権威主義的、不平等主義的直系家族のドイツと日本=E・トッド著「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」を読破

 ネット通販でスニーカーを注文したら、どうも小さくて、交換してもらうことにしました。以前にも何足か通販で靴を買ったことがあり、大抵、26センチで間に合っていたのですが、今回のスニーカーはスイス製の「オン」という防水性に優れた高級靴です(とは言っても、メイド・イン・ヴェトナムですが)。部屋で試し履きしてみて、無理して履けないことはなかったのですが、ちょっときつい。また外反母趾になったりしては嫌なので、26.5センチに替えてもらうことにしました。

 通販のポイントが付くので、かなり安く買えたと思ったのですが、先方に靴を送り返す宅急便代が1050円も掛かってしまったので、結局、チャラになった感じです(苦笑)。

 さて、エマニュエル・トッド著、堀茂樹訳「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」上下巻(文藝春秋、2020年10月30日初版)を昨日、やっと読了することが出来ました。上下巻通算700ページ近い難解な大著でしたから、正直言って、悪戦苦闘といった感じで読破しました。上巻の「アングロサクソンがなぜ覇権を握ったか」は11月15日頃から読み始め、読了できたのが12月5日で、下巻の「民主主義の野蛮な起源」を読破するのに12日間かかったので、上下巻で1カ月以上この学術書に格闘してきたわけです。

 評判の本ということで、発売1カ月で、日本でも4万部を突破したらしいですが、果たして全員が読破できたのか、疑問が付くほど難解な本でした。私のような浅学菲才な人間が読破できたので、思わず、自分で自分を褒めてやりたくなりました(笑)。

 はい、これで終わりにしたのですが、ありきたりの書評を書いてしまっては、つまりませんね。エマニュエル・トッドという大碩学様に、浅学菲才が何を言うか、ということになりますが、もう少し分かりやすく書けないものですかねえ、と言いたくなりました。矛盾点も見つかりました。

 この本を渓流斎ブログで取り上げるのは、これで4回目です。過去記事は、最後の文末の【参考】でリンクを貼っておきますが、直近に書いた「アングロサクソンはなぜ覇権を握ったのか?」の中で他殺率の話が出てきます。孫引きしますと、こんなことを書いています。

 この本(上巻)の345ページには、1930年頃の他殺発生数が出て来ます。10万人当たり、英国では0.5件、スウェーデンとスペインで0.9件、フランスとドイツで1.9件、イタリアで2.6件、そして日本では0.7件だったといいます。それに対して、米国は8.8件という飛び抜けた数字です。著者のトッド氏は「アメリカ社会は歴史上ずっと継続して暴力的で、そのことは統計の数値に表れている。」と書くほどです。

 そう、この辺りを読んで、私も正直、大変失礼ながら、アメリカは野蛮な国だなあと思いました。

 そしたら、下巻では、上巻には出て来なかったロシアの他殺率が出てきて驚愕してしまいました。251ページに、ロシアの他殺率は、「2003年に10万人当たり30.0人だったのが、2014年に8.7人に急減した」という数字が出てくるのです。10万人当たり30人とは米国どころではありません。時代は違っても、米国を野蛮国と断定したのは無理がありました。何で、トッド氏は、このロシアの数字を上巻に入れなかったんでしょうか?

 原著は5年前の2017年の5年前に出版されたので、当然ながら今年2月のロシアによるウクライナ侵攻のことは書かれていません。(「日本語版のあとがき」の中では少し触れていますが、あくまでも、著者は「ウクライナ軍を武装化してロシアと戦争するように嗾けたのは米国とイギリスです」と、ロシア贔屓の書き方です。)

 下巻の240ページでは、「モスクワによるクリミア半島奪回、ウクライナにおけるロシア系住民の自治権獲得など、伝統的な人民自決権に照らせば、正統な調整と思われることが、西洋一般において、とんでもなく忌まわしいことと見なされている。歴史の忘却を超え、地政学的現実の考慮を超えて、唖然とせざるを得ないのは、ロシアの脅威の過大評価にほかならない」とトッド氏は断言されていますが、結局、ウクライナ侵攻という事実によって西側メディアや学者らがロシアのことを脅威と見なしていたことは、過大ではなく、正当で、トッド氏の予言ははずれたと、私は思うのですが。

◇ユーラシア大陸中央部だけが権威主義的か?

 もう一つ、私が矛盾点を感じたことは、下巻10~11ページに書かれていたことです。

 個人主義的・民主主義的・自由主義的イデオロギーが、ユーラシア大陸の周縁部に、歴史の短い諸地域に位置しているということである。逆に、反個人主義的で権威主義的イデオロギーーナチズム、共産主義、イスラム原理主義ーは、ユーラシア大陸のより中心的ポジション、より長い歴史を持つ諸地域を占めている。

 確かにそうかもしれません。ユーラシア大陸の中央にあるロシアや中国は実質的に共産主義で、イランやアフガニスタンなどはイスラム原理主義です。でも、ユーラシア大陸のはじっこの周縁部にある北朝鮮やベトナムはどうなるのでしょうか?

 それでも、著者による「人口」「出生率」「識字率と高等教育」「宗教」「イデオロギー」「家族形態」に着目して、世界のそれぞれの国家を分析、仕分けした学説は説得力があり、データの使い方に恣意的な面が見られるとはいえ、感心せざるを得ません。表記も換骨奪胎して、それらの部分を引用します。

 ・政権交代を伴う自由主義的民主制が容易に定着したのは、欧州でも英国、フランス、ベルギー、オランダ、デンマークといった核家族システムにおいてだけだった。(19ページ)

 ・カルヴァン的不平等主義から民主的な平等主義へ移行した米国は、独立宣言で、インディアン(アメリカ先住民)のことを「情け容赦のない野蛮人」と述べ、1860年から1890年までの間に、インディアン25万人を殲滅した。人種差別はむしろ、アメリカン・デモクラシーを支える基盤の一つだ。(22~23ページ)

◇人類の知的能力は頭打ちか?

 ・米国の高等教育は、1900年は、25歳の男性のわずか3%、女性の2%しか受けていなかったが、1940年には男性7.5%、女性5%、1975年には男性27%、女性22.5%、2000年頃には男性30%、女性25%に達した。しかし、試験の平均スコアは1970年代からほぼ停止状態入った。これは、受け入れシステムの制約ではなく、高等教育を受けるに足る知的能力の持ち主の比率が上限に達した結果だ。(43~46ページ)

・米国の1950年代以降の知的能力の停滞は、テレビの普及の可能性があるのではないか。私は既に、6歳から10歳までの思春期以前の集中的読書がホモ・サピエンスの知的能力を高めることを言及したが、集中的読書を抛擲したがゆえに頭脳の性能が落ちたとしても、いささかも意外ではない。(50ページ)

・ロシアや中国の基本的家族型は、外婚制共同体家族だが、セルビアやベトナムなども含め、農村で起こった共同体家族の崩壊で人々が個人として解き放たれたが、急に解き放たれた個人は、直ぐに自由に馴染めず、ほとんど機能不全に陥った家族の代替物として、党や中央集権化された計画経済や警察国家に求めた。(142ページ)

◇不平等で反個人主義のドイツと日本

 ・ドイツと日本は直系家族の典型で、父系制が残存し、長子相続の記憶を保全し、不平等な反個人主義だ。女権拡張的価値観に乏しく、人口面で機能不全を来し始めた。その一方、今日の世界貿易の面では、英語圏の全ての国が赤字で、一般的に直系家族型社会が黒字になっている。(170~176ページ)

 ・ゾンビ・直系家族は、集団的統合メカニズムを恒久化し、不平等主義を促し、非対称性のメンタリティがあるが、ドイツや日本の技術的優越性は自己成就的予言となり、かくしてドイツ製品や日本製品は高いレベルに到達していく。(190ページ)

 ・大陸ヨーロッパでは、オランダ、ベルギー、フランス、デンマークを別にすると、自由主義的、民主主義的であったことは一度もない。大陸ヨーロッパは、共産主義、ファシズム、ナチズムを発明した。何よりも、ユーロ圏の多くの地域が権威主義的で不平等主義的な基層の上にあることを忘れないようにしたい。(232~237ページ)

 ・直系家族であるドイツや日本の階層的システムは、社会秩序を安定化させる不平等原則を内包している。(271ページ)

 こうして読んでいくと、ドイツも日本も19世紀までいわばバラバラの領主分権国家だったのが、統一国家(プロシャ、大日本帝国)として成立した時期も似ています。明治日本がプロシャを手本にして憲法をつくったりしたのも、先の大戦で、日独伊三国同盟を樹立したのも、同じ直系家族として、偶然ではなく、必然だったのかもしれません。勤勉で真面目で、組織力がある性癖は日独に共通しています。

 私の経験では、英国で道に迷って、人に聞くと「No idea」と言って素っ気ないのに、ドイツ人ならわざわざ一緒に歩いて目的地まで連れて行ってくれたりしました。同じ直系家族としてウマが合うのかもしれません。

【参考】

 ・2022年11月18日=「人類と家族の起源を考察=エマニュエル・トッド著『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』」

 ・2022年12月1日=「『ドミノ理論』は間違っていた?=家族制度から人類史を読み解く」

 ・2022年12月6日=「アングロサクソンはなぜ覇権を握ったのか?」

法華経とは何か?=田村芳朗著「日蓮 殉教の如来使」

 「ヤクルト1000」が売り切れ続出というニュースを思い出した昼休み、新橋演舞場近くで、ヤクルトおばさんを発見したので、注文してみました。ヤクルト1000が結構、ずらっと例の乳母車のようなボックスカーに並んでいたからです。

 そしたら、おばちゃん、「あら、すみませんね。ここにあるの全部、この辺の予約なんで、売り切れなんです。会社も早くもっと量産してくれたらいいんですけどねえ」と平謝りでした。

 実売価格1本140円(宅配向け)ということですが、ネットで500円以上で転売しているらしく、日本人のマナーが世界に知られてしまっております。

 さて、田村芳朗(1921~89年)著「日蓮 殉教の如来使」(NHKブックス・1975年10月1日初版)をやっと読了しました。日蓮聖人の遺文(著作や書簡など)が直接文語体のまま引用される箇所が多く出てきて、法華経というお釈迦様が最後に唱えた集大成と言われる大変奥深い教えの話ですが、難解で、何度も何度も同じ個所を読み返したりしておりました。

 驚いたことに、この本は1975年が初版だというのに、鎌倉幕府の成立を我々が学生時代に習った1192年ではなく、さり気なく1185年としているところでした。凄い先見の明があります。また、戦後30年という時期に出版されたわけですから、まだ戦中世代が40歳代以上の現役です。日蓮(1222~82年)が戦時中に国家主義(田中智学の国柱会など)として利用されたことなどに関してはツボを押さえて批判しています。

 管見によれば、鎌倉新仏教の中で、来世の浄土世界での幸福よりも、現世での利益(幸福)追求を強調したのは法然でも栄西でも親鸞でも道元でも一遍でもなく日蓮であって、その純粋さと過激さゆえ迫害されます。しかし、後世は、その時代その時代で都合良く解釈されて、利用されやすかったのではないかと思われます。新興宗教は神道系が多いのですが、仏教系では断然、日蓮宗系が多いのがその証拠なのではないでしょうか。

 しかし、またまた管見ながら、日蓮の思想哲学は、特定の団体や組織のものではなく、万人が自由に学んでも構わないと思っております。むしろ、特定の団体や組織だけのものに独占させるべきではないと思っております。

 国学者の平田篤胤に至っては、日蓮宗と浄土真宗が神社参拝を禁じたことから、日蓮と親鸞をかなり痛烈に批判しています。

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 何と言っても、釈迦牟尼仏が涅槃に入る前に説いたと言われる法華経を信奉したのは日蓮が最初でもなく、唯一でもありません。(サンスクリット語のナム・サダルマ・プンダリーカ・スートラを南無妙法蓮華経と漢訳したのは鳩摩羅什だと言われています。)

 聖徳太子の著作「三経義疏」の中に法華経を註釈した「法華義疏」がありますし、法然も栄西も親鸞も道元も日蓮も学んだ総合仏教大学とも言うべき比叡山では、法華経は必須課目で、天台本覚思想の根幹とでも言うべきものでした。日蓮より23歳年長の道元が主著「正法眼蔵」の中で最も引用した経は、法華経でした。

 何も日蓮は、釈迦の説く法華経を拡大解釈したり、曲解したりしたわけでありません。素直に解釈した結果、法華経に書かれている「他国侵逼」(しんぴつ=他国侵入)と「自界叛逆」(自国内乱)が近いうちに起きることを「予言」してしまっただけでした。実際、この天災と戦乱の時代、日本は国難に襲われます。国難とは二月騒動(名越の乱と北条時輔の乱)といった内乱と二度にわたる蒙古襲来(元寇)という他国侵入のことです。

 時の権力者は日蓮の説法に一切耳を傾けることなく、逆に日蓮は、何度も法難(受難、迫害、弾圧)に遭います。中でも、1264年に地頭の東条景信に小松原(現千葉県鴨川市)で襲撃され、頭に傷を負った「小松原の法難」(この時、日蓮の信者だった天津=現鴨川市=の領主工藤吉隆が討死)や1271年、佐渡流罪が決定した後、相模依智(現神奈川県厚木市)にある佐渡の守護代だった本間重連の館に送られる途中、龍口(たつのくち)で斬首に遭いそうなった「龍口法難」が有名です。

 こうした国難と法難、それに天変地異と疫病流行等による病死や餓死者などに多く接した日蓮は、殉教者として、宗教者としての意志を堅固にしたと思われますが、残念ながら寒さの厳しい身延山(信者になった甲州の波木井氏が土地と住居を提供)で病を得て、常陸に湯治に行く途中の武蔵国池上で志半ばで亡くなります。行年60歳。しかし、志半ばだったことが逆に弟子たち(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の6長老)に艱難辛苦を克服して布教に邁進する原動力になったのではないでしょうか。

 同書では何故なのか理由は書かれていませんが、鎌倉時代に日蓮宗はあれほど迫害されたというのに、室町時代になると京都町衆のほとんどが日蓮、ないし法華信徒になったといいます。(そう言えば、織田信長の本能寺も日蓮宗でした)琳派の祖と言われる本阿弥光悦も、徳川家康を支援した豪商茶四郎二郎も、それに狩野永徳や長谷川等伯まで日蓮信者だったといいます。江戸期に入っても、浄瑠璃作家の近松門左衛門や浮世絵の菱川師宣、葛飾北斎までも熱心な信奉者だったと言われます。北斎は「日蓮上人一代図会」を残しています。

 日蓮自身は、次々と押し寄せる人生の荒波と苦難のせいか、大著を残しておらず、その代わりに短編が無数に存在しているといいます。古来、どの書を基準とするか論議された結果、「立正安国論」(39歳)と「開目鈔」(51歳)、「勧心本尊抄」(52歳)を三大部、これに「撰時抄」(54歳)と「報恩抄」(55歳)を加えたものを五大部と呼ぶようです。私はまだ一冊も読んだことがありませんので、いつか読んでみたいと思っております。

 最後に、法華経とは何か? 妙法蓮華経のことで、妙法とは宇宙の絶対的真理、蓮華とは、五濁乱漫の現世でも白蓮を咲かせよという教えで、特別な修行をした出家者だけでなく、老若男女隔てなく、全ての人間が平等に救済されるという思想です。

【追記】

 最近の文献学によると、法華経は、釈迦最晩年の作ではなく、釈迦入滅後、数百世紀を後の紀元40~220年頃に成立したというのが有力のようです。

 第1の序品から第22の嘱累品(ぞくるいほん)までが原型で、第23の薬王菩薩本事品から第30の馬明菩薩品までは後世に追加されたと言われています。しかも、追加部分は、オカルト、呪術的思想や男女差別思想などがあり、後世の創作だと言われています。

 日蓮聖人は、1222年生まれということですから、今年はちょうど生誕800年の記念の年でした。

「我は法華経の広宣流布を委ねられた上行菩薩なり」=佐藤賢一著「日蓮」

鎌倉・長勝寺 日蓮聖人像

 佐藤賢一著「日蓮」(新潮社、2021年2月16日初版、1980円)を読了しました。非常に勉強になりました。小説というより、評伝でしたね。ただ、佐渡島流刑から鎌倉に帰宅後、波木井(南部)実長からの申し出により身延山に庵を結ぶことになり、そこで、(第一次)蒙古襲来の報せを受けるというところで終わってしまったので、続編があると思います。

 この本については、既に一昨日(7月6日付)のブログ「法然上人を悪しざまに言う日蓮」で前半(第一部 天変地異)を取り上げていますので、本日は後半(第二部 蒙古襲来)のことを中心に書くつもりです。

 最初に「小説というより、評伝でした」と書いておきながら、やはり、学術論文とは違う作家が創造した小説ですから、善と悪を故意に際立たせた(言って良ければ)作り物の物語になっています。鎌倉の得宗被官筆頭で最高権力者の平左衛門尉頼綱(鎌倉の龍ノ口で日蓮を処刑しようとして果たせず、佐渡島に流刑した)と日蓮との手に汗を握る対決である会話を佐藤氏が傍で聞いていたわけではありませんから、「講釈師、見てきたような…」のあれです。

 しかしながら、大変苦心して書かれた評伝だったので、この本を読んでやっと日蓮があれほど激烈に他宗派を排撃した理由が分かりました。一昨日書いたことと少し重複しますが、「念仏無間」というのは、浄土宗の専修念仏は、ひたすら浄土門に邁進せよと言い、聖道門の法華経は、捨て、閉じ、閣(さしお)き、抛(なげう)て命じるからだといいます。(法然の言うところの捨閉閣抛=しゃへいかくほう=)「真言亡国」は、護摩祈祷で戦勝を祈願した平家も後鳥羽院も敗れたではないか、「禅天魔の所為」とは、禅宗は「教外別伝」(きょうげべつでん)「不立文字」(ふりゅうもんじ)を掲げ、釈迦の説かれた一切経を抛擲し、久遠の仏の教えを聞かないからだというのです。(「律宗国賊」に関しては問答が省略されてました)

鎌倉・妙本寺

 何故、数多あるお経の中で、法華経だけを日蓮が尊重するのかというと、釈迦が「法華経以前に説かれた諸法は方便の経で、真実を明かしていない仮の教えだ」と申しているからだというのです。

 そして、法華経を広める地涌(じゆ)の菩薩を率いる菩薩として、安立行菩薩(衆生を無辺なれども済度する)と浄行菩薩(煩悩は無数なれど断ち尽くす)と無辺行菩薩(法門は無尽なれども知り尽くす)と上行菩薩(仏道は無上なれども成し遂げる)の四菩薩(四弘誓願)がいますが、日蓮本人は、龍ノ口での法難の際に、自分自身は、法華経の広宣流布を委ねられた菩薩の導師の一人、上行菩薩であることを自覚したといいます。

 なるほど、そういうことでしたか。私自身は、どこそこの教団に属す信徒ではありませんが、また、もう少し、法華経に挑戦したくなりました。

 この本を読んでよかったのは、昨年9月に鎌倉の日蓮宗の寺院巡りをしたお蔭で、活字だけで、鎌倉の情景を目に浮かべることができたことです。(2020年9月22日付渓流斎日乗「鎌倉日蓮宗寺院巡り=本覚寺、妙本寺、常栄寺、妙法寺、安国論寺、長勝寺、龍口寺」をご参照ください)

鎌倉・龍口寺

 この本を読んで、まだ行ったことがない、佐渡や身延山に、日蓮聖人の足跡を訪ねて、いつか行ってみたいと思いました。(その前に、日蓮聖人が入滅された東京・大田区の池上本門寺を再訪したいと思います)

 また、この本で、日蓮の師である清澄寺の別当道善房や、日昭(成弁、比叡山同学の日蓮より一歳年長ながら最初の弟子)、日朗(日昭の甥)、日興(実相寺修行僧伯耆房)、日向(にこう=安房出身)、日頂(下総富木常忍の養子)、日持(最初は日興に師事)の六老僧や日行日法(熊王)といった日蓮の直弟子や、四条頼基(金吾殿)、池上宗仲・宗長宿屋光則大学三郎富木常忍といった檀越(だんおつ)のことも勉強させて頂きました。

 日蓮という後世に莫大な影響を与えた偉大な日本人が生きた時代背景には、地震などの天変地異と飢餓と疫病の流行に加え、政争と戦乱と蒙古襲来(他国侵逼=しんぴつ)という日本史上稀に見る「国難」があったということがよく分かりました。安倍前首相が口癖のように使っていた国難とは、あれは何だったのか首をかしげたくなるほどです。

【追記】

 ここまで書くのに5時間も掛かりました。あにやってんでしょうか(笑)。ついでながら、佐藤賢一氏の「日蓮」は、仏法論争の話が中心で、日蓮が一体どんなものを食べていたのか、どんな服装をしていたのか、どんな仏具(真言ではないので金剛杵なんか持っていなかったでしょうが)を備えていたのか、といったことが殆ど書かれていなかったので、気になりました。

 小説ならもう少し俗人的なことを書いてもいいと思ったのですが、宗教家は神聖なのでそこまで書いては駄目なんでしょうか?

 

法然上人を悪しざまに言う日蓮

 ちょっと酷い言い方なんで聞いてくださいな。

 その人は、名前は出せませんけど、こんなことを言うのです。「歴史学者は、日本史は室町時代から学ぶべし、と述べております。史実として学ぶには、室町以前は資料が乏しい故です。渓流斎翁は、安直に相変わらず信仰の如く『歴史人』を紹介されておられますが、鎌倉時代は、古代同様に、イメージを膨らませて語るしか無いのですよ。」

 「室町時代から学べ」と言った歴史学者は誰なんでしょ? 自分の得意な専門分野だから言ってるだけでしょう。江戸時代を知るには戦国時代を知らなければならないし、戦国時代を知るには鎌倉時代を知らなければならないし、そもそも古代史を知らなければ、「この国のかたち」が分かるわけがありませんよ。安直な人間と決めつけられようとも。

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 ーーと前置きを書きましたが、鎌倉時代を勉強し直して本当に良かったと思っています。先日から読み始めた佐藤賢一著「日蓮」(新潮社)は、思っていた以上に難解で、仏教用語や思想の知識がなければ全く歯が立たず、同時に鎌倉時代の制度や歴代執権、連署らの名前や、弟子を含めた膨大な人物相関図が分からなければ、さっぱり理解できないからです。

 直木賞作家佐藤賢一氏(1968~)については、大変失礼ながら、著作をほとんど読んだことがないのですが、東北大学大学院で仏文学を専攻し、「小説フランス革命」や「ナポレオン」などフランス関係の小説を多く発表されていることぐらいは知っておりました。そんな人が、何で、日本人の、しかも、宗教者の日蓮を取り上げるのかー?専門外で大丈夫なのかしらー?といった興味本位で、この本を手に取ったわけです。

 そしたら、繰り返しになりますが、極めて難解で、当然のことながら、かなり仏教を勉強されている方だということがよく分かりました。「法華経」は勿論のこと、「金光明経」「大集経」「仁王経」「薬師経」、それに、法然の「選択本願念仏集」、日蓮の「立正安国論」…とかなりの経典や仏教書等を読み込んでおられると思われます。

 平安末から鎌倉時代にかけて、戦乱と天変地異と疫病が流行して、世の中が不安定だったせいか、不思議なくらい史上稀にみるほど多くの新興宗教が勃興します。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、そして日蓮の日蓮宗などです。この中で、日蓮は「遅れて来た」教祖だったこともあり、既成宗派を激烈に批判します。それは「四箇格言(しかかくげん)」と呼ばれ、「念仏無間の業、禅天魔の所為、真言亡国の悪法、律宗国賊の妄説」の四つを指します。

 つまり、専修念仏の浄土宗などを信仰すると、無間地獄に堕ちる。臨済、曹洞宗などの禅宗は、天魔の所業である。真言宗は生国不明の架空の仏で無縁の主である大日如来を立てることから亡国の法である。律宗は、戒律を説いて清浄を装いながら、人を惑わし、国を亡ぼす国賊であるー。といった具合です。

 この本は、まだ前半しか読んでいませんが、特に日蓮の批判の対象になったのが、浄土宗でした。日蓮は、法然房源空が、源空が、と呼び捨てですからねえ。念仏なんかするから、天変地異が起きるのだ。浄土宗なんか、浄土三部経しか認めず、他の経を棄て、西方にいる阿弥陀如来だけを崇めて、東方におわす薬師如来だけでなく、釈迦や菩薩すら否定し、極楽浄土に行くことしか説かない。何で現世で、即身成仏しようとしないのか。それには法華経を信じて「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えるしかない、と一般衆生だけでなく、時の権力者たちに主張します。(最明寺殿こと五代執権北条時頼に「立正安国論」を提出)

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 私は、日蓮(1222~1282年)については、亡父の影響で大変興味があり、惹かれますが、法然上人(1133~1212年)は、日本歴史上の人物の中で最も尊敬する人の一人なので、あまり悪しざまに扱われると抗弁したくなります。が、これは佐藤氏の創作ですから、実際に日蓮が発言した言葉とは違うと思われます。しかし、日蓮は、実際に鎌倉の松葉が谷の草庵を浄土宗僧侶や念仏者たちによって襲撃されて焼き討ちに遭ったりしているので、浄土宗を敵視したことは間違いありません。この本は、小説とはいえ、ほぼ史実に沿ったことが描かれていると思われます。

 ただ、小説だから軽い読み物だと思ったら大間違いです。恐らく、事前に大学院レベルの知識を詰め込んでおかないと、理解できないと思います。老婆心ながら。

往相と還相という親鸞聖人の教え=「教行信証」を読んで

 会社の近くに築地本願寺があります。

 心がささくれだった時、心が疲れた時ー、そんな時、たまに昼休みを利用して訪れると、心が洗われる気持ちになれます。

 昔は、ということは、今より若かった頃は、信者ではありませんが、聖書をよく読んでいたので、たまにキリスト教会に一人で行ったものですが、織豊時代の宣教師が日本植民地化の先兵だったり、聖職者のはずの宣教師がルソン島へ日本人を送り込む奴隷船の仲介したりしていたという史実を知り、また現代では、神父による少年への性的虐待等を知り、少しキリスト教に失望してしまい、足が遠のいてしまいました。

 私自身は浄土真宗の信者でも、本願寺の門徒でもありませんが、寺院は出入りが自由なので分け隔てなく、迎え入れてくれます。それどころか、守衛さんにお伺いしたら、寺院内の撮影までお許し頂きました。

築地本願寺

 実は、ここ半年間、少しずつ、浄土真宗の宗祖親鸞の主著「教行信証」を読み進め、もうすぐ読破しそうなのです。

 読破など言っては、怒られそうですね。神聖な宗教書を冒涜するな、とー。はい、すみません、と謝るしかありません。その上、私のような凡夫では、到底理解できず、同じ個所を何度も何度も読み返して、それでもよく分からないことが多いのです。でも、私のような懐疑主義者は、果たしてどれだけの門徒の方が、実際にこの書を読み通しているのであろうか、という疑問を持ってしまったことです。現代人は、テレビにゲームにエンタメにアイドルにスポーツに、麻雀・競馬にと寸暇が惜しいほど忙しいのです。専門の僧侶の方でさえ、原書(漢文)で読んでいらっしゃるのかなあ、と疑ってしまいました。

 というのも、私が読んでいるのは、昭和58年7月20日初版発行の中公バックス「日本の名著」の「親鸞」で、現代語訳と補注を担当しているのが、石田瑞麿氏(当時東海大教授)なのですが、例えば、補注の中で、石田氏は「この箇所の親鸞の読み方には無理があり、…一つづきに読まなければ、意味が通らない」とか「『転じて休息とも呼んでいる』とあるが、実は『転ずるとは、休息することに名づける』と読むのが正しい。今は親鸞の読み方に従った」とか「…写し誤ったために生じた読み違いであろうか」といった注釈が何度も出てくるからです。ただし、漢籍の素養のない私自身は、真蹟本である坂東本と別本である西本願寺本の漢文の原著を読む能力もなく、現代語訳で読むしかなく、その違いもよく分かっていないのですが…。

 「教行信証」とは何か?-勿論、浄土真宗の聖典ではありますが、「浄土三部経」を中心に「華厳経」「菩薩処胎経」「大乗大方等日蔵経」など非常に多くの仏典から引用された仏教説話なども織り込まれていますが、どういう聖典なのか、私自身、一言で説明する能力はありません。

 ただ、恐らく、これが一番、親鸞聖人が言いたかったことではないか、といいますか、私自身が、全く知らなかったといいますか、誤解に近い形で理解していたことで、親鸞が明快に答えていたところがあり、その中で私自身が一番印象に残っていた1カ所だけを茲で記したと思います。

築地本願寺

 それは「信巻」に出てくる極楽浄土に往生することについてです。石田氏の現代語訳を引用させて頂きますとー。

 如来の回向には二種の姿がある。一つには往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)である。

 往相は、如来ご自身の功徳を全ての人に回らし施して、誓いを立てて、共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に生まれさせられることである。

 還相とは、かの国に生まれてから、心の乱れを払った精神の統一と、正しい智慧を働かせた対象の観察と、さらに巧みな手立てを講ずる力とを完成させ、再び生死の迷いの密林に立ち戻って、全ての人を教え導かせ、共に悟りに向かわせられることである。

 往相にしても還相にしても、いずれも世の人を苦悩から解放して、生死の海を渡そうとするために与えられたものである、といっておられる。(262ページ、原文にない行替えし、一部漢字表記改め)

 なるほど、極楽浄土に一方的に行くだけでは駄目だったんですね。もう一度娑婆世界に戻って来て、衆生を救済する役目があったんですね。

 ですから、ここから4ページ先の266ページに、以下のことが書かれています。

 釈迦仏が王舎城で説かれた「無量寿経」について考えてみると、(中略)この最高至上の悟りを求める心はすなわち仏になろうと願う心であり、仏になろうと願う心は、すなわち世の人を救おうとする心であり、世の人を救おうとする心は、すなわち世の人を救い取って、仏のおいでになる国に生まれさせようとする心である。だから、かの安楽浄土に生まれたいと願う人は、最高至上の悟りを求める心を必ず起こすのである。もし、誰かが、この最高至上の悟りを求める心を起こさないで、ただかの国で受ける楽しみに間断がないと聞いて、その楽しみのために、生まれたいと願うとしても、また当然生まれるはずがない。

 そう断言している箇所に、私は目から鱗が落ちたといいますか、頭を後ろからガツーンと殴られたような感覚に陥りました。

 つまり、楽しみだけを求めて極楽浄土に往生したいと願っても、当然、行けるわけがない。そもそも往生を願うならば、また娑婆世界に戻って、今度は貴方が衆生を救済する役目を担おうとしなければ、最初から往生するわけありませんよ、と親鸞は言っているわけです。

 私自身は、これこそが親鸞聖人の深い教えの肝ではないかと愚考致しました。

 西念寺

 承元の法難(浄土宗では建永の法難)で越後国に配流された親鸞聖人(1173~1262年)は、その後、すぐ京都に戻ることなく、常陸国の「稲田草庵」と呼ばれた地に留まり、関東布教の拠点にします。

 親鸞聖人と家族はこの地に20年(1214~35年、数え年42歳から63歳にかけて)も住み留まり、親鸞はここで「教行信証」を執筆したと言われます。現在の茨城県笠間市の稲田禅房西念寺です。浄土真宗別格本山です。私も今年6月に、この寺院を参拝し、その頃から「教行信証」を読み始めたのでした。

荒行「大峯千日回峰行」を満行した塩沼亮潤大阿闍梨

 昨晩は、自宅近くの歩道で、暗闇のせいか、段差に気付かずズッコケてしまい、右膝に軽い打撲傷を負ってしまいました。昼間でしたら、段差に気が付いていたことでしょうが、反射神経も鈍くなったものです。

 さて、先日、「大峯千日回峰行の道を行く 修験道・塩沼亮潤の世界」というタイトルのドキュメンタリー番組を見ました。(24日に再放送があります)

 修験の行者・塩沼亮潤大阿闍梨(52)については全く知りませんでしたが、みるみる引き込まれました。塩沼氏が大阿闍梨の称号を持つのは、彼が荒行「大峯千日回峰行」を満行を成し遂げた人だからです。「大峯千日回峰行」とは、修験道発祥の地と言われる奈良県大峯山で一日48キロ(吉野金峰山寺~大峯山山上ケ岳=さんじょうがたけ=の険しい山道を往復)を5月から9月の間、9年間、歩き、その上で、9日間「飲まず」「食べず」「寝ず」「横にならず」の「四無行」までやり遂げなければなりません。まさに生死の境目を体験する荒行で、塩沼氏の達成は史上2人目ということは納得できます。(「四無行」を満行したのは2000年ということですから、同氏32歳の時だと思われます)

 塩沼氏は、実家のある仙台に戻り、慈眼寺(じげんじ)という寺院を建立し、護摩行を行い、噂を聞きつけた人々が全国から集まります。不動明王が御本尊の護摩堂で、人々が「家内安全」や「病気平癒」などと書いた木片を火にくべると大きな炎が立ち上がり、人々も一斉にお祈りします。

 護摩行なので、真言密教かと思いましたら、慈眼寺のホームページを見てもはっきり宗派は書かれていません。塩沼氏は奈良県吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)で修行されたことから、金峯山修験本宗だと思われます。この宗派も初めて知りました。修験道ですが奥が深いです。

 塩沼氏は、僧侶になるつもりはなかったといいます。中学2年生の多感な時に、家庭内暴力を振るう実父が家を出て、極貧の中、母親一人の手で育てられます。その時、母親から「恨み、憎しみを持ってはいけない」と諭されたことが、後の彼の人生に大きな影響を与えたようです。

 人が恨みや憎しみをなくすことなど、なかなか出来ることではありません。煩悩凡夫の私はとてもできません。それなのに、彼はいつも笑顔を絶やさず、「謙虚」「素直」「感謝」を心がけているといいます。仏教で言う「和顔施」でしょう。

 そして、彼の座右の銘は「独り慎む」だと言います。誰も見ていなくても、襟を正して慎み深い行動をする、といった意味らしいですが、英国ジェントルマンのモットーみたいですね。

 番組を見て感動したものですから、こうしてブログに書いておりますが、私は天邪鬼ですから、少し引っ掛かることもあります。素直じゃないんですね(笑)。

 ネットでは彼の笑顔のプロフィールや立派な慈眼寺のホームページが出てきます。英語版もあるので海外の信者もいるようで、コロナ禍の前は年に何度か海外にも出かけていたようです。

 現代は「家」の絆も薄れ、「墓仕舞い」をする家も現れ、オウム真理教やカトリック神父による性虐待事件などの影響からか、宗教離れをする人々も増えてきています。特に地方では住職のいない寺も増え、廃寺になる寺院も多いと聞きます。

 何を言いたいのかといいますと、寺の経営が大変だろうなあ、ということです。しかも、彼は自分の寺を創建したぐらいですからね。テレビに出て露出して有名にならなければならないし、番組を見るとお弟子さんも沢山いらっしゃるようで、どういう風に捻出されているのかなあ、と心配になりました。番組では全く出てきませんでしたが、墓地もあって檀家さんもいるのかなあ、と思ったりしました。

 まあ、天邪鬼の戯言です。御寛恕の程を。

 

 

お経の意味が分かると知らなければ恥だが役に立つ

 私が、次期総裁選びとか、今の皮相的な世間の喧騒よりも、人類にとって相も変わらぬ苦難の克服を目指す仏教哲学思想に特に最近惹かれていることは、皆さまご案内の通りです。

 先月、新聞の広告で法華経の新解釈による現代語訳の本が出ていて興味を持ちましたが、著者は個人的に嫌いな作家さん。この方、現役政治家時代に「文明がもたらした悪しき有害なものはババアだ」と生殖能力のなくなった女性を蔑視するなど舌禍事件が絶えない「無意識過剰」な人だからです。しかも、版元の社長さんがこれまた問題の人で、気に食わない売れない著者の実売部数をネットでバラしたり、何かと裏社会とのつながりが噂されたりする出版社ですからね。購買することはやめました。また、いつも派手に新聞に広告する出版社で目立ちますが、今後、広告内容を読むのをやめることにしています。

 でも、法華経の現代語訳が気になっていたところ、たまたま会社の近くの書店で、適当な本が見つかりました。鈴木永城著「お経の意味がやさしくわかる本」(KAWADE夢新書、2020年7月30日初版)という本です。先日このブログで御紹介したフランス語原文と対訳が並べられている「ランボー詩集」と同じように、般若心経や法華経など中国語訳の原文の下に現代語訳が書かれていて、とても分かりやすいのです。(お釈迦様の説かれたお経は、本来サンスクリットで書かれていたのですが、日本に伝わった仏教は、鳩摩羅什や玄奘らによって漢訳されたお経です。ということは、日本仏教とは、結局、中国仏教ではないでしょうか?日本仏教の開祖が師事したり影響受けたりした天台智顗も恵果も善導も臨済義玄も洞山良价も中国人です。現代の中国では共産党政権によって仏教は弾圧されていますが、三蔵法師らに感謝しなければなりませんね)

 日本の仏教には色んな宗派がありますが、例えば、天台宗では「朝題目夕念仏」と言われるように、朝は法華経を読経し、夕方は念仏を唱えるといいます。ですから、数あるお経の中でも法華経の寿量品や普門品(観音経)、般若心経、阿弥陀経などを特に重視するわけです。

 個人的には私の子ども時代に、父親の影響で法華経の方便品第二と如来寿量品第十六を意味も分からないまま、そのまま読まされたことがありましたが、この本を読んで「そういう意味だったのかあ」という新たな発見と驚きがありました。今さら遅すぎますね(笑)。

 お経を熱心に勉強したのは、人生に疲れた三十代初めにNHKラジオ講座の「こころをよむ」で金岡秀友東洋大教授が講師を務めた「般若心経」でした。よく写経に使われるあのお経です。わずか262文字の中に、仏様の思想哲学が集約されていて、苦しい時にたまにこのお経の文句が出てくることがあります。この本によると、天台宗と真言宗と浄土宗と臨済宗と曹洞宗と幅広く重用されているようです。逆に言えば、浄土真宗と日蓮宗ではあまり重んじられていないということになるのでしょうか?

 この本の著者鈴木永城氏は、曹洞宗の僧侶で、埼玉県と茨城県の寺院の住職を務めているようですが、お経とは何かについて、興味深いことを書かれています。

 まず、仏教の究極とは、自分自身に備わっている仏性に目覚めて、悩みや苦しみを乗り越えて生き生きとした生き方をすることだ、と説きます。そして、お経は、死者に対する回向(供養)という意味があるが、お経に説かれていることは、人間としての本当の在り方、生き方の指針だといいます。つまり、この世に人間として生を受け、その生をどうやって全うするか教示してくれる、とまでいうのです。

 なるほど、となると、お経というと敷居が高い気がしていましたが、もっと気軽に、偏見を捨てて接しても良さそうです。あまり言うと、苦行に堪えている聖道門の皆様から怒られるかもしれませんが…。でも、お経は、宗教家や信者や信徒や門徒だけの独占物であるわけではなく、在家の煩悩凡夫が接しても罰が当たるわけありませんよね?

◇旧友の御尊父の御冥福を祈り読経す

 ということで、この本を読んでいたら、先日、たまたま、旧い友人の御尊父の訃報に接しました。著者の鈴木氏は、お経は死者に対する供養だけでなく、現代人が生きる指針になる、と書かれていましたが、本来の供養の意味で、友人の御尊父の御冥福をお祈りして、本書の中の「般若心経」と「法華経」を一人自室で読経させて頂きました。自分にできることはこれぐらいしかありませんからね。

 実は、旧友の御尊父T・K氏は、九州の久留米藩主の御小姓を務めた高い家柄の子孫らしく、私の先祖は同じ久留米藩の下級武士(御舟手役)だったので、世が世なら、頭が上がらない雲の上の上司だったわけです。御尊父は、九州(帝国)大学から大蔵省に入省した人でしたが、三島由紀夫こと平岡公威と同い年なので、もしかしたら、大蔵省の同期入省だったのかもしれません。

 生前、もっとお話を伺う機会があればよかったなあ、と今では悔やまれます。

「親鸞聖人伝絵」と大原問答と平等思想について

 このブログは、毎日書くことを自分に課しておりましたが、ここ1~2週間の連日の35度に及ぶ猛暑で、さすがに体力、気力、知力ともに衰え、書き続けることができませんでした。

 ということで、ブログは4日ぶりです。熱中症とコロナに苛まれる現代人は、生きているだけでも大変ですね。

 さて、難解な「ランボー詩集」は相変わらず牛の歩みで読み進んでいますので、その傍らに読んでいたのが沙加戸弘編著「はじめてふれる 親鸞聖人伝絵」(東本願寺出版、2020年3月28日初版)でした。

 今年6月21日付のこのブログで、浄土真宗の親鸞聖人(1173~1262年)が「教行信証」を執筆し、関東布教の拠点とした茨城県笠間市の稲田禅房西念寺をお参りしたことを書きましたが、その後、本屋さんでこの本をたまたま見つけて購入したのでした。法然上人や一遍上人の絵伝(いずれも国宝)は知っておりましたが、親鸞聖人伝絵があることは知りませんでした。

 この伝絵は、親鸞聖人の生涯で起きた画期的な出来事を絵巻にし、それに解説を加えたものです。四幅二十図あるようです。本願寺三代門首覚如が生涯をかけて康永2年(1343年)に完成したものです。「御絵伝」の絵を描いたのが浄賀法眼とされ、解説に当たる「御伝鈔」は覚如本人が書いたと言われています。普段は非公開だと思われます。

 御絵伝第2図「出家学道」では、親鸞聖人が9歳の時に出家得度される場面が描かれています。得度を依頼された慈円僧正は「15歳までは出家できません。これは規則です」と頑なに断ったものの、親鸞聖人がこれに応えて、あの後世になって有名になった歌を詠みます。

 明日ありと

 思う心のあだ桜

 夜半に嵐の 吹かぬものかは

 歌人でもあり「愚管抄」などの著書もある慈円は心の中で唸り、得度の式を行ったといいます。

 親鸞聖人自身は自ら教団をつくる意思はなかったと言われています。本願寺教団はつくったのは親鸞の曾孫に当たる覚如上人であり、その覚如がこの御伝鈔を書いているということは、この「親鸞聖人伝絵」には、結果的には本願寺教団の思想が色濃く反映されることになったようです。例えば、第6図「選択付属」では親鸞聖人が師の法然から著書「選択本願念仏集」の書写などを許される場面を取り上げる一方、晩年になって、親鸞が長男善鸞を義絶せざるを得なかった「事件」を「伝絵」として取り上げることはありません。

 また、承元元年(1207年)に、専修念仏停止(せんじゅねんぶつちょうじ)により、法然は讃岐に、親鸞は越後に流罪、その他4人が死罪となる「承元の法難」が起きます。この模様は、御絵伝第12図「法然上人配流」で描かれています。ただこの図の右端に「不機嫌な善恵房」が描かれています。解説によると、この善恵房が、配流される法然上人に対して「念仏をやめたら罪も軽くなりますよ」言ったので、師の法然から大いに叱責されたといいます。そういう史実があったのかどうか、あったとしても何故そのような不機嫌な善恵房を書かなければならなかったのか、については何らかの作者の意図が感じられます。

 法然には380余人という多くの弟子がいたと言われますが、「七箇条制誡」によると、初期の法然門弟190人の中で、綽空(後の親鸞)は86番目に名前が確認されるに過ぎなかったと言われます。一方の善恵房証空の方は、14歳から法然の側に仕え、「七箇条制誡」では法然門弟中、四番目に署名され、後に浄土宗の中の本派本流の鎮西派とは違う西山派を確立します。善恵房は、承元の法難の際には慈円の庇護により、かろうじて流罪を免れます。

 また、善恵房証空の孫弟子に当たるのが時宗の開祖一遍上人です。ということは、本願寺教団を設立して、この御伝鈔を書いた当時の覚如上人にとって、証空も一遍も同じ法然浄土宗の流れを汲むライバルではなかったかと思われます。わざわざ「不機嫌な善恵房」を描かせたのは、「法然の教えを忠実に守っている正統派は、我が教団だ」とアピールしたかったかのようにも見えます。別に誹謗する意図は全くありませんし、理解はできます。

親鸞が「教行信証」を執筆した稲田の西念寺

 話は変わって、先日22日に放送されたNHK「歴史発掘ミステリー」で「京都 千年蔵『大原 勝林院』」を取り上げていました。とても面白い番組でした。ただ、1点だけ気になったのは、大原三千院の北にあるこの勝林院を長和2年(1013年)に創建(復興)した寂源のことです。寂源は、19歳で出家する前は源時叙(みなもとのときのぶ)という右近衛少将でした。しかも、後に権力の最高位を手にする藤原道長の室倫子は時叙の姉。つまり、寂源は、道長の義弟に当たるのです(寂源の出家には諸説あり不明)。

 番組では、寂源が比叡山の僧侶を集めて論談し、比叡山の僧侶が、仏教は厳しい修行と苦行を経た我々僧侶だけが御教えを伝授する役目があると主張したのに対して、寂源は、信仰には優劣がなく、貴賤もなく、男と女の区別もなく、善人も悪人もなく、仏様は救ってくださる、と反駁したところ、その証拠として暗がりの阿弥陀如来坐像がパッと輝いたという逸話をやっておりました。その論壇の場には、最高権力者に昇り詰めながら、疫病などで荒廃する都の惨状を見て己の無力さと将来、自分自身が地獄に堕ちるのではないかと不安を抱いていた寂源の義兄の藤原道長が、影で見ていたとなっていました。

 この場面を見て「あれっ?」と思いました。

 浄土宗の開祖法然上人の生涯の初期の頃に、有名な「大原問答」というものがありました。文治2年(1186年)に、法然が顕真法印の要請により浄土宗の教義について、比叡山・南都の学僧と問答し信服させ、法然を一躍有名にした出来事でした。この大原問答が行われた所が、この大原・勝林院だったのです。私が「あれっ?」と思ったのは、これまでの皇族や貴族らを中心にした南都六宗の旧仏教に対して、法然が異議申し立てをして、老若男女、貴賤も善人も悪人も関係なく、念仏を唱えれば、皆平等に誰でも極楽浄土に往生することができるという非常に革命的な、ある意味では危険な思想を法然が初めて主張していたと思っていたからです。

 NHKの番組がもし史実だとしたら、法然よりも150年以上も昔に、寂源が革命的な「平等仏教」を説いていたことになります。しかも、道長政権という貴族政治が頂点を極めた時代で、いわば「貴族仏教」が頂点を極めていた時代です。法然が、寂源の思想を知っていたかどうか分かりませんが、場合によっては特筆もので、歴史を書き換えなければならないのではないかと思った次第です。

新型コロナウイルスの影響で例年になく少ない=京都・醍醐寺で「五大力尊仁王会」

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こんにちは、京洛先生です。

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 新型肺炎が広がり、この調子では2020年は「東京五輪」ではなく、「新型コロナウイルス」の年として後世に伝えられますね。「まだ、東京五輪は先の話だ」と思っている人が多いでしょうが、開催の最終決定権は国際オリンピック委員会(IOC)ですから、土壇場で何が起こるか分かりませんね。

 またその時は日本のマスコミは右往左往、後付け「講釈」をして、あれこれ誤魔化すのは目に見えます(笑)。

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トランプ大統領ではないですが、誰でも先の見通しは、はっきり分らないのですから、「マスコミは嘘ばかりだ!」と言うのは確かにそうです。米国民が、それを感じて同大統領を誕生させたのです(笑)。

 また、そう思っている人が米国だけでなく世界中で多く存在していて、それを追跡、検証する既存マスコミが皆無なのが現実です。

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 それはさておき、昨日23日(日)は世界遺産「醍醐寺」(京都市伏見区)で、庶民から「五大力さん」と親しまれている「五大力尊仁王会」が開催されたので、行って来ました。そのスナップをお送りします。

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 最近、熱心に仏教の歴史を勉強されている渓流斎さんなら詳しいと思いますが、平安初期、真言宗の僧侶、聖宝(しょうぼう)が開祖した醍醐寺ですが、この「五大力尊仁王会」は不動明王など五大明王(ほかに降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)の力によって、無病息災、国家、家庭の平和、幸せを祈願する、醍醐寺の最大の行事です。

Copyright par Kyoraque-sensei  迫力ある写真ですね!

 毎年、10万人を超える参拝者が訪れますが、新型肺炎の影響と、中国人など外国人の観光客激減もあって、去年に比べて参拝者は少なかったですね。

そのせいで、混雑せず参拝はスムース、境内もゆっくり歩けて快適でした。

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本堂前の特設舞台での大きな紅白の二段重ねの鏡餅を持ち上げる「持ち上げ力奉納」もやっていましたが、新型肺炎の影響もあり、参加者が例年より少なく鏡餅の持ち上げの最長時間は男性(重さ150キロ)は5分58秒、女性(重さ90キロ)6分40秒でした。

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それにしても、京都でも、どこもかしこも「新型肺炎」の影響が出ていました。

以上 おしまい。

お経は英訳の方が分かりやすい

 最近、仏教づいておりまして、先日は、仏教用語を英語で何と言うか、通訳のための研修会に参加してきました。

 講師は、浄土真宗本願寺派超勝寺の大來尚順さんという30歳代の若い御住職。米カリフォルニア州にある仏教大学院で修士号も修めた学者さんでもあり、翻訳家でもあり、既に「超カンタン英語で仏教がよくわかる」(扶桑社新書)など数冊、本も出版されてます。

 仏教に関する知識は、当然のことながら、かなり豊富ですが、私自身は、ここ最近は特に仏教書に目を通しているので、それほど驚くほどではありませんでした。むしろ、私の方が雑学的知識というか、宗派の派閥とか、アングラ情報に関しては多く持っている気がしました。…偉そうですね(笑)。

 仏教とは何かー? 会場から「哲学」だの「生きる指針」だのといった意見が出て、大來師は「危ないもの、と言われてなくてよかったです」と笑いを誘っておりましたが、大來師によれば、仏教とは、人が仏(覚者)になる教えだということでした。 日本ではもともと「仏道」と言われ、「仏教」となったのは、1893年(明治26年)のシカゴ万国宗教会議(鈴木大拙や釈宗演らも参加)の後からだといいます。 となると、仏教は、キリスト教と同じ宗教かと言えば、ちょっと違う感じがしました。

 仏様(釈迦)というのは人であり、宇宙を創った創造神でもなく、人を裁く審判神でもなく、超能力を持った至上神でもないからです。

 大來師の説明では、キリスト教が神と人との契約(contract)という二元性(Dualism)なら、仏教は一元性(Non-Dualism)である、といいます。そう説明すれば欧米人は分かるといいます。

 仏教では、人が真理に目覚めるためには「悟り」を開かなければなりません。その悟りとは「四聖諦」(「四諦」)を認識することです。四諦とは、すなわち「苦諦」(世の中は苦に満ちている)「集諦」(その苦には原因がある)「滅諦」(苦しみを和らげ、止めることができる)「道諦」(その苦を止める方法がある)の四つのことで、ざっくばらんに言えば、「自分の思い通りにならないことが人生だ」ということをしっかり頭に叩き込むことなんですね。つまり、それが悟りです。人が怒りに駆られるということは、大抵、自分の思い通りにできなかったり、他者が言うことを聞かなかったり、他者から損害や迷惑をかけられたりすることですからね。

平和観音(宇都宮市)

 その四諦を認識した上で、それらの不満足を解決していく方法が「八正道」だといいます。

 八正道とは、英語でEightfold Noble Path と訳され、その八つとは「正見」(Right View)「正思惟」(Right Thought)「正語」(Right Speech)「正業」(Right Conduct)「正命」(Right Livelihood)「正精進」(Right Effort)「正念」(Right Mindfulness)「正定」(Right Meditation/ Concentration)のことです。どうも、漢字の日本語よりも、英語の方が理解しやすいことが分かりますね。

 同氏は、得意の仏教用語の英訳についても解説してくれ、例えば、「悟り」には、Enlightenment, Awakening, Realization といった3通りの翻訳ができ、それぞれ「ひらめき」「能動的」「受動的」と意味の違いがあることを教えてくれました。

 「諸行無常」は、Every thing is changing で十分に通じるということでした。

 このほか、「煩悩」は、昔はWorldly sins などと訳されたりしましたが、ニュアンスがきつくあまり通じないので、最近では、 仏教本来の意味に近いSelf-centered Calculation mind(どこまでも自己中心にして計算する心)や、単にDesire(欲望)、 Defilement(汚れ)などと訳されるようです。sin(罪)は、信心深い欧米人の感覚からすると、飛び上がるほど強烈な意味になるらしいですね。そこら辺は日本人には分かりません。

仏教の経典はもともとインド古語のパーリー語で書かれ、唐の玄奘三蔵法師らによって苦難の末、中国に持ち帰って漢訳され、日本に輸入されました。漢訳は、意味のない音訳が多く、例えば、「南無」はNamo の音訳で、本来は「帰依する」take refuge inという意味です。南無という言葉そのものに、帰依の意味はありません。

 となると、お経は漢訳よりも、英語の翻訳の方が分かりやすかもしれません。いや、実際、英訳で読んだ方が意味はよく分かりますよ。英訳のお経は、市販されたり、国際ホテルに置いてあったりします。皆さんもチャレンジしてみては?