「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」はお薦めです

 4連休中は、沖縄にお住まいの上里さんから航空便でお贈り頂いた安田一郎著「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」(青土社、2020年3月31日初版)をずっと読んで過ごし、読了しました。

 皆さんから「お前は、いつも人様から贈られた本ばかり読んでいるのお」と批判されれば、「責任を痛感しています。真摯に反省しております」と応えるしかありません。

 上里さんからは、これまで、大島幹雄著「満洲浪漫  長谷川濬が見た夢」 (藤原書店)や森口豁著「紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人 池宮城秀意の反骨」(彩流社)など何十冊もの心に残る良書を贈って頂き、本当に感謝申し上げます。

 さて、安田一郎著「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」のことです。

 これでも私はかつて、「ゾルゲ研究会」(通称、すでに解散)なる会に属したことがあるので、ゾルゲ事件の関する書籍はかなり読んでおりますから、事件には精通しているつもりでした。

 もちろん、安田徳太郎(1898~1983、享年85)についてもゾルゲ事件に連座して逮捕された諜報団の一員だということは知っておりました。しかし、正直、医者だったということぐらいで、彼がどういう人物で、何故逮捕されたのかまではよく知りませんでした。諜報団の中で、それほど目立った動きをした重要人物でもなかったし、半ば当局がこじつけて諜報団の一員に仕立て上げたような感じもあったからです。

 本書を読んで初めて、安田徳太郎という人となりが分かりました。この本の著者は、徳太郎の長男一郎(1926~2017、享年91、元横浜市立大学文理学部教授、心理学者)ですから、徳太郎本人の少年時代の日記を始め、家族親族でしか知り得ない事柄が満載されています。(著者は文章を書く専門家ではないので、前半は読みづらいというか、分かりにくい箇所がありましたが、後半はすっきり読めました)

 まず驚くべきことは、徳太郎の縁戚関係です。労働農民党代議士でただ一人治安維持法に反対して暗殺された「山宣」の愛称で慕われた山本宣治は、従兄弟に当たり、ホトトギス派の俳人として名をなした山口誓子(せいし、本名新比古=ちかひこ)はまたいとこに当たります。

 また、同じようにゾルゲ事件で逮捕された作家の高倉テル(京都帝大時代、河上肇の影響でマルキストになる)は、徳太郎の妹つうの夫、つまり、義弟に当たります。

 このほか、徳太郎の進路に影響を与えた人として小説家の近松秋江まで登場します。

 徳太郎は、明治31年、京都市生まれ。旧制府立三中から京都帝大医学部を卒業したエリートで、日本で初めてフロイトの「精神分析入門」を翻訳して紹介した人でもあります。若い頃に大逆事件などを体験し、軍国主義が高まる中、三・一五事件など治安維持法による共産党弾圧を見聞し、昭和初期には東京・青山の一等地(とはいっても、当時の青山はファッション街ではなく、麻布連隊区司令部や第一師団司令部、陸軍軍法会議などがある「軍都」でした)に内科医を開業します。特高によって拷問死した日本共産党中央委員の岩田義道や作家の小林多喜二の凄惨な遺体を検分したりしたことも、当局からマークされる遠因になります。

 徳太郎のゾルゲ事件での逮捕容疑のきっかけは、この青山の内科医にゾルゲ諜報団の中心人物宮城与徳が昭和10年1月に「肺病で喀血した」と診察に訪れたことで始まりました。

 宮城は沖縄出身の画家で、1920年に渡米、27年には米共産党日本人部に入党し、コミンテルンによる派遣で昭和7年(1932年)に日本に戻り、本部から指令されるまま、ゾルゲの下で諜報活動に従事した男でした。診察以外でも「諜報活動」のため、度々医院を訪れるようになった宮城与徳は、昭和15年の初めに「ドイツ大使館にいる私の友人が肺炎で危篤なってます。先生、例の肺炎の特効薬を下さいませんか」と頼み込んできました。徳太郎は「宮城さんの友人がナチ・ドイツ大使館にいるというのはおかしな話だ」と思いながらも薬を渡します。数日後、宮城が「おかげで、友人は全快しました」と御礼にやって来ます。これが、この本のタイトルにもなっている「ゾルゲを助けた医者」につながるわけです。

 徳太郎は昭和17(1942)年6月に逮捕され(尾崎秀実やゾルゲらが逮捕されたのは、前年昭和16年10月)、治安維持法、軍機保護法、国防保安法違反の罪名で起訴されますが、結局、治安維持法違反の一つだけで昭和18年(1943)年7月に仮釈放されます(判決は懲役2年、執行猶予5年)。この中で、面白い逸話が書かれています。

 裁判が終わって、徳太郎は平松検事に挨拶に行き、「正直言ってこの事件は何が何だかさっぱり分からないのですが、真相は何なんですか?」と尋ねます。すると、平松検事は「分かるわけない。わしらでさえ分からないのだから。コミンテルンというが、実際(ゾルゲ)はソ連赤軍第4本部の諜報機関(所属)なんだよ」と答えたといいます。

 徳太郎を逮捕し、取り調べに当たった警視庁青山署の高橋与助・特高警部は「てめえこのやろう、ふざけやがって、ゾルゲの命を助けたな。この国賊、非国民が。天皇陛下に申し訳ないと思わないのか」と怒鳴りまくり、髪の毛を引っ張ったりしましたが、コミンテルンとの関係ばかり追及したといいます。一方の司法省の検事たちは、ゾルゲの自白で、ある程度、真相を分かっていたということになります。

 実際、ゾルゲは赤軍4部から派遣されたスパイであり、コミンテルンは、徳太郎が釈放される1カ月前の1943年6月10日に解散していたわけですから。

 この本は、ゾルゲ事件に関心がない人でも、明治末に生まれた若者が、大正デモクラシーと米騒動と労働争議と昭和恐慌、軍国主義まっしぐらという日本史の中でも稀に見る激動の時代を生き抜いた様子を読み取ることができます。

 他にも、青山にあったすき焼き料亭「いろは」の創業者木村荘平(葬儀社「東京博善」=現廣済堂グループ=の創業者でもあり、女性関係が盛んで30人の子持ち。八男荘八は、画家で永井荷風の「濹東綺譚」の挿絵担当、十男荘十は直木賞作家)の話など、意外と知られていない色々な逸話も描かれていますので、お薦めです。

 ちなみに、著者の安田一郎は3年前に亡くなっているので、編者として本書の出版にこぎ着けたのは一郎の次男で徳太郎の孫に当たる安田宏氏(1960〜、聖マリアンナ医科大学教授)です。

思想検事がいた時代なら渓流斎はアウト

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

《渓流斎日乗》なる詭激(きげき)思想を孕(はら)む危険分子は、機宜(きぎ)を逸せず禍(か)を未然に防遏(ぼうあつ)するの要ありー。

 先月、満洲研究家の松岡先生とLINEでやり取りしていた際、2人の共通の知人である荻野富士夫・小樽商科大学教授(現在名誉教授)の書かれた「思想検事」(岩波新書・2000年9月20日)は、小生だけが未読だったので、私は「いつか読まなければならないと思ってます」と返事をしておきました。もう20年も昔の本です。今では古典的名著になっているのか、立花隆著「天皇と東大」の膨大な参考文献の1冊としても挙げられていました。

 20年前の本ですから、古書で探すしかありません。やっとネットで見つけたら、送料を入れたら当時の定価(660円)の2倍の値段になってしまいました。そうまでもしても、手に入れたかった本でした。(A社では最高1万2800円もの値が付いていました!)

 先程、やっと読了したところですが、明治末からアジア太平洋戦争中にかけて、検察権力が肥大化していく様子が手に取るように分かりました。昭和初期の異様な軍部の台頭と軌を一にするかのような司法省の増長ぶりです。いや、逆に言えば、軍部だけが突出していたわけではなく、司法も行政も立法も、そして庶民の隣組や自警団に至るまで一緒になって挙国一致で国体護持の戦時体制を築き挙げてきたということになります。国家総動員法や大政翼賛会など政治面だけみていてはこの時代は分かりません。最終的には司法の検事、判事が臣民を支配していたことが分かります。その最たるものが「思想検事」で「皇国史観」にも染まり、それが判断基準でした。

 検察や裁判官は神さまではありません。権力当局者は、かなり自分で匙加減ができる恣意的なものだったことが分かります。これは過去の終わった話ではなく、現代への警鐘として捉えるべきでしょう。

「黒川高検検事長事件」が起きたばかりの現代ですから、検察の歴史を知らなければなりません。

 でも、正直、この本は決して読み易い本ではありません。ある程度の歴史的時代背景や、大逆事件、森戸事件、三・一五事件、四・一六事件、小林多喜二虐殺事件、ゾルゲ事件、それに横浜事件などについての予備知識がない人は、読み進む上で難儀するかもしれません。なぜなら、この本は、それら事件の内容については詳しく触れず、司法省内の機構改革や思想検察を創設する上で中心になった小山松吉、塩野季彦、平田勲、池田克、太田耐造、井本台吉ら主要人物について多く紙数が費やされているからです。

 読み易くないというもう一つの要因は、本書で度々引用されている「思想研究資料」「思想実務家合同議事録」など戦前の司法省の公文書では、現在では全く使われないかなり難しい漢語が使われているせいなのかもしれません。しかし、慣れ親しむと、私なんか読んでいて心地良くなり、この記事に最初に書いたような「創作語」がスラスラ作れるようになりました(笑)。

 「思想検察」の萌芽とも言うべき「思想部」が司法省刑事部内にできたのは1927(昭和2)年6月のこと(池田克書記官以下4人の属官)でした。泣く子も黙る特高こと特別高等課が警視庁に設置されたのが1911(明治44)年8月ですから、16年も遅れています。それが、1937年に思想部が発展的解消して刑事局5課(共産主義、労働運動など左翼と海軍を担当)となり、38年に刑事局6課(国家主義などの右翼と類似宗教、陸軍を担当)が新設されると、検察は、裁判官にまで影響力を行使して「思想判事」として養成し、捜査権を持つ特高警察に対しては優位性を発揮しようと目論見ます。司法省対内務省警保局との戦いです。これは、まるで、陸軍と警察との大規模な対立を引き起こした「ゴーストップ事件」(1933年)を思い起こさせます。

 司法省刑事局6課が担当する類似宗教とは、今で言う新興宗教のことです。これまで、不敬罪などで大本教などを弾圧してきましたが、治安維持法を改正して、国体に反するような反戦思想などを持つ新興宗教に対しても、思想検察が堂々と踏み込むことができるようになったのです。キリスト教系の宗教団体や今の創価学会などもありましたが、ひとのみち教や灯台社なども「安寧秩序を乱す詭激思想」として関係者は起訴されました。あまり聞き慣れないひとのみち教は、今のPL教団、灯台社は、今のエホバの証人でした。

新橋の料亭「花蝶」

 先程、戦前の思想検事をつくった主要人物を挙げましたが、塩野季彦については、山本祐司著「東京地検特捜部」(角川文庫)に出てきたあの思想・公安検察の派閥のドンとして暗躍した人物です。そして最後に書いた井本台吉は戦前、思想課長などを歴任し、戦後は、検事総長にまで昇り詰めた人で、1968年の日通事件の際の「花蝶事件」の主役だった人物でしたね。

 中でも「中興の祖」というべきか、思想検察の完成者とも言うべき人物は太田耐造でしょう。彼は、刑事局6課長として1941年3月の治安維持法の大改正(条文数を7条から65条へ大幅増加)を主導した立役者でした。

 太田耐造は、20世紀最大のスパイ事件といわれるゾルゲ事件に関する膨大な資料も保存していて、国立国会図書館憲政資料室に所蔵されるほど昭和史を語る上で欠かせない人物です。現在、荻野・小樽商科大学名誉教授教授も推薦している「ゾルゲ事件史料集成――太田耐造関係文書」(加藤哲郎一橋大名誉教授編集・解説)も不二出版から刊行中です。

 思想検事は戦後、GHQにより公職追放となりますが、間もなく、「公安検事」として復活します。

《渓流斎日乗》なる詭激思想を孕む危険分子は、機宜を逸せず禍を未然に防遏するの要ありー。

 扨て扨て、このブログは書き続けられるのでしょうか?

新段階に入ったゾルゲ事件研究=思想検事「太田耐造関連文書」公開で

 「ゾルゲ事件研究の新段階」と題した加藤哲郎一橋大学名誉教授による講演が11月9日(土)に東京・早稲田大学で開催された第29回諜報研究会の報告会で行われ、私も聴講してきました。その4日前の11月5日付朝日新聞朝刊で、「ゾルゲ事件 天皇への上奏文案 旧司法省主導 都合よく添削」という記事が掲載され、そこには、「概要は9日に都内で発表される」とあったので、さぞかし多くの方々が詰めかけると思いましたが、それほど多くはなく90人ぐらいだったでしょうか。(6月8日の専修大学での報告会では200人以上だったらしい)

 それも、どうみても年配の方々ばかり。若い人は新聞を読みませんからね。時代を反映しているということでしょう。時代の反映といえば、ゾルゲ事件研究も、かつては高度経済成長にあった日本が最先端で、世界的にみても量も質もピカ一でしたが、「失われた30年」で、中国が経済大国に成長してからは、今後は中国(ゾルゲの上海時代の活動は未だ未解明部分多し)での研究が期待されていると言われています。学術研究もお金がかかるというわけです。会場には大御所の研究家渡部富哉氏も参加されていましたが、御年数えで九〇歳。懇親会で大声を出されて、まだ元気溌剌でした。

 さて、講演会の副題は「思想検事・太田耐造と特高警察・天皇上奏・報道統制」でした。ゾルゲ事件に関しては私自身、勉強会やセミナーなどにも参加して15年近く関連書籍も読んできて、このブログにも散々書いてきました(ただし、その間の記事は小生の不手際で全て消滅!)。そんな私ですが、講演会の内容は色々と複雑に派生した問題がからんでおり、結構難しかったですね。資料を読み込んだりしているうちに、これを書くのに3日もかかってしまいました(苦笑)。

 ですから、そんな複雑な話は、ある程度の予備知識がある人でないと分からないので、茲で書くことは最小限に絞り、固有名詞、用語の説明については最低限に留めます。その代わり、リンクを貼っておきますので、ご自分で参照してください。

 加藤先生は講演タイトルを「ゾルゲ事件研究の新段階」とされてましたが、長年、ゾルゲ事件を研究をしてきた人にとっては、実に画期的で革命的な「新段階」なのです。何故なら、かつての研究者が元にしてきたのは、1962年からみすず書房が刊行した「現代史資料 ゾルゲ事件」全4巻で、これは戦前の内務省警保局特高警察資料を元にした戦後の警察庁版「外事警察資料」(1957年)だとみられるからです。

 それが、2017年に国会図書館憲政資料室から「太田耐造関連文書」が公開され、司法省の「思想検事」だった太田耐造が残した文書にはゾルゲ事件に関する膨大な資料が含まれ、そこには司法大臣名の昭和天皇宛上奏文や新聞発表統制資料などが含まれていたことが初めて分かったのでした。

 つまり、加藤先生によると、ゾルゲ事件の捜査・検挙・取り調べ、新聞発表を主導したのは、治安維持法による共産主義の取り締まりに当たった内務省警保局(特高警察と外事課)ではなく、また陸軍憲兵隊でもなく、国防保安法、軍機保護法に基づく国家機密漏洩を重視した司法省思想検察だったというのです。外務省や情報局はほとんど関与できなかったといいます。

 太田耐造(1903~56)は、ゾルゲや尾崎秀実らを逮捕する際の法的根拠とした治安維持法の改正(1941年3月10日、7条だったのを65条にも増やした!)、軍機保護法の改正(同日)、軍用資源秘密保護法(同年3月25日施行)、軍機保護法(同年5月10日施行)の全てに関わっていたのです。驚きですね。当時、太田はまだ30代の若さでした。

 太田耐造関連文書の中の「ゾルゲ事件史料集成」(全10巻)は現在、不二出版から刊行中ですので、ご興味のある方はご参照ください。講演会では隣席にこの不二出版の小林社長が座られて、何年ぶりかでお会いし(当時は、編集者でした)、向こうから御挨拶して頂き、社長業も大変で何となくお疲れ気味でしたので、茲で紹介させて頂くことにしました。

 司法大臣岩村通世からゾルゲ事件について昭和天皇に上奏されたのは、昭和17年(1942年)5月13日(水)午前11時30分。司法省刑事局長室での新聞発表はその3日後の5月16日(土)午後4時でした(朝日新聞の記事では【司法省十六日午後五時発表】となっている。不思議)。ゾルゲやブーケリッチ、宮城与徳、尾崎らが逮捕されたのは、これを遡る7カ月も前の1941年10月でしたが、報道差し止め。事件の発覚が国民の目に触れたのはこの時が初めてでした(しかも具体的な諜報内容は伏せられた)。その後、日本が敗戦となるまで、44年11月のゾルゲと尾崎の処刑も含めて一切の報道はありませんでした。

探しました!昭和17年5月17日(日)付東京朝日新聞朝刊1面「国際諜報団検挙さる」 扱い方が司法省の命令により地味 紙面は戦中のせいなのか、わずか4面。夕刊は2面でした。

 ここで注目したいのは、太田耐造文書に関しては既に毎日と朝日で報道されていますが(読売、日経、産経、東京などは精通した記者がいないのか?報道していないようです)、天皇上奏文と新聞発表では明らかに、かなりの相違があったことです。新聞発表では、「トップ扱いにするな」「四段組以下扱いにせよ」「写真は載せるな」(現代文に改め)など事細かく「新聞記事掲載要綱」で報道統制していたことも分かりました。

2018年8月18日付 毎日新聞朝刊1面

 上奏文と新聞発表の大きな違いは十数点ありますが、一つだけ挙げるとすると、上奏文の内部資料とみられる文書では、ゾルゲは「ソ連の赤軍第四本部の諜報団」と正確に明記しながら、新聞発表文では治安維持法適用のために「コミンテルン・共産党関係の諜報団」としたことでした。司法省も大本営発表のような偽情報を流したということですね。

 (ただし、日本共産党関係は、治安維持法の制定(1925年)で、28年の「三・一五事件」、29年の「四・一六事件」や幹部の転向などで壊滅状態となり、加藤先生によると、1935年以降の共産党関係者の検挙率は1%にも満たなかったといいます。えっ!驚きです。むしろ、太田耐造らが関わった41年3月の治安維持法改正では第七條「國體ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者 」も加えられ、労組関係者や宗教団体への弾圧が増えたといいます。)

 そして、何よりも付け加えたいのは、上奏文にはあった「ソ連」が新聞発表文では、一切削除されていたことでした。これは、当時、ソ連とは日ソ中立条約を締結しており(しかし、昭和20年8月にソ連が一方的に破棄して、満洲の悲劇が生まれる)、内務省警保局外事課では、ソ連は、何と「親善国」とされていたという背景があります。「ソ連」と新聞発表しなかったのは、親善国ソ連を徒らに刺激することを避けたとみられます。そういえば、終戦間近、日本はソ連を仲介して和平工作を進めていましたね。満洲で暴虐の限りを尽くし、「シベリア抑留」をしたロシア人を信用するなど実におめでたい話だったことは歴史を見れば分かります。

 いずれにせよ、太田耐造関連文書の公開で、ゾルゲ事件の研究がさらに進むことが望まれますが、景気低迷、少子高齢化の日本では興味を持つ若い人材すら減り、危うい感じもします。

 ゾルゲ国際諜報団が、ソ連赤軍に打電した重大事項の中には、尾崎が情報収集した昭和16年(1941年)7月2日の御前会議で決定された南部仏領インドシナへの進駐(いわゆる南進政策)のほか、ゾルゲがドイツ大使館で入手した独ソ戦開戦に関するドイツ側の開戦予定日と意図などもあり、世界史的にも注目されます。(ただし、スターリンは信用していなかったという説もあり)

 ゾルゲ関係の資料や200冊近い関連書籍を読みこなすには何年もかかりますが、多くの人に少しでも興味を持って頂ければ私も嬉しいです。

「解明されたゾルゲ事件の端緒ー日本共産党顧問真栄田(松本)三益の疑惑を追ってー」

昨日21日(土)は、東京・御茶ノ水の明大リバティータワーで行われた講演会を聴きに行きました。

「偽りの烙印」などの著書があるゾルゲ事件研究の第一人者の渡部富哉氏が88歳のご高齢になられ、これが「最後の講演会」ということでしたので、渡部氏には大変お世話になったり、こちらもお世話をしたり(笑)した仲でしたので、会場で会いたくない人がいるので気が進まない面もありましたが、足を運んだわけです。

私は読んでませんが、「ゾルゲ研究の第一人者の最後の講演」は、朝日新聞(恐らく都内版)に掲載されたらしく、それを読んだ人が、「大変だ」とプレミア価値を持ったのか分かりませんが、驚くほど大勢の人が押し寄せて、受付も長蛇の列で長い間待たされました。

概算ですが、500人以上は詰め掛けたのではないでしょうか。資料代1000円でした。

プレミアで来られた方の中には、ゾルゲ事件についてあまり詳しいことを知らない人もいたようで、何だか分からないピンボケの質問をする自信満々の唐変木な老人もおりました。

あまりにも多くの人が押し寄せたので、気を良くした渡部さんは「これを最後にしようかと思いましたが、話しきれないので、もう1回やります」と宣言するので、こちらも拍子抜けしてしまいました。

とても88歳とは思えない矍鑠ぶりで、志ん朝のようなべらんめえ調の話術は相変わらずで、落語を聴いているようで、会場から笑いを誘ってました。

肝心の講演会は「解明されたゾルゲ事件の端緒ー日本共産党顧問真栄田(松本)三益の疑惑を追ってー」で、日本共産党中央委員会顧問などを務めた松本三益(1904〜98年、享年94)が、当局(特高)のスパイだった、という説を特高資料や当時の関係者の証言録を引用してかなり説得力がありました。

渡部氏によると、松本三益は、日本共産党入党を1931年10月(「赤旗」など日本共産党の公式見解)としておりますが、真実は、既に1928年に入党しており、これなども当局によるスパイ松本三益隠しの一つだった、などといいます。

ただ、表題の「解明されたゾルゲ事件の端緒」に関しては、全く要領を得ず、納得できるような論は展開されなかった、と私なんかは聴きました。

ゾルゲ国際諜報団の中心人物の一人、宮城与徳(沖縄県名護出身。渡米し、画家に。米国共産党に入党。コミンテルンの指令で日本に戻り、ゾルゲ・グループに合流。逮捕され獄中死。享年40)は、日本に潜入した際、最初に接触したのが、沖縄師範学校時代の同級生だった喜屋武保昌(きやむ・やすまさ、東大新人会に参加し、官憲からマークされた。私立巣鴨高商教授。宮城与徳が描いた喜屋武保昌とその息子と娘の肖像画は記念館に展示されている)で、この喜屋武から「農業部門に詳しい専門家」として松本三益を紹介された。松本は、宮城与徳に高倉テル(1891〜1986、京大英文科卒、作家、教育赤化事件などで検挙。脱獄を企て、その脱獄に便宜を与えた疑いで三木清が逮捕された。戦後、日本共産党に入党し、国会議員)、安田徳太郎(1898〜1983、医師、社会運動家。京大医学部卒。東京・青山に医院を開業し、宮城与徳に、通院していた軍関係者の情報を提供したとして検挙)、久津見房子(1890〜1980、社会運動家。3・15事件で検挙、ゾルゲ事件に連座し、懲役8年の判決。敗戦で4年で釈放)らを紹介した。…などという話は渡部氏は事細かく説明してましたが、松本三益が、いかにしてゾルゲ事件の端緒を開いたのか、説明なしでした。

そこで、講演会の二次会を欠席し、自宅に帰って、古賀牧人編著「『ゾルゲ・尾崎』事典」(アピアランス工房、2003年9月3日初版。加藤哲郎一橋大教授のお薦めで、当時4200円なのに、2012年に古本で4949円で購入)を参照したら「真栄田(松本)三益密告説」など色々書いてあり、これを読んでやっと要点が掴めました。

高倉テルが安田徳太郎に語ったところによると、真栄田(松本)三益は、満州の事件(恐らく、合作社・満鉄調査部事件)で昭和16年に検挙されたが、助けてもらうために、警視庁がまだ知らなかった宮城与徳の諜報活動を密告して、当局と取引したというのです。

「伊藤律端緒説」という誤った説を広めたため、渡部氏が蛇蝎の如く嫌っていた尾崎秀樹(1928〜1999、文芸評論家、尾崎秀実の異母弟)も「越境者たち」の中で、「事実だとすれば、組織発覚の端緒は、これまでいわれていた伊藤律ー北林トモー宮城与徳といった線ではなく、真栄田三益ー宮城与徳ということになる」とはっきり書いてありますね。

私自身、日本ペンクラブ会長も務めた尾崎秀樹さんとは、かつて取材などで親しくさせて頂いたこともあり、渡部氏が批判するほど、そんな頑なで悪い人には思えず、もし彼がもう少し長生きされていたら、「伊藤律端緒説」を取り下げて、渡部氏と和解していたんじゃないかと思っております。