往相と還相という親鸞聖人の教え=「教行信証」を読んで

 会社の近くに築地本願寺があります。

 心がささくれだった時、心が疲れた時ー、そんな時、たまに昼休みを利用して訪れると、心が洗われる気持ちになれます。

 昔は、ということは、今より若かった頃は、信者ではありませんが、聖書をよく読んでいたので、たまにキリスト教会に一人で行ったものですが、織豊時代の宣教師が日本植民地化の先兵だったり、聖職者のはずの宣教師がルソン島へ日本人を送り込む奴隷船の仲介したりしていたという史実を知り、また現代では、神父による少年への性的虐待等を知り、少しキリスト教に失望してしまい、足が遠のいてしまいました。

 私自身は浄土真宗の信者でも、本願寺の門徒でもありませんが、寺院は出入りが自由なので分け隔てなく、迎え入れてくれます。それどころか、守衛さんにお伺いしたら、寺院内の撮影までお許し頂きました。

築地本願寺

 実は、ここ半年間、少しずつ、浄土真宗の宗祖親鸞の主著「教行信証」を読み進め、もうすぐ読破しそうなのです。

 読破など言っては、怒られそうですね。神聖な宗教書を冒涜するな、とー。はい、すみません、と謝るしかありません。その上、私のような凡夫では、到底理解できず、同じ個所を何度も何度も読み返して、それでもよく分からないことが多いのです。でも、私のような懐疑主義者は、果たしてどれだけの門徒の方が、実際にこの書を読み通しているのであろうか、という疑問を持ってしまったことです。現代人は、テレビにゲームにエンタメにアイドルにスポーツに、麻雀・競馬にと寸暇が惜しいほど忙しいのです。専門の僧侶の方でさえ、原書(漢文)で読んでいらっしゃるのかなあ、と疑ってしまいました。

 というのも、私が読んでいるのは、昭和58年7月20日初版発行の中公バックス「日本の名著」の「親鸞」で、現代語訳と補注を担当しているのが、石田瑞麿氏(当時東海大教授)なのですが、例えば、補注の中で、石田氏は「この箇所の親鸞の読み方には無理があり、…一つづきに読まなければ、意味が通らない」とか「『転じて休息とも呼んでいる』とあるが、実は『転ずるとは、休息することに名づける』と読むのが正しい。今は親鸞の読み方に従った」とか「…写し誤ったために生じた読み違いであろうか」といった注釈が何度も出てくるからです。ただし、漢籍の素養のない私自身は、真蹟本である坂東本と別本である西本願寺本の漢文の原著を読む能力もなく、現代語訳で読むしかなく、その違いもよく分かっていないのですが…。

 「教行信証」とは何か?-勿論、浄土真宗の聖典ではありますが、「浄土三部経」を中心に「華厳経」「菩薩処胎経」「大乗大方等日蔵経」など非常に多くの仏典から引用された仏教説話なども織り込まれていますが、どういう聖典なのか、私自身、一言で説明する能力はありません。

 ただ、恐らく、これが一番、親鸞聖人が言いたかったことではないか、といいますか、私自身が、全く知らなかったといいますか、誤解に近い形で理解していたことで、親鸞が明快に答えていたところがあり、その中で私自身が一番印象に残っていた1カ所だけを茲で記したと思います。

築地本願寺

 それは「信巻」に出てくる極楽浄土に往生することについてです。石田氏の現代語訳を引用させて頂きますとー。

 如来の回向には二種の姿がある。一つには往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)である。

 往相は、如来ご自身の功徳を全ての人に回らし施して、誓いを立てて、共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に生まれさせられることである。

 還相とは、かの国に生まれてから、心の乱れを払った精神の統一と、正しい智慧を働かせた対象の観察と、さらに巧みな手立てを講ずる力とを完成させ、再び生死の迷いの密林に立ち戻って、全ての人を教え導かせ、共に悟りに向かわせられることである。

 往相にしても還相にしても、いずれも世の人を苦悩から解放して、生死の海を渡そうとするために与えられたものである、といっておられる。(262ページ、原文にない行替えし、一部漢字表記改め)

 なるほど、極楽浄土に一方的に行くだけでは駄目だったんですね。もう一度娑婆世界に戻って来て、衆生を救済する役目があったんですね。

 ですから、ここから4ページ先の266ページに、以下のことが書かれています。

 釈迦仏が王舎城で説かれた「無量寿経」について考えてみると、(中略)この最高至上の悟りを求める心はすなわち仏になろうと願う心であり、仏になろうと願う心は、すなわち世の人を救おうとする心であり、世の人を救おうとする心は、すなわち世の人を救い取って、仏のおいでになる国に生まれさせようとする心である。だから、かの安楽浄土に生まれたいと願う人は、最高至上の悟りを求める心を必ず起こすのである。もし、誰かが、この最高至上の悟りを求める心を起こさないで、ただかの国で受ける楽しみに間断がないと聞いて、その楽しみのために、生まれたいと願うとしても、また当然生まれるはずがない。

 そう断言している箇所に、私は目から鱗が落ちたといいますか、頭を後ろからガツーンと殴られたような感覚に陥りました。

 つまり、楽しみだけを求めて極楽浄土に往生したいと願っても、当然、行けるわけがない。そもそも往生を願うならば、また娑婆世界に戻って、今度は貴方が衆生を救済する役目を担おうとしなければ、最初から往生するわけありませんよ、と親鸞は言っているわけです。

 私自身は、これこそが親鸞聖人の深い教えの肝ではないかと愚考致しました。

 西念寺

 承元の法難(浄土宗では建永の法難)で越後国に配流された親鸞聖人(1173~1262年)は、その後、すぐ京都に戻ることなく、常陸国の「稲田草庵」と呼ばれた地に留まり、関東布教の拠点にします。

 親鸞聖人と家族はこの地に20年(1214~35年、数え年42歳から63歳にかけて)も住み留まり、親鸞はここで「教行信証」を執筆したと言われます。現在の茨城県笠間市の稲田禅房西念寺です。浄土真宗別格本山です。私も今年6月に、この寺院を参拝し、その頃から「教行信証」を読み始めたのでした。

「親鸞聖人伝絵」と大原問答と平等思想について

 このブログは、毎日書くことを自分に課しておりましたが、ここ1~2週間の連日の35度に及ぶ猛暑で、さすがに体力、気力、知力ともに衰え、書き続けることができませんでした。

 ということで、ブログは4日ぶりです。熱中症とコロナに苛まれる現代人は、生きているだけでも大変ですね。

 さて、難解な「ランボー詩集」は相変わらず牛の歩みで読み進んでいますので、その傍らに読んでいたのが沙加戸弘編著「はじめてふれる 親鸞聖人伝絵」(東本願寺出版、2020年3月28日初版)でした。

 今年6月21日付のこのブログで、浄土真宗の親鸞聖人(1173~1262年)が「教行信証」を執筆し、関東布教の拠点とした茨城県笠間市の稲田禅房西念寺をお参りしたことを書きましたが、その後、本屋さんでこの本をたまたま見つけて購入したのでした。法然上人や一遍上人の絵伝(いずれも国宝)は知っておりましたが、親鸞聖人伝絵があることは知りませんでした。

 この伝絵は、親鸞聖人の生涯で起きた画期的な出来事を絵巻にし、それに解説を加えたものです。四幅二十図あるようです。本願寺三代門首覚如が生涯をかけて康永2年(1343年)に完成したものです。「御絵伝」の絵を描いたのが浄賀法眼とされ、解説に当たる「御伝鈔」は覚如本人が書いたと言われています。普段は非公開だと思われます。

 御絵伝第2図「出家学道」では、親鸞聖人が9歳の時に出家得度される場面が描かれています。得度を依頼された慈円僧正は「15歳までは出家できません。これは規則です」と頑なに断ったものの、親鸞聖人がこれに応えて、あの後世になって有名になった歌を詠みます。

 明日ありと

 思う心のあだ桜

 夜半に嵐の 吹かぬものかは

 歌人でもあり「愚管抄」などの著書もある慈円は心の中で唸り、得度の式を行ったといいます。

 親鸞聖人自身は自ら教団をつくる意思はなかったと言われています。本願寺教団はつくったのは親鸞の曾孫に当たる覚如上人であり、その覚如がこの御伝鈔を書いているということは、この「親鸞聖人伝絵」には、結果的には本願寺教団の思想が色濃く反映されることになったようです。例えば、第6図「選択付属」では親鸞聖人が師の法然から著書「選択本願念仏集」の書写などを許される場面を取り上げる一方、晩年になって、親鸞が長男善鸞を義絶せざるを得なかった「事件」を「伝絵」として取り上げることはありません。

 また、承元元年(1207年)に、専修念仏停止(せんじゅねんぶつちょうじ)により、法然は讃岐に、親鸞は越後に流罪、その他4人が死罪となる「承元の法難」が起きます。この模様は、御絵伝第12図「法然上人配流」で描かれています。ただこの図の右端に「不機嫌な善恵房」が描かれています。解説によると、この善恵房が、配流される法然上人に対して「念仏をやめたら罪も軽くなりますよ」言ったので、師の法然から大いに叱責されたといいます。そういう史実があったのかどうか、あったとしても何故そのような不機嫌な善恵房を書かなければならなかったのか、については何らかの作者の意図が感じられます。

 法然には380余人という多くの弟子がいたと言われますが、「七箇条制誡」によると、初期の法然門弟190人の中で、綽空(後の親鸞)は86番目に名前が確認されるに過ぎなかったと言われます。一方の善恵房証空の方は、14歳から法然の側に仕え、「七箇条制誡」では法然門弟中、四番目に署名され、後に浄土宗の中の本派本流の鎮西派とは違う西山派を確立します。善恵房は、承元の法難の際には慈円の庇護により、かろうじて流罪を免れます。

 また、善恵房証空の孫弟子に当たるのが時宗の開祖一遍上人です。ということは、本願寺教団を設立して、この御伝鈔を書いた当時の覚如上人にとって、証空も一遍も同じ法然浄土宗の流れを汲むライバルではなかったかと思われます。わざわざ「不機嫌な善恵房」を描かせたのは、「法然の教えを忠実に守っている正統派は、我が教団だ」とアピールしたかったかのようにも見えます。別に誹謗する意図は全くありませんし、理解はできます。

親鸞が「教行信証」を執筆した稲田の西念寺

 話は変わって、先日22日に放送されたNHK「歴史発掘ミステリー」で「京都 千年蔵『大原 勝林院』」を取り上げていました。とても面白い番組でした。ただ、1点だけ気になったのは、大原三千院の北にあるこの勝林院を長和2年(1013年)に創建(復興)した寂源のことです。寂源は、19歳で出家する前は源時叙(みなもとのときのぶ)という右近衛少将でした。しかも、後に権力の最高位を手にする藤原道長の室倫子は時叙の姉。つまり、寂源は、道長の義弟に当たるのです(寂源の出家には諸説あり不明)。

 番組では、寂源が比叡山の僧侶を集めて論談し、比叡山の僧侶が、仏教は厳しい修行と苦行を経た我々僧侶だけが御教えを伝授する役目があると主張したのに対して、寂源は、信仰には優劣がなく、貴賤もなく、男と女の区別もなく、善人も悪人もなく、仏様は救ってくださる、と反駁したところ、その証拠として暗がりの阿弥陀如来坐像がパッと輝いたという逸話をやっておりました。その論壇の場には、最高権力者に昇り詰めながら、疫病などで荒廃する都の惨状を見て己の無力さと将来、自分自身が地獄に堕ちるのではないかと不安を抱いていた寂源の義兄の藤原道長が、影で見ていたとなっていました。

 この場面を見て「あれっ?」と思いました。

 浄土宗の開祖法然上人の生涯の初期の頃に、有名な「大原問答」というものがありました。文治2年(1186年)に、法然が顕真法印の要請により浄土宗の教義について、比叡山・南都の学僧と問答し信服させ、法然を一躍有名にした出来事でした。この大原問答が行われた所が、この大原・勝林院だったのです。私が「あれっ?」と思ったのは、これまでの皇族や貴族らを中心にした南都六宗の旧仏教に対して、法然が異議申し立てをして、老若男女、貴賤も善人も悪人も関係なく、念仏を唱えれば、皆平等に誰でも極楽浄土に往生することができるという非常に革命的な、ある意味では危険な思想を法然が初めて主張していたと思っていたからです。

 NHKの番組がもし史実だとしたら、法然よりも150年以上も昔に、寂源が革命的な「平等仏教」を説いていたことになります。しかも、道長政権という貴族政治が頂点を極めた時代で、いわば「貴族仏教」が頂点を極めていた時代です。法然が、寂源の思想を知っていたかどうか分かりませんが、場合によっては特筆もので、歴史を書き換えなければならないのではないかと思った次第です。

茨城県笠間市の稲田禅房西念寺=親鸞聖人をたずねて

 コロナ感染者が一向に減らないのに、19日から県境封鎖の関所も全面解除され、全国で行動の自由を得ることができましたので、好きな城郭と寺社仏閣巡りを再開することにしました。

 色々と行きたい所があるのですが、差し迫って優先したかったのが、親鸞聖人(1173~1262年)が「教行信証」を執筆し、関東布教の拠点とした茨城県笠間市の稲田禅房西念寺でした。このかつて「稲田草庵」と呼ばれた地に、親鸞聖人と家族は20年(1214~35年、数え年42歳から63歳にかけて)も住んでいたそうです。浄土真宗別格本山です。はい、実は今、「教行信証」を読んでいるのです。

西念寺 この写真が一番有名でしょう

 私は無鉄砲ですから、あまり事前に計画を立てるのが苦手です。笠間市と言えば、笠間焼で有名ですから、ついでに色々と見て回ろうかと、スマホで時刻表などを調べたら、何と自宅から電車と歩きで往復5時間も掛かることが分かり、笠間焼巡りは諦めて、「西念寺」一本に絞ることにしました。

西念寺

 電車はかなり空いていました。乗り換え駅では、「全面解除されましたが、慎重に行動してください」とのアナウンスもあり、まだ多くの人は警戒しているようでした。

 栃木県の小山駅から水戸線に乗り換えて、最寄り駅の「稲田」に到着。駅長さん1人しかしない小さな駅で、下車したのは私一人でした。駅前に商店街のない簡素な町で、心寂しくなりました。観光案内では駅から歩いて15分でしたが、狭い住宅地に紛れ込んでしまい、境内に着くのに25分ほど掛かってしまいました。

 参拝者は数人おりましたが、間もなく帰り、しばらくは、私一人が境内を散策しました。親鸞聖人の聖地ですから、もっと門徒衆が押しかけているのかと思っていたので、拍子抜けしてしまいました。

 上の写真は、修験者弁円が、親鸞聖人の命を狙おうと襲いますが、逆に、回心して親鸞の弟子明法房になったと言い伝えられる場所です。

西念寺の本堂

 上の写真は本堂ですが、中に入れました。薄暗い中、誰もおりませんでしたが、記帳してきました。例えは、間違っていると思いますが、どこかカトリック教会の祭壇のようなきらびやかな金色に輝く仏壇で、まぶしいほどでした。御本尊様は阿弥陀仏だと思われますが、中に隠れている感じで分かりませんでした。

 本堂内の写真撮影は控えました。

 案内掲示板はなかったのですが、恐らくは親鸞聖人のお姿かと思われます。ここに滞在していたのは40歳代から60歳代初めですから、年齢的に合った像に見えます。

 本堂を向かって右側が山道になっていて、親鸞聖人にとっては若い頃に20年間も修行した比叡山を彷彿とさせたようです。

 この看板がその説明文。

 越後に流罪となった親鸞聖人の関東布教の拠点として、健保2年(1214年)、この稲田草庵の地を提供したのが、常陸国稲田の領主だった宇都宮(稲田九郎)頼重で、彼も親鸞に師事して、頼重房教養という法名を称したという墓標記です。この教養は、親鸞の消息「末燈鈔」第九通の「教名」(けうやう)という説もあります。

 上の看板の説明にあるように、天正・慶長年間に庇護者の宇都宮氏が断絶し、西念寺は荒廃してしまいます。

 その荒廃ぶりを嘆き、聖地を復興したのが、笠間城主松平康重の家老石川信昌だったことが書かれています。知りませんでした。

太子堂
親鸞聖人御頂骨堂

 親鸞聖人は京都で入滅されますが、ここの稲田禅房二世救念の願いにより、聖人の御頂骨を分与され、この地に分骨したお堂を建てたことが書かれています。

 もちろん、お堂の敷地内には入れません。

 西念寺を辞すると、ほど近くに林照寺があります。これは、浄土真宗の単立寺院で鎌倉時代に誠信房によって開基されたといいます。

 親鸞による関東布教で、多くの弟子が育ち、下野、常陸、下総にはかなり多くの真宗系の寺があります。いつか、寺巡りをしたいと思ってます。

 JR水戸線稲田駅近くに戻り、ランチをしたお蕎麦屋さん「のざわ」です。実は、食事ができるお店は、近辺にこの1軒しか見当たらず、当然のことながら、昼時は満員。20分ぐらい外で待ちました。

 天ざると地酒「稲里」1合で1936円也。昼間からお酒とは!煩悩具足の凡夫、悪人です。

稲田神社

 電車は1時間に1本しか通っておらず、55分も待ち時間ができたので、また国道50号沿いに、西念寺の方角に戻り、途中で見かけた稲田神社をお参りすることにしました。

 創建は1200余年といい、式内大社ですから由緒ある神社でした。

 御祭神は、スサノオの妻である奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)。稲田という地名は稲田姫から取られたのでしょうか?

 かなり急勾配の階段でした。

 またして、誰もいない本殿で、コロナの早期収束をお祈り致しました。

 神社の横は結構広い、あまり整備されてはいない運動広場のようなものがあり、その前に、この「忠魂碑」がありました。弾丸の形から、日清・日露戦争の戦没者の慰霊のように見えますが、詳細は分かりません。

 以上、久しぶりの小旅行でした。ほんの少しだけ親鸞聖人を身近に感じることができました。「教行信証」を読むに当たり、西念寺を思い出すことにします。

「歎異抄」を読む=邪道に興味を持つ救いようのない悪人である私

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 私は長年、ジャーナリズムの世界にいるので、職業病なのか、何でも斜に構えて物事を搦め手から見る傾向があります。当事者ではないからです。何か話題になるようなことが起きれば取材しますが、いつも第三者ですから、それらの事象は醒めた目で見なければなりません。何でもそうです。政治の世界は当然ながら、普通の人が楽しんでいるスポーツや芸能の世界まで正面から観察しません。いつも、これは何か裏があるな、と猜疑心の目を持って見ます。だから楽しめません(笑)。娯楽にもなりません。

 宗教の世界もそうです。教祖や開祖の教義よりも、分派した経緯やイザコザや争いの方に興味を持ってしまいます。実に邪道です。罰当たりです。分かっています。

 先日、「もっと古典を読もう」と一念発起し、親鸞の直弟子・唯円が書いたと言われる「歎異抄」を再読しました。若い頃読んだ時、よく理解できなかったのですが、ここ数年、柳宗悦「南無阿弥陀仏」や法然「選択本願念仏集」等を読んできたので、何とか読むことができました。「歎異抄」は、親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の悪人正機説が有名ですが、阿弥陀仏の大慈悲を絶対視する(とまでは言ってませんが)「他力本願」を重視した書と言えるでしょう。歎異抄とは、師・親鸞亡き後、異説が蔓延る世を嘆く、という意味です。親鸞聖人がお伝えしたかった本当のことを会得してほしい、といったことを意図した書です。

 「歎異抄」は、昔買った中央公論社の「日本の名著」に収録されている石田瑞麿・東海大教授による現代語訳を読んだので、数時間で読めました。それで満足していたら、ネット上で実に精細に「歎異抄」を分析して原文と現代語訳を対比したサイトを偶然発見しました。驚いたことに、このサイトでは、石田瑞麿も含み、梅原猛、五木寛之、阿満利麿、倉田百三、暁烏敏、松原泰道、紀野一義、野間宏ら錚々たる宗教学者や作家といった各氏の現代語訳や解釈の誤りを指摘して、「親鸞聖人の書き残されたものとは合わない」とまで言うのです。そして、「歎異抄の正しい解説は、ほとんどの学者ができません」「最も正確で、分かりやすい解説書」はこの本しかない、とばかりに、新聞でよく広告を見かけるある一冊の本がアマゾンの宣伝付きで紹介されていました。

法然上人

 確かに、このサイトは分かりやすく、明解な解説で読み応え十分です。例えば、「摂取不捨の利益」を「絶対の幸福」と訳すあたりは「凄いなあ」と感心しますが、その解釈が正しいのか、また、過去の碩学の解釈がこのサイトが指摘している通りに大間違いなのか、私自身は無学で判断できません。京都A寺の御住職さまならすぐ分かるかもしれませんが、私はただ、「これは宗教論争なのかなあ」と思ったり、「ある本を売るための宣伝サイトなのかな」と思ったりします。

 そして、何よりも、こうした解釈の違いこそが、弟子による分派や新教団設立などが生まれていくのではないかと、罰当たりの不逞の輩である私なんか思ってしまいます。

 例えば、親鸞は自らは生涯を法然の弟子として過ごし、新しく教団を設立する意思はなかったと言われています(親鸞は、法然190人の門弟の中の86番目の弟子だったと言われます。そのせいか、もしくは、故意なのか、作為的なのか、寺内大吉の名著「念仏ひじり三国志―法然をめぐる人々」に親鸞はほとんど登場しません)。浄土真宗(という教団)をつくったのは、京都で親鸞の最期を看取った末娘の恵信尼の孫の覚如だと言われてます。ところが、これは本願寺派の話で、他にも東国の門徒を中心にして教団が継承された高田門徒(専修寺派)や荒木門徒など他にも沢山の分派があるのです。

 浄土真宗といえば、中興の祖・蓮如がすぐ思い浮かび、西本願寺と東本願寺、それに築地本願寺と有名な寺院が多く、本派本流だと思っていました。そしたら、特に真宗高田派は、15世紀に加賀の守護富樫氏の内紛の際に、本願寺派と敵対し、同じ宗派なのに、その後も度々、相争ったりしています。私の学生時代の畏友T氏は、この真宗高田派の名門中学校に通いましたが、仏教の授業では「とにもかくにも親鸞聖人様。本願寺派のことは扱いはするが、ただ『そっちもある』みたいな冷淡さだった」というのです。これには私のような素人は「へー」と、腰を抜かすほど驚いてしまいましたね。高田派は、浄土真宗とは言わず、正式には単に真宗とだけいうことも後で知りました。

 このように、神聖な宗教に対してさえも、ブンヤの私は、例えば、浄土真宗の信者(門徒)数は国内最大、その理由は何故かなどといった邪道な逸話ばかりに興味を持ってしまいます。

 ついでながら、最近、もう一つ、驚いたことは、日本の仏教の祖ともいうべき天台宗の開祖最澄(767~822年)が近江出身(今の大津市坂本本町生まれ)だということは知っていましたが、宗教学者の塩入良道・大正大学教授によると、最澄は、後漢の王族の帰化人の子孫と伝える三津首百枝(みつの おびと ももえ)の子息だというのです。となると、最澄=三津広野は渡来人(の子孫)だったということになります。

 嗚呼、普通の人なら京都の清水寺が何宗で、金閣寺が何宗なのか、融通念仏宗と天台宗との違いは何なのか、なんて気にしないでしょう。私のように、こんな邪道ばかり探っていては、地獄に堕ちることでしょうね。地蔵菩薩さまに救いを求めるしかありません。

 

明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 新型コロナウイルスの影響で、さらに自粛ムードが広がり、世間では3連休だというのに身動きできない状況です。

 新型コロナウイルスに緊急対応した医師や看護師に対して、「バイ菌」扱いしたり、いじめをしたりする事案が各地で頻発しているらしく、日ごろ、「日本民族は礼儀正しく優秀だ」「日本人は素晴らしい」と歓呼している人も、知らないふりをして声を潜めています。

 さりはさりとて、今から44年前の1976年2月に起きたロッキード事件関係の本を読んでいたら、ロッキード社から秘密工作費21億円を受け取ったとして脱税などで起訴された児玉誉士夫氏の東京都世田谷区の住所が番地まで出ていました。

 たまたまその近くの豪邸にお住まいの深沢令夫人と面識があるので、「散歩のついでに、旧児玉邸が現在どうなっているか調べてください」と探訪要請したところ、快く引き受けてくださいました。

 令夫人のことですから、「写真を撮影するのは憚れました」ということで、残念ながら、現場写真はありませんが、どうやら、現在は高級マンションになっているとのことでした。確か、ロッキード事件発覚後の翌月に、児玉邸にセスナ機が自爆特攻した事件があり、2階の1部が損傷しただけだったので、大豪邸だったのでしょう。やはり、跡の敷地に高級マンションが建つほど広大な敷地だったんですね。

 そんな話を大分にお住まいの物知りの三浦先生に話したところ、「児玉さんの御子息は、何をされたかご存知ですか? 赤坂方面の放送局の重役まで務められましたよ。それより、あの石原莞爾の孫はその放送局の会長までやってますよ。作家の息子とはレベルが違います。世の中の人は何も知らないでしょうけどね」と仰るではありませんか。

 あらま。私も「世の中の人」ですから、何も知りませんでした。調べてみたら、フィクサー児玉誉士夫氏の御子息である児玉守弘氏は、TBSの常務取締役や関連会社の役員を務めた後、日音の相談役になったとか。満州事変を画策した石原莞爾の孫の石原俊爾(としちか)氏はTBSの社長~会長を歴任されてますね。

作家の息子とは、昨年、フジテレビの社長に就任した遠藤周作の御子息遠藤龍之介氏のことでしょうかねえ?

 最後に今日はこれだけは書いておきたい。「桜を見る会」事件のことです。

 報道に接する限り、桜を見る会の招待者は、特別な功績や功労がなくても、安倍首相の後援会の関係者ならフリーパスで、内閣府もチェックせずにそのまま通っていたことが明らかになりました。これでは、国民の税金を首相が「私物化」したことになります。花見会も高級ホテルでの前夜祭も、やりたければ個人のポケットマネーでやれば、納税者から誰も文句は出ないはずです。

 自分の選挙民を優遇すれば、「偉い先生」として、国会議員に当選するのは当たり前です。しかも、脱法的な手段で国民の代表として居座るなら言語道断で、民主主義の危機です。

  明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

 これは、浄土真宗の開祖親鸞が9歳のときに出家する際に読んだ歌とされます。

 飛躍して読めば、今の「桜を見る会」の騒動に一石投げかけるようにも読めます。

 恐らく、時の最高権力者はこの歌のことはご存知のことでしょうが、「驕れる者久しからず」ことを肝に銘じてもらいたいものです。

京都「左阿弥」は意外と知られていない由緒ある料亭です

明けましておめでとうございます。京洛先生です。

渓流斎さんは、先日のブログで「茶屋四郎次郎」を取り上げておられましたが、京都には彼の邸宅があった址(中京区新町通蛸薬師下ると上京区小川通下長者町)に立札と石碑がそれぞれ立っておりますよ。

 さて、本日は、京都でも意外と知られていない由緒ある料亭「左阿弥」をご紹介致しましょう。

Copyright Par Kyoraque-sensei

 実は、迂生も詳しくその由来は知りませんでしたが、いつも、墓参りなどで「東大谷」墓地(正式には、浄土真宗大谷派の「大谷祖廟」。地元では“東大谷さん“)から、円山公園の東側の道端を通り、知恩院(浄土宗総本山) に向かうと途中に料亭「左阿弥」があり、気になっておりました。

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上の写真の通り、玄関には立て札が立ち、その由緒も記されております。もともとは、この円山公園の一帯は「安養寺」というお寺の境内でもあり、左阿弥は同寺の塔頭の一つだったということです。それが、江戸の「嘉永」年間に料亭に転身し、現在に至っているわけです。


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貴人が今度、京都に見えた時にこの一帯を御案内しますが、円山公園までは、うるさい観光客が来ますが、この辺りまではほとんど来ません(笑)。今でも閑静で、法然、親鸞らが修行の場所に選んだだけのことがよく伝わってきます。

 また、近年になってからは「御前会議」など、重要、重大な会議が開かれたり、京都で最初のホテル「他阿弥ホテル」がこの地で始まったということです。


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寺内大吉著の「念仏ひじり三国志」を読むと、法然が「吉水(よしみず)」で布教する様を巧みな筆致で描かれておりますが、あれを読んで実地検証して、見て歩くのには、ここが最適の場所です。「吉水」という地名は、東山の山麓で美味しい水が流れ、溢れ出ているということから付けられたわけです。

八坂神社の裏手の円山公園一帯は、昔は「真葛ヶ原」と呼ばれ、淋しい場所だったのですが、今でも感じられます。


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 「安養寺」は、最澄が平安京を鎮護するために建てた古刹で、その塔頭の一つ「左阿弥」は、織田信長の甥・頼長が建てたものでした。(頼長の父は茶人の織田有楽斎。頼長自身も、雲生寺道八と号し、この地で茶事を極めたと言われてます)繰り返しになりますが、江戸期になって料亭になり、いろいろ変遷があったところです。日本の国家の将来を左右する「御前会議」もここで開かれたということですからね。貴人のような歴史好きにはたまらない一帯だと言えることでしょう(笑)。


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 「左阿弥」は、貴人が、足の負傷で途中で参拝を断念された埼玉の歴史の根源にもつながる「金讃(かなさん)神社」ほど古くはありませんが、新年、再度、挑戦されては如何でしょうか。

あの「金讃神社」は、本殿が無く、近くの御室山を御神体にして山を拝む古式にのっとる希少な神社です。古礼に従って本殿が無く、神体山を拝礼する旧官幣社は、全国でも金讃神社と、奈良・桜井の「大神神社」、長野の「諏訪大社」の三社だけです。

 是非とも参拝に行かれて、霊気を浴びて来られることです。今年の「開運」間違いなしですよ。

 以上お終い。