東京の川や堀は米軍空襲の残骸で埋め立てられていたとは!=鈴木浩三著「地形で見る江戸・東京発展史」

 斎藤幸平著「人新世の『資本論』」(集英社新書)は3日ほどで急いで読破致しました。仕方がないのです。図書館で借りたのですが、2年ぐらい待たされて手元に届き、しかも、運が悪いことに、他に2冊、つまり3冊同時に図書館から届いたので、直ぐ返却しなければならなかったからです。

 でも、私は若き文芸記者だった頃、月に30冊から50冊は読破していた経験があるので、1日1冊ぐらいは平気でした。歳を取った今はとても無理ですが…。

 斎藤幸平著「人新世の『資本論』」についての感想は、先日のブログで書きましたので、本日は、今読み始めている鈴木浩三著「地形で見る江戸・東京発展史」(ちくま新書、2022年11月10日初版)を取り上げることに致します。(これも図書館から借りました)

 著者の鈴木氏は、東京都水道局中央支所長の要職に就いておられる方で、筑波大の博士号まで取得された方です。が、大変大変失礼ながら、ちょっと読みにくい本でした。内容が頭にスッと入って来てくれないのです。単なる私の頭の悪さに原因があるのですが、あまりにも多くの文献からの引用を詰め込み過ぎている感じで、スッと腑に落ちて来ないのです。とは言っても、私自身は、修飾語や説明がない固有名詞や歴史的専門用語でも、ある程度知識があるつもりなのですが、それでも、大変読みにくいのです。何でなのか? その理由がさっぱり分かりません…。

 ということで、私が理解できた範囲で面白かった箇所を列挙しますとー。

・江戸・東京の地形は、JR京浜東北線を境に、西側の武蔵野台地と、沖積地である東側の東京下町低地に大きく分けられる。赤羽~上野と田町~品川~大森間では、京浜東北線の西側の車窓はには急な崖が連続する。…この連続した崖が、武蔵野台地の東端で、JRはその麓の部分を走っている。(17ページ)

 ➡ 私は京浜東北線によく乗りますので、この説明は「ビンゴ!」でした。特に、田端駅の辺りは、西側が高い台地になっていて、かつては芥川龍之介の住まいなどもありました。一方、東側は、まさに断崖絶壁のような崖下で、今はJR東日本の車輛の車庫か操作場みたいになっています。東側は武蔵野台地だったんですね!上野の寛永寺辺りもその武蔵野台地の高台に作られていたことが車窓から見える寛永寺の墓苑を見ても分かります。

・江戸前島は、遅くとも正和4年(1315年)から鎌倉の円覚寺の領地だったが、天正18年(1590年)に徳川家康が関東に入府した後、秀吉が円覚寺領として安堵していたにも関わらず、家康が“実行支配”し、江戸開発の中心にした。江戸前島は、本郷台地の付け根部分で、現在の大手町〜日本橋〜銀座〜内幸町辺り。(47〜50ページなど)

 ➡︎ 江戸前島は、日本橋の魚河岸市場や越後屋などの商店が軒先を連なる町人の街となり、銀座はまさしく銀貨鋳造所として駿府から移転させたりしました。江戸前島の西側は日比谷入江という浅瀬の海でしたが、神田山から削った土砂で埋め立てられました。現在、皇居外苑や日比谷公園などになっています。江戸時代は、ここを伊達藩や南部藩など外様の上屋敷として与えられました。当時は、埋め立てられたばかりの湿地帯だったので、さすがに仙台伊達藩は願い出て、上屋敷を新橋の汐留に移転させてもらいます。この汐留の伊達藩邸(現日本テレビ本社)には、元禄年間、本所吉良邸で本懐を遂げて高輪泉岳寺に向かう忠臣蔵の四十七士たちが途中で休息を求めて立ち寄ったと言われています。

・江戸城防御のため、家康は江戸城南の武蔵野台地東端部に増上寺、北東の上野の山の台地に寛永寺を建立した。寺院の広大な境内は、軍勢の駐屯スペース、長大な堀は城壁、草葺などが一般的だった時代の瓦葺の堂塔は「耐火建築物」だった。(50、76ページなど)

 ➡天海上人の都市計画で、特に北東の鬼門に設置された寛永寺は「鬼門封じのため」、南西の裏鬼門に建立された増上寺は、「裏鬼門封じのため」と言われてきましたが、それだけではなかったんですね。増上寺は豊臣方が多い西国の大名が攻め上ってくる監視、寛永寺は伊達藩など奥州から来る軍勢を防ぐ監視のための軍事拠点として置かれていたとは! それぞれ、上野の山、武蔵野台地と高台を選んで設置されたことで証明されます。

 ・東京の都市としての構造や骨格は、江戸時代と連続性があるどころか、実は少しも変わっていないものが多い。…その背景には、江戸幕府から明治新政府になっても、社会・経済システムの多くがそのまま使われ続けたことにあった。明治維新の実態は「政権交代」に近かった。(176,181ページなど)

 ➡この説は大賛成ですね。明治維新とは薩長藩などによる徳川政権転覆クーデターで、新政府は政経システムもそのまま継承したことになります。江戸城は皇居となり、江戸城に近い譜代大名の上屋敷は霞ヶ関の官庁街や練兵場になったりします。外務省外周の石垣は福岡黒田藩の上屋敷時代のものが引き継がれているということなので、今度、遠くから見学に行こうかと思っています(笑)。築地の海軍兵学校は、尾張家、一橋家などの中屋敷跡だったとは…。他に、小石川・水戸家上屋敷→砲兵工廠→東京ドーム、尾張家上屋敷→仮皇居→赤坂御用地などがあります。

 ・昭和20年、米軍による東京大空襲で、都市部の大部分は焦土と化した。…GHQは、東京都に対して、大量の残土や瓦礫を急いで処理するよう命じた。東京はてっとり早く外濠に投棄することを決定した。(196ページ)

 ➡関東大震災の際の瓦礫は、後藤新平東京市長の原案で、埋め立てられたり、整備されたりして「昭和通り」になったことは有名ですが、東京空襲の残骸は、外濠埋め立てに使われたとは知りませんでしたね。それらは、現在の「外堀通り」なったりしてますが、真田濠が埋め立てられて、四ツ谷駅や上智大学のグラウンドになったりしております。そう言えば、銀座周辺は、かつて、外濠川、三十三間堀川、京橋川、汐留川、楓川など川だらけで、水運交通の街でしたが、空襲の瓦礫などでほとんどが埋め立てられ、(高速)道路などに変わってしまいました。(戦災後だけでなく、昭和39年の東京五輪を控えての都市改造もありました)まあ、都心の川や堀がなくなってしまうほど、カーティス・ルメイ将軍率いる米軍の東京爆撃が酷かった(無辜の市民10万人以上が犠牲)と歴史の教科書には載せてもらいたいものです。

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