戦後ジャズブームに日本敗戦と米軍占領が欠かせない

 NHKの回し者ではありませんが、今夏のテレビの戦記物特集は、やはり、NHKが量質ともに圧倒して見応え十分でした。特に8月6日放送の「侍従長が見た 昭和天皇と戦争」(元海軍大将の百武三郎侍従長の「側近録」)と8月15日放送の「ビルマ 絶望の戦場」(牟田口廉也司令官によるインパール作戦失敗と敵前逃亡。ビルマ戦線での戦死者総計16万5000人。幹部連中のみ夜ごと芸者を揚げての宴会三昧。木村兵太郎ビルマ方面軍司令官の兵士置き去り敵前逃亡。商社日綿ラングーン支店長に「あとは宜しく」)は圧巻でした。

 それに比べ民放は…。タレントを露出して有名にして、有名を「信用」と錯覚・洗脳させ、CMに出演させてモノを売って稼ぐ「電波貸し」ビジネスに忙しく、視聴率の取れない戦記物なんぞ、やるだけ無駄といった感じでした。

東銀座「エッセンス」 アジフライ定食1200円+アイスコーヒー=1300円

 NHKはラヂオも充実していて、今、スマホアプリ「らじる★らじる」の「聴き逃しサービス」で、カルチャーラジオ 日曜カルチャー「クレイジーキャッツの音楽史」(全4回)にハマっています。お話は、音楽評論家の佐藤利明さん。この方、1963年生まれということですから、60年代のクレイジ―キャッツの全盛期をほとんど知らないはずなのに、今は音源も映画DVDもYouTubeもありますから、「遅れて来た青年」として追体験し、異様な執念でクレイジーキャッツの全てを調べあげています。(生前のメンバーにもインタビューしています)

 私は、50年代生まれですから、クレイジーキャッツ全盛期のど真ん中で、「シャボン玉ホリデー」や映画「無責任男」シリーズで育ったようなものです。それでも、佐藤さんの話を聞いていると、知らなかったことばかりで、「さすが音楽評論家」と感心したものです。

 クレイジーキャッツは、コミックバンドではありますが、もともとは正真正銘のジャズマンです。しかも、メンバーは大卒のインテリが多く、中には東京芸術大学(安田伸、64歳没)や早稲田大政経学部(桜井センリ、86歳没)出身者もいます。植木等は三重県の寺の住職の子息(父徹誠は、真宗大谷派僧侶で、戦時中、戦争反対を訴え、何度も投獄された)で東洋大卒。普段の人柄は、ニコリともしない超真面目人間だったというのは有名です。

 クレイジーキャッツは当初、キューバン・キャッツとして、1955年4月、萩原哲晶(ひろあき)とデューク・セプテットのハナ肇(工学院土木科中退、63歳没)と犬塚弘(徳川家康直参の旗本の家柄。文化学院卒、現在93歳)が中心になって結成されますが、メンバーの入れ替えを経て、1957年までにフランキー堺とシティースリッカーズの谷敬(後に谷啓、中大中退、78歳没)と植木正(等、80歳没)らも加わり、1960年には石橋エーターロー(青木繁の孫、福田蘭童の子息、東洋音楽学校卒、66歳没)が結核療養で代役となった桜井センリを加え、7人のメンバーが固定します。

 クレイジーキャッツの最大のヒット曲は「スーダラ節」ですが、作詞が青島幸男(早大卒、74歳没)、作曲がクラリネット奏者だった萩原哲晶(東京音楽学校、後の東京芸大出身、58歳没)。この名コンビが、クレイジーキャッツの名曲を生みだします。ミュージシャンの大瀧詠一が「クレイジーキャッツは日本のビートルズだ」と評したらしいですが、ロックとコミック音楽とジャンルは違っても1960年代を代表するミュージシャンとしては共通したものがあります。となると、青島幸男=萩原哲晶はレノン=マッカートニーみたいなものと言えるかもしれません。(「無責任一代男」「ハイそれまでよ」「ゴマスリ行進曲」などはこのコンビ。萩原哲晶は、前田武彦作詞で「エイトマンの唄」まで作曲していたとは!)

 佐藤利明さんの「クレイジーキャッツの音楽史」が何で面白いのかと言いますと、単なる音楽史に留まらず、戦後文化史になっているからです。何で、戦後になって、日本にジャズブームが起きたのか? 一言で言えば、日本が戦争で負け、米軍に占領されたからです。米軍は兵士の慰問のため、北海道から沖縄まで、駐留米軍基地に娯楽施設を作りました。そこでジャズを演奏すると、高額なギャラが貰えるということで、若者が楽器を習得して殺到します。その中で、メキメキと腕をあげてプロになる若者も出ます。クレイジーキャッツはその代表かもしれませんが、テナーサックスの松本英彦、原信夫とシャープ&フラットや萩原哲晶とデューク・オクテットなど米軍基地にお世話にならなかったバンドはありません。アイドルグループ「ジャニーズ」をつくったジャニ―喜多川もそうですし、後に裏方のプラダクションに回って「ナベプロ」を創業する渡辺晋(とシックス・ジョーンズ)らもそうです。

 その渡辺晋がナベプロをつくったきっかけは、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効されたため、日本駐留の米軍基地が縮小されたためでした。同時に娯楽施設も封鎖され、日本人のジャズマンも基地での仕事を失うようになったからだというのです。

 この話を聞いて、「なるほどなあ」と思いました。日本の戦後音楽史には、敗戦と占領期の米軍進駐とジャズが欠かせなかったという話には、実に、目から鱗が落ちるような思いでした。日本は戦時中は、敵性音楽は禁止していましたからね。もし、日本が勝っていたら、浪花節と都々逸と軍艦マーチの世界だったかもしれません。

1940年代のジャズ・ヴォーカルが気になる

学生時代は、音楽が趣味で、1日16時間ぐらい聴いても飽きませんでした。

聴いていたのは、主にロックで、ビートルズ、ストーンズ、ツェッペリン、クイーン、ディープ・パープル、クラプトン、イーグルスといった王道のほか、1950年代のプレスリーなどの初期ロックンロール、60年代のマージービート、70年代のプログレ、グラムロックなどです。

思い起こせば、子どもの頃は歌謡曲、10代~20代はロック、30代はモーツァルトなどクラシックばかり、40代はジャズやボサノヴァ、シャンソン、それ以降は玉石混交といった感じで色んなジャンルの音楽を聴いてきました。

 そして今は、ほとんど聴かなくなりました。(あらま)サウンド・オブ・サイレンスです。特にうるさいロックは年のせいか付いていけなくなりました(苦笑)。せめてブルーズです。BBキングはやはり素晴らしい。でも、若い頃は、高齢者が聴くものだと敬遠していたジャズなら、年を取ったせいか琴線に触れます。

 ということで、今は少しジャズにはまっています。そのジャズの中でもヴォーカルです。40代にジャズを聴いていた頃は、ビル・エヴァンスに始まり、パーカー、コルトレーン、マイルス、コールマン、フリューベック、ペッパー、ブレーキー、ウエス…といわゆるジャケット買いで色々聴きまくりました。フリージャズとなるとついていけなくなりましたが、ヴォーカルは、フイッツジェラルドやヘレン・メリル、ビリー・ホリデーぐらいしか聴いていませんでした。(昨年はジュリー・ロンドンに熱を入れましたが)

 今回、はまったジャズは、1930~40年代ジャズです。きっかけは、成瀬巳喜男や小津安二郎らの戦前の映画を観ていたら、結構、BGMや効果音としてジャズが使われていたことです(敵性音楽になる前)。また、先日観た「ミッドウェイ」は1942年を再現した戦争映画でしたが、作品の中で、当時流行のジャズが使われていました。そして、毎週日曜日の朝に、ゴンチチの司会進行でNHK-FMで放送されている「世界の快適音楽セレクション」をよく聴くのですが、その中で「えっ?この曲いい。でも、何の曲かなあ?」と思った時、大抵は、私が生まれる前の戦前の1930~40年代に流行ったジャズだったりしたからでした。

 この中で特に、気に入ったのが、女性1人、男性3人のコーラスグループThe Pied Pipersパイド・パイパーズ(The Night We Called It A Dayなど)でした。全盛期は、戦時中から戦後にかけての1940年代です。トミー・ドーシー楽団の専属コーラスグループとして活躍しました。

 トミー・ドーシー(1905~56)は、ジャズ・トロンボーン、トランペット奏者で、楽団のリーダーでもあり、若きフランク・シナトラがこの楽団に所属して飛躍したことは有名です。が、勿論、私はパイド・パイパーズもドーシー楽団も今回初めて知りました。

 パイド・パイパーズの紅一点、ジョー・スタッフォードは独立して、1952年、ソロとして「ユー・ビロング・トゥ・ミー」をヒットさせ、米国と英国のチャートで首位になり、全英シングルチャートでは女性アーティストによる初の第一位のレコードになりました。

 この「ユー・ビロング・トゥ・ミー」は、日本でも大ヒットして、江利チエミや新倉美子らがカバーしています。新倉美子(1933~)は、何と新国劇の看板俳優・辰巳柳太郎の長女で、ティーブ釜萢(かまやつひろしの父親)が設立した「日本ジャズ学校」でジャズを学び、歌手、映画女優として活躍しましたが、1957年に結婚を機に芸能界を引退してしまいます。私はまだ物心がつく前でしたから、道理で知らなかったはずです。今ではユーチューブなどで、彼女の唄う姿が見られますが、「こんな人がいたのか」と驚くほど清楚な美人で、大変魅惑的で、英語の発音もほぼ完ぺきです。(彼女の写真や動画も著作権があると思われ、このブログに引用できないのが残念です)

 パイド・パイパーズをスッポティファイで聴いているうちに、ジョニー・マーサー(1909~76)唄う「accentuate the positive」という曲を知りました。戦時中の1944年公開映画「Here comes the waves」のためにマーサー自身が書いた曲だそうで、スタンダードになっています。マーサーは作詞、作曲もする歌手で、キャピタル・レコードの共同設立者ということでジャズ界の大御所です。多くのミュージシャンがカバーしている名曲Come Rain or Come Shineなども作詞しています(作曲はハロルド・アーレン)。恥ずかしながら、最近知ったのですが…。

 あのポール・マッカートニーが1975年にマーサーと共作しようと提案しましたが、時既に遅く、マーサーは病床についていて辞退したそうです。ポールはその後、先程の「accentuate the positive」をダイアナ・クラールのピアノなどをバックに唄いましたが、その姿がユーチューブでも観られます。ビートルズ「ホワイトアルバム」に収録されている「ハニー・パイ」などを作詞作曲しているポールは、アマチュア・ジャズマンだった父親の影響で結構、1930~40年代のジャズもかなり聴いていて、曲作りに影響を受けていたのです。

 今ではもう1日16時間も音楽を聴く気力も体力もないですが、たまにはゆっくりとジャズ・ヴォーカルに浸ってみたいと思う今日このごろです(わー、陳腐な終わり方!)

さいたま新都心でジャズ祭り

9月8日~9日に首都圏を襲った台風15号の影響で、千葉県はいまだに9万軒が停電のままで、苦しい不便な生活が続いております。熱中症で亡くなった方もおられたということで、お見舞い申し上げます。

 そんな折に、呑気に趣味の神社仏閣と城歩きをしていては駄目でしょ、と気が引けたので、3連休は近場で過ごしました。

 どうも埼玉県民は漢字が読めないので県庁の所在地を「さいたま市」と、ひらがなにしたという根強い噂がありますが、この3連休、その「さいたま新都心」で、「ビール祭り」が開かれているというので、出掛けてみました。

 よく調べずに勝手に行ったら、会場でのビール売り場はたったの1軒だけ。確か、10年ぐらい前に行った時は、ドイツビールから全国の地ビールに至るまで何種類ものビール売店が並んでいましたから、拍子抜けしてしまいました。

その代わりに、ジャズの野外コンサートをやっていました。印象で判断するのは怒られそうですが、超有名バンドではなく、セミプロみたいな感じでした。でも、無料で聴けるわけですから、ビール片手に何か得した気分です。

 あまり知られていませんが、さいたま新都心は、東京・霞ケ関の官庁の支所がほとんどあり、もし、東京が壊滅的被害に遭った時に、臨時的に官庁業務を代行するという噂を聞いたことがあります。

 さいたま新都心は、東京都心から急行で40分ぐらいの所ですが、埼玉県は、関東大震災の際に被害に遭った都心の盆栽屋が大宮に移転したり、太平洋戦争の際に、都心の子どもたちの疎開先になったりしています。避難場所ですね。

 そう言えば、埼玉県は大きな地震や風水害に襲われたという話はあまり聞いたことがありません。

暇人が多く、1000人ぐらいの観客が聴き入りました

今でこそ、東京・墨田区に「東京スカイツリー」が鎮座していますが、大胆不敵にも、さいたま新都心は、「第2東京タワー」の設置場所として立候補したことがあります。墨田区に敗れはしましたが、世が世なら、「埼玉スカイツリー」になっていたのかもしれません(笑)。

あまり、皮肉を書くと埼玉県民の皆様に怒られるのでやめておきます。そう言えば、さいたま新都心にある「埼玉スーパーアリーナ」は、来年の東京五輪のバスケット会場になりますね。酷暑に開催される東京五輪は大反対ですが、アリーナは室内で冷房も効いているので、体調不良を訴える人は少ないことでしょう。

 さいたま新都心駅は、2000年4月1日に開業した比較的新しい 駅で、官庁街とショッピングモールで出来た人工的な街です。

 でも、500円の生ビール片手にジャズの生演奏を聴いていると、どこかヨーロッパの古い都市にいるような感覚になれました。埼玉県は意外といい所ですよ。

【後記】いつも、このブログに書いたことと現実とのシンクロニシティを感じていますが、さいたま新都心駅を設計したのが著名な建築家エドワード鈴木氏で、同氏は9月15日に71歳で亡くなっていたことが、9月18日に分かりました。

私がさいたま新都心駅を訪れたのは、何と9月15日でした。エドワード鈴木氏の御冥福をお祈り申し上げます。

ジュリー・ロンドンはお好き?

 最近のお気に入りの音楽番組は、毎週土曜日の午前9時からゴンチチがDJを務めているNHK-FMラジオの「世界の快適音楽セレクション」です。

 クラシック、フォーク、ジャズ、演歌、ワールドミュージックなど驚くほど幅広いジャンルの音楽を選曲してくれて、「音楽通」を自称する私も聴いたことがない曲ばかりですが、ゆったりとした気分にさせてくれます。

 これだけ幅広い音楽知識を持った選曲者は誰なのかなあ、と思ったら、藤川パパQ、湯浅学、渡辺亨の著名な音楽評論家3氏だそうです。

 先日(2日)、この番組を途中から聴いていたら、とても魅力的な女性ヴォーカルで、心がとても穏やかになりました。朝に聴くというより、夜、仕事から疲れて帰って来て、自宅でくつろいだ時に、癒されるような音楽でした。

ジュリー・ロンドン

 曲が終わって、タイトルは、ジュリー・ロンドンの「メランコリー・マーチ」という曲だと紹介されました。ジュリー・ロンドンは名前だけは聞いたことがありますが、彼女の歌はあまり聴いたことがありません。でも、レコード店で、彼女のジャケットを見て、容姿は知っていました。とても、肉感的なセクシーさを売り物にしている感じでした。

 若い頃は、ハードロックやメタルロックをジャンジャン聴いていましたが、年を取るとだんだんうるさくなって、ついて行けなくなってきました(苦笑)。今は、ボサノヴァが一番好きですし、ゆったりとした音楽の方が心が静まります。

 最初、「メランコリー・マーチ」というタイトルを耳だけで聞いて、「憂鬱な行進曲」とは変なタイトルだなあ、と思っていたら、「哀愁の3月」という意味だったんですね。番組では3月にちなんだ曲を特集していたわけです。

 ジュリー・ロンドン(1926~2000)も英国人かと思ったら、芸名で本名はゲイル・ペック。米カリフォルニア州出身で、もともとは女優さんだったようです。(1944年「ジャングルの妖女」でデビュー)道理でスタイルが良く、美貌に恵まれていたわけです。一度は芸能界を引退しますが、55年にアルバム「彼女の名はジュリー」を発表してジャズ歌手と女優業を再スタートして、この中の「クライ・ミー・ア・リバー」がヒットして一躍人気者になったようです。

 いずれも、私が生まれる前の出来事でしたので、知りませんでした(笑)。でも、「クライ・ミー・ア・リバー」はさすがに聴いたことがありました。彼女はセクシー路線で売り出したせいか、ジャケット写真が凄い。まるで、「プレイボーイ」誌のピンナップガールのようです。あの格好は、恐らく、当時の流行の最先端だったのでしょう。1926年生まれといえば、あのマリリン・モンローと同い年だったのですから。

 昨日の昼休みは、久しぶりに、銀座の「山野楽器」に行って、このジュリー・ロンドンの「メランコリー・マーチ」の入ったCDを買おうと思いましたが、なかなか見つからず、結局、諦めて帰って来てしまいました。

 あとで、ウチに帰って、ネットで調べてみたら、「カレンダー・ガール」というアルバムに収録されていることが分かりました。1月から、どういうわけけか、13月までをテーマにした13曲が収録されていました。

 これを読んだ諸先輩の皆々様は「何を今さら、ジュリー・ロンドンなんて言ってるんだ!」と訝しがることでしょうが、私の親の世代が全盛期だったので、私自身はよく知らなかったのです。今聴いても、とても新鮮で癒される気分になるので取り上げさせて頂きました。

 若い頃は、ジャズは、爺むさくて、敬遠していたのですが、年を重ねるとだんだん身に染みて好きになってきました。特にヴォーカルがいいですね。以前は、チェット・ベイカーのアルバム「シング」をよく聴いていましたが、これから、女性ヴォーカル代表として、ジュリー・ロンドンを聴いてみることにします。(でも、女性ヴォーカリストは、やはり、エラ・フィッツジェラルドが最高かな?)

 

 

ソニー・ロリンズのインタビュー

 公開日時: 2005年9月8日 

台風14号は、全国に甚大な被害を及ぼしました。
被害に遭われた方々には謹んで哀悼の意を表したいと思います。

北海道にも上陸しましたが、運良く、昨年同時期の台風18号ほどではありませんでした。

昨晩は、窓を打ち壊すほど、あんなに雨が降っていたのに、今日は、台風一過の十勝晴れで、本当に空気が澄み切って、遠くの日高山脈が映えて、素晴らしい景色でした。

空に浮かぶ雲も、初秋を象徴するような積雲というか、乱雲というか、一瞬たりとも、その形を留まることを知らない七色変化のアトラクションを垣間見せてくれました。

あー、そう言えば、子供の頃、時間が有り余っていたせいか、空に浮かぶ雲を飽かずによくも眺めていたものです。ととても懐かしい気持ちに襲われました。

不思議なことに、今日の夕刊で、サックス奏者のソニー・ロリンズのインタビューが載っていました(朝日新聞)

今年、75歳になる伝説的なジャズ・ミュージッシャンは、日本贔屓で知られていますが、高齢を理由に、この秋の日本公演で最期になるだろう、と語っています。

彼は「ジャズの神髄は、いつも新しく、いつも変わっていることだ。空を見上げれば雲がある。どれも形はない。常に変わっているけど、いつもそこにある」と語っているのです!

偶然の一致とは思われません。

印象派音楽の巨匠といわれるドビュッシーも、雲や西風などをテーマに、「移ろいいくもの」「常に変わりゆくもの」に心を奪われ、作曲活動を続けていたのは有名です。

ジャンルこそ違ってもミュージッシャンには共通する何かがあるのでしょうね。

浜田真理子

公開日時: 2005年4月9日

◎少女の感性と深遠なる宇宙観を持つ歌手

すっかり、はまってしまいました。浜田真理子。人はジャズシンガーというが、そんな一つのジャンルでは捉えきれない。深遠なる宇宙観を持つ類稀なる才能に溢れた歌手ーと言っても言い過ぎではないかもしれない。

きっかけは、深夜に放送されたドキュメンタリー番組でした。正直に言うと、彼女の名前すら知らなかった。だから、何の偏見も予備知識もなく、頭を空っぽの状態で見たから良かったのかもしれない。グイグイと引き込まれてしまいました。

彼女に一番共感したのは、その日常生活でした。普段は島根県の松江市に住み、OL生活を送っているシングルマザーです。東京の大手レコード会社が契約しようとしても断り続け、自分のペースを守っている。だから彼女のコンサートも年に6回程度だという。地方で仕事を持ちながら静かな生活を送ることによって初めて彼女の体の中から自分の音楽が生まれてくる、そういった感じなのです。東京発信の文化に慣れた私にとっては新鮮な驚きでした。

彼女は島根大学を卒業。学校の先生になるつもりだったのに、方向転換してしまいました。セミプロとして、松江市内のクラブなどでピアノの弾き語りを続け、地元島根のレーベルから1998年にアルバム「mariko」でデビューしました。これが宣伝もしない(できない?)のに、口コミであっという間に全国に広がっていきました。

デビューアルバムからすべてオリジナルで、英語の歌詞「AMERICA」なども作曲していますが、ネイティブが歌っているのではないかと間違うほど英語の発音がいいのです。余程彼女の耳がいいのでしょう。一転して2枚目のアルバム「あなたへ」は日本語の歌詞。特に5曲目の「月の記憶」がいい。少女のような彼女の感性にドキリとしてしまいます。

とにかく、彼女にはまってしまいました。最近では女優の宮沢りえさんもすっかりはまっているそうです。相変わらず彼女のコンサートも超満員。今が旬の歌手であることは間違いないでしょう。