佐倉城址を訪ねて

 日本城郭協会が千葉県で唯一「日本の100名城」に選定している下総の佐倉城に行ってきました。

 東京の日暮里駅から京成線の特急で50分で佐倉駅に着きます。特急料金がなく乗車券だけで660円。大抵、終点・成田空港駅行ですから、大きなボストンバックを横に抱えた外国人観光客を見かけました。私は、いつも成田空港に行くときは、京成スカイライナーに乗っていたのですが、この特急なら少し時間が掛かっても、安く行けたんですね。

 さて、佐倉城址ですが、京成佐倉駅から歩いて18分ぐらいの距離でした。平城ですから、ほとんど高低差が少なく、楽に行けて、初心者向きでした。

 今は、このように佐倉城址公園になっています。

  石垣はなく、土塁ですし、空堀が多いので、 何も知らない、あまりお城に興味がない人が来て、看板も見なければ、単なる公園と思ってしまうかもしれません。

 でも、公園内にはこうして、城址の史跡の看板を掲げてくれて、観光客にとても分かりやすく説明してくれます。

 上の写真の看板では、明治の廃仏毀釈で、寺院が消滅したことが書かれています。

 佐倉市のホームページには、「明治維新後、城址には陸軍歩兵第二連隊(後に第五十七連隊=通称・佐倉連隊)が置かれたために櫓や門などはそのほとんどが取り壊され、昭和20年の終戦まで軍隊が置かれていました。」と書かれています。

 明治時代に写された城の天守や櫓などの古い写真が残されていますが、今は影も形も全くありません。米軍による空襲でなくなったのかと思っていたら、どうやら、この説明によると、明治人自らの手によって破壊されていたんですね。

 確かに、城なんぞは、富国強兵を推進する明治政府にとっては、前近代的な過去の遺物かもしれませんが、それにしても、それにしても。。。。です。

おや?幕末に日本を開国に導いた老中堀田正睦(ほった・まさよし)ではありませんか。

実は、ここ佐倉藩の藩主だったんですね。佐倉藩は、徳川家とつながりが深い親藩でした。

 老中堀田正睦の日米通商条約の交渉相手、タウンゼント・ハリス米国総領事(初代駐日公使)の像も、堀田公の横に建っておりました。

三の門跡。。。

二の門跡、だんだん本丸に近づいて来ました。

と思ったら、二の丸御殿跡。ここに藩主がお住まいになっていたそうです。

遠慮して、本丸は、将軍がおなりになった時に泊まるからだそうです。

栗原先生の地元、日光にお参りする途中の宇都宮城も、藩主は二の丸御殿に住み、本丸は、将軍様用にあけていたので、親藩はそういうケースが多かったのでしょう。

一の門跡に来ました。

三の門、二の門、一の門と、それぞれ写真のように、立派な門があったのに、今はない、ということは、取り壊されてしまったんですね。嗚呼。。。

今では広い公園になった草原を横切って、ようやく、本丸跡に辿りつきました。感無量です。小雨のせいか、ほとんど人がいませんでした。

随分新しい「史跡看板」だなあ、と思ったら、2年前の「平成29年建立」と、裏に書かれていました。

大抵の城址には、戦国武将やお城の来歴が書かれていますが、佐倉市にはそのような看板がなく、城建物の物理的な説明だけでした。

 そこで、また佐倉市のホームページを引用します。(少し表記を改めています)

佐倉城は、戦国時代中頃の天文年間(1532~1552年)に千葉氏の一族である鹿島幹胤(かしま・もとたね)が鹿島台に築いたといわれる中世城郭を原型として、江戸時代初期の慶長15年(1610年)に佐倉に封ぜられた土井利勝によって翌慶長16年(1611年)から元和2年(1616年)までの間に築造された平山城です。

 土井利勝公は、このあと茨城県の古河に移封され、初代古河藩主になりました。実は、先だって、古河城址訪れた際に、土井利勝公のことを知ったので、今回、どうしても佐倉城址を見たかったのでした。

北に印旛沼、西と南に鹿島川と高崎川が流れる低地に西向きに突き出した標高30メートル前後の台地先端に位置します。佐倉城はこうした地勢を巧みに利用し、水堀、空堀、土塁を築いて守りを固め、東につながる台地上に武家屋敷と町屋を配して、城下町としました。

 以後、江戸の東を守る要として、有力譜代大名が城主となり、歴代城主の多くが老中など幕府の要職に就きました。なかでも、幕末期の藩主・堀田正睦は、日本を開国に導いた開明的な老中として有名です。

 なるほど、そういうことでしたね。

佐倉丼 1230円

お腹が空いたので、この城址公園の隣接地に昭和58年に開館した国立歴史民俗博物館にあるレストランでランチを取ることにしました。

 佐倉名物ということで、佐倉丼なるものを食しました。観光客だからいいでしょう?(笑)。

 この国立歴史民俗博物館は、初めて訪れました。

古代の第1展示室から、現代の第6展示室まであり、広い、広い。見応え十分でした。入場料600円は安いですね。

パンフレットには「ゆっくりひとまわりで1時間半~2時間」と書かれていましたが、まさか、まさか、説明文を読みながら、ゆっくり回ると3時間~4時間はかかる量でしたよ。

 外は大雨で、良い雨宿りになりましたが、私は2時間半かかり、疲れてぐったりしてしまいました。

 恐らく、全国で一番、展示量が多い歴史博物館でしょう。考えてみれば「国立博物館」でしたね。でも、「複製」がちょっと多い感じでした。とはいえ、素人には区別がつきませんから、百科事典を読んでいる感じで、大変な歴史の勉強になります。

 機会があれば、是非訪れることをお薦め致します。

古代から朝鮮半島との深い関係

 先日読了した瀧音能之著「風土記と古代の神々」(平凡社)には多くのことを学ばせて頂きました。有難う御座いました。

 特に、八岐大蛇を退治した須佐之男命は、製鉄神で、出雲で産出した砂鉄を精製して鉄をつくる技術を持った朝鮮半島からの渡来人によってもたらせれた神だという著者の説には大いに納得したことは以前書きました。今日はそれ以外で、是非覚えておきたいことをメモ書きします。

 ・天平5年(733年)にまとめられた「出雲風土記」によると、「神々の国」出雲には399の神社があり、そのうち184社が神祇官社、残りの215社は非官社。あまたの神々のうち、熊野大神と佐太大神と野城大神と大穴持命(=天の下造らしし大神→オオクニヌシ神)が四大神と呼ばれ、このうち熊野大神を祀る熊野大社と大穴持命を祀る杵築大社(出雲大社)だけが別格で、「大社」と呼ばれている。

 熊野大神は、意宇郡に拠点を構えた出雲国造の祖によって祀られていた神と推測され、大穴持命は、出雲西部に信仰の拠点を持つ開拓神・農耕神だったのが、出雲全域の神の存在が必要となり、天の下造らしし大神とされたと考えられる。

 ・生野銀山などで知られる生野は、「播磨国風土記」によると、荒ぶる神が往来する人の半数を殺したので最初は死野という地名がつけられたという。しかし、応神天皇の勅により、死野は悪い名なので、生野と改められたという。こうした地名変更は、水辺の植物である葦が「あし」では「悪し」に通じるので「よし」と読み替えるのと同じ発想で興味深い。

 ⇒荒ぶる神が通行人を半数殺すという行為について、著者は、神には荒魂(あらたま)と和魂(にぎたま)の二つの側面があり、荒ぶる神の持つ荒魂が人に害を与えたり、祟りをなしたりすると考えていたからではないかという説を提唱する。だから、半数を殺すとは、荒魂が行い、残りの半数は和魂によって救われるということ。

・全国でも出雲の国だけにカラクニイタテ神社が6社あり、これらはいずれも「延喜式」に記載された官社だが、あまり知られておらず、由来についても謎が多い。カラクニイタテは、「韓国伊大氐」などと書かれるが、著者によると、韓国とは新羅のことで、伊大氐は射楯と考えられ、つまり、新羅から出雲国を、ひいては日本を守るために建立された神社ということができるのではないかという。

 ⇒それだけ、新羅と日本との交流は濃密で、技術など職人たちの交流など良い面があれば、唐朝における朝賀で、日本の遣唐使と新羅使が席次を争ったり(遣唐使が上席を占めた)、日本の遣新羅使を無礼により新羅王が引見しなかったりしたこともあった(753年)。また、新羅調伏のために朝廷は、伯耆、出雲、石見、隠岐、長門の五国に四天王像を安置させたり(867年)、武蔵国に移した新羅人が逃亡(879年)したり、良くないことも色々あったようでした。

現代の日韓、日朝関係とあまり変わらないみたいですね(苦笑)。

 

スサノオ神は渡来人の神

いやあ、魂消ました。

 日本人なら誰でも知っている八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治したスサノオ神(須佐之男命=すさのおのみこと)が、朝鮮半島からの渡来人が崇めた神だったというのです。

 神話の世界の話ですが、私は神話が、単なる机上の空論でも、荒唐無稽だとも、そして、牽強付会だとも思っていません。何らかの形で何代も何代にも渡って伝承されてきた話が「形」になったものだと思っております。その証拠に、神々が活躍した舞台が現在でも地名などとして残っているのです。

 今、瀧音能之著「風土記と古代の神々 もうひとつの日本神話」(平凡社、2019年1月16日初版)を読んでおりますが、1ページ、1ページ、感心しながら勉強させて頂いております。著者は、日本古代史専門の駒沢大学教授です。

 瀧音教授は、「古事記」「日本書紀」だけでなく、「風土記」に注目して古代の神話を実証的に解明されております。風土記の中でも特に「出雲風土記」を取り上げています。(奈良時代、朝廷は全国60余りあった国々に「風土記」を提出するように命じましたが、現在残っているのは、 出雲、常陸、播磨、肥前、豊後の5国分だけ。 このうち出雲だけが完本です)

 出雲は、大和朝廷が成立する以前は最も勢力があった豪族で、文化も技術も際立て進んでいた国だったと思われます。何故なら、日本海をはさんで、大陸や朝鮮半島からの最新技術を逸早く取り入れていたからです。勿論、人的交流もあったでしょう。だから、大和朝廷としては全国平定に当たって、出雲に攻め入り、それが「国譲り」の物語になったのではないかと私は推測しています。

 さて、瀧音教授によると、スサノオ神に関連する地名が「出雲風土記」の中で4カ所出てくるといいます。意宇郡の「安来郷」(いずこから来たスサノオ神がここに来て、「気持ちが落ち着いた」と語った)、飯石郡の「須佐郷」(スサノオ神は、ここは小さい国だが良い国だと語り、大須佐田と小須佐田という田を定めた)、大原郡の御室山(みむろやま=ここにスサノオ神が御室を造って宿った)、最後は大原郡の「佐世郷」(スサノオ神が佐世の木の葉を頭にかざして踊ったところ、地面にその木の葉が落ちた)です。この4カ所は、地図で見ると同じ緯度で東西に一直線に並びます。

 この中で、安来郷は今の島根県安来市で、安来節や陶芸家河井寛次郎の出身地として知られていますが、最も重要なのが「須佐郷」です。現在、島根県出雲市にある須佐神社辺りです。瀧音教授はこう書きます。

 それでは、スサノオ神の性格はというと、結論的には製鉄神であったと考えられる。その理由は、まず何よりも須佐郷(中略)は産鉄地域であることがあげられる。…「出雲風土記」の中にも鉄関係の記載をみることができる。こうした地域的な特徴やスサノオ神がもっている呪術的性格などから、スサノオ神は須佐郷を本拠地とする製鉄神であったと考えられる。そして、製鉄という技術をふまえるならば、そもそも朝鮮半島からの渡来人集団によってもたらされた神であるということができるであろう。

 いかがでしょうか?私は納得してこの学説を受け入れました。

  文字や五経や仏教、土木工学、建築、画、仏像、織物、手工芸、馬と馬具、須恵器など思想や技術を持った渡来人は5世紀の頃から、大和の政権中枢に受け入れられ、大活躍したことは以前、このブログの「今来の才伎」(2016年5月24日)で書いたことがあります。

 ここから私の推測ですが、スサノオ神が退治したヤマタノオロチは八つの頭と胴を持った龍のような怪物と言われてますが、実際は、たびたび水害を及ぼして地域住民を困らせていた八つの河川だったのではないかという説があります。

 ということは、ヤマタノオロチを退治したということは、土着の地域住民ができなかった治水の技術を持った渡来人が行ったということにならないでしょうか。つまり、須佐郷に居た渡来人は製鉄技術だけでなく、治水技術にも秀でていたのではないかと私は思っています。

 

 

平清盛一族の屋敷跡か?=何と、葬送の鳥辺野で

おはようございます。京洛先生です。

水戸漫遊記や、お城巡りと休日は歴史探索をされているようで何よりです。

ところで、昨晩のNHKの全国ニュースでも報じられていましたが、当地、洛中では、ホテル建設の工事現場から「平清盛一族の屋敷跡か?」とみられる遺構が見つかりました。

昨日はその発掘現場で、遺跡の説明会がありました。迂生も「どんなものか」と野次馬の一人として見てきました。

 場所は京都市内は東山通五条西入る付近で、通称「五条坂」と呼ばれ、清水焼の窯元などがあるところです。

 清水寺に行く観光客でごった返す五条通りに面しています。観光客の激増で、京都市内は、ホテルの新築ラッシュですが、その工事現場から、平安時代後期のそれらしき堀や石垣、井戸などが見つかったのです。

 この遺構は、武家政権を初めて確立した平清盛(1118~1181年)時代のものと、推定されるということで、清盛の屋敷跡ではなかったかと歴史学者、専門家は見ています。

浄土真宗本願寺派(西大谷)

 最初の写真のように堀は東西約15メートル、幅3メートルで、石がしっかり積み上げられていました。出土品から、12世紀頃に作られたと見られます。

 また、この周辺は古代以前から葬送の場所で、平安時代からは「鳥辺野」(とりべの)と言われていました。平氏など武家は、この界隈に軍事拠点や住居を構えていたと見られます。保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)が起きた頃です。

六波羅密寺

  特に、今回注目されていることは、鎌倉幕府が西国の御家人、朝廷を監視するためにつくった「六波羅政庁(探題)」が出来る以前の、平清盛の頃の遺構が見つかったということでした。

 また、遺構の見つかった場所からは、弥生時代後期の「方形周溝墓」も見つかり、平安時代よりもさらにもっと古くから、葬送がこの地で行われていた歴史を知ることができます。

 昨日の遺構現場には大勢の見学する人が来て、発掘した専門家の説明を熱心に聞いていました。流石に、煩い観光客は居ませんでしたね( ´艸`)。

 今回の発掘では、同時に、「平安京」が成立(794年)するもっと大昔の「古代」が、ちらっと地中から垣間見られた瞬間でもありました。

 まずは、ご報告まで。

 以上

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いざ古河へ=古河公方と古河城

古河と書いて、「こが」と読みます。「ふるかわ」ではありません。古代から中世、近世にかけて、一時、関東の中心として繁栄した城下町であり、宿場町でもありました。

 古代では「許我」と書いて「こが」と読み、何と今最も注目されている「万葉集」に二首も詠まれています。ご興味のある方はご自分で調べてみてください(笑)。

 奈良時代から渡良瀬川を利用した水運交通の中継地としても発展し、中世は第5代鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)が関東管領の上杉氏に追われて、ここ古河の地に邸を移して、「古河公方」となりました。(下総古河は鎌倉府の領地=飛び地だったという説が有力です)

 古河はその後、小田原北条氏の支配下になりますが、江戸時代になると、古河城は最重要拠点の一つとなり、将軍の日光参社の際の宿泊地となったり、藩は老中首座を輩出したりします。

 当然、明治になると、憎っき徳川方の最大の敵地となりますから、廃城となり、打ち壊されて跡形もなくなりますが、かろうじて城下町の雰囲気だけはかすかに残っています。


古河駅西口から北西10分ほどにある杉並通りにはこうして武家屋敷跡が並んでいます。今は個人の住宅になっているようでしたが、詳細は分かりません。この辺りは面影が残っているせいか、観光用ポスターにも使われるそうです。

この武家屋敷跡の近くにあるのが、正定寺です。江戸時代に代々古河藩主を務め、江戸詰めでは老中職も歴任した土井家の墓所です。

 看板にある通り、東京・本郷にあった古河藩主土井家の下屋敷の表門をこちらに移築してきました。

境内には、初代古河藩主土井利勝公の像がこうして祀ってありました。


ここは、江戸町通りにある歴史作家永井路子の旧宅です。


 永井路子の旧宅は、お茶と茶器を扱う豪商だったそうです。実は、彼女は永井家の実子ではなく、実父は歴史学者だった来島清徳。生まれる前から母方の永井家の養子になる約束だったというのです。

 旧宅は、現在、彼女のちょっとした文学館となっており、入場無料。私はよほど怪しい人間と見られたのか、タダで入場させてもらった上、お茶まで御馳走になってしまいました(笑)。永井路子は、司馬遼太郎、寺内大吉、黒岩重吾ら直木賞作家を輩出した「近代説話」の同人だったことは知ってましたが(本人も直木賞受賞)、小学館の編集者だったんですね。歴史学者の黒板伸夫と結婚し、出版社時代は黒板という本名で仕事をしていて、当時、一緒に仕事をしていた後輩さんが先日、この旧宅を訪れ、「黒板さんは、黒板さんは…」といった話をこの旧宅の留守を預かっている人に話していたそうです。

 永井さんは現在94歳になられたそうです。

この永井路子旧宅の近くに、幕末から明治にかけて活躍した「最後の浮世絵師」河鍋暁斎の生誕地の碑があり、吃驚しました。知りませんでした。

河鍋暁斎、あの緻密な筆致が好きですね。彼は天才です。確か、埼玉県蕨市に彼の美術館があったと思います。いつか行ってみようと思っていながらまだ行ってません(苦笑)

 たまたま、この近くの江戸前通り沿いにあった「お好み焼き屋」さんに入って、ランチ(蕎麦入り特製お好み焼き750円とノンアルビール380円)を取りましたが、そこの女将さんが大の話好きで、この江戸前通りは、かつては一番の繁華街で、左右両通りはぎっしり商店が並んでいたのに、今や、御覧の通り、少ししか残っておらず、寂しい限りです、と溜息をついておりました。

 しかも、ここ古河市は、茨城県の西端の外れの外れ。県庁の水戸に行くのに3時間もかかり、遠くて困るとまた溜息です。ここからなら、栃木県の宇都宮や埼玉県の浦和(の県庁の所在地)に行く方が全然近いというのです。

 実は、古河に水戸直通の水戸線が通る話が大正の終わりか、昭和の初めにあったそうですが、古河市民は断ったんだそうです。女将さんによると、古河の人間はよそ者嫌いだとか。お蔭で、水戸に行くまで、栃木県の小山まで行って乗り換えなければならないといいます。

この話好きの女将さんは私の目の前で、お好み焼きを焼いてくれて、70歳ぐらいに見えましたが、何と7人姉妹で、6番目だというから思わず笑ってしまいました。代々の商家で、商いはしょっちゅう替えているらしく、男の子が生まれるまで頑張った御尊父は、青果業を営み、古河市の青果市場をつくった偉い人だったとか。

日光街道沿いにあるお茶屋口跡。宿場町だった証ですね。

こちらは、かの有名な鷹見泉石の記念館、つまり旧宅です。入場無料には驚きました。

 渡辺崋山描く「鷹見泉石像」は、絵画の国宝第一号になった人でした。

渡辺崋山筆「鷹見泉石像」(国立博物館のHPより)

 以前、このブログで書きましたが、古河藩家老で、大坂城代詰めの頃に、大塩平八郎の乱が起き、その鎮圧の陣頭指揮を執った人でしたね。

 鷹見泉石は、隠居名で、家督後の名前は十郎左衛門。諱は忠常。本職は家老で、蘭学者とも言われますが、仕事が海外の最新情勢の情報収集と情報分析でしたから、蔵書の多さや、知り合った人間関係は、超弩級です。

それら鷹見泉石の膨大な資料を収蔵しているのが、旧宅の真向かいにある古河歴史博物館です。(入場料は、文学館などとの共通券で600円。ここは絶対に一見の価値があります。)

 鷹見泉石が知遇を得た人がずらりとパネルで紹介されていましたが、島津斉彬ら諸国の大名を始め、ジョン万次郎ら漂流から帰国した人、農学者の二宮尊徳、江戸琳派の酒井抱一、鈴木其一まで親睦を深めているのですから、まさに超人です。例のシーボルトとも交友していたようなので、鷹見泉石もよくぞシーボルト事件や蛮社の獄などに連座しなかったと思いました。

 渡辺崋山が捕縛されたのは、あの悪名高い鳥居耀蔵による讒言だったと言われています。渡辺崋山は、尾張田原藩という小藩の家老。一方の鷹見泉石は老中だった土井利位(としつら)の譜代大名の家老ということで、別格扱いだったのかもしれません。

きゃあ~、ヒトが写っている…

古河歴史博物館の入り口には、古河城の出城諏訪郭だったという記念碑がありました。

 実は、ウマズイめんくい村の赤羽村長さんからの情報で、古河歴史博物館の隣にある古河文学館の2階にレストランがあるということで、お腹が空いてきたので、そこでランチしようかと思ったら、残念、満席で断られてしまいました。

 仕方がないので、フラフラ彷徨った挙句、永井路子旧宅近くのお好み焼き屋さんを見つけて入り、先程書いた通り、そこで色んな地元の情報を得たので、怪我の功名(笑)だったかもしれません。

赤羽村長が指摘されたように、この文学館~歴史博物館~鷹見泉石旧宅辺りの石畳と城下町の雰囲気は最高ですね。とても落ち着いた静かな雰囲気で、何度でも来てみたいと思いました。

 文学館では、永井路子をはじめ、小林久三、佐江衆一ら古河市ゆかりの作家の作品などが展示されていました。

 鷹見泉石の曾孫に当たる鷹見久太郎が大正11年に創刊した童話雑誌「コドモノクニ」(野口雨情や北原白秋らが寄稿)のバックナンバーなども展示されてました。

さて、いよいよ、今回の「古河の旅」のもう一つの目的、古河公方様に会いにいくことでした。

 現在は、「古河公方公園」になっていますが、第5代鎌倉公方の足利成氏が康正元年(1455年)、鎌倉からここ古河の地に移り、舘を構えたところです。

ここには2年間ほど住んだ後、渡良瀬川流域の古河城に移ったとあります。

永井路子旧宅からここまで歩いて30分くらいかかりましたかね。でも、この上の碑を見つけた時は感激しました。

それ以上に感動したのは、古河公方公園から少し離れた川沿いに、この「古河城本丸跡」の碑を探し当てた時です。

道路には道案内の看板がなく、探索するには、古河駅の観光案内所でもらった地図だけが頼りでした。

 今や、渡良瀬川の堤防になってしまいましたが、ここに、あの古河城の本丸があったのかと思うと、打ち震える思いでシャッターを切りました。城好きの私にとって、この日のハイライトでした。

 持参したスマホの万歩計によると、この日は、2万2000歩、15.5キロ歩きました。

素材が人類の歴史を変えるとは

人間の悩みの9割が「人間関係のトラブル」と聞いたことがあります。

 なるほど、確かに子どものいじめに始まり、子どもと教師、モンスターペアレントと教師との関係、男女のもつれ、親子、嫁姑の確執、友人関係、社内のパワハラ、セクハラ、奇人による襲撃(被害者は私)、SNSを通した殺人事件に至るまで枚挙に暇がありません。

 歴史も、人間関係中心に描かれます。何処の誰それの武将が天下を取ったとか、何処の誰それが王位継承戦争を始めたとか、偉大な天才が人類に貢献する新機軸を発明したとか、まあ、そんなところでしょうか。生徒は一生懸命に年号を覚えます。

 まさに、人間中心主義ですね。

 でも、先日、ラヂオを聴いていたら、変わった歴史本が紹介され、著者がインタビューに応えておりました。佐藤健太郎著 「世界史を変えた新素材」(新潮選書)という本です。文字通り、「素材」を通して(御本人は「材料」が正しいとおっしゃってましたが)、歴史の変遷を総覧しているのです。この本の宣伝文句は「 金、鉄、紙、絹、陶磁器、コラーゲン、ゴム、プラスチック、アルミニウム、シリコン……『材料科学』の視点から、文明に革新を起こしてきた12の新素材の物語を描く」とあります。本の帯にも「コラーゲンがモンゴル帝国を強くした?」とあるので面白そうです。

 初版が2018年10月26日とありますから、もう4カ月も前に出ていた本ですが、ラヂオを聴くまで、その存在を全然知りませんでした。いつか読んでみようと思いますが、その前に、著者がラヂオで語っていたことを茲で少しご紹介したいと思いました。

 とはいえ、メモを取っていなかったので、いい加減なものです(笑)。間違っていたらお許しください。人間中心に歴史が語られる前は、「石器時代」「青銅器時代」など、確かに素材や材料で呼ばれる時代がありました。石器などは、今のIT革命と比べて遜色がないほど、武器に使い、狩猟に使い、料理に使い、人類の偉大な発明だったかもしれません。

 本では12の素材が取り上げられているようですが、ラヂオのインタビューで、著者は五つだけ取り上げていました。それが(1)鉄(2)石灰岩(3)ゴム(4)アルミニウム(5)プラスチックーです。

(1)の鉄の代表例が、古代のヒッタイト帝国(紀元前16世紀~紀元前12世紀)です。高度な製鉄技術で最初の鉄器文化を産んだとされ、メソポタミアを征服して一大覇権帝国を築きました。

(2)の石灰岩は、古代ローマ帝国です。これを使って「ローマン・コンクリート」と呼ばれるセメントを発明し、道路を舗装し、「全ての道はローマに通じる」ように広大な帝国を築き上げていきます。劇場や闘技場、神殿まで作ってローマ文明を拡張しました。

(3)のゴムは、タイヤのことです。1888年、アイルランドの獣医師ダンロップが、10歳の息子の三輪自転車がもっと楽に走れるように、空気入りタイヤを発明したのが事の始まりです。これが自動車にも採用され、米国などのモータライゼイションに莫大な貢献をするわけです。

(4)のアルミは、ボーキサイトから生成され、鉄より軽量で、アルミ合金のジュラルミンで飛行機をつくることによって、人類の行動範囲が広がり、戦争にも影響を持つようになりました。

(5)のプラスチック(ポリエチレン)の発明により、レーダーの透過技術が飛躍的に進歩し、ドイツのUボートを探知するなど、これまた、戦争の趨勢に多大な影響を持つようになったといわれます。

 でも、やはり、新素材や材料を使うのは人間だし、世界制覇のために手段を選ばないのも人間ということで、人間が主役であることは変わりがありませんね(苦笑)。

とはいえ、この非常に博学で優秀なサイエンスライターのお話を聞いただけで、この本には俄然興味を持ってしまいました。

忍者と諜報活動

昨日の12月1日(土)は、第25回諜報研究会のインテリジェンス・ツアーと講演会に参加してきました。

今回のツアーは、東京・四ツ谷駅近辺。テーマは、「伊賀者の跡地を訪ねて」といった感じでした。

四ツ谷といえば、お岩さんの四谷怪談が一番有名ですが、甲州街道沿いに江戸城警備を担当する伊賀者と呼ばれた「忍び」が住んでいたというのです。

今回のツアーの案内人を務めてくださった三重大学の山田雄司教授によると、我々が今普通に使っている「忍者」は昭和30年ぐらいから使われ始めただけで、それまでは「忍び」と呼ばれていたそうです。

いずれにせよ、忍者とは、諜報活動従事者の原点なのかもしれません。

ツアーで説明する山田雄司三重大教授

思えば、昭和30年代は、忍者ブームだったんじゃないでしょうか。

子ども向け漫画から、テレビ、映画に至るまで、忍者は、格好の題材でした。個人的ながら、今思い出してもテレビドラマ「忍びの者」(品川隆二主演)は異様に怖かった。「隠密剣士」に出てきたのは確か甲賀流だったと思います。

漫画は「伊賀の影丸」「サスケ」「忍者部隊 月光」「仮面の忍者 赤影」、そして「忍者ハットリくん」などよく読んだものですが、それらは、テレビでアニメになったり、実写ドラマになったりしていました。

その「忍者ハットリくん」のモデル(?)になったのが、服部半蔵で、彼は実在の人物です。彼の墓は、自分が開山した西念寺という浄土宗の寺にあり、JR四ツ谷駅から歩いて10分ぐらいのところにありました。

服部半蔵というのは、代々同じ名前を継承して明治まで続いた武士の名前で、一番有名なのが、本能寺の変の際、大坂の堺にいた徳川家康が、追っ手から逃げる時に道案内した二代目の服部半蔵正成です。これは、甲賀と伊賀の山を越えて岡崎城まで逃れた「神君伊賀越え」の逸話として有名です。

この服部半蔵正成は、槍の名手として知られ、その槍がこの寺に保存されておりました。(現物かなあ、と思ってしまいましたが)

この正成の父に当たる初代服部半蔵は、いわゆる忍術を使う忍びだったらしいですが、この二代目服部半蔵は忍びではなく、伊賀の忍びの者を束ねる「頭」のような存在だったらしいのです。

服部半蔵といえば、今もある半蔵門という地名は、そこに家康から屋敷を賜ったので、そう名付けられたということはよく知られております。

その後、江戸城拡張のため、半蔵と手下の伊賀者たちは、この四ツ谷辺りに所領を与えられたというのです。

服部半蔵正成の墓(逆光でした)

伊賀者は、ほかに、今の原宿の隠田にも所領を与えられ、移り住んだそうです。(隠田といえば、明治になって、皇室や政界・軍人に影響を与えて「隠田の行者」「日本のラスプーチン」と呼ばれた新興宗教の教祖飯野吉三郎を思い出しますね)

伊賀者は、かつては、諜報活動をやってましたが、平和な江戸時代になってからは、主に、江戸城と周辺の警備の役目を担ったようです。

四ツ谷に伊賀者が住むようになったのは、甲州街道の先に八王子があり、ここに同心奉行所があった関係もあったようですね。

伊賀者は、そのまま、江戸に残りますが、服部半蔵一族は、その後、桑名藩の家老を代々務めたそうです。

というのは、西念寺境内には、上の写真の通り、徳川家康長男信康の供養塔があるからです。実は、服部半蔵正成と長男信康とは深い因縁があったのです。

長男信康は、武田勝頼と内通したという嫌疑を掛けられ、家康より切腹を命じられたのでした。この時、介錯を命じられたのが、服部半蔵正成でした。

三河時代から家康に仕えていた正成は、家康と同い年で、長男の信康は小さい頃からよく知っていて、可愛がっていたため、信康の介錯を果たせず、後に自ら出家した、と上の説明文に書かれています。

西念寺から新宿方面に歩いて10分ほどで、笹寺(長善寺)があります。

昔の江戸切絵図を見ると、この辺りに、「伊賀町」とか「伊賀丁」と書かれた箇所があり、伊賀者の屋敷があったものと想像されます。

しかし、今では全く面影もなく、軌跡も、記念碑も見当たりませんでした。

伊賀者の墓があるのではないかと、少し、境内の墓地を探しましたが、結局見つかりませんでした。

忍びの者たちは、書き物を残さず、ほとんど口伝だったといいますから、跡形もないことは、当然といえば、当然なのかもしれません。

四ツ谷を後にして、我々は地下鉄を乗り継いで、早稲田大学に向かいました。ここで、講演会が開かれるからでした。(途中で早稲田の蕎麦屋さんで昼食休憩)

ツアーの案内役を務めてくださった三重大学の山田雄司教授は、学術博士でもあり、恐らく、現代の忍者研究の第一人者でしょう。もともと怨霊の研究者でしたが、2012年から忍者の研究も併せて始め、「忍者の研究」「忍者の教科書」などかなりの点数の関連書籍を出版されております。

午後は、山田先生は、忍者のように講師に早変わりして(しっかり、ネクタイをトイレの鏡の前で締めている姿をお見掛けしてしまいました!)、忍者の歴史を講義してくれました。

初めに、忍者の起源として、「聖徳太子が甲賀馬杉の人大伴細入を使って物部守屋を倒したことから、太子から『志能便(忍)』と名付けられたとする」と聞いて、「えっ?そんな昔からあったのか」と驚いたものですが、その出所の文献は、17世紀後半に成立した「忍術應義伝」などによるもので、古代の「日本書紀」にそのような記述がないことから、この説は、あくまでも伝承のようでした。

とにかく、忍びの基本は、公にしないで、忍術などは一族の中だけで、口伝とし、名前も、生きている存在も、残してはいけないとされてきたようです。証拠が残らないわけです。

とはいえ、忍びの者は、やはり、戦乱の世に活躍するもので、特に南北朝時代から戦国時代にかけて隆盛し、平和な江戸時代になると、忍術も使いようがなく、だんだんと廃れていったようです。

あと、忍者は漫画のような手裏剣を実際に投げていなかったそうですね。

恐らく、平和な江戸時代になっても、忍びは、諜報活動を続けていたと思われますが、明治になって、雇主の大名が没落したことから、忍者も廃業したことでしょう。

忍者について、ご興味のある方は、山田先生の著作を是非読んでみてください。

講演会で、もう一人興味深かったお話は、やはり、インテリジェンス研究所理事長の山本武利・早大・一橋大名誉教授の「陸軍中野学校初期卒業生の『忍者』活動」でした。

陸軍中野学校創立期には、岩畔豪雄、秋草俊、福本亀治に次ぐ第4の功労者として上田昌雄という当時大佐がいたといいます。この上田昌雄は2カ月半だけ二代目所長を務めましたが、戦後の回想録の中で、「中野学校卒業者は、全世界を対象としてやらなきゃならんということを私の方針の一つにしました。また、それまでは何か忍術使いをこさえるという考え方でやっていたんですね」などと発言していたことを取り上げておりました。

また、中野学校の海外長期滞在者は、欧米人との交流で引けを取らないよう、長身でハンサムな人物を当局が採用する発想があったのではないかと指摘された話も面白かったでした。

海外に長期派遣された中野学校卒業生は、商人やビジネスマン、領事館員などに身を隠していた者が多く、珍しかったのは記者、僧侶、教師という職業だったというのは意外でした。

特に、記者については、あの国際諜報団ゾルゲ事件のグループの「本職」が、新聞社や通信社の特派員だったことから、中野学校卒業生の中では「珍しかった職種」だったとは、本当に意外でした。

その「ジャーナリスト」だったというのは、1期生の新穂智という人物で、同盟通信社のジャカルタ支局の記者として偽装しました。

実際には、ニューギニア戦線で工作班を指揮するなどの活動をしましたが、部下のオランダ兵捕虜虐待の責任を問われて、十分な裁判もなく、戦後の昭和23年12月8日に死刑となったというのです。

あの時代、色んな運命に翻弄された人がいたんだと思うと目頭が熱くなりました。

奈良国博の「正倉院展」と興福寺は大賑わい

お久しぶりです、大和先生です。

先月10月27日から始まった奈良国立博物館の第70回「正倉院展」は、例年通り大変な賑わいです。

会期は今月12日までですが、おそらく今週末は、紅葉見物も重なりえらい混雑をすると思い、今日(7日)午後、会場を覗いてきましたが、10分程度並んでスイスイ入場できました。

それでもやはり館内はえらい混雑でしたね。

いつもながら、館内の写真撮影は出来ませんので、肝心の展示物は、NHKテレビの美術番組や「読売新聞」(特別協力)紙上でご覧になるとよいでしょう。いつもながら、陳列品で人気のあるのは色艶やかな宝物です。色のついた宝物の前は人だかりで、案内人が「後の方もご覧になるので、スムースに前に進んでください!」といくら言っても、じっと動かず、どうにもなりませんね。

逆に、地味な、文書類の展示品の前は人だかりは少なく、空いていて割とゆっくり見られました。大衆は「色物」に弱いことがよく分かります(笑)。

いくつか、注目されている宝物の中で、緑色に白い斑点、黄色の十字の文様の陶製の「磁鼓(じこ)」の前は、やはり人だかりが多かったですね。奈良時代に奈良で作られた「奈良三彩」と呼ばれる「鼓(つつみ)」です。当時、両側に革を張って使っていたと言われていますが、どんな音なのか聞きたくなりました。

また、朝鮮半島の民族楽器「新羅琴(しらぎこと)」も出ていました。こちらは、伽耶の国で作られた琴ですが、弦は12本、これまた、当時の貴族で、歌舞音曲の腕達者が優雅に奏でていたのだと思います。

平成最後の「正倉院展」ですが、今年は南倉(東大寺の儀式関係品)、中倉(役所の書類、武器など)、北倉(聖武天皇、光明皇后皇后の遺品)の三倉から、宝物56件が出展されています。

同じ奈良公園のそばの「興福寺」は10月7日から11日まで「中金堂落慶法要」が終わったところですが、こちらも特別公開されていて、平日ながら、拝観者で賑わっています。

藤原不比等が710年(和銅3年)に建立、その後7回も焼失、再建を繰り返してきましたが、江戸時代の文政2年(1819年)からは仮堂でしのいできて、今年10月、301年ぶりに再建されたわけです。

以上 大和先生でした。

邪馬台国の久留米・八女説、鎌倉幕府成立、咸宜園、吉田ドクトリン…は「日本史の論点」で学びました

アルハンブラ宮殿の天井画(イスラムは偶像崇拝を禁止しているのに、このような具象画があるのは極めて珍しいとか)

中公新書編集部編「日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇まで」(中央公論新社、2018年8月25日初版)も、スペイン旅行の際に持って行った本でしたが、なかなか面白くて、往復の飛行機内では、かかっている映画で面白い作品が少なかったので、専ら読書に耽っておりました。

第1章の古代が倉本一宏・国際日本文化研究センター教授から始まり、中世は今谷明・帝京大学特任教授、近世が大石学・東京学芸大学教授、近代は清水唯一朗・慶大教授、現代が宮城大蔵・上智大教授と、「今一番旬」と言ったら語弊があるかもしれませんが、最先端の歴史家を執筆陣に迎え、最新の「学説」を伝授してくれます。

歴史は時代を映す鏡ですから、その時代によって変化するものです。最近では、学校の教科書から聖徳太子や坂本龍馬の名前が消えると話題になったり、鎌倉幕府の成立が、これまでは、「いい国つくろう」の1192年(源頼朝の征夷大将軍就任)だったのが、壇ノ浦の戦いで平家が滅び、頼朝が守護・地頭を置く文治勅許を獲得した1185年が、現在学界では圧倒的な支持を得ていることなど初めて知り、勉強になりました。

「日本史の論点」ですから、各時代で、長年論争になってきた「課題」が取り上げられています。

例えば、畿内説と九州説との間で論争が続いてきた「邪馬台国はどこにあったのか」。古代の倉本一宏氏は、纏向(まきむく)遺跡発掘により畿内説が学界では優勢になっているのものの、同氏はあえて九州説を取っていました。邪馬台国の邪馬台は「やまたい」ではなく、「やまと」と読むことが適切だとして、福岡県の久留米市と八女市とみやま市近辺が筑紫の中心だったと考え、この地域で灌漑集落遺跡が発見されれば、そここそが邪馬台国の可能性が高い、という説を立てておられました。

ちなみに、小生の先祖は、久留米藩出身なので、遺跡が見つかればいいなあと応援しております。

古代史専門の倉本氏はこうも力説します。「武家が中央の政治に影響力を持ち、政治の中心に座ったりすると、日本の歴史は途端に暴力的になってしまった。…もちろん、『古代的なもの』『京都的なもの』「貴族的なもの」がいいことばかりではないことは、重々承知してはいるけれども、苦痛を長引かせるために鈍刀で首を斬ったり、…降伏してきた女性や子供を皆殺しにしてしまう発想は、儒教倫理を表看板にしている古代国家ではあり得ないものであった」と。

これは、「古代=京都=公家=軟弱・ひ弱=陋習=ネガティブ」「中世以降=武士=実力=身分差別なく能力主義で這い上がれる=ポジティブ」といった固定されたイメージを覆してくれるものでした。

他にも色々取り上げたいのですが、あと2点ほど。まずは、近世を執筆した大石氏によると、江戸時代は義務教育はなかったが、人々は知識に対して貪欲で主体的に勉強したといいます。その一例として、大分県日田市(天領)にあった「咸宜園(かんぎえん)」を挙げております。

これは、1817年(文化14年)、儒学者の広瀬淡窓(たんそう)が設立したもので、全国から生徒が集まり、1897年(明治30年)に閉鎖されるまでの80年間で、5000人近くの人が学んだといいます。生徒たちは何年間もここに下宿して勉強し、長州の大村益次郎も学んだ一人だったそうです。

◇吉田ドクトリン

話は飛びますが、永井陽之助(東工大教授)や高坂正尭(京大教授)らの説を引用して「現代」を執筆した宮城氏によると、戦後の吉田茂路線(ドクトリン)とは、「軽武装」と「経済」を重視する政治的なリアリズムだったといいます。

そして、1951年のサンフランシスコ講和会議に池田勇人蔵相の秘書官として随行した宮澤喜一(後の首相)は、54年に吉田が首相の座を追われて鳩山一郎政権が成立すると、危機感を持ったといいます。56年には「暴露本」のような「東京ーワシントンの密談」(中公文庫)まで出版します。その理由について、宮澤は、五百旗頭真氏らのインタビューで、GHQによって追放されていた鳩山や岸信介といった「戦前派」が復活して、彼らの信条通りの政治が実現すれば、明らかに戦前に遡ってしまい、せっかく、吉田茂や池田勇人と一緒になってつくった戦後の一時代が終わったと思ったからだといいます。

同じ自民党でも、昔は、中選挙区だったせいか、派閥があり、同じ保守でも思想信条がハト派からタカ派まで両極端な政治家が同居したいたことが分かります。

言うまでもないことですが、今の安倍晋三首相は、「戦前派」の岸信介元首相の孫に当たります。安倍首相が「戦後レジームからの脱却」を目指して憲法改正を主張するのは、遺伝子のせいなのかもしれません。

まだまだ、書きたいのですが、この辺で。

 スペイン・アルハンブラ宮殿

日本人は3万8000歳

行方不明になった2歳の男の子を救出して一躍ヒーローになった尾畠春夫さん。週刊誌やテレビなどの取材でだんだん彼の素顔が明らかになってきましたが、非常に奥が深い(笑)。78歳ですから、お孫さんもいらっしゃいますが、ボランティアで日本中を駆け回っているうちに、奥さんは「5年前に出かけたまま帰って来ない」状態なんだとか。

年金はやはり、想像した通り、月額5万5000円で、これだけではとても食べていけないだろうなあ、と思ったら、「お金がなければ、1日1食で済ます」。え?私なんか、1日しっかり3食摂ってますからね。とても、尾畠さんのようなスーパーボランティアにはなれません。

◇◇◇

さて、昨晩、人類進化学者の海部陽介氏が出演していたラジオ番組「3万年前、人類はどうやって海を渡り、日本列島にたどり着いたのか?」は、かなり面白かったです。

海部氏の長いお話を勝手に乱暴に(笑)要約しますと、我々現代人の祖先であるホ・サピエンスは20万~30万年前にアフリカ大陸で出現し、約5万年前に全世界に移動を始めたそうです。この時、まだ、北京原人やジャワ原人などの原人類やネアンデルタール人などの旧人類も共存していたようです。

長い進化の過程でホモ・サピエンスが登場しましたが、まだ解明されていないことも多く、なぜ移動を始めたのかも分かっていないそうです。

我々の祖先の日本人について、海部氏は、ユーラシア大陸から3万8000年前に渡ってきたのではないかと結論付けておりました。それは、遺跡やDNA鑑定などで推測されるそうです。家族や集団で舟で海を渡ってきたと考えられ、渡航コースは、(1)当時陸続きだった台湾から沖縄を通って日本列島へ(2)朝鮮半島から対馬を通って日本へ(3)当時陸続きだった北海道から日本へーという三つだというのです。

その中で、一番多かったと見られる沖縄から日本へのコースを、当時の技術と資材によって作られた舟で辿ってみるというのが、海部氏らのグループによる実験的試みでした。既に、草で作った舟と竹で作った舟で試みましたが、うまく行かず、恐らく、当時は木でつくった舟で渡ってきたのではないかということで、今、木舟をつくっている最中なんだそうです。

地球46億年の歴史と比べると30万年前も3万年前もほんの最近のことです。当時の現生人類は、何で、海の向こうの島(日本列島)に渡ってきたのでしょうか?謎だらけです。

いずれにせよ、私が学生時代ではここまで具体的な年代まで解明されていない話でした。DNA鑑定など最新科学のなせる伎でしょう。

こういう壮大な人類の進化の話を聴くと、普段の悩みなどあまりにもちっぽけな感じがして、ほんの少し気が楽になります。