人間はなぜ歩くのか?=ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」

 ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳「直立二足歩行の人類史」(文藝春秋、2022年8月10日初版、2860円)を読了しました。面白かった、実に面白かった。仏文学者の鹿島茂氏が「今年一番の収穫」と書評された通りでした。わたし的には、ここ数年のベストワンかもしれません。何と言っても、「我々は何処から来たのか?」というアポリアの答えをこの本は示唆してくれるからです。

 2022 付の渓流斎ブログ「1100万年の類人猿ダヌビウス・グッゲンモンから始まった?=ジェレミー・デシルヴァ著、赤根洋子訳『直立二足歩行の人類史』」でも既に取り上げましたが、結局、人間は神がつくったわけではなく、サルから進化したことを認めざるを得ません。

 でも、人間は猿だと思えば、少しは納得できます。戦争が好きな狂暴な人間もいれば、人を騙す変節漢もいる。そして、うまく立ち回る如才ない人間もいますねえ。人間は所詮、猿だと思えば腹も立ちません(笑)。かと思えば、恵まれない人に共感して援助の手を差し伸べる者もいれば、自己犠牲を厭わず他人に尽くす人までいます。

 この本の結びの言説が素晴らしいので、読後感もすっきりします。結局、「直立二足歩行する特別なサルが繁栄できたのは、共感し、許容し、協力する能力のお蔭だ」と著者は結論付けているのです。そこに至るまでの経過を換骨奪胎して要約しますと、こんな感じになるかもしれません。…人類は直立二足歩行によって、手で物を運ぶことができるようになり、そのうち道具や武器まで使えるようになる。(武器を使うために、立ち上がったわけではない)そして、直立二足歩行することによって、気道が開き、さまざまな音声を発することができるようになり、それが言語として発達する。(そう言えば、現代までに生き残る二足動物は、他に鳥類ぐらいですが、オウムは物まねをして言葉らしきものを喋りますね!)骨折したのに、さらに生き延びている類人猿の化石が発見される事実は、他の誰かが手当をし、お互いに助け合って、食べ物を分け合っていたことになる。…こんな具合です。

 霊長類の中で最初に直立二足歩行した類人猿は、約1100万年前のダヌビウス・グッゲンモンにまで遡ることができますが、まだ定説になっていないようです。ほぼ定説になりつつあるのは、約600万年前に、現生人類の祖先に当たる類人猿がチンパンジーと分岐したことです。つまり、人間に最も近い動物がチンパンジーになるわけです。(人間もチンパンジーも、同じ霊長類の類人猿ヒト科に分類されます)

 私のような古い世代は、人類学と言えば、原人(北京原人、ジャワ原人など)―旧人(ネアンデルタール人)ー現生人類(ホモ・サピエンス)のように大雑把なことしか習いませんでした。でも、今は古人類学という新しい分野も出来、その学問的発展も日進月歩と言ってもよく、学校でもしっかり、700万年~600万年前のサヘラントロプス、600万年前のオロリン、400万年前のアウストラロピテクス、200万年前のホモ・ハビリス、180万年前のホモ・エレクトス…50万年前のネアンデルタール人、そして現生人類のホモ・サピエンス(今からわずか30万年~25万年前に出現)などと細かく教えられているようです。

 これらは勿論、化石人類(ホミニン)が次々と発掘されるようになったお蔭です。そのホミニンはいつ頃の時代なのか、発掘された地質の放射性同位元素で年代測定されます。この中で、著者のデシルヴァ・米ダートマス大学准教授が最も注目していたのが、1974年にエチオピアで、米アリゾナ州立大学の古人類学者ドンン・ジョハンソンらによって発掘され、ルーシーと命名された318万年前のアウストラロピテクス属アファレンシスです。ルーシーというのは、発掘チームが祝杯を挙げていた時に、ビートルズのアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のレコードを掛けており、その中の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイヤモンズ」から取られたというのです。ジョン・レノンの曲なので、私も親近感が湧きます(笑)。

 ルーシーは、身長110センチ前後、体重約27キロ、歯のすり減り具合などから死亡時は10代後半とみられるといいます。骨の骨折具合から木から落ちたのではないかと推測する研究者もいますが、死因は不明で、骨盤に歯形が二カ所あることから、動物に食べられた後に湖畔の泥土に埋まっていたようです。著者のデシルヴァ氏は、もしタイムマシンがあれば、318万年前に帰って、ルーシーと会ってみたい、というほどの入れ込みようです。

 ルーシーは発見当時、世界最古の化石人類でしたが、21世紀になっても次々とホミニンが発見されるようになり、進化の歴史がどんどん遡っていったわけです。仮に、直立二足歩行していたダヌビウス・グッゲンモンが人類の最初の祖先だとすると、それは1100万年前になります。気の遠くなるような大昔ですが、6600万年前に滅亡した恐竜が1億6000万年間も繁栄したと思うと、瞬きするような一瞬です。

 もっとも、17世紀の神学者ジェームズ・アッシャーは、天地創造が行われたのは紀元前4004年10月22日(土)午後6時だったと主張したといわれます。当時、人間はサルから進化したなどといった説を唱えれば、殺されたかもしれない時代でしょうが、21世紀に生きる人間は偉そうに、彼に古人類学を語りたくなってしまいます(いまだにダーウィンの進化論を信じないキリスト教原理主義者らが世界各国・各地に存在しますが)。

 著者のデシルヴァ准教授は、ホミニンの足骨が専門なので、この本では、「なぜ、ウオーキングは健康に良いのか」といった歩行に関するエピソードが多く書かれています。この中で、ニューヨーク大学の発達心理学者のカレン・アドルフ教授の調査記録を引用して、歩き始めた平均的な幼児は、1時間に17回は転倒しながらも、2368歩を歩き、1日では1万4000歩も歩いていることを紹介していました。著者は「幼児が少なくとも1日12時間の睡眠時間を必要としていることもうなずける」などと書いていますが、幼児が「1日、1万4000歩」歩くという数字には、私自身、驚いてしまいました。