忘れたことを忘れてしまった話

 昨日9月8日付日経夕刊の一面コラム「あすへの話題」で、精神科医のきたやまおさむさんが、大変興味深いお話を書かれていました。「忘れ物の大問題」と題して、自分は小さい頃から如何に忘れ物が多いか、その失敗談を赤裸々に告白しているです。

 きたやまおさむさんは、フォークルセダースの一員などとして一世風靡しましたが、れっきとした医学博士です。さぞかし、芸術的センスに加え、大変、頭脳明晰な方だとお見受けしていたのですが、そんな「欠点」があったとは…。若い時から、財布、カギ、メガネ、切符…と次々となくし、親や家人の方から呆られながらも、財布にはヒモを付けるなどして少しずつ対処していったことを告白しています。

 切符は、新幹線の切符をなくすことが多く、車掌さんから「見つからなかったら、全額払ってもらいますよ」と脅されながらも、9割方は、在来線から新幹線に乗り換える改札機から取り忘れていたそうです。案外、そそっかしい人だったんですね。

銀座・スペインバル「バルデエスパーニャ ビルゴ」イベリコ豚のグリル・ランチ1000円

 こういう失敗談は大好きですが(笑)、私も他人様のことは言えません。電車の中に傘や携帯を忘れたことがありますが、一番痛恨だったことは、もう30年近く昔の話です。痛恨と言っておきながら、ほとんど忘れてしまいましたが、場所は、オランダ・アムステルダムのスキポール国際空港だったことだけは覚えています。確か、旅行ではなく、仕事だったと思いますが、それすら覚えていません。駄目ですねえ(笑)。

 とにかく、ここはトランジットで、何時間か、だだっ広い空港内で待たされていたのです。そしたら、切符がない! 胸ポケットに入れていて、走ったりして、何処かで落としたのかもしれません。カバンの中、背広のあらゆるポケットを隈なく探しても飛行機チケットは出てきません。喉がカラカラになり、脂汗が流れてきました。

 それでどうなったのか?ーこうして日本にいて、本人は、呑気にブログを書いているのですから、無事帰国できたことは確かですね。どうやって?

銀座「ローマイヤー」ポークソテーランチ1100円

 航空会社のカウンターに行って、パスポートを見せて、チケットを再発行してもらったのかもしれません。そんなこと出来たのでしょうか?牧歌的時代だったのかもしれません。それとも、チケットが何処からか出てきたのか?ーそれさえ忘れているということはかなり重症です。忘れ物さえ忘れたことを忘れる。

 もうこうなっては、「老人力」が付いたと明るく前向きに解釈しますか。

歴史を塗り替える新事実には驚くばかり=Nスぺ「戦国~激動の世界と日本~」

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

いやあ、これまでの歴史観が百八十度引っ繰り返ってしまいましたよ。「これまで自分は、何の歴史を学んできたんだろう?」と呆然とするぐらいの衝撃がありました。 

 今年7月11日に放送されたNHKスペシャル「戦国 ~激動の世界と日本~」第1集「秘められた征服計画 織田信長×宣教師」と第2集「ジャパン・シルバーを獲得せよ 徳川家康×オランダ」のことです。

 恐らく皆さんは御覧になったと思いますが、私は見ていませんでした。でも、心優しい友人たちが録画したDVDを貸してくれました。本当に驚きました。見ていて何度も「そういうことだったのか」と膝を打ち、解けなかった複雑なジクソーパズルが繋がった感じがしました。

 「新発見で迫る戦国日本の真実」と銘打っていますから、歴史学者さえも知らなかったことかもしれません。とにかく、バチカンにあるイエズス会ローマ文書館に所蔵されている初公開の宣教師文書やオランダ国立公文書館が所蔵する「世界初の株式会社」と言われているオランダ東インド会社の平戸オランダ商館文書などの記録や報告書から、これまでの歴史を塗り替える新真実が発見されたのです。

 日本の戦国時代とは、応仁の乱が始まる1467年から、徳川家が豊臣家を滅亡させて全国統一を完成させた大坂の陣の1615年までの約150年間のことを指しますが、単なる狭い国土での内戦に過ぎないかと思っていたら、実は、当時世界最大の帝国スペイン(旧教)と新興国オランダ(新教)との代理戦争の側面があったという驚くべき事実があったのです。グローバリズムは20世紀末に始まったわけではなく、東インド会社の登場の17世紀初頭から始まっていたのです。シカゴ大学のケネス・ポメランツ教授が指摘するように、「戦国時代の日本は、まさに世界史の最前線にいた」のです。

◇スペインの日本征服計画

 第1集の「秘められた征服計画」では、スペインが宣教師を先兵というか、隠れ蓑にして、いや、諜報機関として日本人を洗脳して、挙句の果てには植民地として征服してしまおうという計画があったことが、宣教師から国王フェリペ2世への報告書などで浮かび上がります。フェリペ2世は、「征服王」の異名を持つ野心家です。スペインは、宣教師を先兵にして中南米からアジアにかけて広大な植民地を獲得してきました。

 しかし、戦国時代の日本は、世界でも稀に見る軍事大国で、メキシコやペルーやフィリピンのように簡単に植民地化できないことから、最終目的である中国の明を日本の軍事力を利用して征服するという計画にひとまず変わっていきます。

 宣教師たちは、戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いでのし上がってきた尾張の弱小国の織田信長に目を付けて取り入ります。その情報収集能力と先見の明は大したものです。これではスペインではなくスパインです(失礼しましたあ)。信長もスペインの持つ銃などの武器が欲しいので宣教師たちを利用します。信長は宣教師たちを通して得た最新鋭の銃を使って、長篠の戦い(武田家が滅亡)や石山本願寺での戦い(仏教勢力が衰退)に打ち勝ち天下統一に近づきます。一方で、宣教師たちは、キリシタン大名高山右近(摂津)らに信長に参戦するよう働きかけていたのです。

 この間、日本は世界でも稀にみる軍事大国になり、鉄砲は西洋より性能が良い国産化に成功します。(弾丸の鉛はタイの鉛鉱石の鉱山から発掘されたものだったことにも驚きました) 

 信長が本能寺の変で亡くなった後、宣教師たちは逸早く、豊臣秀吉に接近します。しかし、秀吉の方が一枚上手で、スペインより先に明への遠征を企み、その前に朝鮮出兵します。しかも、小西行長らキリシタン大名を最前線に送り、彼らの弱体化を図り、バテレン追放令まで出します。さらに、秀吉はフィリピンに密偵を派遣し、スペインの富を強奪する企みまでし、宣教師たちに「秀吉は傲慢と野心の塊」と報告書に書かせます。番組では触れてませんでしたが、秀吉がバテレン追放令を出した背景には、宣教師が日本人を奴隷にしてルソン島に運ぶ奴隷船の先兵になっていたことを見抜いていたからだという説もあります。

 ◇大坂の陣はスペイン対オランダの代理戦争

 第2集の「ジャパン・シルバーを獲得せよ」では、当時の日本は銀山王国で、佐渡銀山では多い時は年間100トンと世界の産出量の3分の1もの大量の銀を産出していたという驚くべき事実が明かされます。これまで「日本は資源が出ない」と教えられてきたので、引っ繰り返るほど驚きました。

 この銀に目を付けたのが、スペインとの独立戦争を戦っていた新興国オランダでした。東インド会社のジャック・スペックス商館長は徳川家康に接近し、オランダは、スペインのような布教や領土獲得の野心はなく、ただ貿易による利益を追求したいだけだと説得して、家康の望む大量の武器弾薬を売りつけます。これらの武器が関ケ原の戦いや大坂の陣などに使われます。特に大坂の陣では、大坂城の豊臣秀頼側にスペインが付き、まるでオランダとスペインとの代理戦争の様相を呈します。最後は、徳川方がオランダ製のカノン大砲を500メートル離れた遠方から大坂城を攻撃して勝利を収めます。この大砲購入により、銀貨1万2000枚分、重さ97トンもの銀が日本からオランダに渡り、オランダがスペインとの独立戦争に打ち勝つ原動力になったのです。

◇日本初の外人部隊か?

 話はこれで終わらず、オランダとスペインの「植民地争奪戦争」は続き、特に、スペインが支配していた現インドネシアのモルッカ諸島へ、何と日本人のサムライが傭兵として派遣され、オランダがスペインの要塞を奪取した様が、オランダ国立公文書館の報告書に出ていたのです。そこには、積荷リストとして、火縄銃や刀、槍のほか、「ユウジロウ 月7万2000円(換算)、ヤサク 月7万2000円、ソウエモン 月8万8000円」などと日本人の名前とその月給まで書かれていたのです。

 戦国の時代が終わり、仕事がなくなった武士(サムライ)たちが海外に職場に求め、スペインの要塞を陥落させ、オランダ人からは「スペインを駆逐するのに日本人傭兵が大いに役立った」と報告書の中で言わしめていたのです。

 このほぼ同時代に、欧州では三十年戦争(1618~48年、哲学者デカルトも参戦)があり、オランダが勝利し、スペインが敗れて衰退するきっかけとなりますが、この時オランダが使った大砲の銅は「日本産」だったというのです。世界史の大転換の中で、日本はすでに、グローバリズムに取り込まれ、「貢献」していたことも驚きです。 

 この番組を見て、「本当に歴史を書き換えなければならないのではないか」という思いを強くした次第です。(あくまでも個人的な感想でした。南蛮人がキリスト教を武器に日本征服を企んでいたことが、500年経ってやっと公文書初公開で明らかになるとは!驚きを通り越して恐怖すら感じます)

過去最大規模のルーベンス展には圧倒されっぱなしでした

昨日は、京洛先生からの飛脚便で、小生が「ムンク展」に行ったのでは?ーと推測されておりましたが、残念!  同じ東京・上野公園内でも、国立西洋美術館で開催中の「ルーベンス展」を覗いてきました。日曜日なので、覚悟してましたが、若い女性が押し寄せず、割と空いてました。

いがったですねえ。感動で打ち震えました。もう3カ月も前に前売り券1400円を購入して準備万端だったのです(笑)。

ルーベンスは、私は小さい子供の頃から知ってました。何故かと言いますと、自宅のダイニングキッチンの壁にルーベンスによる天使と果物などが描かれた絵画(題名は忘却)があり、毎日眺めながら、そのきめ細かい絵筆と写実性に圧倒されていたからでした。勿論、それは本物であるわけがなく、しかも、複製画でも何でもなく、どこかの銀行かどこかでもらってきたカレンダーでしたけど…(笑)。

そして、もう25年以上も昔ですが、在日ベルギー政府観光局の招待でベルギーに取材旅行に行った際、アントワープの聖母大聖堂で見たルーベンスの「キリストの降架」(1614年)は、いまだに印象に強く残っております。「フランダースの犬」の物語でネロとパトラッシュが最期に見上げるあの作品です。大いに感動したものでしたが、「フランダースの犬」は地元ではあまり知られていないと聞いた時は、驚いたものでした。英国作家が書いたものだから、とか、フランドルのことをあまり好意的に描いていないというのが理由らしいですが、日本人の多くは、子どもの頃に読んだ「フランダースの犬」を通して、ルーベンスの名前を知ったのではないでしょうか。

◇ピーター・ポール・ルーベンスはペテロ・パウロ・ルーベンス

さて、ペーテル・パウロ・ルーベンス(1577~1640)は(Peter Paul Rubensですから、英語読みすると、ピーター・ポール・ルーベンスになりますね)、62年の生涯で何千点もの作品を生み出しましたが、もちろん、一人で描き切ったわけではなく、主にアントワープの工房で、ヨルダーンスら弟子らとともに製作しました。ルーベンスが実際に描いたのは主要人物の顔だけ、なんという作品もありました。17世紀のフランドルはスペイン統治下で(オランダは1581年に独立、ベルギーは1830年になってやっと独立)、詳しくはよく知りませんが、ドイツ生まれのルーベンス自身は語学堪能、博学で、画家だけでなく、外交官としても活躍しました。

題材は聖書や神話や伝説などが多いですが、その大きさもさることながら、あまりにも写実的で本当に圧倒されます。ローマ皇帝ネロによって自害を命じられた「セネカの死」は、血管の一本一本が透けて見えるほどでした。

今展は、スペイン・マドリードのプラド美術館やロシアのエルミタージュ美術館など世界10カ国から約40点が集められたもので、日本では「過去最大規模のルーベンス展」と銘打っております。その宣伝文句は、文字通りで、看板に偽りはありませんでした。

※なお、上記写真は、写真撮影が解禁されている「常設展」(いわゆる、松方コレクション。現在も海外から西洋画を買い進めていたのには驚きでした)の様子です。

ルーベンス展は、撮影禁止でしたので、パンフレットの写真を下に掲載しておきます。

実物を見たくなることでしょう(笑)。

オランダ人家族に久しぶりの観光ガイドをしてきました

昨日は、実に数年ぶりに海外からの観光客向けガイドを、病気で中断しておりましたが復活し、仕事として行いました。一応、こんな私でも通訳案内士の国家資格を持っています。(でも、安倍政権は、資格がなくても誰でも、報酬を得てガイドできるよう法律を改悪しました)

クライアントさんは、オランダの画家レンブラントで有名なライデン近郊の小さな町からやってきた4人家族で、お父さんは、何と旅行会社の創業者兼社長さんでした。15歳の娘さんと13歳の男の子がおります。2カ月近く前にお母さんからオランダから直接、日本にいる私の携帯に「7月20日に東京でガイドをしてほしい。あなたに任せます」と依頼があったのです。(私の名前と携帯番号などは観光庁のネットにも登録しているもので)

「お任せ」っていうの、一番困るんですよね(苦笑)。相手が興味もない所に案内するわけにはいきませんから、ある程度の趣味や興味を聞かなければなりません。でも、子どもと大人の興味はまるで違いますし、時間は限られ、最大公約数を選ばなければなりません。

まあ、正直、下準備が大変でした。オランダ語も少し勉強し、事前に行く場所、ランチする店なども確かめに行きました。結局、それやこれやで事前の準備通りには行かず、観光ガイドの仕事って、そうワリに合う仕事じゃありませんね(笑)。

大変失礼ながら、オランダ人にはマイペースといいますか、少し気まぐれなところがありまして、こちらが質問のメールをしても、返事が遅く、あまり正確に答えてくれることが少ないのです。しかも、最近、ヨーロッパでは個人情報保護が急に厳しくなりましたから、どこまでプライバシーに触れていいのか分からなくなってしまったのです。例のGDPR(General Data Protection Regulation 一般データ保護規則)とか呼ばれるやつです。

銀座

で、結局、準備不足のまんま、本番に臨みました。

結果は「50点」ぐらいの自己採点ですかね。赤点です。何しろ、言葉が出てこないのです(苦笑)。何気ない会話なんですが、「花火」が出てこないので、浅草近くの隅田川花火の話題に進めることができず、富士山の「裾野」という言葉が出てこずに、うまく説明できませんでした。ダメですねえ、全く。

しかし、オランダ人家族はとても寛大でした。とても満足そうな表情で帰っていただいたので、私自身は救われましたね。

15歳の娘さんは、とても可愛らしく、恥ずかしがり屋さんでした。名前は、日本語で「月」という意味でした。思春期特有のヒネたりしてません。純粋で、とてもまっすぐな感じでした。オランダと日本との交流で、私は事前にiPodで資料をつくって彼らにお見せして、長崎の出島の写真を見せたら、「あっ!これ教科書で見たことある」と彼女は言ってくれたので、嬉しくなりました。オランダでも、蘭日交流史を少しは教えているんですね。

13歳の坊やは、自分のスマホのゲームばかりやってました。名前は、日本語で「熊さん」という意味でした。13歳は日本で言えば、中学1,2年生ですが、何か小学校5,6年生に見えました。自分もこんな幼かったのかなあ、と思ってしまいました。でも、愛嬌があり、可愛いので連れて行こうかと思ったぐらいです。冗談ですよ。

お父さんは、あのシーボルトのことまで知っていて、ライデンのシーボルト博物館に行った話をしてくれました。なかなかのインテリです。

秋葉原に行ったら、お母さんが急に「猫カフェに連れて行ってくれい」と言い出すのです。こちらも「そんなの聞いてない。もっと早く言ってくれい。事前に場所を調べたのに!」と心の中で思いつつ、スマホで一生懸命に検索して、手頃な店を見つけました。しかし、電話で場所を教えてもらったら、とても下手くそで、埒が明かず、少し時間を取らせてしまったことが失敗でした。

そこは、なかなか厳しい店で、「猫は触るだけで抱っこしちゃいけない」とか、「荷物はロッカーにいれろ」とか「入室する前に消毒しろ」とか規則規則のオンパレードでした。猫カフェは、生まれて初めて行きましたが、日本でブームになるのが分かりましたね。スコティッシュとかアメリカンショートヘアとか、あまり見たことがない高級猫を見ることができました。ちなみに、1時間近くいたら、一人1550円でした。

東京は、36度の猛暑で、マスコミで「熱中症に気をつけろ」と連呼するので、どこも日本人の姿が少なく、外国人観光客だらけでした。日本の着物姿も外国人でした。浅草の地下鉄の中を見回したら、ほとんど中国人と韓国人と台湾人とタイ人とインドネシア人ばかりで、日本人は私自身しか見当たらなかったので、お母さんに、その旨を伝えたら、「向こうに座っている女性2人は日本人じゃないかしら」と言うので、よく見たら日本人でした。

「どうして分かるんですか」と尋ねたら、お母さんは「やはり、服装や髪型が違うし、顔つきも少し違う」というのです。

私はオランダ人とドイツ人とフランス人の区別はつきませんけどねえ。恐れ入りました。

欧州個人情報保護法で、彼らの写真をここに掲載できないのが残念です。とても素晴らしい家族でした。

オランダ人兵士も長崎で被爆していたとは…日蘭史から

暑いですね。38度なんて、ゆで蛸になりそうですよ。

「海の日」の祝日で、何もする気がしませんでしたが、ちょと必要に迫られて、日本とオランダの交流史を調べておりました。

エポックメイキングは、やはり、関ケ原の戦いの前の1600年4月に、オランダ商船リーフデ号が、今の大分県の臼杵に漂着し、五大老の一人だった徳川家康が、その貿易商人ヤン・ヨーステンを庇護して、今の東京駅近くに屋敷まで与えて、外交顧問にしたことでしょう。

ヤン・ヨーステンがなまって、八重洲になったというのはどうやら本当らしく、東京駅八重洲地下街にヤン・ヨーステンの彫像があるようです。

よく知られているように、江戸幕府は鎖国政策を取りながら、中国とオランダだけは、長崎・出島での貿易を許可します。

何で、オランダなのか?南蛮人と呼ばれたスペイン、ポルトガルはカトリックで、オランダはプロテスタントだったから、というのが、教科書で教えてくれるところですが、今ひとつ、納得はいきませんね。

ある本によれば、特にカトリックのイエズス会は、貿易商人と同行して、奴隷貿易をやっていたようです。日本人の奴隷は、ルソン島で高く買われたようです。スペイン、ポルトガルは、中南米のインカ、アステカ帝国を滅ぼした前歴がありますからね。「伴天連追放令」を出した秀吉はそこら辺の知識や情報を持っていたのでしょう。

英国も新教ですから、なぜ、オランダかと聞かれれば、恐らく、オランダは奴隷貿易を少なくとも日本ではしなかったからではないかと推測します。

江戸時代は鎖国したとはいえ、天文学から物理学、航海術、医学、それに、レンブラントの国ですから、絵画や芸術に至るまで、西洋の科学、技術、文化がオランダを通じで入ってきたわけですから、知識人はこぞってオランダ語を勉強しました。

前野良沢、杉田玄白らによる日本初の海外医学翻訳書「解体新書」は、オランダ語訳ですし、福沢諭吉や大村益次郎らを輩出した緒方洪庵の適塾は蘭学塾でした。医者といえば、蘭方医でしたからね。

西周、榎本武揚らが(明治ではなく)幕末に留学した先は、オランダのライデン大学です。レンブラントもここで学びました。日本人初のフリーメーソン会員といわれる西周は、哲学や科学、技術などの翻訳語を産み出した人でした。

さて、一気に近現代に飛びますが、日本とオランダは先の太平洋戦争で、東インド会社、今のインドネシアの利権を巡って戦争をしました。オランダは、いわゆるABCDラインで、石油輸出を禁止して日本を苦しめました。1942年、日本はオランダ兵を含む連合軍兵を8万人以上に捕虜し、その中の一部を長崎の捕虜収容所に入れますが、そこで米軍による原爆投下により被爆した人がいたことは知りませんでした。

オランダは、BC級戦犯として、連合国の中で最も多い226人の日本人軍人・軍属を処刑しましたが、戦後かなり長い間、つい最近まで反日感情が強い国だったことも後で知りました。

オランダは現在も王国で、日本の皇室との交流を深めて、徐々に和解の道を歩んでくれたようですが、何か、複雑な話でした。

ちなみに、現在はヴィレム・アレクサンダー国王、政権は自由民主国民党のマルク・ルッテ首相。すぐ言える人はなかなかの知恵者です。