改正通訳案内士法が施行 お金をかけて馬鹿をみた話

イタリア・ヴェローナ

今年1月から改正通訳案内士法が施行されました。観光庁のホームページには以下のように書かれています。

平成29 年6 月2 日に公布された改正通訳案内士法が、平成30 年1 月4 日に施行されました。これにより、通訳案内士の業務独占規制が廃止され、今後は資格を有さない方であっても、有償で通訳案内業務を行えるようになるほか、通訳案内士の名称が「全国通訳案内士」に変更されるなど、通訳案内士制度が大きく変わります。

 1.背景

 訪日外国人旅行者の受入環境の整備を図るため、通訳案内士資格に係る規制を見直すとともに、旅行の安全や取引の公正を確保するため、旅行に関する企画・手配を行ういわゆるランドオペレーターの登録制度の創設等の措置を講じる「通訳案内士法及び旅行業法の一部を改正する法律」(平成29 年法律第50号)が、昨年6月2日に公布され、本年1月4日に施行となりました。

 2.通約案内士法の改正内容

(1)業務独占規制の廃止・名称独占規制のみ存続

(2)地域通訳案内士制度を全国展開

(3)全国通訳案内士試験の試験科目の見直し

(4)全国通訳案内士に対して登録研修機関が行う研修の受講を義務づけ

 

イタリア・ヴェローナ

恐らく、関心のある方しか上記をお読みになることはないと思われますので、簡単にこの国がやりたいことをご説明致します。

かつては、「通訳案内士」の資格試験は、日本の三大難関試験の一つとも言われておりました。合格率が10%程度ですから、100人のうち90人は落ちたのです。大昔の「かつては」の話ですが。

それが、今回の改正によって、「今後は資格を有さない方であっても、有償で通訳案内業務を行えるようになる」ことになったのです。

つまり、ぶっちゃけ、「資格なんかなくても誰でも、ガイドしてお金もらっていいですよ」という話なのです。(今まで無資格でやってた人は、モグリです)だから、結果的に「これまで取得した資格証明書は紙切れになりましたよ」ということになりますよね?

アッジャパーですよ。(伴淳三郎が映画「吃七捕物帖」=1951年公開で流行らせた驚きと困惑を表す感嘆詞)

私もかつて、多大な時間をかけ、週末に予備校に通ったりして多くの投資をしてやっとのことでこの資格を取ったのですが、投資金も回収できず、結局、無駄になってしまいましたよ(苦笑)。

上記には書いておりませんが、観光庁による研修と、合わせて5年に一度、登録研修の受講が義務付けられ、受講しないと「資格剥奪」となるようです。

これが、「この国のかたち」なんでしょね。

別に抗議をしても始まりませんし、唯々諾々と従うだけですが、それにしても酷い話ですねえ。悪い言い方ではありますが、国が保証するというのに、空手形をつかまされた気分です。

まあ、世界には、国家間で不可逆的に取り決めた「合意事項」を前政権が勝手にやったからということで反故する動きを見せる国もあるぐらいですからね。

ま、資格剥奪されても、関係ねーか(笑)。資格なくてもガイドしてもいいってことですからね(笑)。

何か馬鹿みたい。

国立文楽劇場「初春文楽公演」を堪能。「にらみ鯛」と東大寺の狭川普文別当(華厳宗管長)の絵馬も見ものです

「にらみ鯛」と東大寺の狭川普文別当(華厳宗管長)の絵馬(国立文楽劇場)

国立文楽劇場 

 皆様ご存知の「浪華先生」です。

 正月からの《渓流斎日乗》を見ていますと、「宮中参賀」と「東都七福神巡り」のほかには、あまり身体を動かしていませんね。

(うわ~ズバリご正解!)

本ばかり読んでいてはダメですよ(笑)。 

 

「書を捨てよ!街に出よう!」は若者だけの話ではありません。中年、特に、高齢者、老人ほど、身体を動かさないとダメです。寺山修司が生きていたら、同じことを言ったと思います。

 恐らく、渓流斎さんは「瘋癲老人、不良老人になるには、お金がかかりますよ」と反問するでしょが、やはり、芝居見物、活動写真、旅行、スポーツなどなど、気分転換と、アタマを癒すための外出が大切です。

 私も浪華に住んでいるので、本日は、七草かゆが終わったとはいえ、正月気分に浸るために、3日(水)から千日前の国立文楽劇場で始まった「初春文楽公演」を見てきました。
 8代目竹本綱太夫50回忌追善、6代目竹本織大夫(豊竹咲甫太夫改め)襲名披露だけに、その「口上」や、追善、襲名披露狂言の「摂州合邦辻」のかかる「昼の部」は満員盛況で、正月の華やいだ雰囲気が溢れていました。

 上記写真の通り、舞台正面の真上には、日頃、滅多にお目にかからない、張りぼてながら、大きな「にらみ鯛」(全長2・5メートル、重さ15キロ)二匹が飾られ、正月気分を盛り上げ、「初春の芝居小屋とは、こういうものだったのだ」とその雰囲気を少し味わえましたね。
 戦前は、関西の芝居小屋では、新年には「にらみ鯛」を舞台の上に飾る習わしがあったそうで、国立文楽劇場は、1985年から、その一端を復活させたわけです。舞台には、にらみ鯛とともに、新年の干支を祝って「戊戌(つちのえいぬ)」と、東大寺の狭川普文別当(華厳宗管長)が揮毫された大きな絵馬も、このようにかけられていました。見事なものでしょう。
 肝心の舞台は、渓流斎さんが昨秋、NHKホールの「古典芸能鑑賞会」で感激された文楽三味線の第一人者、鶴澤清治の甥で、今回、6代目竹本織大夫襲名したその祝いのために、三味線、人形遣いの人間国宝はじめ、文楽の幹部、若手が熱演して、見応え、聞き応えのある舞台でした。
 来月2月は、東京の「国立劇場」で、同様の追善、襲名公演がありますが、まあ、「にらみ鯛」や奈良の高僧の「絵馬」は掲げられないと思いますので、じっくり、この写真でご覧ください(笑)。

日本橋人形町は芝居の街だった

「歴史散歩」が趣味の私としては、全国で「教育委員会」などが掲げる標識といいますか、史跡の由来を説明する看板を見つけることが何よりも楽しみです。

欧米でもよくあります。パリなんかにある「ここにビクトル・ユゴーが住んでいた」といった類です。ウィーンなんかは、「ベートーベンがここで『運命』を作曲した」といったような看板が至る所にあり、いちいちオーストリア国旗が掲揚されているので、ウィーンの街中は国旗だらけだったような覚えがあります(笑)。

日本橋七福神を巡りをしている時に、人形町界隈で歴史の舞台になった看板を見つけました。「人形町」と言うくらいですから、人形浄瑠璃の芝居小屋が多くあったことは知っておりましたが、文楽の芝居小屋跡の看板は見つけることができませんでした。

その代わり、歌舞伎にちなんだ舞台が結構ありました。上の写真の「玄冶店跡」です。深川芸者お富と伊豆屋の若旦那与三郎(切られ与三)の悲恋物語。「いやさ、お富、久しぶりだなあ」のあれです(三世瀬川如皐作「世話情浮名横櫛」=よわなさけうきなのよこぐし)。玄冶店は、江戸の妾宅街ということで、芝居では鎌倉の源氏店に舞台を変えております。嘉永6年(1853年)、江戸中村座初演。ということは、幕末のペリーが来航した年だったんですね。モノの本によると、初演の与三郎は八代目團十郎で、翌年、大坂で32歳の若さで切腹したとか。お富は梅幸、のちの四代目菊五郎ですからね。

上の写真は、刃物の「うぶけや」。玄冶店跡のすぐ近くにありました。うぶけや、という屋号は「うぶ毛でも剃れる、切れる、抜ける」との評判で付けれられたそうです。「毛抜き」も売っており、歌舞伎役者の錦絵も飾られていたので、あの歌舞伎の「毛抜」の舞台になった所かなと勘違いしてしまいました。

歌舞伎の「毛抜」、本名題「鳴神不動北山桜」は、寛保2年(1742年)、大坂・佐渡島座で二代目團十郎によって初演されたようですが、この「うぶけや」も負けないくらい凄い。創業は、天明3年(1783年)大坂でした。1800年代に入って江戸日本橋長谷川町(現堀留町)に支店を出し、維新後に現在地に移転したという老舗だったのです。(大坂本店は今はないそうです)

今度、挟みでも買ってみようかしら。

日本橋人形町は、文楽だけでなく、歌舞伎の芝居小屋街だったことが分かる看板です。

幕府に認可された江戸四座のうち、中村座と市村座の二座あったですね。残りの二座は、木挽町(現銀座六丁目辺り)にあった山村座と森田座(のち守田座)ですが、山村座は正徳4年(1714年)、例の「江島生島事件」で廃座されました。

森田座は資金繰りが不安定で、河原崎座が代行興行することが多かったらしいですが、天保の改革で、木挽町から猿若町(現浅草六丁目)に移転させられ、明治に入って験を担いで守田に名前を改め、新富町に移転し、「新富座」を開業したことは皆様ご存知の通り。

人形町の中村座と市村座も、森田座と同じように天保の改革で猿若町に移転させられ、人形町に芝居小屋があったのは約200年間とありますが、芝居小屋だけでなく飲み屋さんやら何やらの一大歓楽街だったことでしょう。今でも雰囲気のある居酒屋が多くあります。

だから、今の若い歌舞伎役者も、気取って六本木なんかで呑んでいないで、原点を辿ってみれば、芝居に味が出てくるんじゃないでしょうか。余計なお世話ですが。いや、世話情か(笑)。

江戸三座筆頭の中村座については、上の写真に書いてある通りです。江戸歌舞伎の創始者とも言われる中村勘三郎は、京都から来た猿若勘三郎だったんですね。

「日本橋七福神めぐり」に行って参りました

江戸三森の一つ、椙森(すぎのもり)神社

1月6日は、まだお正月松の内で、3連休の最初の日でもあり、あまり家に閉じこもっていても何ですから、以前から行きたかったお江戸「日本橋七福神めぐり」に一人で行って参りました。

私のご先祖は、九州は久留米藩のお舟出役という身分(下級武士)で、恐らく、参勤交代の際は、筑後川を伝わり、瀬戸内海から大坂辺りに出て、陸路で江戸に向かい、上屋敷のあった現在の港区赤羽橋に滞在し、その藩邸にあった水天宮にもお参りしたことでありましょう。

水天宮(弁財天)学問・芸術

水天宮は、文政元年(1818年)、久留米の国元(現福岡県)にあったものを、九代藩主有馬頼徳(よりのり)が江戸上屋敷内に分祀したもので、塀越しに賽銭を入れる人が後を絶たなかったため、日を決めて庶民にも公開され、広く信仰を集めたそうです。

維新後は、赤羽橋の久留米藩邸は、薩長連合軍の新政府に摂取されたため、水天宮は青山を経て、明治5年に今の場所(日本橋蠣殻町)に落ち着いたそうです。

「日本橋七福神めぐり」のスタートは、ご先祖様に敬意を表してここから出発することにしました。

水天宮は、安産の神様として知られておりますが、芸能・学問の神様である宝生弁財天も祀られております。宝生弁財天は、先述の久留米藩主有馬頼徳が、加賀藩の11代藩主前田斉広(なりなが)と宝生流能楽の技を競った時に、弁財天に願をかけて、見事に勝利を収めたため、久留米藩としても弁財天の信仰も篤くなったそうです。

2 茶ノ木神社(布袋)笑門来福

下総佐倉藩主で、幕末に大老も務めた堀田家の上屋敷があり、守護神として祀られていた。

社の周囲に巡らされた土手芝の上に茶の木が植え込まれていた。今でも防災・生産の神様として信仰されている。

 3小網神社(福禄寿)幸福・長寿・立身出世

文正元年(1466年)、悪疫鎮静の神として創建され、太田道灌が名付けたと言われる。

昭和4年建立の社殿が戦災を免れ、神社の御守り受けた兵士も無事帰還したことから、「強運厄除けの神」としても信仰を集めている。

4松島神社(大黒天)五穀豊穣・財運・子孫繁栄

下総の柴田家が、鎌倉時代の元亨(1321年)以前に、この地(当時は小島だった)に移り住み、諸神を勧請して創建と言われている。

御祭伸は、大国主神をはじめ、14柱と他社に比べて多い。

5末廣神社(毘沙門天)厄除け・財運・大願成就   多聞天

慶長元年(1596年)以前に稲荷祠として鎮座。吉原の氏神として信仰された。

延宝3年の社殿修復の際に中啓(末廣扇)が見つかり、末廣神社と呼ばれるようになった。

6笠間稲荷神社(寿老人)健康・長寿・病気平癒

安政6年(1859年)、笠間藩主牧野貞直が、国元の笠間稲荷神社(日本の三大稲荷神社の一つ)を江戸下屋敷(この地)に御分霊し、奉斎したのが始まり。

日本橋魚河岸の守り神として、五穀・水産・殖産興業の守護神として庶民の間でも信仰された。

7椙森神社(恵比寿)商売繁盛・大漁豊作

天慶3年(940年)、藤原秀郷が平将門の乱を鎮圧するために、武運を祈願して創建したと言われる。

文正年間の頃、太田道灌が旱魃の雨乞い祈願のため詣でて、山城国稲荷山五社大神を祭祀するようになった。

五社稲荷の一社なる大己貴大神の御宣託により、恵比寿大神を奉斎し、江戸時代の富興行を記念した富塚あり。

また、江戸時代は道灌の選んだ三森の一つと数えられるようになった。三森とは、ここ日本橋堀留町の椙森神社、新橋の烏森神社(昔、江戸三森とは知らずこの辺りの居酒屋さんでよく飲んだものです)そして、神田須田町の柳森神社のことです。

【七福神】

七福神の信仰は、室町時代から始まったと言われています。 弁財天、大黒天、毘沙門天はインドの神様。福禄寿、寿老人、布袋は中国の神様。七福神で唯一日本の神様は、恵比寿様だけです。恵比寿は手に鯛を持っておられます。「めでたい」に通じます。しかし、中国では、鯛はあまり好まれず、食されることもなく、おめでたい魚ではないそうです。恵比寿は日本の神様だからこそ、鯛だったんでしょうね。

石橋正和さんって誰?「白いばら」が閉店とは!

新聞の片隅に出ていた石橋正和さんがどんな人なのか気になりました。

田村正和に似たいい男?それとも、ブリヂストン財閥の親戚の方?

正解は、寿司職人さんのようです。

昨晩、日本の国家最高権力者で、御自身のことを「リベラル」と自称されている安倍首相が、アッキー夫人同伴で大物国会議員夫妻らとディナーに訪れたのがこの東京・銀座のお店だったのです。

「銀座通」を自称する私も知らなかったので、気になって少し調べてみました。

クリスマスイブ

所は銀座三丁目。正式名称は「鮨一 石橋正和」。あの地方別出身のホステスさんを取り揃えて、「貴方のご出身の女性を御指名下さい」と看板に書かれているグランドキャバレー「白いばら」の真向かいにあるそうです。

あたしは、東京生まれの東京育ちなもんで、この店に行ったことはありませんが、京都にお住まいの「地獄耳」の京洛先生から、「『白いばら』はもうすぐ閉店してしまいますよ」という極秘情報を先日聞かされたばかりでした。

こちらも調べてみますと、「白いばら」は何と昭和6年創業。満洲事変があった年ではありませんか!(ちなみに、同じ年に、松屋浅草店と新宿ムーランルージュが開業してます)来年1月10日に87年の歴史の幕を閉じるそうなのです。

何とまあ、歴史と伝統があるキャバレーだったんですね。昭和初期ですから、ミルクホールの流行ったモボモガの時代です。太宰治(青森)や檀一雄(福岡)、坂口安吾(新潟)ら地方出身の無頼派も通ったかもしれません。恐らく、全盛期は昭和30年代、石原裕次郎や浅丘ルリ子を気取ったナウいヤングが、ごゆるりと集ったことでせう(笑)。

あ、石橋正和さんのことでした。この鮨一という店は、ミシュランの星を取ったり、外されたりしたそうで、高いようで、そうでもないようで、美味いという人もいれば、それほどでもないという人もあり、「白いばら」の凄さと比較したら、何かどうでもよくなってしまいましたよ…(笑)。

佃島渡船場跡〜再び、勝鬨橋【動画】

佃島渡船場跡

奮発して、佃大橋まで足を延ばしてみました。

風情があると思ったら、ガッカリ。車両優先で空気も悪く、行かなければよかったと思いました。

佃大橋は、東京五輪が開催された年、つまり昭和39年8月にできました。

この橋ができる前は、佃島は島(自然の寄州)でしたから、「本土」と島を結ぶ交通手段は、隅田川の渡し船しかありませんでした。(ちなみに、佃島は、徳川家康が大阪の佃村から漁民を移住させて漁業権を与えた。佃煮の発祥地)

◇嗚呼、懐かしやの「ポンポン大将」

渡し船は、俗称ポンポン船。昔、桂小金治が主演した「ポンポン大将」というテレビドラマがありましたが、今では誰も知らないでしょう。

私は「船長さんは朗らか〜ポンポン大将〜」という主題歌は、今でも諳んじることができますが(笑)。

佃大橋は、車両優先で風情も何もありませんでしたが、橋のたもとに「佃島渡船跡」の碑がありました。

全盛期は昭和30年で、「一日70往復もあった」と書かれていました。そして、繰り返しになりますが、昭和39年8に佃大橋ができて、300年もの歴史があった渡し船は廃止されるのです。

今は便利な世の中で、データベースによると、「ポンポン大将」は、NHKのドラマで、昭和35年9月4日から昭和39年4月5日まで、日曜日夜6時から、実に3年半も当時としてはロングランで放送されていたようです。

ちょうど渡し船の全盛期から廃止直前までの同時代が描かれていたわけですね。

内容は覚えていなかったのですが、またまたデータベースによると、子どもの時、浮浪児だった桂小金治扮する船長さんが、施設から三人の子どもを預かって育てる話だったようです。駄菓子屋のおばちゃん役が飯田蝶子だったとは!

昭和35年は、まだ戦後15年しか経っていないので、戦争孤児らは、まだまだ身近な問題だったことでしょう。

佃大橋があまりにも風情がなかったので、お口直しに、再び、勝鬨橋へ。

カモメが飛んでいました。

公用電波を民間に開放へ、その裏に何が?

ミラノ・ドゥオモ

名古屋の篠田先生です。

どうも、渓流斎さん、お身体の調子が悪いようですので、あたしが肩代わりして本日は執筆することにしやんした。

何しろ、歯磨き粉を顔に付けたまんま、電車に乗ったり、銀座を歩いたりしたそうですから、相当危ないです(笑)。

◇楽天、第4の携帯電話事業者に

昨日、IT大手の楽天が第4の携帯電話事業会社に参入することを表明して、安倍政権も期待しているというニュースが世界を駆け巡りました。

しかし、このニュース、何処か胡散臭い。裏があるんじゃないかということで、あたしも調べてみました。

で、結局、あたしゃ、冬のボーナス319万円を貰えるような永田町の住人じゃないので、はっきりした証拠はつかめませんでしたが、どうも臭い。何かあるんじゃないか。これは、最初から出来レースじゃないかと、あたしなんか睨んだわけですよ。

つまり、来年辺り、安倍政権は、警察と防衛省の公用電波を一部民間に開放、てゆーか、規制緩和の名の下で、下々の民に分け与えてやるという政策を早晩発表しますが、その伏線を張っているんじゃないか、とあたしなんか見ているんですがね。

電波なんか、土地と同じように有限の希少価値です。それをお上が民に開放するということですから、入札競争です。何処が手を挙げて立候補しても構わないわけです。

それなのに、もうそれらの電波は楽天に引き渡すような既成事実を作り上げてしまおうというのが、今回のマスコミへの示し合わせたリークじゃないかと、あたしなんか睨んでいるわけですよ。

そりゃあそうでしょ?

第一、事情に精通しているいずれのマスコミも、批判の一つもしないじゃありませんか。

ミラノ・ドゥオモ

◇大田弘子女史の規制改革推進会議の正体

まあ、例の大田弘子女史の規制改革推進会議のように、「規制緩和!」を叫んで新利権を生み出す仕組みも、また、電波オークション導入を主張しているのも、こうした背景があるわけですね。

建前は、財政難で「財源、税収を増やす」ですが、「加計学園」同様に安倍首相の”お友達”に新利権を与えることが最終目的で、その最高権力者の意向を官僚が忖度するわけです。

規制緩和=新利権の仕掛けは、もう、子供でも分かる腐敗の構図です。東京地検特捜部がなぜ強制捜査しないのか。これも忖度かもしれませんね(笑)。

マスコミも「規制緩和は良いことだ!」「新規参入は、料金の値下がりにつながる」などと相変わらずステレオタイプの報道ばかりしておりますが、いい加減にそんな悪習から脱却するべきですよ。

マスコミも何処かで「忖度して」、大田弘子女史らと一緒になって「規制緩和=新報利権音頭」を踊っていることになるわけです。

こうなると、もう犯罪に近いのです。

iPhone 新機種断念は残念無念

シュークリーム fabriqué à la main

朝出勤して、トイレの鏡を見たら、口の周りに白い歯磨き粉が山賊のようにべったりとくっついていました。この顔で、バスに乗り、電車に乗り、華の東京は銀座の街を闊歩していたので、我ながら、一瞬、冷や水を浴びせられたような心境で微苦笑してしまいました。

怪しい変なおじさんです。

Milano

私のスマホは、2年前に初めてiPhoneに買い換えてすっかり気に入ってしまい、通話から、写メール、インスタ映え(やってましぇん)、静止画に動画撮影、そして、電車の中でのこの《渓流斎日乗》書きと八面六臂の活躍をしてくれています。

でも、購入して2年ともなると、電池の消耗が早くなり、何よりも、アプリやシステム設定の更新が頻繁に来るようになりました。そこで、「2年契約」の縛りも切れることですし、新機種に乗り換えようかと画策しました。

◇iPhone6はタダだった!

実は、今持っているiPhone6は、2年前は最新機種より2世代ぐらい古い昔の機種だったため、「一括ゼロ円」で購入したのでした。つまり、タダ!

しかし、そんな素晴らしい制度は、総務省の鶴の一声で廃止されてしまいました。私が画策した範囲内ですが、何処に行っても「一括ゼロ円」がなくなったどころか、量販店でも正規ショップでも、場末の裏街の携帯屋でも、ほぼ全く料金が同じになってしまったのです。店員が同じようなタブレットを持っていて、価格をはじき出すだけでした。

今、iPhoneの最新機種は「8」と「Ⅹ」ですが、一番安いiPhone8の64GBでも約9万2000円。iPhoneⅩ256GBとなると15万円もするのです。

繰り返しますと、それが何処に行ってもほぼ同じ値段なのです。

そこで、正規ショップで、値崩れした古い機種のiPhone7を購入しようとしたら、近くのショップは全て売り切れ。遠いショップも10軒以上電話で問い合わせてみましたが、全て在庫なしでした。価格は7万5000円ぐらいです。

確かに、量販店にはiPhone7はありましたが、正規ショップの1万5000円の割引券(ポイント還元)が使えないばかりか、3240円の手数料も取られるので、馬鹿らしい。

結局、新機種買い換えは諦めてしまいました。

何しろ、今、パソコンが、台湾製ながら特別価格で2万円を切る価格で販売されているんですからね!もう文房具に近くなってきました。しかも、高級万年筆よりも安い!

しょうがないので、今のiPhone 6でも十分に使えますので、半年後、新機種iPhone 8EかiPhone 9が発売された時に、値下がりしたiPhone 8でも買おうかなあと思っています。

やっぱり、変なおじさんでした。

京都・西陣は千本釈迦堂の大根炊き

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

京洛先生です。

最近、どういうわけか《渓流斎日乗》では、滋賀県の大津農林水産通信員とやらが、幅を利かせておられるようです。

が、「元祖」「本家本元」はこのアタシだということを、読者諸兄姉の皆々様方にはよおく御理解、御芳情、御鞭撻の程、宜しく賜わりたき次第にて存じまする。

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

◇12月8日は臘八大接心

あ、さて、12月8日は、何の日かご存知ですか? 「米国がイスラエルの首都をエルサレムに宣言して、パレスチナで紛争が激化している?」「富岡八幡宮の女性宮司が弟(前宮司)に殺された?」。
それも大きな事件でしたが、仏教徒の始祖、お釈迦様、釈尊、仏陀が悟りをひらかれた「成道会(じょうどうえ)」(12月8日)です。禅宗では「臘八大接心(ろうはつ おおぜっしん)」と言って、12月1日から8日まで僧堂できびしい修行に勤しみます。

◇応仁の乱の舞台で大根炊き
京都・西陣の一隅にある「千本釈迦堂」では、その「悟り」にあやかり、毎年開いている「大根焚き」の日です。鎌倉時代から続いていて、今では、洛中の冬の風物詩にもなっています。
同寺は、仮寓のそばでもあり、今日はその盛況ぶりを覗いて来ました。
通称”千本釈迦堂”。正しくは「大報恩寺(真言宗智山派)」は、あの「応仁の乱」でも、唯一、焼け残った洛中の最古の建造物であり、本堂は「国宝」になっています。

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

貴人も数年前に、大根炊きを食べに見えたでしょう。本堂の横の「宝物館」の運慶、快慶らの重文の仏像の見事さにびっくりされたりしましたが、例のあの椿事もこの境内でしたね。

◇この紋どころが見えぬか!
緋毛氈の敷かれた床几に腰を掛け、出来立ての温ったかい大根焚きを食べていると、大阪からやってきた、さる民放の報道クルーが、迂生に「取材に応じてくれませんか」と頼みに来ました。
こちらは、取材でも、インタビューでもなんでも応じても良いのですが、後で、彼らが上司から叱られたら可哀そうなので、偶々、着用していたジャンパーの胸の小さなマークをお見せしたところ、カメラマン氏は、大声を出してその場にひっくり返って、大急ぎで逃げ出しました。

何もご存知の無い貴人も、慌てて、「京洛先生!何かあったのですか」と、心配そうな表情を見せられたので、「いやいや、これを見せただけですよ」と、微苦笑しながら、ジャンパーに縫ってあった彼らのライバルのテレビ局のマークを見せたのでした。
貴人もそれを見て「ヒヤ―、それでは、カメラマンさんも驚いて逃げますよ」と大笑いになりました。

京都・西陣「千本釈迦堂」の大根炊き 1000円©️Kyorakusakio

千本釈迦堂の大根焚きは、7日と8日の2日間開かれていて、報道関係者は初日に殺到するので、8日はマスコミは何処も来ておらず、人出もそれほど多くありませんでした。
ただ、大きな大根が3切れと油揚げが一枚入った無病息災の大根焚きは千円です。
関係者によると2日間で1万人が大根焚きを食べるので、俗に言えば売り上げは1千万円はくだらないわけですね。
仕込みから料理、接遇をするのは檀信徒さんで、事実上、無料奉仕でしょうから、この売り上げはすべてお寺の収入になるわけです。ただ、お寺としては「お賽銭」のほかは、これと言った大きな収入がないだけに、この「大根焚き」は、お寺の修理維持費にとっては貴重な財源になっているのは確かです。

ちなみに、鎌倉時代、同寺の三世慈禅上人が、大根の切り口に梵字(ぼんじ)を書いて魔よけにしたのが起源の「大根焚き」は、少し辛めの出汁が、大きな大根に染みて、昼飯代わりになるくらいボリュームがあり美味かったですね。

ご報告迄。

英語教育よりも国語が大事

モネの庭 ©️par Hinachan

新井紀子国立情報学研究所社会共有知研究センター長といえば、現代日本を代表する国際的な数学者の一人です。

彼女は、一般社団法人「教育のための科学研究所」代表理事・所長も兼務されており、最近、新聞・雑誌など色んなところで教育について発言されていて、私も興味深く読み、「我が意を得たり」と大賛成することがあります。

そんな中で、新井教授は、こんなことを発言されております。(色んな記事からの換骨奪胎で、このような趣旨の発言をされていた、ということで御理解を)

東銀座「わにわ」日替り定食

…最近、中学生の中で「数学ができない」「分からない」といった生徒を調査したところ、例えば、「平均」といった言葉の意味が分からず、数学以前に読解力がないということが判明して衝撃を受けました。

要するに、国語力、日本語がよくできていないのです。それなのに今の教育行政では、小学生から英語の授業を必修にしたりして、ますます国語の時間が減っているわけです。

昔のように、教科書を反復熟読したり、写し取ったりしないせいなのかもしれませんが、何といっても、国語が基本です。

こんなことを数学者の口から言うのも変だと思いますが…。

いやあ、英語より国語を重視せよという新井教授の提言は大賛成ですね。

◇日本進学教室の思い出

この記事を読んで、私も自分自身の恥ずかしい過去の体験を思い出しました。もう半世紀も昔の時効の話なのですが、田舎の鈍才だった小生は、当時はさほど多くなかった難関中学校入試の予備校「日本進学教室」(日進)に通うことになりました。(嗚呼、富士山マークのバッヂが懐かしい)

日進の教室は東京・原宿にありました。当時の原宿は、まだファッションの最先端でもなく、竹の子族もなく、埼玉や茨城や千葉から出てくる若者もおらず、とにかく人通りの少ない寂れた住宅街といった雰囲気でした。

私が国立大学附属中学を目指して受験勉強を始めたのが、二学期に入ってからだったので、1年前から備えて頑張っている周囲と比べて格段の差があり、正直、授業には全くついていけませんでした。

模擬試験でも最下位集団だったことは間違いありません。(隣席の男の子の名前は忘れましたが、品川区の旗の台から来てると言い、とても優秀でした。彼は今頃どうしてるかな?)

そして、新井教授の提言を読んで、当時、自分が算数の問題が解けなかったのは漢字が読めなかったり、意味が分からなかったことを思い出したのです。

それは、算数の問題の中にあった「最も」です。小学6年の鈍才は「さいも」としか読めず、意味が取れなかったのです。恥ずかしいですね。後で父親を悲しませてしまいました。

日進の国語の漢字テストもかなり難しく、教科書に出てこない漢字ばかりでした。

例えば、「灘の生一本」の「生」は何と読むか?えっ?「き」?鈍才の小学生が読めるわけありませんでした。

現代のお受験世代は、既に幼稚園から準備しているので、私の話なんぞはお笑い草でしょうが、「英語より国語が大事」という新井教授の提言を読んで、私のような鈍才は妙に納得してしまったわけです。