「母国へのインテリジェンス協力の諸相」=第38回諜報研究会

10月9日(土)午後、誰でも自由に参加できるオンラインで開催された第38回諜報研究会(NPOインテリジェンス研究所主催、早稲田大学20世紀メディア研究所共催)に馳せ参じて来ました。

 先月参加した第37回研究会で、恫喝まがいの炎上事件がありましたから、今回もどうなることやら、とヤキモキしておりましたが、件の怖そうなインテリの方は、きこしめていなかったせいなのか、大人しくて、無事平和に終わり、良かったでした。

 しかし、新たな問題(笑)。

 最初に「『インテリジェンスは剣より強し!』-『対ソ』情報戦にヒュ-マニズムを貫いた父・勝野金政-生誕120年にあたり」という演題で報告された稲田明子氏(NPOインテリジェンス研究所特別研究員)の講演が、要領を得なくて、個人的には全く理解できなかったことでした。マスコミの取材記者として言わせてもらうとしたら、「字にならなかった」(つまり、記事にはできなかった)でした。

 自分の不勉強を棚に上げて文句を言っているようで恐縮ですが、本題とは全く関係ない「前置き」が長過ぎて、恐らく、核心の部分に入れず尻切れトンボで終わってしまったようでした。

 講演者の御尊父に対する尊崇の念と思い入れが強いことは分かりましたが、残念ながら勝野金政と聞いて、どんな方なのか直ぐ分かる方は世間ではそれほど多くはないと思います。(先日、若い人と話をしていて、城山三郎を知らないと聞いて腰が抜けました)「前置き」など端折って、ごく簡単に人物像の前知識を入れてくだされば良かったのではないか、と思いました。

  でも、この後、補足的に報告された山本武利インテリジェンス研究所理事長(早稲田大学・一橋大学名誉教授)による「陸軍参謀本部の協力者 勝野金政-リシュコフー中田光男の人間関係」と、加藤哲郎一橋大学名誉教授の補足説明を聴いて、少し理解することができました。またまたマスコミ記者風に言えば、今回「何がニュースか」分かったような気がしました。

  勝野金政とは、大雑把な言い方で語弊があるかもしれませんが、「日本のソルジェニーツィン」と呼ばれた左翼作家・思想家です。1924年にパリ大学に留学し、仏共産党に入党。28年にモスクワに潜入し、片山潜の秘書や東方学院の教師なども務めていましたが、30年に国家保安本部によりスパイ容疑で逮捕(1989年に名誉回復)、3年半もラーゲリで重労働を科せられますが、減刑釈放され、ほぼ奇跡的に日本に帰国します。帰国後、「ソヴィエト滞在記」などを発表し、ソルジェニーツィンよりもいち早くスターリンの粛清の真実を明かしたことから、文化人類学者の山口昌男から 「日本のソルジェニーツィン」 と呼ばれるようになったといいます。

 今回、何がニュースかと言えば、山本武利理事長も指摘されておりましたが、勝野は一転して37年に大本営参謀本部に招聘され、対ソ戦に備えるための「軍部の協力者」になります。その翌38年に、スターリン粛清を逃れてソ連から日本に亡命してきたリュシコフ三等大将と勝野が43年にソ満国境視察した際に一緒に写っている貴重なマル秘写真があったことでした。

 加藤哲郎一橋大名誉教授によると、亡命したリシュコフの軍事情報は、ソ連側が改めて、シベリアでの軍事配置や作戦等を全て変更したため、直接的にはほとんど役に立たなかったといいます。そして、リシュコフは45年8月に満洲の大連で陸軍中野学校出身の将校によって暗殺されますが、その背後に、ソ連共産党員、コミンテルン極東部員から転向して陸軍参謀本部に勤務していた高谷覚蔵らがいたことなどを指摘していました。

 続く、2人目の報告者、武田珂代子立教大学教授による「太平洋戦争:情報提供者としての離日宣教師」は、講義にこなれている大学教授だけあって、非常に分かりやすく、頭にスッと入りました。

 武田教授は、アジア太平洋戦争・日本占領期の翻訳通訳事象の研究がご専門のようですが、私自身も関心があるので非常に興味深かったでした。米スタンフォード大学フーバー研究所の資料を苦労して渉猟してでの研究発表でした。

 私が驚いたのは、米海軍は、対日戦争の準備のために、早くも1936年に日本語通訳・翻訳者候補のリストを作成していたことでした。1936年は「二・二六事件」があった年ではありますが、真珠湾攻撃の5年も前。しかも、大日本帝国は、真逆に英語は敵性語として禁止したほどではありませんか。まさに、インテリジェンスの情報戦という意味では、既に5年前に日本は敗北していたことになります。

◇ライシャワー、モーア、そしてモーラン

  太平洋戦争・日本占領期で活躍した米国人の通訳・翻訳者は、来日宣教師や日本生まれのその子息が多かったんですね。戦後、駐日大使になったエドウイン・ライシャワーもその一人で、最も有名ですが、東京裁判で言語裁定官を務めたラードナー・W・モーアも日本生まれの宣教師だったのです。モーアは、交換船で帰米後、陸軍情報機関の翻訳指導をし、戦後、再来日し、陸軍言語部長として占領活動。除隊後、宣教活動を再開し、四国基督教学園(現四国学院大学=香川県善通寺市)の初代学長になった人です。この人の実弟が、ウォーラス・H・モーアで、陸軍情報将校となり、当時敵視されていた日系二世の活用を主張し、戦後は、収容所から帰還した日系人を支援した人と知られています。

 もう一人だけ、重要人物は、シャーウッド・F・モーランで、1925年に日本で宣教活動を始め、41年に帰米。56歳で海兵隊に志願して言語官になった人です。日本人捕虜を「人間的アプローチ」で尋問したことから、アフガニスタン・イラク戦争で再注目されました。その日本生まれの息子が シャーウッド・R・モーランで、海軍の言語官となり、暗号解読などに従事し、戦後は原爆調査にも参加したといいます。海軍情報士官として日本人捕虜を尋問した経験のある世界的な日本文学者のドナルド・キーン氏の著作の中にも、このモーランがしばしば登場します。

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