維新後、お殿様たちはどうなったの?=「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」

  ネット通販のお蔭で、街中の本屋さんが次々と消えていく現況は、本当に残念で物悲しいものです。「犬も歩けば棒に当たる」ではありませんが、書店に行けば、思ってもみなかった「お宝」に書棚で巡り合うことができるからです。

 今回のめっけもんの「お宝」は、「『大名家』の知られざる明治・大正・昭和史」(ダイアプレス、2022年9月21日発売、1430円)という本(ムック)です。誠に大変失礼ながら、全く聞いたことがない出版社で、恐らく、新聞などに広告を打つ余裕があるような会社とは思えません(本当に失礼)。もし、私が書店に足を運ばなければ、この本の存在すら知らなかったことになります。そして、もし売れ残れば、廃棄処分されていたのかもしれません。

 そう思うと、本に巡り合うことも運と縁ですね(大袈裟な!)

 「目次」のような表紙ですが、この表紙を見ただけで、この本の内容が少し分かります。当たり前の話ながら、明治維新と廃藩置県という「革命」によって、かつての大名は、失業します(特に、佐幕派は財産を没収されますが、新政府に協力した藩主は、持参金を貰ったり、領地を払い下げられたりしたので、「文無し」になったわけではありません。それに維新後、知事になったり、爵位を得て貴族院議員になったりしました)。つまり、お家が断絶したわけではなく(勿論、嗣子がなく直系が断絶した家も結構あります)、明治になっても、大正になっても、昭和になっても、そして平成、令和の時代になっても続いているわけです。(徳川宗家も来年1月1日に代替わりし、82歳と高齢の第18代恒孝=つねなり=氏に代わって、57歳の家広氏が第19代当主を継ぎます。)

 幕末史にせよ、歴史の教科書では、誰それが活躍して何をした、はい、それで終わりですが、生身の人間は、そんな書かれた歴史を乗り越えて、今でも続いているわけです。

 この本では大名家の子孫がその後どうなったのか、を扱っていて、江戸時代、全国「三百藩」とも言われた大名の子孫が維新後、どうなったのか、百科事典のようにほぼ全藩、網羅されているので、私なんか即、購入しました。特に、各藩の江戸の上屋敷、中屋敷、下屋敷の推定現在地まで掲載されていたので、お買い得だと思いました。

◇悲喜こもごものお殿様

 さて、彼ら、お殿様の末裔はどうなったのか? ここでは、全ては書き切れないので、かいつまんでほんの少しだけご紹介します。この本ではあまり紙数が費やされていませんでしたが、現在、誰でも知っている一番有名な「お殿様」と言えば、熊本県知事から内閣総理大臣にまで昇り詰めた細川護熙氏ではないでしょうか。戦国大名の細川藤孝・忠興の直系の子孫で肥後熊本藩主細川家の第18代当主に当たります。

 でも、細川氏は最も恵まれたお殿様の末裔かもしれません。加賀百万石の前田藩の末裔当主、前田利為(としなり)は陸軍士官学校(17期生で、東条英機とは同期)に進み、近衛師団大隊長、陸大校長などを歴任し、昭和17年、ボルネオ守備司令官となりますが、惜しいことに飛行機事故で亡くなります。(死後、大将に昇格)

 お殿様の子孫なら、戦争になれば「優遇」されるのかと思っていたら、昭和になるとその威光は届かなくなったようです。最後の将軍徳川慶喜の孫に当たる徳川慶光さんは、東京帝大卒業後、宮内省図書寮に勤務していましたが、昭和15年には「一兵卒」である二等兵として入隊したのを皮切りに、計3度も二等兵として召集されたというのです。中国戦線では赤痢とマラリアに罹り生死を彷徨ったといいます。戦後、華族制度の廃止で財産を失い、高校の漢文講師、東洋製罐研究所など職を転々としたようです(1993年、東京・町田市で80歳で没)。

 また、北海道・松前藩の第16代当主正広も、子爵のまま陸軍二等兵として召集され、ニューギニアで戦死しています。とはいえ、明治になって軍人になったお殿様の末裔は多いですが、大体、陸軍士官学校や海軍兵学校に進み、幹部になっています。

 この他、徳島14代藩主の蜂須賀茂韶(もちあき)は英オックスフォード大学に留学し、フランス特命全権公使などに、佐賀藩最後の藩主鍋島直大(なおひろ)は、駐イタリア全権公使に、その後任のイタリア公使が広島藩主の浅野長勲(ながこと)、岸和田藩主の岡部長職(ながもと)は、英ケンブリッジ大学などに留学し、英全権公使などを務めるなど外交官になったお殿様もいます。(ちなみに、岸和田藩主・岡部長職の三男長挙=ながたか=は、朝日新聞創業者の村山龍平の娘婿となり、朝日新聞の二代目社主・社長になっています)

銀座「魚金」 今だけ大特価 握りとおでんとシラスワカメ、お味噌汁付きで何と800円。今だけでっせ

 全く個人的ながら、私の先祖は久留米藩21万石の藩士だったので、藩主有馬家がどうなったか気になっていましたが、4ページの特集を組んでくれております。表紙のタイトルが「情け有馬の『博愛』貴族と『叛逆』文士~父子三代に渡る相克劇」です。

 有馬藩最後の藩主は第13代の有馬頼咸(よりしげ)ですが、その孫の第15代頼寧(よりやす)は、東京帝国大学助教授になったり、水平社運動など社会運動にも身を捧げたりします。第一次近衞文麿内閣で農林大臣や大政翼賛会の事務局長などを務め、競馬の「有馬記念」は、この有馬頼寧から付けられたものです。ただ、伯爵になった第14代の父頼萬(よりつむ)の貴族趣味に反発し、女性スキャンダルも多かったようです。また、昭和初期の軍部勢力を抑え込むことが出来ず、あの笹川良一さんからは「頼寧は『よりやす』ではなく『頼りねえ』と読むんだよ」と陰口を叩かれたらしいです。

 この有馬頼寧の子息が直木賞作家の有馬頼義(よりちか)です。二・二六事件では暗殺された斎藤実内相の隣家に住んでいたことから(頼義の実姉が、斎藤実の養子に嫁いでいた)、この歴史的大事件の現場に遭遇します。二・二六事件関係の本も出版しています。満洲での兵役で下士官からリンチを受けた体験を書いたのが「貴三郎一代記」で、「兵隊やくざ」のタイトルで、勝新太郎、田村高広主演で映画化されました。ただし、晩年は薬物依存症になり自殺未遂を起こし、家族と離れて、入院した病院の看護師と暮らすなど、父親譲りの女性スキャンダルも多く、無頼派作家として名を残しました。

 この頼義の長男が1959年生まれの頼央(よりなか)氏です。父親を反面教師として育ったせいか、有馬家ゆかりの水天宮(東京・日本橋蠣殻町)の宮司になっております。「安産の神様」で知られる水天宮は、久留米の総本宮が、文政元年(1818年)、9代藩主有馬頼徳によって江戸上屋敷(芝赤羽根橋)によって分霊され、江戸庶民にも開放されたことから、「情けありまの水天宮」と言われたそうです。明治になって、現在地に移転します。

 水天宮の宮司の有馬頼央氏は、久留米藩の第17代当主に当たります。私の祖先は久留米藩士だったとはいえ、御船手役の下級武士だったため、そう易々と藩主様にお目見え出来る身分ではなかったと思われます。となると、世が世なら、土下座してお会いしなければならない方です。そう言えば、私の小学校時代の旧い友人の北原さんも御先祖様は久留米藩士でしたが、ウチとは格が違い、小姓の身分(主君の雑務、警備を担当)だったと言いますから、毎日、藩主の側に仕え、俸禄石高も高かったことでしょう。

 世が世なら、北原さんとも気安くお会いすることはできなかったことでしょうね(笑)。

「日本橋七福神めぐり」に行って参りました

江戸三森の一つ、椙森(すぎのもり)神社

1月6日は、まだお正月松の内で、3連休の最初の日でもあり、あまり家に閉じこもっていても何ですから、以前から行きたかったお江戸「日本橋七福神めぐり」に一人で行って参りました。

私のご先祖は、九州は久留米藩のお舟出役という身分(下級武士)で、恐らく、参勤交代の際は、筑後川を伝わり、瀬戸内海から大坂辺りに出て、陸路で江戸に向かい、上屋敷のあった現在の港区赤羽橋に滞在し、その藩邸にあった水天宮にもお参りしたことでありましょう。

水天宮(弁財天)学問・芸術

水天宮は、文政元年(1818年)、久留米の国元(現福岡県)にあったものを、九代藩主有馬頼徳(よりのり)が江戸上屋敷内に分祀したもので、塀越しに賽銭を入れる人が後を絶たなかったため、日を決めて庶民にも公開され、広く信仰を集めたそうです。

維新後は、赤羽橋の久留米藩邸は、薩長連合軍の新政府に摂取されたため、水天宮は青山を経て、明治5年に今の場所(日本橋蠣殻町)に落ち着いたそうです。

「日本橋七福神めぐり」のスタートは、ご先祖様に敬意を表してここから出発することにしました。

水天宮は、安産の神様として知られておりますが、芸能・学問の神様である宝生弁財天も祀られております。宝生弁財天は、先述の久留米藩主有馬頼徳が、加賀藩の11代藩主前田斉広(なりなが)と宝生流能楽の技を競った時に、弁財天に願をかけて、見事に勝利を収めたため、久留米藩としても弁財天の信仰も篤くなったそうです。

2 茶ノ木神社(布袋)笑門来福

下総佐倉藩主で、幕末に大老も務めた堀田家の上屋敷があり、守護神として祀られていた。

社の周囲に巡らされた土手芝の上に茶の木が植え込まれていた。今でも防災・生産の神様として信仰されている。

 3小網神社(福禄寿)幸福・長寿・立身出世

文正元年(1466年)、悪疫鎮静の神として創建され、太田道灌が名付けたと言われる。

昭和4年建立の社殿が戦災を免れ、神社の御守り受けた兵士も無事帰還したことから、「強運厄除けの神」としても信仰を集めている。

4松島神社(大黒天)五穀豊穣・財運・子孫繁栄

下総の柴田家が、鎌倉時代の元亨(1321年)以前に、この地(当時は小島だった)に移り住み、諸神を勧請して創建と言われている。

御祭伸は、大国主神をはじめ、14柱と他社に比べて多い。

5末廣神社(毘沙門天)厄除け・財運・大願成就   多聞天

慶長元年(1596年)以前に稲荷祠として鎮座。吉原の氏神として信仰された。

延宝3年の社殿修復の際に中啓(末廣扇)が見つかり、末廣神社と呼ばれるようになった。

6笠間稲荷神社(寿老人)健康・長寿・病気平癒

安政6年(1859年)、笠間藩主牧野貞直が、国元の笠間稲荷神社(日本の三大稲荷神社の一つ)を江戸下屋敷(この地)に御分霊し、奉斎したのが始まり。

日本橋魚河岸の守り神として、五穀・水産・殖産興業の守護神として庶民の間でも信仰された。

7椙森神社(恵比寿)商売繁盛・大漁豊作

天慶3年(940年)、藤原秀郷が平将門の乱を鎮圧するために、武運を祈願して創建したと言われる。

文正年間の頃、太田道灌が旱魃の雨乞い祈願のため詣でて、山城国稲荷山五社大神を祭祀するようになった。

五社稲荷の一社なる大己貴大神の御宣託により、恵比寿大神を奉斎し、江戸時代の富興行を記念した富塚あり。

また、江戸時代は道灌の選んだ三森の一つと数えられるようになった。三森とは、ここ日本橋堀留町の椙森神社、新橋の烏森神社(昔、江戸三森とは知らずこの辺りの居酒屋さんでよく飲んだものです)そして、神田須田町の柳森神社のことです。

【七福神】

七福神の信仰は、室町時代から始まったと言われています。 弁財天、大黒天、毘沙門天はインドの神様。福禄寿、寿老人、布袋は中国の神様。七福神で唯一日本の神様は、恵比寿様だけです。恵比寿は手に鯛を持っておられます。「めでたい」に通じます。しかし、中国では、鯛はあまり好まれず、食されることもなく、おめでたい魚ではないそうです。恵比寿は日本の神様だからこそ、鯛だったんでしょうね。

水天宮に行きたいです third edition

機関車 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

今朝は仕事で、東京・水天宮前のロイヤルパークホテルに行ったのですが、途中で、水天宮の前を通ると、何か工事中みたいで、「でも、随分綺麗になったなあ」と眺めながら通り過ぎました。

そしたら、会社に帰ってネットでニュースを見たら、吃驚。水天宮は3年間の耐震工事を経て、今日、新社殿が完成して、マスコミに公開されたそうですね。

 さて何処へいくのやらCopyright Par Duc Matsuocha gouverneur

一般参賀は4月8日から、らしいですが、是非とも行きたいですね。

「子宝」や「安産」にご利益があるからではありません(笑)。

小生の御先祖様の氏神様だからです。小生の先祖は、九州は久留米有馬藩の下級武士で、久留米藩は水天宮を祀っていたのです。

久留米には筑後川が流れています。そこを通って大坂まで行き、江戸まで参覲交代をしたと言われています。

昔は、交通手段として、水運、海運の需要が大きかったんですね。だから、水の神様の水天宮を祀っていたのでしょう。

小生のご先祖も、御舟手役とやらを務めていたそうです。

有馬藩は、江戸時代には三田に上屋敷があり、その藩邸内にも水天宮を祀っていましたが、特別な日だけ、庶民にも開放されたという話を聞いたことがあります。

 ここも駅です Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

それが、明治になって新政府によって、久留米の藩邸上屋敷は没収され、水天宮も何回か移転を余儀なくされ、やっと、今の日本橋蠣殻町に定着されたようです。

ということで、いつか新社殿を拝観したいと思っているところです。

(今日も、松岡総裁の写真を本文に関係なくお借りしました。キャプションも松岡総裁によるものでした。

そして、先ほど、栗林閣下から貴重なコメントも頂きました。

併せて御礼申し上げ奉ります。)