新興宗教の今、現在は厳しそう 伸びる教団と縮む教団

Shallow men believe in luck. Strong men believe in cause and effect.

ー Ralph W Emerson(US poet, philosopher and essayist, 1803~82)

最近、とても気に入っている箴言があります。米国の詩人エマーソンの言葉です。原文は、上述しましたが、意訳するとこんな感じでしょうか。

浅はかな人間は運命や占いを信じる。でも、人に左右されない意志が固い人間なら自分の蒔いた種は最後まで刈り取る。

かなり意訳しましたが、私自身は今まで、随分、自分の運のことばかり考えていたなあ、と反省しました。「こうなったのは、運が悪かったからだ」とか、「ついてない人生だなあ」とか。。。

どうして、こうも不運ばかり続くのだろうかー? 今から15年ほど前に、北海道帯広市に住んでいた時は、地元新聞社主催の風水教室に通ったり、霊媒師に厄祓いしてもらったり、自己啓発本を読んだり、スピリチュアルな浄水を飾ったりしました。

危ないところでしたが(笑)、どこの団体にも組織にも入らなかったお蔭で、今からこうして冷静に振り返ることができると思っております。

国立西洋美術館

帯広市は、人口わずか16万人の都市でしたが、あらゆる宗教集団の寺社仏閣、教会、修行道場、祈祷所等がありました。既成伝統宗教だけでなく、新興宗教も、幕末の天理教、金光教から創価学会、エホバの証人、末日聖徒(モルモン)教(「英会話教室があります」と勧誘してきました)、それに統一教会までありました。

当時の私は、心が隙間だらけでしたから、どこかの教団に入りかねない状況ではありましたが、最終的には、性格的に組織や団体が嫌いだったせいで、どこにも入会しませんでした。

で、今日、何が言いたいのかといいますと、経済週刊誌「ダイヤモンド」10月13日号の特集「新宗教の寿命 伸びる教団 縮む教団」を読んで、随分状況が変わったものだ、と隔世の感を覚えたことです。「宗教年鑑」(文化庁)によると、平成元年の1989年に主要新宗教教団の信者数が2637万人だったのが、2016年には1591万人と4割も激減していたというのです。

若者はスマホに忙しくて、信仰にすがるほどではなくなったということなのでしょうか。

信者数が少なくなった原因については、日本社会の少子高齢化の影響や教団内の「内部分裂」と世代交代などがあるようですが、この特集では、なかなか、興味深いことが書かれております。

そもそも、何で畑違いの経済誌が宗教なんか特集するのか、最初意外な気がしましたが、宗教には、宗教法人として認められた無税のお金があったり、入会金や年会費などかなりカネが絡むわけですから、「経済」そのものです。「東洋経済」も今年9月1日号で「宗教 カネと権力 宗教界のタブー解明」を特集しておりましたね。その号は買い忘れてしまいましたが…(笑)。

週刊ダイヤモンド誌の「新宗教の寿命」では、新宗教の現在の最新情報が満載されております。換骨奪胎で列挙しますとー。

・創価学会は、今年90歳になった高齢の池田大作名誉会長が2010年から表舞台から消え、実権は原田稔会長、谷川佳樹主任副会長ら「四人組」と呼ばれる執行部が握っている。

・学会支持政党の公明党は、自民党の補完勢力となり、集団的自衛権や共謀罪、安保関連法などを是認。池田名誉会長の意に反するとして一部の会員が反発し、除名処分になり、内部にひずみが生じている。

・右翼団体「日本会議」の支持母体だった生長の家は、安倍政権の憲法解釈変更や安保関連法案の強行採決を批判し、「日本会議」も「時代錯誤的」と切り捨て、明確に決別した。保守傾向を強める公明党=創価学会に対抗し、生長の家は、右派から左派に急旋回した。

・多くの新宗教の会員が減少している中、成長を続けているのが真如苑。その要因は、「霊能者」になるまで家元制度(最低8人は新信者を獲得する)のような修行の仕組み、信者を離脱させないように「導き親」と「導き子」との濃密な関係により、ピラミッド型組織を形成し、さらには、霊能者が独立・分裂しないように「接心」は、東京都立川市にある真如苑の精舎内でしかできないことにする工夫などが挙げられる。

・新・新宗教「ワールドメイト」は1984年、深見東州教祖が設立。年間110億円の収入があり、講演会やコンサートなどイベント事業に熱心だ。オバマ前米大統領やトニー・ブレア元英国首相ら大物政治家まで招聘する。オバマ前大統領について、深見氏は「数千万円では呼べません。5億円まではいきませんでしたが」と、ダイヤモンド誌のインタビューに応えている。

・深見氏(67)は、半田晴久の本名で、みすず学院などの予備校や高級時計販売などの実業も行っているが、顔写真入りで広告宣伝活動を開始したのは60歳になってから。(そう言えば、最近、この方の顔と名前を見ない日はないぐらいですね。特に、毎日新聞紙上では)

・静岡県熱海市にある「MOA美術館」の運営で知られる世界救世教は、今年6月の理事会で岡田陽一教主を追放する決議をし、内紛状態。

・かつて霊感商法などで社会問題になった統一教会は、2012年9月に文鮮明教祖が死去した後、分裂状態にある。現在、文教祖の妻韓鶴子総裁派の「世界平和統一家庭連合」と三男文顕進氏の「FPA」と四男文國進氏と七男文享進氏の「サンクチュアリ教会」の三つに分裂している。

以下略で、詳細は、引用させて頂いた▼「ダイヤモンド」誌10月13日号の特集「新宗教の寿命 伸びる教団 縮む教団」に譲ります。

大師号と法然上人

銀座「保志乃」鯖味噌煮定食980円

昨日の続きですが、「大師は弘法に、太閣は秀吉に、黄門は光圀に取られたり」という言い伝えがあるそうです。出展は分かりません。他に様々な言い方もあります。

まず、太閣は、大辞林によると、摂政または太政大臣の敬称。のちには、関白を辞して内覧の宣旨をこうむった人。または関白をその子に譲った人を指します。関白職を養子秀次に譲った豊臣秀吉が最も有名ですが、平安時代の藤原頼通を始め、太閣と称した人は日本の歴史上たくさんおりました。しかし、いつの間にか、太閣と言えば、豊臣秀吉のことを指すようになったのです。

黄門は、「中納言」職の唐名です。 それが、徳川光圀の通称(水戸黄門)となり、今では名前と勘違いされるほどです。

京都・建仁寺 copyright par Kyoraquesensei

さて、肝心なのが、大師号です。

大師号とは、もともと中国で、徳の高い高僧に朝廷から贈られる名のことでした。日本では、866年(貞観8年)7月、清和天皇より天台宗の開祖最澄に「伝教大師」、円仁に「慈覚大師」を贈られたのが初めと言われます。

それが、いつの間にか、大師様と言えば、真言宗の開祖空海に贈られた「弘法大師」のことを指すようになったのです。

実は、太子号を最も多く持つ高僧は、浄土宗の開祖法然房源空上人なのです。1697年(元禄10年)に東山天皇から円光大師を贈られ、その後、500年遠忌から50年ごとに加謚され、最近では2011年(平成23年)の800回忌で、今上天皇から法爾(ほうに)大師を贈られました。

何と、お一人で八つの大師号をお持ちなのです。

◇大師号の一覧

大師号 僧名 宗派 西暦・元号 勅賜(天皇) 備考
円光(えんこう)大師 法然房源空(1133~1212) 浄土宗 1697年(元禄10年) 東山天皇
東漸(とうぜん)大師 法然房源空 浄土宗 1711年(宝永8年) 中御門天皇 500回忌
慧成(えじょう)大師 法然房源空 浄土宗 1761年(宝暦11年) 桃園天皇 550回忌
弘覚(こうかく)大師 法然房源空 浄土宗 1811年(文化8年) 光格天皇 600回忌
慈教(じきょう)大師 法然房源空 浄土宗 1861年(万延2年) 孝明天皇 650回忌
明照(めいしょう)大師 法然房源空 浄土宗 1911年(明治44年) 明治天皇 700回忌
和順(わじゅん)大師 法然房源空 浄土宗 1961年(昭和36年) 昭和天皇 750回忌
法爾(ほうに)大師 法然房源空 浄土宗 2011年(平成23年) 今上天皇 800回忌
弘法大師 空海(774~835) 真言宗 921年(延喜21年) 醍醐天皇 真言宗開祖
道興大師 実慧(じつえ) 真言宗 空海の高弟
法光大師 真雅(しんが) 真言宗 1828年(文政11年) 空海の弟、貞観寺建立
本覚大師 益信(やくしん) 真言宗 1308年(延慶元年) 花園天皇 円城寺開山
理源大師 聖宝(しょうぼう) 真言宗 1707年(宝永4年) 東山天皇 醍醐寺、東大寺東南院建立。東密小野流の祖
興教大師 覚鑁(かくばん) 真言宗 江戸時代 新義真言宗祖、伝法院流の祖
月輪(がちりん)大師 俊芿(しゅんじょう) 真言宗 泉涌寺の開基
伝教大師 最澄(767~822) 天台宗 866年(貞観8年) 清和天皇 天台宗開祖
慈覚大師 円仁 天台宗 866年(貞観8年) 清和天皇 恐山開基
慈慧大師 良源 天台宗 第18代天台座主。「厄除け大師」
智証大師 円珍 天台宗 寺門派開祖
慈摂大師 真盛 天台宗 天台真盛宗の祖
慈眼大師 天海 天台宗 1648年(正保5・慶安元年) 後光明天皇 徳川家の参謀
無相大師 関山慧玄 臨済宗 明治天皇 妙心寺の開基
微妙大師 授翁宗弼 臨済宗 妙心寺2世
円明大師 無文元選 臨済宗 後醍醐天皇皇子
承陽大師 道元(1200~1253) 曹洞宗 1879年(明治12年) 明治天皇 曹洞宗高祖
常済大師 瑩山 曹洞宗 1909年(明治42年) 明治天皇 曹洞宗太祖
真空大師 隠元(1592~1673) 黄檗宗 1917年(大正6年) 大正天皇 黄檗宗の祖
華光大師 隠元 黄檗宗 1972年(昭和47年) 昭和天皇
見眞大師 親鸞(1173~1263) 浄土真宗 1876年(明治9年) 明治天皇 浄土真宗開祖
慧燈大師 蓮如 浄土真宗 1882年(明治15年) 明治天皇 中興の祖
聖応大師 良忍 融通念仏宗 1773年(安永2年) 後桃園天皇 融通念仏宗の祖
証誠大師 一遍(1234~1289) 時宗 1940年(昭和15年) 昭和天皇 時宗開祖
立正大師 日蓮(1222~1282) 日蓮宗 1922年(大正11年) 大正天皇 日蓮宗開祖

(表はbukkyo.netを基に引用作成しました)

こうして見ていきますと、日本の伝統仏教は13宗56派と言われておりますが、天台宗より古い奈良の南都六宗の法相宗、華厳宗、律宗の開祖には大師号はなく、意外にも臨済宗の開祖栄西(1141~1215)には大師が贈られていないようです。

明治時代は「廃仏毀釈」の嵐で、かなり寺院が荒廃したと伝えられていますが、これまた意外なことに道元や親鸞らが大師号を贈られたのは、明治天皇だったんですね。

なかなか奥が深いものです。

禅宗講話を拝聴して

伊太利亜フィレンツェ

昨日は、ご縁が御座いまして、臨済宗妙心寺派の若き住職さまの講話を拝聴して参りました。

私も人間ですからね。悩みは尽きませんから。

諸行無常、解脱、悟り、生老病死といった基本的な仏教用語の解説などは、皆さんの方がよくご存知でしょうから、今日は、私自身が知らなかった、もしくは、興味深かったことを書いてみます。

まず、驚いたのは、今は「小乗仏教」とは言わないんだそうですね。「上座部仏教」とか言うんだそうです。理由は、ポリティカルコレクトらしいのですが、深い理由は分かりません。小乗は差別用語ではないか、とクレームがあったのでしょう。

それでいて、中国や朝鮮、日本に伝わった「大乗仏教」は、今でもそのまま使われているそうなのでよく分かりません。

仏教には、色んな宗派があることはご案内の通りです。

大雑把に言いますと、(1)飛鳥時代「南都六宗」(2)平安時代「天台宗・真言宗」(3)平安末期・鎌倉時代「浄土宗」「禅宗」と分かれるのではないでしょうか。

もともと、権力者、貴族支配者階級の宗教だったものが、時代を経るに従って庶民に普及していきます。

禅宗の代表的な宗派が、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗となりますが、今回知った最も興味深かったことは、禅宗は、それほど(比較的に)経典を重視しないということでした。(勿論、「無門関」「碧眼録」「臨済録」などの仏典はあります)

つまり、日蓮宗などは、特に法華経を重視し、その一字一句を重要視しますが、禅宗は、(誤解を恐れずに言えば)文字よりも実践を重視するということです。

実践とは、ご案内の通り、座禅のことです。そして、公案と呼ばれる禅問答です。

このほか、本来、仏教者は托鉢や布施で生活し、労働はしなかったのを、時代を経たり、外国に渡って考え方が変わって、するようになり、それが作務と呼ばれるものです。これも、実践に入ります。

ですから、禅宗の場合、それほど仏事でお経をあげない。あげるとすれば、般若心経ぐらいだというのです。

同じ仏教でもこれほど違うのかと思わせます。

伊太利亜フィレンツェ

禅宗でも、臨済宗と曹洞宗の違いも面白かったです。

よく和尚さんが、怒ったり、気合を入れたりするとき「喝!」と言いますね。これは、臨済宗から来たそうです。

臨済宗は、厳しくて男性的。一方の曹洞宗は、柔和で女性的。

臨済宗は、厳し過ぎたせいか、あまり全国的に広がらず、柔和な曹洞宗は青森や秋田など東北まで布教が広がったそうです。

なるほどねえ、です。

あと、僧侶の服装で、見慣れていて分からなかったのですが、前にエプロンのように掛けているのが、禅宗では絡子(らくす)と呼ぶそうです。これは、何かと思いましたら、これこそが僧侶を象徴する袈裟なんだそうですね。

お坊さんが着ている黒染めの和服が袈裟かと思って勘違いしてました。

正式の袈裟は、オーバーコートのようなものだったらしいのですが、色々と作業する際にやりにくいので、簡略されてああなったそうです。

ですから、若いお坊さんは、絡子の働きについては、あまりよく知りませんでした。

最後に、京都にお住まいの京洛先生か教わった「妙心寺の○○顔…、建仁寺の○○顔…」がどうしても思い出せませんでした。

宜しゅうたのんます。

マースィーの法則 歩きスマホはなくならない 第6刷

紫陽花
・この世とは、老若男女が棲む魑魅魍魎の世界。

・「歩きスマホ」は、なくならない、この世がある限りは。

・「オレオレ詐欺」は、なくならない、この世がある限りは。

・我々が、この世に両親から生まれてくる確率は、700兆分の一。つまり、奇蹟です。

・奇蹟ということは、この世に生まれただけでも幸せです。

・ですから、私も生きているだけで幸せで、悩み事はありません。

・嘘でも強がりでもなく、本心です。

・他人様(ひとさま)とは比較せず、他人様の顔色は伺わず、足るを知り、全ての責任を自分で背負い、世のため、人のための事を考えていれば、悩みは消えます。

・いつもいつも、お天道様は見ています。

・中国人の観光客は、なぜ例外なく誰も彼も騒がしいのか?ーそれは、日本人だけがうるさく感じているだけで、本人たちはあれが普通。中国語は、抑揚で意味が全く変わり、大声を出さないと通じない言語だからである。

・日本人はなぜ例外なく、付和雷同で、自分の意見を持たず、お上の言うことは、唯々諾々と従うのか?ーそれは、日本語は抑揚で意味が変わるわけではなく、小さな声でも通じる言語だからである。

神道とは 第3版(加筆訂正あり)

さらば陽朔 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

国学を大成した本居宣長(1730~1801は、有名な「古事記伝」の中で、

「すぐれたるとは尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなどの優れたるのみを云うに非ず、悪(あし)きもの奇しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり」と述べています。(三之巻)

これは、古代から日本人は、鳥獣や樹木、植物、河原の石、山や海などの大自然、尋常ではなく特に徳のある畏れ多いものや傑出した人間、御霊(みたま)などを神としてみなして、お祀りしただけでなく、災いをもたらした禍津日神らも同様に、神として崇めたというのです。すなわち、日本人は善い神だけでなく、悪い奇しき神さえも仰いだということになります。

これには、魂消ましたね。

まるで、法然上人の悪人正機説みたいです。

日本人は、異国の仏教でさえも、「外来の賓客」として受け入れて、神仏習合が行われました。明治維新政府が「廃仏毀釈」するまで、日本人は非常に寛大だったのです。

陽朔のまち Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

どういうわけか、「神道」という言葉は、日本最古の文学でもある「古事記」には記述がありません。しかし、「日本書紀」には、用明天皇の即位前紀など3カ所に現れます。

この神道には、開祖や教祖もなく、経典や教団施設などもありません。自然を畏敬して、人間と自然が共生する神そのものと神の権威と力、その働きなどを「神道」と呼びました。

ただ、「神道」という言葉の由来は、後漢末にできたと言われる宗教「道教」にあります。

「後漢書」には、方術や仙術などを「神道」と表現しており、梁の陶弘景によって確立した茅山道教の修行の聖地(華陽洞天)にある立石には「神道在今」(神道?今でしょ!)と刻まれています。私は実物を見たわけではありませんけどね(笑)。この場合は、「神道」とは道教の「神仙の道」ということです。

この言葉を拝借したという説が有力です。

ちなみに、日本の国王の称号である「天皇」は、四書五経の一つ「春秋」を神秘主義的に解釈した緯書である「合誠図」に書かれた「天皇大帝北辰星(北極星)なり」から由来します。道教では扶桑大帝東王公を天皇と仰いでおります。

陽朔のまち Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

最後に、「古代学」を日本で最初に提起した折口信夫博士は、最晩年の論文「民族史観における他界観念」(昭和28年)の中で、「完全に他界にいることのできない未完成の霊魂」のありようを研究し、「神道以前の神道」を探索しています。

折口博士は、戦時中、国家神道と無縁ではありませんでしたが、民族神道を重んじた折口博士は、国家や宮廷と結びついた神道には批判的だったと言われます。「宮廷神道」から解放された「原神道」を重視して、「霊魂と霊魂の姿」を追及したのです。

戦後70年を過ぎ、今後は、国家神道から解放された原神道の研究が進めばいいと私も考えています。長年タブーだった神道は、明治の薩長藩閥政治家によって利用されただけで、悪者でもなく、怖いものでもありません。日本人の心因性に最も影響を与えたものの一つだと、私は考えています。

以上、出典は、上田正昭博士の最晩年の論文「神道の原像」でした。有難う御座いました。

祇園祭も知らずに…

Kyahuteaux

これでは、大恥をかいて、京洛先生に怒られてしまいそうですが、京都の「祇園祭」の山鉾巡行は、神輿の渡御・還御の前に悪疫を退散させるための「露払い」のような働きをするお祭りだったのですね。

メーンイベントは、神輿の渡御・還御なのに、祇園祭は、山鉾巡行が主体だと勘違いしておりました(苦笑)。

私も何度か、京都に足を運びましたが、混雑が嫌いなので、せめて「宵山」を見て、雰囲気に浸るだけで、本場の山鉾巡行を見るどころが、神輿なんか見たことがなかったので、勘違いしてしまったわけです。まさに、「生兵法は大怪我のもと」ですね。

基本的に、祇園社(八坂神社)の神事であるということを理解しておかなければなりません。山鉾の「山」は、依代で、そこに神様が降りて清める役割をします。「鉾」は武器の「矛」からきてまして、悪病神を鉾に集めて祓い清める役割をします。

祓い清められた神聖なところを、やっと神輿がまわるということだったんですね。

八坂神社も、もともと、牛頭天王(ごずてんのう)をお祀りした社で、この牛頭天王は、インドの祇園精舎を守護する神だといわれます。日本人は何という寛容な民族といいますか、異国のインドの神様を長らく守護神として崇め奉っていたんですね。

唯一絶対神を信じる人々にとっては信じられないことでしょう。

その後、八坂神社には、出雲の神話に出てくる須佐之男命も牛頭天王と並行して祀られましたが、「国家神道」を施策とした明治新政府以降は、須佐之男命のみになったといいます。

「そんなことも知らなかったのですか!?」と京洛先生の怒る顔が浮かびます(笑)。

「日本の10大新宗教」

2008年5月26日

島田裕巳著「日本の10大新宗教」(幻冬舎新書)を読んでいます。

 

著者は、例のオウム事件でミソを付けて大学教授の職を失い、その後、紆余曲折があったようですが、最近、元の宗教学者として再び活躍されているようです。

 

まだ、途中なのですが、さすがにオウムは扱っていないようですね。天理教、大本教、生長の家、創価学会など、多くの資料・史料に当たって、わりと、公正中立に書かれていると思います。

 

著者は「はじめに」でこう言います。

「明治に入って、宗教という概念が欧米から導入され、神道と仏教とが二つの宗教に分離されたにもかかわらず、 日本人は、片方の宗教を選択できなかったため、自分たちを無宗教と考えるようになった。」

 

「そうだったなのかあー!」と思ってしまいました。そうでなければ、今の日本で、何千万人といる新宗教の信者を説明できませんからね。

もともと、日本人は、神仏習合で、神社にも仏閣にも区別なくお参りし、路傍のお地蔵さんにまで、手を合わせて「挨拶」する慈悲深い民族でした。それが、明治維新の革命政権が、「もう、おまえたちは、国家神道だけを信じろ」と言って、「廃仏毀釈」を断行しました。その一方で、庶民らは相変わらずお葬式だけは、仏式で挙行してきたわけで、感情的にどっちつかずになってしまったのは、致し方ないことかもしれません。

ただ、「無宗教」と考えながら、やはり、ご先祖さまの血から、神社に初詣に行ったり、葬式に参加したりするということは、現代人が思っているほど、日本人は無宗教ではないのかもしれません。

新宗教といえば、いつも、功罪の「罪」の方ばかり強調されてきましたが、ある程度の「功」がなければ、信者を獲得してこなかったでしょう。

 

私自身は、もう今さら特定の宗教団体に入るつもりはないのですが、安心立命を願う人々の気持ちはよく分かります。

でも、この本を読んで、失礼ながら、随分いい加減ないかがわしい宗教があるものだと分かりました。「鰯の頭も信心から」という諺があるくらいですから、他人がどうこう言う話ではないのですが、カラクリが分かってしまえば、団体に入会して「無我の境地」に達することは難しいということです。

「大本襲撃」

公開日時: 2007年11月16日

今、大宅賞作家の早瀬圭一著「大本襲撃」(毎日新聞社)を読んでいます。本の目利きになったせいか、私が選んだ本は何でも面白いです。まあ、そう自負しています。今回もそうでした。大当たりです。

 

当時一世を風靡した新興宗教の大本教(おおもと・きょう)の大弾圧という歴史的事件には、以前から興味はありましたが、適当な本が見当たりませんでした。この本は、入門書としては難しいかもしれませんが、歴史的事実をほぼ網羅されており、(巻末には裁判資料まであります)昭和史研究家、宗教研究家、メディア研究家、読書人には必読書であると確信しています。

大本教は、大正と昭和の二度に渡って、徹底的に壊滅され尽くされますが、第二次大本事件は昭和十一年十二月八日のことですから、わずか、七十一年前の出来事です。戦前の話ですが、先鋭の軍隊があり、日中戦線は拡大しつつあり、治安維持法があり、「国体護持」という大義名分があり、特高と呼ばれる警察組織もありました。今の時代では全く想像できない凄惨な事件だということがこの本を読んで分かりました。

大本教は、江戸天保年間生まれの出口なおが、貧窮のどん底の中、明治25年、55歳の時、突然、何の前触れもなく神に取り付かれます。(「帰神」と呼ばれます)ろくに学校に行けず、読み書きもできなかったなおが、やがて、神のお告げを半紙に文字で書き連ねる(「筆先」と呼ばれます)ようになり、噂を聞きつけた上田喜三郎(後の出口王仁三郎=でぐち・おにさぶろう)が理論付けをして、宗教運動が始まります。

時の権力者は、大本教は、天皇制を否定し、国家転覆を図る邪教として、不敬罪、治安維持法違反、新聞紙法違反などの容疑で徹底的に弾圧します。特に特高による大本教信者に対する拷問は凄まじく、正岡子規の高弟で子規十哲の一人、岩田久太郎は獄死、王仁三郎の女婿の出口日出麿(ひでまる)は、精神に異常を来たし廃人になってしまいます。

当時の拷問がどれくらい凄まじかったのか、著者の早瀬氏は、作家の江口渙氏らの回想録などを引用し、昭和の8年の作家小林多喜二の例を挙げています。(引用は換骨奪胎)

東京の築地警察署の道場のような広い部屋に引き立てられた小林多喜二。刑事らは「おまえは共産党員だろう」と畳み掛けると、小林は「そうではない」と毅然と答えた。その態度に激高した水谷特高主任ら5人はそれから約4時間に渡って桜のステッキや野球のバットで小林を殴りつけ、金具が付いた靴で滅茶苦茶に踏みつけた。それでも、小林が黙秘していると、さらに首と両手を細引で締め上げた。やがて、小林は気絶し、留置場へ放り込まれた。間もなく寒気で意識を取り戻した小林は「便所へ行きたい」と訴えた。便所では肛門と尿道から血が吹き出して、辺り一面は真っ赤に染まり、しばらくして息絶えた。

多喜二、29歳。杉並区の自宅に帰った遺体から包帯をほどくと、目をそむけたくなるような無残な状態である。首にはぐるりと一巻き深く細引の跡が食い込んでいた。余程の力で締めたらしく、くっきりと細い溝がでい、皮下出血が赤黒い無残な線を引いていた。左右の手首にも同様丸く縄の跡が食い込み、血が生々しく滲んでいた。このほか、多喜二の睾丸もつぶされていた。

(続く)

宗教と政治

 宇登呂

 

某地方新聞が、ある宗教団体の「教祖」の英雄的履歴を詳述した記事を掲載していましたが、実は、その記事は、その宗教団体が掲載費用を負担していることが分かりました。つまりは、広告だったのですが、まるで読み物記事のように仕立てた偽造記事だったわけです。新聞業界では、それらは「パック記事」と呼ばれているそうです。新聞の半分は広告ですから、こんな便利なシステムはありません。

 

日本では建前上は、「政教分離」がお題目として、表明されていますが、かなりの政治家が特定の宗教団体と密接な関係を持っていることは、自明の理となっています。石原慎太郎都知事と霊友会との関係も、本人が著書で明らかにしているほどです。

 

今日の新聞でも、宗教団体が参院選比例区で推薦した当選者の名簿が載っていました。

自民・川口順子氏(立正佼成会など新日本宗教団体連合会)

民主・尾辻秀久氏(佛所護念会教団)

自民・衛藤晟一氏(日本会議加盟の宗教団体など)

民主・ツルネン・マルティ氏(世界救世教いづのめ教団)

民主・藤谷光信氏(浄土真宗本願寺派)

…………

 

政治家の発言の裏と動機には、宗教団体と何か関係があるのか、有権者はウオッチしてこそ、初めて自分の票に責任を持つことになると思います。

 

「『狂い』のすすめ」

ローマ

ひろさちや氏の「『狂い』のすすめ」を面白く読んでいます。言い方は悪いのですが、「天下の暴論」と言っていいでしょう。悪い意味で使っていませんが、大袈裟に言えば、これまでの常識や定説をひっくり返すコペルニクス的転回です。

とにかく「世間を信用するな」「常識を疑え」と奨めているのです。

何しろ「人生に意味なんかありはしない。だから、生き甲斐だの、目的意識を持つな」と言うのです。

「自分を弱者だと自覚して、自由に孤独を生きよ」と促します。

どこか坂口安吾の「堕落論」に通じるところがあります。

筆者は若い時に最も影響を受けたサマーセット・モームの「人間の絆」から引用します。

「人は生まれ、苦しみ、そして死ぬ。人生の意味など、そんなものは何もない。そして人間の一生もまた、何の役に立たないのだ。彼が生まれて来ようと、来なかろうと、生きていようと、死んでしまおうと、そんなことは一切影響もない。生も無意味、死もまた無意味なのだ」

もちろん、これを聞いて、虚無主義に陥る人もいるでしょうが、「人間の絆」の主人公フィリップはその正反対で、自己を解放されるのです。

「今こそ責任の最後の重荷が、取り除かれたような気がした。そして、はじめて、完全な自由を感じたのだった。彼の存在の無意味さが、かえって一種の力に変わった。そして今までは、迫害されてばかりいるように思った冷酷な運命と、今や突然、対等の立場に立ったとような気がしてきた。というのは、一度人生が無意味と決まれば、世界はその冷酷さを奪われたも同然だったからだ」

現在、順風満帆な人生を送っている人には、何の効果もない言葉でしょうが、逆境に晒されている人にとって、これ程心強い哲学思想はありません。

私も大いに救われました。