関越高速道路を越えて、八高線の児玉駅まで1時間ぐらい。そこから、金鑚神社まで1時間はかかるということでした。

途中の関越高速道路の渦巻き道路に立ち塞がれて直進できず、道を間違えて迷ってしまいました。また、元に戻って、右側の歩道を走ったら、「抜け道」が見つかりました。初めて行く所は本当に大変で難所でした。

渓流斎上等兵(ポツダム伍長)名誉の負傷。軽傷ながら出血

そんなこんなで、自転車で走っていたところ、側道の溝に落ちそうになり、ブレーキをかける暇もなく、すっ転んでしまいました。痛いの何の。気が付いたら、青空が見えました。昔なら、何ともないのに、経年の結果、体力は落ちましたが、運動神経も反射神経もなくなっておりました。ズボンが破けるくらいですからね。

「こりゃあ、もう無理だな」と内心自覚しまして、ずる賢いことを考えました。「そうだ、このまま、児玉駅まで行って、そこからタクシーに乗って、金鑚神社に行ってしまえ」と。

ケガをした所から、児玉駅まで30分近くかかりましたが、駅も小さく、何と、タクシーが一台もないのですよ!

競進社模範蚕室

「仕方ない。行ける所まで行こう」ということで、途中、児玉駅近くの「競進社模範蚕室」(明治27年、木村九蔵が建設)や「塙保己一記念館」(何と、ここも無料)に立ち寄りながら、金鑚神社を目指しました。

しかし、打撲した膝は痛むし、走っても走っても、なかなか着きません。ペダルを漕ぐ力も萎えてきました。結局、自転車を返却する時間もあるので、あと数キロ手前で「勇気ある撤退」をすることを決めて、引き返すことにしました。学芸員さんの「あんな素晴らしい神社ありませんよ」という言葉が耳奥に残ってましたが、次回、汚名返上、名誉回復することにしましょう。

金鑚神社

本庄駅近くに戻って、地図だけを見て、「ここが本社」と勘違いしていた本庄市内の金鑚神社を参拝することにしました。ここは分社でしたね。

何しろ、神川町にある本家本元の本社は、欽明2年(541年)創建と言われ、天照大神と素戔嗚尊と日本武尊を祀っているというんですからね。神話ではなく、ヤマトタケルの東征の際に創建されたとされ、大和朝廷の権力が東国にまで及んでいた証左になります。

金鑚神社本殿

何度も書きますが、本庄市の金鑚神社は分社ですが、敷地も広く、格式もあり、かなり風格もありました。樹齢500年の楠木も立派でした。

皆様ご存知の関東近辺の寺社仏閣案内サイト「猫の足あと」には掲載されていないのかな、と見てみたところ、本庄市の分社は名前だけでしたが、神川町の金鑚神社(総本社)はしっかりと概要、由緒まで載っておりました。

抜かりありませんでした(笑)。

「守」「介」「掾」「目」の四等官

火星接近2018・7.31

今、加藤廣さんの遺作「秘録 島原の乱」(新潮社、2018年7月20日初版)を少しずつ読んでいます。

大坂夏の陣で自害したはずの豊臣秀頼が、九州にまで逃げ延びていたという歴史小説ですが、さすが、手馴れた作家だけあって、時代考証が生半可じゃありませんね。フィクションとはいえ、徹頭徹尾調べ上げた挙句の創作ですから、「もしかしてありえたかもしれない」と読者に思わせます。

歴史小説を読むに当たって、官位の知識があるととても便利です。私もこのブログで、何度か倉本一宏氏の「藤原氏」(中公新書)などを取り上げてきましたが、戦国時代になっても、明治になっても、これら官位が日本の歴史ではずっと続いております。今でも、小学校から高校の元校長先生、大学名誉教授らに「正五位」や「従五位」などと叙位叙勲しており、いまだに日本は古代の律令制が残っているわけですねえ(笑)。

官位の最高峰、関白になったのは、藤原氏以外では豊臣秀吉と秀次ぐらいです。

石田三成が「治部少」と呼ばれていたのは、三成が治部少輔という官位だったからです。治部少輔とは、治部省長官である治部卿、次官である大輔に次ぐ官位で、従五位下に当たるようです。治部省は、氏姓や戸籍に関する訴訟や仏事に対する監督などを行っていましたが、戦国時代ともなれば、有名無実化していたことでしょう。

火星接近2018・7・31

これら、長官、次官…といった官位は「四等官」と呼ばれ、諸官司で、色んな漢字が当てられています。

官司 長官(かみ) 次官(すけ) 判官(じょう) 主典(さかん)
神祇官
大夫
国司

出典 小学館デジタル大辞泉

源義経は「判官義経」と呼ばれていましたが、義経は「検非違使の尉」だったからでした。

私自身は、四等官の中で、地方官に過ぎない「国司」の「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「目(さかん)」が一番馴染みがあります。「目」と書いて「さがん」や「さかん」「さつか」などと読むとても珍しい名字を持つ人が大阪と山口県にいらっしゃるようですが、まさにこの官位から付けられたことでしょう。

江戸時代、大岡越前守忠相が南町奉行でありながら「越前守」と名乗ったのは、既に国司が有名無実化していたからでした。幕府に許可が得られれば通称として名乗ることができたようです。ただし、江戸城のある武蔵国の武蔵守だけは、さすがに畏れ多くて誰も名乗ることができませんでした。

明治の大隈重信大蔵卿は、今で言えば、財務相ということになるんですね。

官位などは、今は簡単に調べられます。知識が広がった上で、歴史小説を読むと面白さが倍増します。

大阪府北部地震から高山右近と藤原鎌足を連想

6月18日午前7時58分ごろ、大阪府北部を震源とする震度6弱の地震があり、死者4人、重軽傷者300人以上という大惨事です。何十万人か、数字は分かりませんが、多くの「帰宅難民」も出たということですね。

亡くなった方のご冥福をお祈り申し上げます。と、ともに被害に遭われた皆さまにはお見舞い申し上げます。

京都にお住まいの京洛先生にはいつもお世話になっておりますので、「安否確認」で電話したところ、ご無事で、2011年3月11日の東日本大震災のときは、東京都内のホテルにいて、かなりの揺れを体験しましたが、今回、京都でもそれと同じくらいの激しい揺れに見舞われたと仰ってました。

東京・銀座「岩戸」の「いわしの天麩羅定食」900円。写真は、いわしの天麩羅が運ばれてくる前ですけど美味しかった

さて今回、被害に遭われた場所として大阪府高槻市が注目されました。

高槻市と聞くと、私なんかはすぐ戦国時代のキリシタン大名高山右近の城下町を連想します。大変歴史のある街ですね。

それぐらいだと思っていたら、先日読んでいた洋泉社ムック「藤原氏」の中に、藤原氏の祖である藤原鎌足(中臣鎌子)の墓が高槻市の「阿武山古墳」にあると書いてあり、全く知らなかったので、そのシンクロニシティには吃驚してしまいました。

調べてみたら、高槻市の「阿武山古墳=藤原鎌足」は、ほぼ間違いないらしいですが、学説として百パーセント確定したわけではなく、ほかに蘇我石川麻呂や阿部内麻呂説などもあるそうです。

でも、被葬者は最上位クラスの貴人であることは決定的だそうです。当時の最高位の職冠が埋葬されていたからです。

このように、関西は本当に歴史の宝庫ですよね。ほんの少し歩いただけでも、歴史の教科書に出てくる人物の縁の神社仏閣や建物があります。今のところ、今回の地震で文化遺産の崩壊は聞いてないことだけでも救いです。(ただし、これが、現在、大変苦労している被災者を差し置いたような誤解を生むような表現でしたら取り消しますが、吾人としてはその意図は全く御座いません)

それにしても、大阪が大地震に襲われるなんて、専門家でさえ予測できなかったのではないでしょうか。先週あたりから、千葉県の安房勝山や群馬県の渋川市で地震が発生し、いよいよ関東に大きな地震があるのではないかという人もいたぐらいでしたが、全く予想が外れました。

いずれにせよ、どんなに科学や文明が発達しても、地震だけは予知できないということなんでしょうか。

細川護熙元首相まで藤原氏の末裔だった

倉本一宏著「藤原氏」(中公新書)をやっと読了できましたので、書評ではなく、備忘録として書いてみたいと思います。

登場人物を一人一人、家系図で追いながら、いちいち人物相関図を確かめていたので、通読するのに2週間以上掛かりました。 前回書いた時は「大学院の修士課程レベル」と書きましたが、訂正します。「大学院の博士号課程レベル」でした。ここに登場する天皇、藤原氏、皇后、中宮、家系図、分家図を全て諳んじて言うことができれば、博士号取得は間違いないことでしょう。

それでは行きます。

・藤原鎌足を継いで中心に立った二男の史(ふひと)は、鎌足が亡くなった時、まだ14歳だった。幼少期は、百済系渡来人田辺氏の許で、養育された。権力取得した後は、史を「等しく比べる者がいない最高名」として不比等と改名した。

・藤原氏の礎を作った不比等の四兄弟が、その後の藤原氏の繁栄の祖を作る。(1)南家の武智麻呂(2)北家の房前(3)式家の宇合(4)京家の麻呂ーの4人だ。あいにく、この4人とも同じ疫病で亡くなった。何の疫病だったのか、この本には書かれていなかったが、洋泉社ムックの「藤原氏」には、天然痘と書いてあった。

・「御堂関白記」を残した藤原道長は、関白には就ていなかった。内覧と太政官一上(だいじょうかんいちのかみ)と左大臣のみ。天皇の外戚を利用して、摂関政治の頂点に立った。

・道長のピークはちょうど今から1000年前の寛仁2年(1018年)10月、三女威子を後一条天皇の中宮に立て、二次会の宴席で、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」という有名な句を詠んだ。道長の21年間に及ぶ絶対的な権力政権により、政治が安定し、女房文学の繁栄がもたらされた。(道長の末子長家の子孫が和歌を司る冷泉家)

・道長は1028年に62歳で死去。道長を継いだ頼通は、4人の妃を後宮に入れたが、皇子を儲けることが出来ず、外戚の地位を得られなかった。これが摂関政治の衰退に繋がり、院政の道を開く。道長の死後は、頼通より4歳年長の姉彰子(一条天皇の皇后で、後一条天皇と後朱雀天皇の母。紫式部、和泉式部らが仕えた)が権力を握ったが、頼通は51年間もの超長期政権を築いた。

・北家冬嗣の兄である参議真夏を祖とする日野家からは、親鸞や、室町八代将軍義政の室となった日野富子らがいる。

・北家魚名の五代目に当たる秀郷は、承平・天慶の乱を鎮圧したとして有名だが、その後、「武将の祖」と仰ぎみられ、奥州藤原氏、足利氏、北面の武士佐藤義清(西行)らを輩出する。戦国武将の大友氏、立花氏なども秀郷の子孫を自称するも確かな証拠はないらしい。

・現代の細川護熙元首相は、熊本藩主の子孫としてよく知られているが、母親温子(よしこ)は、近衛文麿の娘で、実は藤原氏の末裔でもあった!

藤原氏を知らなければ何も始まらない

ここ2週間も日本の歴史を語るときに欠かせない「藤原氏」にはまっています。

倉本一宏著「藤原氏 権力者の一族」(中公新書・2017年12月25日初版)を読み続けていますが、なかなか読了できません(苦笑)。登場する人物を一人一人、「系図」で確かめて、人間関係を確認しながら読んでいるためです。

ですから、新書と言いながら、内容は濃密過ぎるほど深く、恐らく大学院の修士課程レベルではないかと勝手に思っています。この本だけで、理解することが難しいので、洋泉社ムック「藤原氏 至上の一族の正体」まで買ってしまったほどです。これを読むと、官位制や藤原氏から分かれる「近衛」「九条」「一条」などの公家一族の流れなどが一目で分かり、とても参考になります。

この本は、本人も「はじめに」に書かれておりますが、そして、以前私もこのブログで取り上げた「蘇我氏 古代豪族の興亡」(中公新書)の続編に当たります。藤原氏は、天皇の外戚となって権力を握った蘇我氏のやり方をそのまま踏襲したことになります。倉本氏といえば、先に「戦争の日本古代史」(講談社現代新書)も読んでいましたので、その博学ぶり、碩学ぶりには感服を通り越しておりました。

倉本氏は、「古事記」はもちろん、藤原不比等が撰修に深く関わった「日本書紀」、「続日本紀」(仲麻呂)、「日本後記」(冬嗣)、「続日本後記」(良房)、「日本文徳天皇実録」(基経)、「日本三代実録」(時平)の「六国史」、「藤氏家伝」「日本紀略」…とほぼ全ての原本に当たり、想像もできないほどの文献を読破しておられるようで、まあ、とても生半可な気持ちで読んでいてはとてもついていけません。

この本の内容を一言でまとめるのはまず困難です。少なくとも言えるのは、中臣鎌子=藤原鎌足を祖とする藤原氏は、この後、1300年間も日本の支配層の中枢の中枢を占めて、歴史を動かしてきたことは事実であり、奇跡的です。途中で藤原氏が天皇に成り代わろうと乱を起こしたり、摂関政治時代は特に、藤原氏が、数多いる親王の中から次の皇太子、天皇まで決めており、何だか、「万世一系」の天皇制といわれても、実は「藤原制」ではなかったのか、と勘繰りたくなってしまったほどです。

藤原氏といえば、平安時代の藤原道長は誰でも知っているでしょうが、幕末の三条実美も、近現代の西園寺公望も近衛文麿も藤原氏の末裔と聞くと少なからずの人は驚くことでしょう。1300年間、ずっと日本を動かし続けてきたのです。

それだけではありません。平泉で栄華を誇った奥州藤原三代も藤原氏。今も名前が続いている佐藤は、左衛門尉の藤原から、加藤は、加賀の藤原から、伊藤は伊勢の藤原、後藤は備後の藤原から来ていると言われていますからね。

武将の源氏も平氏も藤原の血が流れているので、まさに藤原氏抜きに日本の歴史を語れないわけです。

本日は、ちょっと官位制についてだけ、触れます。21世紀の現代になっても、叙位叙勲の制度があることは御存知かと思います。公立の小中学校の校長や大学教授も、亡くなった後や、88歳の米寿を迎えた場合、叙位叙勲されます。

このうち、例えば、大体ですが、小中学校の校長は、「正六位」か「従六位」、高校の校長は「正五位」か「従五位」か「正六位」、大学教授は「正四位」か「従四位」辺りで叙位されます。

古代から貴族の叙位は21歳以上になると行われ、大宝律令で定められた蔭位制(高位の親のお蔭で位を引き継ぐ)によりますと、皇族の親王は従四位下からスタート。藤原氏のような超有力臣族ともなると、従五位下からスタートするのです。(親が正一位や従一位の場合)

現代の校長先生や大学名誉教授が亡くなったりした時の最高の叙位が、21歳の若者のスタート地点だったことが分かります。

簡単にこの叙位と職掌の関係で言いますとー。

正一位・従一位=太政大臣

正二位・従二位=左右大臣・内大臣

正三位=大納言

従三位=中納言

正四位下=参議

従四位上=左右大弁

正五位上=左右中弁

正五位下=左右小弁

従五位下=少納言

といった具合です。

これは、何も、江戸時代や古代、中世の話ではないのです。現代も脈々と続いているということが言いたかったのです。

だから、偽証の佐川元国税庁長官やセクハラの福田元財務事務次官らがどれくらいの位階なのか、ちょっと興味ありますねえ(笑)。

鹿島神宮は中臣氏の氏神さまだった…

昨晩は、珍しく痛飲してしまい二日酔いです。。。

この《渓流斎日乗》のサイトの技術と運営面でお世話になっているIT実業家の松長会長と一献傾けたところ、あまりにも美味しい料理とお酒に恵まれて、ついメートルがあがってしまいました(笑)。

松長会長は、私よりちょうど一回り若い海城高校の後輩ですが、彼より1年後輩の坂元さんという方がやっている湯島の純酒肴「吟」に連れて行ってもらったところ、驚くほど美味!

この話は一番最後に回すとして、まず、昨晩、松長会長の神保町の会社を訪れたお話から。

◇おねだりしません!

皆様、既にお気づきのことと存じますが、今年1月からこの《渓流斎日乗》のサイトに鬱陶しい(笑)広告が掲載されるようになりました。正直申しますと、魂胆が御座いまして、この広告を皆さんがクリックして頂くと収益になるわけです。高望みはしてません。せめて、サイトのサーバーやドメイン維持料金の肩代わりをしてくれれば、という切ない希望的観測で始めたのでした。

その結果を教えてもらうため、足を運んだのですが、何と、1カ月の収益が、約170円だったということが分かりました。えーーーー!!!これでは何の足しにもなりませんねえ(笑)。アクセス数が少ないからしょうがないのですが、広告までクリックしてくださる方は、アクセス数の1%、つまり、100人に1人だということも分かりました。

何も、皆様に広告をクリックしてほしい、とおねだりしているわけではありませんよ(笑)。何しろ、頻繁にクリックされると、「不自然なクリック」としてマイナスになってしまうのです。また、私自身がクリックすると、どんなに機種を変えてもGPSかなんかで分かってしまい、「違反」になり、これもマイナスになります。

この話はこれぐらいにします。

純酒肴「吟」にて

◇古代史の謎を解明

松長会長はITに詳しいだけでなく、古代史と神社仏閣の縁起に異様に詳しいのでした。

たまたま、「埼玉風土記」の話になると、もう散逸して今は残っていないというのです。知りませんでしたね。現存している写本はたったの五つで、「出雲国風土記」がほぼ完本、「播磨国風土記」、「肥前国風土記」、「常陸国風土記」、「豊後国風土記」が一部欠損して残っているだけだというのです。

そして、常陸国の風土記が残ったのには理由があり、中臣氏の領地だったからだというのです。中臣氏とは、中大兄皇子とともに乙巳の変の革命を行い、大化の改新を遂げた、あの中臣氏です。中臣鎌足は、藤原鎌足と改名し、藤原氏は、摂関政治の黄金時代を築いて、現在でも血脈が続いているので、常陸国の風土記も現代まで残ったといわけです。

その証拠は、中臣氏の氏神が常陸国の鹿島神宮であり、この祭神を大和に移送して祀ったのが春日大社だというのです。神の使いといわれる鹿も一緒です。確かに、春日大社の「御由緒」の中には、記紀に出てくる出雲の国譲りの物語で成就された武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を鹿島神宮からお迎えしたと書いてありますね。中臣氏の氏神とも書いてありますから、結局、鹿島神宮は、中臣氏の氏神を祀った神社だったわけです。

そして、鹿島神宮の「神宮」は、そう滅多に名乗ることができないというのです。明治以前は、天皇家直系の伊勢神宮と、この鹿島神宮と、同じく国譲りの神話に出てくる経津主大神(ふつぬしのおおかみ)を祀った香取神宮(下総)しかありませんでした。明治以降になって、熱田神宮(三種の神器の一つ、草薙神剣が収められている)や明治神宮などがあるぐらいで、社格が段違いに凄いのです。

◇武蔵国の首都は鴻巣市だった!

さて、次は古代の武蔵国の話です。風土記が散逸してしまったので、詳細は分かりませんが、武蔵国の中心は、何と今の埼玉県鴻巣市笠原だったというのです。この地名に残る笠原とは、西暦534年頃に起きた「武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の乱」で、大和朝廷(今は「ヤマト王権」というらしい)の力を借りて、武蔵国を統一し、この辺りを拠点にした笠原直使主(かさはらのあたいおみ)から付けられたと言われてます。

おまけの話として、古代の地名の上野(こうずけ)国(群馬県)と下野(しもつけ)国(栃木県)はもともと、一つの国で「野」(け)と言われていたそうです。ヤマト王権は全国統一に当たって地元豪族を国造に任命したりしますが、その代わりに屯倉(みやけ)といって直轄地を寄進させます。年貢米の収穫が目的です。

こうして、お米の生産が上がっていくと、人口も増えていきます。そうなると、上野国、下野国のように、国を分割するわけです。「総(ふさ)」の国だったのが、「上総(かずさ)」(千葉県中部)と「下総(しもふさ)」(千葉、茨城、埼玉、東京)に。「備」の国は「備前」(岡山、兵庫、香川)「備中」(岡山県西部)「備後」(広島)に分かれるわけです。

湯島の純酒肴「吟」にて

◇京都の銘酒「まつもと」にはKOされました

そうそう、最後に純酒肴「吟」の話をしなければなりませんね。JR御徒町駅と地下鉄湯島駅の中間辺りのちょっと奥まったビルの2階にあります。15人も入れば満員になるお店です。居酒屋というより、酒肴という代名詞が雰囲気に合ってます。亭主の坂元さんは、30歳過ぎてから日本料理店で修行して、この店を出したという苦労人でした。

刺身を料理ではないと思っている人がいるかもしれませんが、立派な日本料理です。しめ鯖もカツオも旨いこと、旨いこと。

置いているお酒の銘柄は、まったく初めて聞くものばかりで、最初に味わった京都の銘酒「まつもと」は、これまで呑んだ日本酒のベスト5に入るくらい、クセがなく上品なスッキリとした味わいで、驚いてしまいました。

大阪浪華の宝、折口信夫、木津勘助

おはようございます。大阪の浪華先生です。

渓流斎さん、色々、時間をつくって、東京や小田原や埼玉周辺を探索されて居られますね。健康のためにも良いことです。

ブログでは、谷川彰英著の「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書)を読んで居られるそうで、休日は、川越まで足を運ばれた、という事ですが、色々、歴史の足跡を確認されて、教養を深められて、何よりです。


迂生は、「ウマズイめんくい村通信」の赤羽村長に対抗して、廉価で美味いものを探しに、大阪周辺を歩き回っています(笑)。
以前、「めんくい村通信」で、東京・浅草の「千葉屋」という、大学芋が美味しいとの評判記事が出ていました。
迂生も「大学芋」は大好きですが、上方には、気にいった大学芋を売っている店がほとんどありません。
もっとも、焼き芋、大学芋の店は、時代の流れで、消滅寸前です。大学芋は、デパートの総菜売り場で見かける程度ですが、小奇麗な陳列棚に並んでいる芋類はどこか気取っていていけませんね。
そんな折、京阪電車「京橋」駅の京阪百貨店の催事売り場で、美味い大学芋に出くわしました。
大阪市浪速区の「大国町(だいこくちょう)」にある、「大国屋」という大学芋の専門店で、パソコンで「大阪 大国屋」で検索するとHPが出てきます。
此処の大学芋は時間が経っても、いつまでもパリッとして、口当たりがよいことです。大体、大学芋は、時間が経つと、液状になって、飴が手にねばりついたり、ねばねばして、食べるのも面倒くさくなるものです(笑)。

そこで、暇つぶしに、地下鉄御堂筋線「大国町」駅そばの、その「大国屋」にまで行ってきました。梅田から地下鉄に乘ると「難波」から一駅先が「大国町駅」です。難波からでも、歩いて行ける便利なところでした。
そこで、ついでながら、この「大国町」周辺のぶらぶら歩きをしたところ、色々、歴史探訪になりました。


一つは、彼の有名な民俗学者で国文学者、歌人の折口信夫(釋迢空)の生誕の地を見つけたことです。
さらに、それより、はるか昔、神功皇后が、「三韓征伐」の凱旋のおりに、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀ったという「敷津松之宮」(大国主神社)が大国町にありました。「古代」と「現代」が入り混じった、浪華の歴史が、あちこちに散見できることです。

”歴史の玉手箱”です。


折口信夫の生誕の地は、浪速区敷津西一丁目周辺で 今は鴎町公園の中にあり、大阪市が市制70周年を記念して記念碑を建立し、昭和58年に「十日戎」の詩の一文を刻んだ文学碑も建てられました。
記念碑には「ほい駕籠を待ちこぞり居る人なかに おのづからわれも待ちごゝろなる」と刻まれてありますが、「ほい駕籠」は、渓流斎さんお分りになりますかねえ?


東京、関東の人には、なじみのない言葉でしょう。「ほい駕籠」とは駕籠かきの掛け声です。
正月、同じ浪速区にある「今宮戎神社」の「十日戎」では、芸舞妓が「寶恵駕籠」に乗ったりするので、「ほえかご」とも言ったりしますが、当時の浪華の賑わいが、この歌からも伝わってきます。


また、「敷津松之神宮」の境内にも、折口信夫の記念碑が建っています。こちらは昭和53年11月に、折口の母校である「府立天王寺高等学校同窓会(旧制府立五中)」や「近畿迢空会」、「国学院大学院友会大阪支部」、折口が一時期、教員をしていた「大阪府立今宮高校自彊会」が協賛で記念碑を建てたものです。


「敷津松之神宮」の由緒は、神功皇后の時代に遡りますが、その後、江戸時代の延享元年(1744年)になって、神託を受けて、出雲大社の摂社として「大国主神社」になったため、鳥居と神殿が二カ所あります。「大国主神社」は、今宮戎神社と並んで、大阪商人の守り神とされています。「大国主神がお父さん」、「事代主神が子供」で、両方お詣りしなければ「片詣り」とも言われるそうです。初詣や、十日戎の時は、両方に参拝するする習わしになっている、という事です。


境内には「木津勘助」の大きな銅像もあります。
またまた、渓流齋さんは「木津勘助て、一体、何者ですか?」となるでしょうね(笑)。
木津勘助は、伝説的英雄で実像は不明のようです。


通説では、本名は中村勘助。天正14年(1586年)に関東の足柄山に生まれた、と言われています。その後、大坂は木津村に住み、豊臣秀吉の配下になり、豊臣家滅亡後は、木津川の治水・堤防作りや新田開発事業に取り組んだ、と伝わっています。とくに、寛永16年(1639年)の大飢饉では、「お蔵破り」を決行して捕まり、葦島(現在の大正区三軒家付近)に流されました。その後、また、新田開発に関わり、万治3年(1660年)、75歳で亡くなったと言われています。

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「埼玉」の由来は「人を幸せにする心」、古代は東日本の中心地だった!

川越市

谷川彰英著「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書、2017年9月15日初版第2刷)を読んでます。

凄く楽しみにして読み始めたので、大変残念でした。誤植が多いのです。

前半に、「言明天皇」が出てきますが、明らかに「元明天皇」の間違い。1回や2回の間違いならよくあることですが、これが、4回も5回も続いて「言明天皇」とあると、確信的です。「えっ?最近の歴史教科書では名前が変わったの?」と、こちらで何度も辞典や事典で調べ直したほどです。

元明天皇は、平城京に遷都し、「古事記」「風土記」を編纂した女帝として有名です。

もっと酷いのは、79ページの地図です。新座市、和光市、志木市など埼玉県南部と練馬区など東京都北部の地図なのですが、清瀬市の隣が、何と「東村山市」と明記されているのです。「東久留米市でしょ!!!」と大声で叫びたくなりました。

東久留米市は、あの渓流斎先生がご幼少の砌、野山を駆けずり回った由緒ある土地柄です。ありえなーい。

著者は、信州松本の御出身で、筑波大学教授などを歴任された学者です。この辺りの土地勘はないでしょうが、あまりにもおそ松君です。それ以上に、出版社(KKベストセラーズ)の編集者・校正者も見抜けないんでしょうかねえ?劣化を感じます。

と、最初からかなり貶してしまいましたが、この本から教えられること多とします。著者は「地名の由来を歩く」シリーズを既に、京都、奈良など5冊も刊行されており、地名の歴史の専門家でしょう。手馴れています。新聞記者のように自分の足で歩いて取材している辺りは、感心します。

誤記以外は素晴らしい労作です。以下、いつものように換骨奪胎で。

・さいたま市大宮区に鎮座する氷川神社は、武蔵国の「一宮(いちのみや)」とされている。古代の武蔵国の国府が置かれたのは、今の東京都府中市。ここにある大国魂(おおくにたま)神社は、武蔵国の「総社」なので、一宮の氷川神社の方が格上である。(「総社」とは、当該国の格式が高い神社(多くは6社)をまとめて勧請して祀った神社のこと。)

・ということで、古代、武蔵国の中心は、府中ではなく、埼玉だったのではないか。

神の御魂(みたま)には大きく「荒(あら)御魂」と「和(にぎ)御霊」の二つに分かれる。荒御魂とは、「荒く猛き神霊」、和御魂とは「柔和・情熱などの徳を備えた神霊または霊魂」のこと。この和御魂には、さらに二つの神霊があり、一つは「幸(さき)御魂」で「人に幸福を与える神の霊魂」。もう一つは「奇(くし)御魂」で、「不思議な力を持つ神霊」のこと。

埼玉は、前玉(さきたま)から転じたもので、この前玉は、幸御魂(さきみたま=人に幸福を与える)から来たものだった。

・「続日本紀」によると、元正天皇の霊亀2年(716年)、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7カ国にいる高麗(こま)人(=高句麗からの渡来人)1799人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡(こまのこおり)を置いた」とある。高麗郡は、今の日高市から飯能市にかけての丘陵地。恐らく、高句麗から亡命した若光王が朝廷に願い出て許されたからではないか。

・一方、新羅からの渡来人を移住させた地域に「新羅郡(しらぎのこおり)」を置く。今の志木市、和光市、新座市辺り。志木は、新羅から転訛されたものと言われ、新座は、新羅郡から新座(にいくら=新倉とも)郡になったことから由来すると言われる。

(上田正昭著「帰化人」によると、百済系の漢氏=あやのうじ=は、軍事=鉄器や馬なども=、土木、外交などに強く、蘇我氏と結びつき朝廷内で台頭します。法隆寺「釈迦三尊像」をつくった止利仏師や蝦夷を征伐したとして知られる坂上田村麻呂らも漢氏の子孫です。

新羅系の秦氏=はたのうじ=は、大蔵官僚となり大和朝廷の財務を司ります。聖徳太子や藤原氏との結びつきが強く、国宝第1号に指定された弥勒菩薩像で有名な広隆寺は秦河勝=はたのかわかつ=が創建したもので、御本尊様は、聖徳太子から賜っています。神奈川県秦野市も、秦氏が移住した土地です。)

・和光市は、江戸時代は、「上新倉村」「下新倉村」「白子村」と言われ、白子宿は繁栄していた。新羅はかつて、志楽木(しらぎ)と書かれ、それが転じて白木となった説がある。白子も語感的に新羅をイメージさせる。恐らく、今の和光市が、古代新羅人の移住先の中心地ではなかったか。

・朝霞市は、近世以降、膝折村と言われていた。これは、応永30年(1423年)、常陸国の小栗城を攻め落とされた城主の子息小栗助重が逃げ延びて、この地に来たとき、馬が勢い余って、膝を折って死んでしまったという伝説から付けられたという。膝折村から朝霞町になったのは昭和7年のこと。東京・駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部をこの地に移転させ。開場日に朝香宮殿下の御臨席を賜り始球式が行われた。この朝香宮の名前を頂くことにしたが、そのままでは畏れ多いので、この地に発生する朝霞(あさぎり)にちなんで朝霞町にしたというもの。

・昭和天皇の弟宮秩父宮は、従来なら「三笠宮」など畿内の山の名から命名されていたのを、あえて、武蔵国の名山である秩父から命名された。秩父の歴史に深い理解があったものとみられる。地元民は大いに喜び、秩父宮は今では秩父神社の御祭神として祀られている。

・川越は、平安末期、桓武平氏の流れを汲む秩父氏がここに進出して荘園を開き、秩父重綱の子重隆以降は河越氏と名乗る。この重隆の孫重頼の娘「郷御前(さとごぜん)」は、源義経の正室。この史実は意外と知られていない。

蘇我氏が分かれば古代史が分かり、古代史が分かれば日本の歴史が分かる

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先日、倉本一宏著「蘇我氏」(中公新書)を読了しましたが、1週間近く経つのに、まだ、あの感銘が消えていません。「そっかあ」「そういうことだったのかあ」と納得することばかりでした。

この感銘もいずれ忘れてしまうので、書き留めておかなければなりません。前回書いた記事に【追記】として掲載しようかと思いましたが、稿を改めることにしたわけです。

倉本氏は、「おわりに」に梗概をうまくまとめておられました。それなどを参考に私の感想も含めて列記致したく存じます。

・「乙巳の変」は(1)舒明天皇と皇極天皇との間の皇子、中大兄王子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)と、舒明天皇と蘇我馬子の女(むすめ)法提郎媛との間の皇子、古人大兄王子(ふるひとのおおえのみこ)との大王位継承争い(2)中臣鎌足と蘇我入鹿との間の国際政策構想(唐からの圧力にどう対処するかの外交問題)の争い(3)蘇我氏内部における本宗家争い(4)大夫(まえつきみ)氏族層内部における蘇我氏族と非蘇我氏族との争い―など複雑な要素がからんだクーデターだった。

・その際、中大兄王子の敵対者として、その実像以上に反天皇の立場(幕末史でいうところの賊軍)に描かれたのが蘇我蝦夷・入鹿親子だが、究極的には、「日本書紀」の編者である持統天皇と藤原不比等の主張に基づくものだったと考えられる。

・中臣鎌足の子息藤原不比等は、嫡妻(ちゃくさい)として、蘇我馬子の孫で、蝦夷の甥に当たる連子(むらじこ)の女である娼子(しょうし、媼子=おんし)を迎えたのは、蘇我氏という尊貴性を自己の中に取り入れて、正統性を主張する魂胆が背景にあった。

・同時に、藤原氏の不比等は、蘇我氏が6世紀から行ってきた天皇家との姻戚関係の構築による身内氏族化という政略も同時に踏襲した。(藤原氏による天皇家との外戚関係構築は、蘇我氏の真似をしただけだったとは!)

・乙巳の変で、蘇我氏本宗家は滅亡したが、本宗家の弟、甥筋などに当たる田中氏、久米氏、小治田氏、桜井氏などは奈良時代辺りまで、石川氏や宗岳(そが)氏などとして、藤原氏独裁の中、低官位に甘んじながらも平安末まで生き抜いた。

・最近の歴史教科書は、昔と大違い。聖徳太子の名前も消えるという噂もありましたが、今は厩戸王子(うまやとのみこ=聖徳太子)と記述されているようです。何故なら、聖徳太子は、厩戸王子の死後の諡(おくりな)で、生前に一度も、聖徳太子と名乗っていなかったからだそうです。

・この聖徳太子は、父用明天皇(欽明天皇と蘇我稲目の女堅塩媛=きたしひめ=との間の皇子)と母穴穂部間人王女(欽明天皇と蘇我稲目の女小姉君との間の皇女)との間に生まれた皇子で、つまり、蘇我氏の血が半分流れていたわけです。

・蘇我馬子の孫連子(むらじこ)の子孫が石川氏を名乗るも、元慶元年(877年)に、宗岳(そが)と改姓。これが後世には「むねおか」と読むようになり、宗岡、宗丘などの字も当てられた。埼玉県志木市の宗岡も関係あるのではないかという説も。

・参議(正四位以上)。平安時代になると、蘇我氏末裔は三位以上の官人はいなくなり、多くは五位で終わってしまう。(六位以下の官人の叙位記事は原則として「六国史」には掲載されない)

・平安時代の摂関期になると、国家による正史が編纂されなくなり、その代わりに古記録と呼ばれる男性貴族や皇族による日記が現れるようになる。倉本氏は、かつて、摂関期は古代氏族としての蘇我氏は完全に終焉したと考えていたが、それが誤りだったと気づきます。古記録には、蘇我氏末裔は、六位下の下級官人として古記録に登場していた!(同様に古代の名族である安倍氏、阿部氏、紀氏、石上氏、物部氏、平群氏、巨勢氏、大伴氏、伴氏、佐伯氏、春日氏、大神氏、橘氏なども健在だったと言われてます)

ついにパソコンよ、さらば?

JR浦和駅

不動産情報サイトが実施した「住みたい街ランキング 2018関東版」で、あの吉祥寺が首位から陥落して、横浜がトップになったそうで、おめでとう御座います。

しかし、私が注目したのは、埼玉県の大宮(9位)と浦和(10位)がトップ10にランクインしたことです。

へーと思ってしまいました。

でも、昨年辺りから、東海道線などと乗り換えなしで運行されるようになり、大宮、浦和から直接、横浜や熱海、小田原、伊豆まで、直行できるようになったので、便利と言えば便利です。

以前は、埼玉と言えば「ダサいたま」と言われ、住むのが恥ずかしいイメージがありましたが、そんな偏見も無くなったようです。

これから読もうかと思っている谷川彰英著「埼玉 地名の由来を歩く」(ベスト新書)によると、古代、埼玉は、武蔵国の中心どころか、東日本の中心だったようです。そして、何と言っても、埼玉(さきたま)の由来は、幸御魂(さきみたま)から来ているらしいですね。「人に幸せを与える心」という意味らしい。武蔵国には、古代には、出雲の人たちが渡ってきて、氷川神社などを建てたり、高句麗や新羅からの渡来人が移住したり、古代からなかなかのロマンと歴史があったようです。

この本を読むのも楽しみです。

 

さて、長年使っていたパソコンを処分することに決めました。メーカーが無料で引き取ってくれるという記事を新聞で読んだからです。

私の個人パソコンは、ウインドウズ7で、どうやら昨秋あたりから、マイクロソフトさんの戦略でサポートをやめたらしく、潮時となりました。

保証書と一緒に保管していた領収書を見たら、購入は2011年3月6日でした。東日本大震災の直前だったんですね。ちょうど、7年経ちますが、途中、入院したりして1年間殆ど全く使わない時もありました。

まだ、使えそうですが、バッテリーが劣化して、途中で電源が落ちたりして困ったことがありました。それに、動作が遅くてイライラしたりします。

もうパソコンも文房具みたいなもんですね。これが何台目だったのか、もうすっかり忘れてしまいました。

それに、今は、iPhoneとiPadがあるので、自宅でパソコンを使わなくても済んでしまいます。何しろ、iPhoneの最新機種のiPhoneⅩなんか、10万円以上するのに、パソコンは7万円ぐらいでも新品が買えるんですからね。パソコンもどうせ、5、6年持てばいいでしょうから、そして、ソフトもハードもそのように作られているのですから、それで十分です。

ただ、今のところ、この《渓流斎日乗》を執筆するにしろ、自宅ではパソコンを使わなくても用が済んでしまいますので、また新たに買い換えるかどうか迷ってしまってます。

ハムレットの心境です。