岩内仙峡

岩内仙峡に紅葉を見に行ってきました。
ちょっと、早かったのですが、自分でも、いいご身分だと思います。

岩内仙峡は、帯広市内にありますが、街中からは車で1時間くらいかかります。
帯広は広いのです。

いい写真がたくさん撮れたのですが、このブログは、写真が1MBまでしか、アップロードできないらしく、皆様にお見せできるのは、このたった2枚だけです。

私のカメラは、800万画素まで撮れるのですが、ブログに載せるために、わざわざ200万画素に落として撮影しているのに、たまに1MBを超えてしまいます。夜の写真は、1MBを超えることはありません。天気がいい写真となると、1MBを超えてしまうのです。

仕組みが分からないのでさっぱり、分かりません。

どなたか、いい方法をご存知な方は教えてください。

2千億×1千億個 

北海道陸別町は、真冬はマイナス25度にもなる日本でも有数の極寒の地で、毎年2月には「しばれフェスティバル」を開催して、冬の寒さを逆に楽しんでしまう逞しさがある所です。

この町には、知る人ぞ知る「銀河の森天文台」があります。空気が綺麗で、空は澄み切り、天体観測にもってこいの土地なのでしょう。その天文台が発行している「りくべつ 天文台だより」2005年秋号に面白いコラムが載っていました。

「星の数ほど」とはよく言いますが、実際、どれくらい星の数はあるのでしょうか、という話です。そのコラムによりますと、星(恒星)は、我々が住む銀河系の中だけで2千億個も存在するそうです。そして、宇宙全体では、この銀河系がさらにまた1千億個以上も存在すると言われています。ということは、星の数は、2千億個×1千億個という莫大な数になります。これに惑星や衛星の数を合わせると単位も分からない途方もない数になるというのです。

これだけの星があると、地球だけが唯一、生物が存在するということは信じられませんね。それ以上に、毎日のちっぽけな悩みがほんの些細なものに感じられます。これから北海道でしか見られない冬の満天の空を見るのが楽しみです。

美瑛再訪

俳優の榎木孝明は、画家としても知られていますが、このほど北海道美瑛町の廃校舎を利用して自分の美術館をオープンした記事を読みました。

彼が描いた何点か美瑛のスケッチも展示されているそうです。


ご覧の通り、美瑛は本当にいい所ですよ。
美的感覚に優れた人には共通する何かが彼を引き寄せたのでしょう。

実に素晴らしい夕暮れでした。

霧吹の滝

まさに決死の覚悟で行って来ました。

十勝は新得町トムラウシにある霧吹の滝。

写真で見ると、大したことはないと思うでしょうが、それは素人の赤坂の夜は更けて、という昔の都都逸になります。

帯広から車で2時間半。新得町のトムラウシという所に着きます。
途中からラリーのようなグラベル、つまり、未舗装道路でした。

「霧吹の滝」入り口から、歩いて更に1時間。
山越え、谷越え、漸く辿りつきます。

「霧吹の滝」というので、猥褻なことを想像してしまいました。
しかし、実際に、目の当たりにすると、

猥褻を超えて、実に神聖なものでした。

まさに、日本の秘境です。

恐らく日本人でも、ほんのわずかの人しか目にすることが出来ないでしょう。

そういう方はとくとご覧ください。

北海道はもう秋です。
トムラウシの森の精気をいっぱい浴びてきました。
ついでに、滝壺にはまって、全身、水浸しになってしまいました。
決死の覚悟は無駄ではありませんでした。

生きて帰ってきたのもお地蔵さんのおかげでした。

奇跡の人 

大病して奇跡的に一命を取り留めた友人と久しぶりに電話で話をしました。現在、リハビリを兼ねて、中部地方の片田舎で平日はほとんど一人で暮らしているので、30分ほど、彼一人がしゃべっていました。

困難を実体験し、自力で切り抜けた者でしか語れない話だったので、ここに再録したいと思います。

●これまで、「世の中が悪い」だの「誰それが悪い」だの、何かのせいばかりにして生きてきたような気がする。また、「こうしなければいけない」とか「安逸な生活はしてはいけない」といったような考え方で生きてきた気がする。しかし、「こうしなければならない」ということはないんだよね。本当にないんだね。

●同様に「人生はこうあるべきだ」というモデルも、もうどうでもいいことなんだよ。自分は自分だし、何も拘る必要はないんだよ。僕はもう何も拘らなくなったよ。例えば、今まで、料理や味付けに非常に拘っていたけど、今ではニンジンなんか、生で、何も付けないで齧って食べているぐらいだからね。

●確かにここは山奥だけど、何処に住んでも一緒だと思っている。ニューヨークでもサンパウロでも何処に行っても同じなんだよ。今ここで何かをやらない限り、どこに住んでも同じなんだよ。山奥だからといって、世の中の動きが分からないとか、時代に取り残されているという感覚は全くないんだ。週末にまとめて新聞に目を通すくらいで、テレビは見ないけど、ラジオで2、3分、ニュースを聞けば、それで十分、世の中のことは分かるよ。

●もう、考え方の問題じゃないんだ。人は「家族がいるから」とか「仕事があるから」とか、色々と理由を作って、やらないけど、皆、口実に過ぎないんだよ。「やる」か「やらない」かのどちらかなんだよ。すべて御破産になっても、ゼロからでも、何でも始められるんだよ。今の僕のように。誰でも何歳になってもできるんだよ。やらないのは、ただ、やりたくないから、口実を作っているだけなんだよ。

彼は、最近、小説を書いて、ある文学賞の最終選考会まで残ったそうです。彼の文壇デビューする日は近いかもしれません。その時、思いっきり、彼の本名を明かしてみたいと思います。

アメリカのCM

日本に居ながらにして、いとも容易くアメリカのテレビのCMが見られるとは思いませんでした。ニューヨーク在住のSさんのブログで教えられました。
インターネットで、アメリカのCMのランキングのサイトがあったのです。
Sさんは、自動車保険会社「ガイコ」に日本のアニメ「マッハゴーゴー」(米国ではスピード・レーサー)が使われていたので、思わずはまってしまったそうです。

Sさんは、「子供の頃、よく見ていた」と書いていましたが、「あれ?」と思いました。あのアニメは、私が子供の頃に流行ったもので、その当時住んでいた東京都下のK町で、「マッハゴーゴー」の原画制作の「竜の子プロダクション」があり、小学校の帰り道によく窓越しに覗いて、スタッフが失敗したあまったセル(アニメ用の色付けした下絵)をくれないかなあ、と口からよだれをたらして眺めていたことをよく覚えています。
ちなみに、Sさんは私より10歳近く若いので、「見た」としても再放送だったのでしょう。

あの頃、-1960年代半ばですが、子供たちの間でレーシングカーのブームでした。ちょうど、富士スピードウェーができた頃で、「トヨタ7」や「ニッサンR-301」などが憧れの的でした。今でいうゲームセンターでは、レーシングカーを走らせるコースがあって、友達同士で競走させたものです。

無邪気な時代でした。本当に懐かしいです。過ぎ去りし日々…

ちなみに、アメリカのCMのネットのサイトは以下の通りです。
http://www.advertisementave.com/tv/ad.asp?adid=609

森の哲人Ⅲ

結局、おじじと会談したのは1時間足らずでした。

最後に名刺を交換したら、おじじの本名が徳村彰さんということが分かりました。

「これ(名刺)も、私は作ったわけでなく、皆が作ってくれたのです。ここには、色んな人が来ます。1日だけの人もいるし、2ヶ月も泊まっている人もいます。自由です。文庫から学校に通っている人もいます。この間は、ドイツのミュンヘンから家族も来ていたなあ。そしてシカゴからも…」

「またお会いしましょう」と握手してお別れしました。

この後、「おばば」のいる文庫に顔を出しました。「森」から車で10分くらいの距離でした。本当に山奥なのに、文庫の近くには小学校と中学校がありました。

文庫に着くと、おばばが「よく来ました」と出迎えてくれました。「文庫」は合宿所みたいなところで、何人かの中学生くらいの子供たちが住んでいました。

彼らは、都会で不登校になって、ここに来たのか、よく分かりませんでした。

8畳くらいある「居間」では、今、まさに昼食の準備が始まっていました。

私は、何をするのではなく、ボーとそこに佇んでいました。
そこには、祭壇らしきものがあり、遺影のような写真と花とグレープフルーツが飾られていました。

おばばが「せっかく来てくれたのですから」と、一緒に昼食を奨められましたが、丁重に辞して、お別れを告げました。

文庫の近くに「ラ・ムータ」という喫茶店のようなペンション風の軽食屋さんがあり、そこに入ることにしました。

玄米のさんま定食800円を頼んで、部屋の中を見回すと、本棚があり、そこに『森に生きる』(雲母書房)という本がありました。本当は「森」という字は、「木」の下に左が「水」、右が「土」という、著者の造語で「もり」と読ませる「漢字」でした。

著者の名前を見て、驚いてしまいました。

徳村彰。

先程会ったばかりの「おじじ」の書いた本だったのです。何という偶然でしょう。

私は早速、この本と、もう1冊「森に学ぶ」(雲母書房)を手に取って買い求めることにしました。

やはり「森の哲人」という私の第一印象は間違っていませんでした。

徳村氏は、東京大学を中退した大変なインテリでした。

前回、「おじじは心に傷を負った人」と書きましたが、これらの本によると、1985年に子供たちと網走まで4日間の徒歩旅行に行く途中、交通事故に遭い、2人の子供が死亡、3人が大怪我をする大惨事に見舞われたそうです。先程、祭壇に飾られていた少年たちの写真が事故死した人だったのでしょう。その時は、何も分かりませんでしたが…・

彼の思想に学ぶべきことが沢山ありました。
いずれまた、紹介したいと思います。

森の哲人Ⅱ

おじじは、心に深い傷を負った人でした。

もっとも、それは、後から分かったことで、会っている時は、その片鱗さえ見せることがなく、要するに謎の人物でした。

私「いつ、この森に来たのですか?」

おじじ「1983年に初めて来て、1991年に本格的に移住しました。それまで、横浜に住んでいました。私は、おばばの父親で、美学者の中井正一の思想に影響を受けました。彼は広島の尾道に図書館を作って、文化運動を繰り広げました。私も同じようなことがしたいと思い、1971年に横浜の日吉にひまわり文庫というものを作り、たくさんの子供たちを受け入れていました。当時は、石井桃子氏の『子供の図書館』が岩波新書から出版され、全国的に子供文庫が盛んに生まれていたのです。そのうち、私は子供を本の世界だけにとどめたくないと思うようになり、『本はなくても子は育つ』『子供が主人公』などと提唱しました。周りから猛反発を受けましたけど…。最初60人ほどで始まったひまわり文庫も数年後には3000人もの子供たちでふくれあがり、もっと広い自然にあふれたところを探し求めたのです」

私「それで、この北海道に来たのですか?」

おじじ「最初は、山梨県のある町に子供文庫を作ることが決まっていたのです。町長さんの了解も得て、95%くらいそこへ移住することが決まっていたのです。しかし、土壇場で地元民から『余所者はいれたくない』という反対運動に遭って、挫折してしまいました。そしたら、知り合いの知り合いのまたその知り合いにここの土地を紹介されたのです。冬はマイナス30度にもなるので、最初は正気の沙汰ではない、と反対されましたが、住めば都です。おかげで私の病気も治ってしまいました」

私「医者から見離されたと聞きましたが」

おじじ「そうなんです。名医から『あなたの命はあと2年』と宣告されたのです。最初は肝硬変で、腎臓も肺もいろんな内臓がやられていました。若い頃、ロシアや中国に行って無理していましたからね」

私「どんなお仕事をなさっていたのですか?」

おじじ「…それはいいじゃないですか。それより、この森に来て、森の精気に当たったおかげかしれませんが、病気が治ってしまったのです。視力も右が0・1、左が0・09ぐらいでしたが、この通り、眼鏡なしで見えるようになったのです。不思議ですよね。例えば、ここは雪が深いですが、皆、雪かきを嫌がりますよね。それが、楽しくて楽しくてしょうがないのです。私は自然に生かされていることを実感するのです。だから、私は木の枝一本折るのも心がためらいます。雑草だって、人間が勝手にそう呼んでいるだけで、草だって一生懸命生きているのです。どんなものにも精気が宿っているのです」

おじじは、話をしながら、一瞬たりとも手を休めることなく、薪を燃やしていました。(つづく)

森の哲人 

今回の小旅行の目的の1つが、森の哲人に会うことでした。
私の予備知識は、

・その人は皆から「おじじ」と呼ばれ、奥さんの「おばば」と家族一緒に森の中で暮らしている。
・子供たちにその森を開放して「自主性」を重んじて、子供たちの創意工夫と責任で、遊ぶなり、勉強するなり、やってもらう。
・子供だけでなく、都会の生活に疲れた大人たちもやってくる。
・そこは電気もガスも水道もない所で、燃料は薪。いわば自給自足に近い生活を強いられる。
・「おじじ」は昔、大病して、「あと、2年の生命」と宣告されたが、森で生活しているうちに、病気がすっかり治ってしまった。
・今年77歳になるというのに頗る元気。

ざっと、そんなところでした。

そこは、上川支庁の紋別郡滝上(たきのうえ)町という所で、旭川から車で2時間半くらいかかりました。国道273号線を北上し、滝西という所を左折すると、砂利道で、もう人など住んでいるはずがないと思われるほど閑散としたところを、奥へ奥へと突き進むと「おじじ」の「森の子供の村」がありました。

木造の掘っ立て小屋が数件建ち、1つは住居、1つは五右衛門風呂、1つはトイレといった感じでした。白い雑種犬のエンジェルが出迎えてくれました。

「おじじ」はこれから、東北地方のブナ林を見に、約1ヶ月間の旅行に出る準備をしていました。

突然の訪問にもかかわらず、「おじじ」は温かく迎えてくれました。
体感温度3度か4度です。「おじじ」は貴重な薪を焚いて暖をとってくれました。

「おじじ」は、ボツボツと話し始めました。

「言葉で、『自他一体』ということがあるけど、こうして、森の中でじーと暮らしていると、自分と森と木との境界線がなくなり、自然に溶けこむ感覚になるんです。この時、自分は自然に生かされているんだなあと強く感じます。これは、一言でいえば、愛なのでしょう。本当にそう感じました。区別とか、分別とかいう物差しがある限り、この感覚は分からないと思います。病気が治ったのは、森の気に触れたせいなのかもしれないけど、よく分からない。自然は何1つ、他のものを犠牲にして生きていない。命の尊さをしみじみと感じます」

大変失礼ながら、「おじじ」は77歳とは到底思えないほど、声が若く、頭脳明晰でした。
私は、思わず「この人は一体何者なのだろう」と、彼の目の奥を覗き込んでしまいました。(つづく)

十勝岳 

一泊二日の小旅行に行ってきました。
初日は、十勝岳登山に挑戦しました。
ちょっと、雲との区別がつきにくいかもしれませんが、現在も煙がモクモクとあがっている活火山です。

標高2,077㍍。大正15年(1926年)5月に大噴火があり、死者・行方不明者を144人も出しました。麓付近に、この惨事に巻き込まれた遺族が、噴火50周年に当たる昭和50年に碑を建てていました。まだ、22人が行方不明のままだそうです。碑には、「山津波」という表現がされていました。

北海道は、急に秋になりました。体感温度ですが、麓付近は気温12度。しかし、登るにつれて、気温がどんどん下がってくるのです。

途中で、下山してきたおじさんをつかまえて、話をきいたところ、頂上付近は、風が強く、異例な寒さで、私の軽装を見て「それでは、(登頂するのは)むずかしいでしょう」とアドバイスしてくれました。

それで結局、この「十勝岳避難小屋」までで、登山は諦めました。ここでも、体感温度は3度くらい。とても寒くて、寒くて、大変でした。標高1,350㍍。まあ、7合目という感じでしょうか。
勇気ある撤退をしました。

下山途中で、中高年のパーティーをみかけました。
一糸乱れぬ統制ぶりは、まるで、巡礼者を見る思いでした。

なかなかいい写真でしょう?