犬養毅の孫安藤和津が女優デビュー=安藤サクラの母ですが、元法相犬養健の娘さん

  本日3月7日付のスポーツ報知に「エッセイストでコメンテーターの安藤和津が76歳で女優デビュー」という記事が載っていました。16日から18日まで、東京・六本木トリコロールシアターで上演される朗読劇「動機」に出演し、「この年齢で新しいお仕事ができる幸せ」などと語っています。

 安藤和津さんは、俳優奥田瑛二の奥様としても知られていましたが、今や映画監督安藤桃子と女優安藤サクラの母といった方が通りが早いかもしれません。

 スポーツ報知では、安藤和津さんの略歴が掲載されていて、そこには「祖父は犬養毅、父は法務大臣で小説家だった犬養健」と書かれていたので、「えっ?」と驚いてしまいました。いや、昔、彼女の血筋が良いことをうろ覚えはしておりましたが、すっかり忘れておりました。

王子・金剛寺

 祖父の犬養毅は岡山県出身で、慶應義塾で学び、郵便報知新聞記者として西南戦争に従軍したことがあります。政界に転身し、立憲政友会の総裁などを務めて首相の座に昇り詰めましたが、5.15事件で暗殺され、教科書にも載っているので知らない人はいないと思います。

 私はむしろ注目したのは安藤和津さんの父犬養健です。私が長年勉強してきたゾルゲ事件に連座して起訴された人(後に無罪)だったからです。犬養健は白樺派の小説家から政界に転じ、ゾルゲ事件当時は政友会の衆院議員で、近衛文麿首相の側近で、汪兆銘(南京国民政府)の顧問も務めていました。ゾルゲ事件の中心人物である尾崎秀実の友人だったことから情報漏洩の容疑で起訴されたわけです。一転して、戦後は、法務大臣(吉田茂内閣)を務め、1953~54年の造船疑獄事件指揮権を発動した法相として歴史に名前を刻んでおります。

 犬養健の長女道子は評論家、長男康彦は共同通信の社長を務めたことはよく知られています。安藤和津さんは、犬養健と柳橋の芸妓だった荻野昌子との間の娘として生まれて認知されたといいます。昭和23年3月6日生まれですから、スポーツ報知の取材を受けた昨日が76歳の誕生日だったわけです。

「尾崎秀実が育った台湾の話」「ヴーケリッチの取り調べに当たった特高外事課主任警部の話」「ゾルゲのオペラの話」=第4回尾崎=ゾルゲ研究会

  11月9日(木)は会社を休んで、東京・霞ヶ関の愛知大学東京オフィスで開かれた「第4回尾崎=ゾルゲ研究会」に参加して来ました。

 ゾルゲ事件の中心人物である尾崎秀実が育った台湾の話、ヴーケリッチの取り調べに当たった当時の特高外事課主任警部の話、そしてゾルゲのオペラの話とメニューがかなり盛沢山で、正直、頭の整理が追い付かず、後で、配布して頂いた資料を読み返して何となく分かるといった感じでした(苦笑)。

第4回尾崎=ゾルゲ研究会

 最初に登壇されたのは、尾崎=ゾルゲ研究会事務局長の鈴木規夫愛知大学教授で、演題は「尾崎秀実における台湾」でした。事前に発表されたレジュメでは、「尾崎秀実は誰であったのか、その生育環境となった台湾というロケーションを巡って考える」ということで大いに期待したのですが、途中でオンラインの人からの雑音や、オンライン参加者の巨大な顔のアップや、「早口で、画面の文字が小さいのでよく読めませーん」などといった抗議がオンラインから何度も入ったりして、集中できず、内容を理解することが出来ませんでした。後から資料も読み返しましたが、同じで、やはりあまり理解できませんでした。

 講演の「むすびに」では、「尾崎たちの、この地上の『愛国』を超えた異なる次元の故郷を見出す魂は、聖ヴィクトリ・フーゴーの『故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。…』という精神的超越性と寛容を象徴するアフォリズムを想起させずにおかない。その出所は恐らくはさらに遡り、イブン・フィーナーの『空中人間』へも至るのであろうが、偏狭なナショナリズムからも逃れ、ディストピアへ迷い込まないためにも、尾崎たち『複雑な』コミュニストのユートピアへの道を再び探るべきなのではないか。」などと結論付けられていましたが、こちらの頭が悪いせいで、残念ながら理解できませんでした。もっと勉強して出直します。

愛知大東京霞ヶ関オフィス

 次の登壇者は、北海道新聞の大澤祥子記者で、演題は「曾祖父鈴木富来のゾルゲ事件捜査記録をみつけて」でした。道新の夏の企画に「記者がたどる戦争」があり、大澤記者は今春、埼玉県の祖父の自宅で、曾祖父の私家版の遺稿集(非売品)を見つけ、その中に「ゾルゲ事件捜査記録」が出てきて吃驚。曾祖父鈴木富来(1900~85年、85歳で死去)は戦時中、特高に在籍しゾルゲ事件に関係していることまで伝え聞いていなかったからでした。

 そこで、大澤記者は、このゾルゲ=尾崎研究会の代表でもある加藤哲郎一橋大学名誉教授に遺稿集の「鑑定」を依頼したところ、とてつもない歴史的価値がある資料だということが分かり、北海道新聞の今年8月11日から3回に渡って連載記事を出稿したのでした。

 「鈴木富来 遺稿集」は富来が亡くなった後の1986年に、富来の長男が編纂したものでした。鈴木富来は戦後、公安調査庁などで勤務していましたが、戦前は警視庁特高警察部外事課に勤務し、ゾルゲ事件では、同課欧米係の捜査主任警部として、中心人物の一人であるブランコ・ブーケリッチの捜査に当たった人でした。クロアチア出身のブーケリッチはパリ大学を卒業し、7カ国語に堪能で、ユーゴスラビアのポリティカ紙特派員として1933年に来日し、仏アヴァス通信の東京駐在記者も勤めながら諜報活動をし、41年に逮捕され、45年に網走刑務所に服役中に40歳で病死した人でした。その間、東京・水道橋の能楽堂で知り合った山崎淑子さんと再婚し、子息洋さんを授かっています。(最初の妻エディットとの間の長男ポールさんは今年10月に91歳で豪州で亡くなりました。)

 鈴木富来の曾孫に当たる大澤記者ら遺族にとって、一番気掛かりだったことは、悪名高い特高ゆえ、曾祖父がヴーケリッチを取り調べた際に拷問したのではないか、という疑惑でした。しかし、そのようなことはなかったという結論に達したことは、遺稿集を鑑定した加藤氏も断言しておりました。特高の中でも外事課は外国人被疑者を扱うため、日本人より極めて優遇し、遺稿集の20ページには「(当時の日本人留置者は1食30銭だったのに)食事は1日3食で5円の洋食。取調室にはストーブを焚かせた。上司の命令もあって自白の強要とか拷問とか行われた事実は全くなかった」という記述もあるほどです。(ただし、ブーケリッチの子息である山崎ブーケリッチ洋氏は現在、セルビアにお住まいで、大澤記者とのメールのやり取りの中で、極寒の網走で正座させられたりしたことは拷問と同じ、等と反論されたようです。)

 何よりも、遺稿集では「ゾルゲ諜報団事件発覚の端緒となったのは北林トモの検挙が事実である」とし、元日本共産党政治局員だった伊藤律が端緒になったという説は誤りで、「伊藤律は満鉄調査部で尾崎と同じ職場で働いていたことは事実だが、尾崎をスパイだと知っていた証拠はない」とまで書いています。「伊藤律ユダ説」は戦後長い間、尾崎秀実の実弟で評論家の尾崎秀樹や松本清張らによって主張されていましたが、近年になって「偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊」(1993年)の著書がある渡部富哉氏や伊藤律の子息である伊藤淳氏らの粘り強い調査で「冤罪」であることが証明されましたが、この1986年の非売品である遺稿集が、同年に世間に公表されていたら、伊藤律(1913~89年)が存命中に名誉回復されていたかもしれません。

新橋駅前 古本市

 最後に登壇されたのは、ベルリン在住の国際的ピアニスト、原田英代さんで、演題は「オペラゾルゲをめぐって」でした。私は不勉強で、ゾルゲのオペラがあることは知りませんでしたが、この作品は原田さんの義父に当たるオスカー・ゲイルフス(1933~81年)が8年かけて作曲し(台本はカザフスタンの詩人オルシャス・スレイメノフ)、1975年に初上演されたものでした。(資料では、ゲイルフスがハイルフォスになったり、ハイルフェスになったりしてますが、一応、ゲイルフスを採用します。)

 ゲイルフスは大変複雑な生涯を送った人で、いわゆるロシア・ドイツ人と呼ばれる民族の末裔としてソ連のオデッサ近郊で生まれ、1941年の独ソ戦を機に一家は西へ逃避しますが、途中でソ連兵に捕まり、シベリアに送られます。その後、一家はカザフスタンに亡命し、オスカー少年はアルマアタ音楽院で作曲を学ぶことが出来ます。その後、三つの交響曲、二つのピアノ協奏曲などを作曲しますが、1980年に東独に移住したことで、ソ連国内での彼の作品の上演、演奏は禁止されます。81年に西独に移住しましたが、そこでどうも不可解な交通事故で亡くなりました。KGBによる暗殺ではないかという噂が絶えないそうです。

 ゲイルフスの息子であるオスカーさん(原田英代さんの夫)は、幼少の頃、父親が「戦争反対のためにこのオペラを書いた」という言葉を鮮明に覚えているといいます。

動かぬ証拠、生々しい真実=アンドレイ・フェシュン編、名越健郎、名越陽子訳「新資料が語るゾルゲ事件1 ゾルゲ・ファイル 1941-1945  赤軍情報本部機密文書」

 昨日は帰宅して、大切な手帳をなくしたことに気が付きました。鞄の中にもポケットの中にもありません。でも、すぐに、会社に置き忘れたのではないかと予測できたのでそれほど焦りませんでした。翌日の朝(ということは今日)、会社に着いて、机の引き出しを開けたら、案の定、手帳が出て来ました。一安心です。

 とはいっても、会社員になって40年以上経ちますが、大事な手帳を置き忘れたことは今回が初めてです。冥界の閻魔大王様が、ニコニコしながら、こちらに手招きしている姿が頭にちらつきます。

 さて、今、通勤電車の中で、アンドレイ・フェシュン編、名越健郎、名越陽子訳「新資料が語るゾルゲ事件1 ゾルゲ・ファイル 1941-1945  赤軍情報本部機密文書」(みすず書房、2022年10月17日初版)をやっと読み始めました。7040円という大変、大変高価な本なのですが、ゾルゲや近現代史研究者だけでなく、一般市民の方でも必読書ではないかと思いながら、熟読玩味しております。実に面白い。

 この本については、既に2022年11月8日付の渓流斎ブログ「ゾルゲは今でも生きている?=『尾崎=ゾルゲ研究会設立第一回研究会』に参加して来ました」でも取り上げておりますので、ご参照して頂ければ幸いです。

 これでも、私自身は、ゾルゲ事件に関連する書籍はかなり読み込んできた人間の一人だと思っております。10年程昔、この渓流斎ブログでもほぼ毎日のようにゾルゲ事件について取り上げて書いていた時期がありましたが、その大半の過去記事は、小生の病気による手違いで消滅してしまいました。

 そんな私がこの本を「面白い」とか「必読書」などと太鼓判を押すのは、ゾルゲ事件の核心的資料だからです。何と言っても、在東京のスパイ・ゾルゲがモスクワの赤軍参謀本部情報本部に送った暗号文の「生原稿」が読めるのです。ゾルゲ事件といえば、日本の当局が容疑者を訊問した調書が掲載された「現代史資料 ゾルゲ事件」1~4(みすず書房)が必読書の定番ではありますが、この本は、事件の核心につながる粋を集めた、いわばゾルゲ国際諜報団の「果実」みたいなものだからです。まさに「動かぬ証拠」です。よくぞこんな機密文書が残っていて、あのロシア当局がよくぞ公開したものです。恐らく、ゾルゲを神格化したいプーチン大統領の思惑によるものでしょう。

 収録された暗号文には実に生々しいことが報告されています。特に、「お金が足りず、早く送金せよ」といったゾルゲの悲痛な叫びが何度も登場します。それに対して、モスクワ当局は「予算を切り詰めろ」とか「価値のない情報に金は払うな」「出来高払いでよい」といった冷たい態度で、まるで現在の何処かの国の多国籍企業の本社と海外駐在員とのやり取りのようです。

 先ほど、「一般市民の方でも必読書」と書きましたが、ゾルゲ事件に関する書籍をほとんど読んだことがない人でも読みやすいと思うからです。何故なら、註釈がしっかりしているからです。例えば、ゾルゲが宛名先として指名し、暗号文書の中では、「赤軍参謀本部情報本部長」もしくは「G」となっている人物については、「註釈21」で「フィリップ・ゴリコフ(1900~80年) ソ連軍元帥。野戦部隊司令官などを経て、40年7月から41年10月まで、赤軍参謀本部情報本部長を務めた(軍参謀次長を兼務)。…」と詳細されているので、初心者の人でもついていけると思います。

 また、巻頭には、登場人物として、「ゾルゲ機関」「赤軍参謀本部情報本部」「クレムリン指導部」などの項目別に、顔写真と名前と生没年、肩書等が掲載されているので一目瞭然です。私も、先述した赤軍参謀本部情報本部長のゴリコフや、暗号解読者のラクチノフらの顔をこの本で初めて見ました。特にロシア人の名前は日本人には馴染みが薄く、ドストエフスキーの小説を読んでいても誰が誰だか分からなくなります。巻頭に登場人物を持って来るなんて、まるでロシア小説の日本語翻訳本みたいですね(笑)。

◇軍機保護法違反なのでは?

 でも、これは、創作ではなく、史実です。「へー、こんなことまでゾルゲはモスクワに報告していたのか!」と驚きの連続です。例えば、1941年2月1日付で送った電報(本書では「文書19」47ページ)ではこんなことまで書いています。

 …労働者1万人を擁する太田(群馬県)の中島飛行機工場は、海軍の軍用機単発戦闘機を製造している。格納式のフラップ付全金属製の戦闘機「九七式」が月間30機製造されている。速度360キロ。陸軍用の九七式軽戦闘機は月産40機。…

 ひょっええーです。ゾルゲは新聞記者(独フランクフルター・ツァイウィトゥング紙特派員。ただし正社員ではなかった)とはいえ、どうしてこんな軍事機密情報を仕入れることが出来たのでしょうか? こんな情報は、漏洩なんかすれば、間違いなく軍機保護法、国防保安法などに引っかかるはずです。情報元は書かれていませんが、この情報は恐らく、元朝日新聞記者で内閣嘱託だった尾崎秀実か、沖縄出身の米国共産党員・宮城与徳とその友人・小代好信(陸軍除隊後、軍事情報を収集)からもたらされたものと思われます。

 余談ですが、2021年5月8日付の渓流斎ブログ「中世の石垣が見どころでした=日本百名城『金山城跡』ー亡くなった親友を偲ぶ傷心旅行」で書きました通り、群馬県太田市の金山城跡を訪れた時に、中島飛行機の創業者である中島知久平の銅像があったことを思い出しました。中島飛行機は、有名な戦闘機「隼」なども製造していたということですが、ゾルゲ諜報団の情報収集力には魂げるほかありません。

 この他、オットーこと尾崎秀実は、日本軍の師団配置と師団長の名前までスクープしてゾルゲに渡していますが(文書34)、読んでいて、まさに日本の機密情報がソ連側に最初から筒抜けだったことが分かります。畏るべし。

◇みんな若い!

 そして、何と言っても、驚かされたのは、登場人物の年齢の若さです。1941年の時点で、ゾルゲは46歳、尾崎秀実40歳、宮城与徳は38歳。ソ連側も、スターリンは63歳ですが、受け手の赤軍参謀本部情報本部長のゴリコフは、元帥とはいえまだ41歳、ゴリコフの後任のパンフィーロフは40歳、暗号解読専門家のラクチノフなんか33歳です。ドイツのリッベントロップ外相は48歳、オット駐日独大使は52歳、そしてヒトラーでさえ52歳だったのです。

 こっちが年を取ったせいですが、こうした若い彼らに地球上のほとんどの国民の生命と運命が委ねられていたと思うと、本当にゾッとします。

 私は、20年ほど前からゾル事件関連の文献を読み始め、当初は、尾崎秀実は国際平和を心から願う高邁な精神の持ち主で英雄だと思っておりましたが、最近では、やはり、「売国奴」のそしりを受けても仕方がない人物だと思うようになりました。こうして、軍事機密をゾルゲに伝え、月額250円(当時の大卒の初任給は70~80円)もの謝礼を受けていたことも本書に出て来ます。「情報を金で売った」と言われても、彼は抗弁できないでしょう。しかも、尾崎は、ゾルゲがドイツ人で、ドイツ紙の記者であることは知っていても、ソ連の赤軍参謀本部のスパイとまでは知らなかったという説が濃厚ですが、尾崎は、ゾルゲがソ連にも通じているかもしれないと、薄々感じていた、と私は思っています。しかし、彼はその疑念をゾルゲに確かめなかった。ですから、尾崎にも責任があった、と思います。そう書いてしまっては、思想検察側に寝返ったことになりますが、この本の「生原稿」を読むと余計に、尾崎秀実=売国奴説に傾いてしまいました。

 まあ、こうコロコロと見解が変わってしまっては、とても学者さんにはなりませんね(苦笑)。

「日ソ情報戦とゾルゲ研究の新展開」=第41回諜報研究会を傍聴して

 3月19日(土)、第41回諜報研究会(NPOインテリジェンス研究所主催、早稲田大学20世紀メディア研究所共催)にオンラインで参加しました。テーマが「日ソ情報戦とゾルゲ研究の新展開―現在のロシア・ウクライナ侵略の背景分析の手がかりとして」ということで、大いに期待したのですが、こちらの機器のせいなのか、時折、画面が何度もフリーズして音声が聞き取れなかったり、チャットで質問しても届かなかったのか、無視、いや、見落としされたりして、途中で投げやりになって内容に集中できなくなり、ブログに書くのもやめようかなあ、と思ったぐらいでした(苦笑)。

 ZOOM会議はこれまで何度か参加したことがありますが、フリーズしたのは初めてです。まあ、気を取り直して感想文を書いてみたいと思います。

 お二人のロシア専門家が登壇されました。最初は、名越健郎拓殖大学教授で、タイトルは、「1941年のリヒャルト・ゾルゲ」でした。名越氏は、小生の大学と会社の先輩で、大学教授に華麗なる転身をされた方ですので、大変よく存じ上げております。…ので、御立派になられた。「でかしゃった、でかしゃった」(「伽羅先代萩」)といった気分です…。現在進行中のウクライナ戦争のおかげで、今やテレビや週刊誌に引っ張りだこです。モスクワ特派員としてならした方なので、他のコメンテーターと比べてかなり説得力ある分析をされています。

 ゾルゲ事件に関しては、私自身も、15年以上どっぷりつかって、50冊近くは関連書を読破したと思います(でも、恐らく500冊ぐらいは出ているのでほんのわずかです)。この渓流斎ブログにもゾルゲに関してはかなり書きなぐりました。が、残念なことに、それらのブログ記事は私自身の手違いでほぼ消滅してしまいました。ちょうど、元朝日新聞モスクワ支局長の白井久也氏と社会運動資料センター代表の渡部富哉氏が創設し、私もその幹事会に参加していたゾルゲ研究会の「日露歴史研究センター」も解散してしまい、最近では関心も薄れてきました。(決定的な理由は、ゾルゲ事件に関して、当初と考え方が変わったためです。)

 それが、名越教授によると、日本での関心低下に反比例するようにロシアではゾルゲの人気が高まっているというのです。本日のブログ記事の表紙写真にある通り、モスクワ北西にゾルゲ(という名称が付いた)駅(左上)ができたり、ウラジオストックにもゾルゲ像(右下)が建立されたりしたというのです。

 また、今や、バイデン米大統領から「人殺しの悪党」呼ばわりされているロシアのプーチン大統領は、2年前のタス通信とのインタビューで「高校生の時、ゾルゲみたいなスパイになりたかった」と告白しており、ロシア国内では愛国主義教育の一環としてゾルゲが大祖国戦争を救った英雄として教えられているようです。

 ロシア国内では、GRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)公文書館や国防省中央公文書館などが情報公開したおかげで、ここ数年、ゾルゲ関係で新発見があり、多くの書籍が出版されています。その中の1冊、アンドレイ・フェシュン(NHKモスクワ支局の元助手で、名越氏も面識がある方だといいます!)編著「ゾルゲ事件資料集 1930~45」(電報、手紙、モスクワの指示など650本の文書公開)の中の1941年分を名越教授は目下翻訳中で、年内にもみすず書房から出版される予定だといいます(私の聞き間違えかもしれませんが)。ゾルゲは独紙特派員を装いながら、実は、赤軍のGRUから派遣されたスパイで、東京に8年滞在しましたが、ゾルゲの2大スクープといわれる「独ソ開戦予告」と「日本の南進に関する電報」は1941年のことで、名越教授が「それ以前は助走期間のようだった」と仰ったことには納得します。

 フェシュン氏の本の中で面白かったことは、「ゾルゲの会計報告」です。1940年11月の支出が4180円で、尾崎秀実に200円、宮城與徳に420円、川合貞吉に90円支払っていたといいます。当時の大学卒業初任給が70円といいますから、200円なら今の60万円ぐらいのようです。情報提供料で月額60万円は凄い(笑)。これで、尾崎は上野の「カフェ菊屋」(現「黒船亭」)など高級料理店に行けてたんですね(笑)。もっとも、モスクワ当局は、41年1月に「情報の質が低いので2000円に削減する」と通告してきたので、ゾルゲは「月3200円が必要」と反発したそうです。

 もう一つ、GRUはゾルゲ機関以外に5人の非合法工作員を東京に送り込んでおり、そのうちの一人、イリアダは在日独大使館で働く女性で、ウクライナ西部のリヴォフ(現在、戦争難民で溢れている)でスパイにスカウトされ、日本の上流階級にも溶け込んでいたといいます。

 在日独大使館のオットー大使と昵懇だったゾルゲとイリアダとは面識があったでしょうが、当然ながら、スパイ同士横の繋がりは御法度で、お互いに諜報員だとは知らなかったと思われます。GRUとは「犬猿の仲」だったロシアの保安機関NKVD(内務人民委員部)も非合法の工作員を送り込んでおり、その一人でコードネーム「エコノミスト」で知られる人物は、天羽英二外務次官ではないかという説がありますが、天羽は1930年、モスクワ赴任中、ハニートラップに掛かり、スパイを強要されたいう理由には、思わず、「あまりにも人間的な!」と思ってしまいました。

 続いて、登壇されたのは、富田武成蹊大学名誉教授で、テーマは「日ソ戦争におけるソ連の情報(諜報・防諜)活動」でした。

 大変勉強になるお話でしたが、読めないロシア語が沢山出て来た上、最初に書いた通り、ちょっといじけてしまったのと、加齢による疲れで、内容が頭に入って来なくなってしまい、申し訳ないことをしたものです。(オンラインは嫌いです)

 とにかく、ソ連・ロシアの組織はすぐ名称を変えてしまうので、あまりにも複雑で難し過ぎます。諜報機関なら、KGBならあまりにも有名で、それに統一してくれれば分かりやすいのですが、ソ連が崩壊してロシアになった今は、FSB(ロシア連邦保安庁 )というようです。と思ったら、FSBは防諜の方で、対外諜報はSVR(ロシア対外情報庁)なんですね。

 いずれにせよ、ゾルゲが活動したソ連時代、ゾルゲは赤軍情報機関のGRUに所属していました。赤軍情報機関の防諜本部の方はスメルシ(スパイに死を)と呼ばれ、満洲(現中国東北部)に工作員を送り込んで、早いうちから「戦犯リスト」を作成していたようです。(だから、8月9日にソ連が満洲に侵攻した際、スムーズに日本兵を捕獲してシベリアに送り込むことができたのです)。日本は当時、「対ソ静謐」政策(日ソ中立条約を結んだ同盟国として、諜報活動も何もしない弱腰外交。ヤルタ会談等の存在も知らず、大戦末期は近衛元首相を派遣して和平工作までソ連にお願いしようとしたオメデタさぶり!)を取っていましたから、その狡猾さは雲泥の差で、既に情報戦では、日本はソ連に大敗北していたわけです。

 富田氏によると、ソ連の諜報・防諜機関はほかに、警察組織も兼ねる内務省系の内務人民委員会(NKVD)と1943年までコミンテルンの国際連絡部OMC、それに現在でも「公然の秘密」として存在する大公使館の駐在武官がいるといいます。

 KGBから党書記長、大統領に昇り詰めたアンドロポフ、プーチンの存在があるように、ソ連・ロシアは諜報機関の幹部が国家の最高責任者になるわけで、いかにソ連・ロシアは「情報戦」を重視しているかがよく分かりました。

【追記】

 ありゃまー、吃驚仰天。

 これを書いた後、主催のインテリジェンス研究所のS事務局長からメールがあり、小生がチャットで質問していたこと、それを司会者の方が見落としていたことを覚えてくださっていて、わざわざ、名越教授に直接問い合わせて頂きました。

 小生の質問は「ゾルゲが二重スパイだったという信憑性はどれくらいありますか」といったものでした。

 これに対して、名越教授から個人宛にお答え頂きました。どうも有難う御座いました。

 それにしても、何かあるとすぐに捻くれてしまう(笑)私の性格を見抜いたS事務局長、先見の明があり、恐るべし!

 

立教大学、聖路加国際病院、ポール・ラッシュのこと

 先週9日(土)にオンラインで開催された第38回諜報研究会のことを前回書きましたが、一つだけ書き忘れたことがありました。武田珂代子立教大学教授による「太平洋戦争:情報提供者としての離日宣教師」の中で、ほんの少しだけ触れられていた立教大学教授を務めたポール・ラッシュ(1897~1979年)のことです。宣教師関係では、恐らく、駐日米大使を務めたエドウイン・ライシャワーに次ぐくらい有名な重要人物と思われるからです。

 ポール・ラッシュは、専門家の皆さんの間では、あまりにも有名すぎるので、説明が少なく、「素通り」された感じでしたが、武田教授は「ポール・ラッシュは、大学は出ていないし、宣教師でもない。それなのに、立教大学の教授になりました」と、チラッと発言されていたと思いますので、「えっ?」と、ちょっと驚いてしまいました(多分、聞き間違いだったかもしれませんが…)。

 米ケンタッキー州ルイビルの教会の熱心な活動家だったポール・ラッシュは、関東大震災で荒廃したYMCAを立て直すために1925年に来日したといいます。第1次世界大戦中、フランスで従軍した経験があり、来日前はホテルマンだったという説もあります。9日の諜報研究会で話題になった、56歳で海兵隊に志願して言語官になったシャーウッド・F・モーランも、1925年に来日しているので、二人は顔なじみだったかもしれません。

銀座「吟漁亭 保志乃」さんま定食ランチ1050円

 ポール・ラッシュを語るに欠かせない枕詞は、「清里開拓の父」そして、「日本アメフトの父」です。前者は、山梨県の清里高原に清泉寮を設けて、酪農や野菜栽培地などを開拓し、清里を一大リゾート地として発展させる基礎をつくった人として、同地に記念館もあります。後者は、立教大学在職中の1934年に東京学生アメリカンフットボール連盟を創立して日本にアメフトの普及に努めた功績が認められ、アフリカンフットボール日本一を決める「ライスボウル」の最優秀選手(MVP)には、「ポール・ラッシュ杯」が贈られることで名を残しています。(私も昔、ライスボウルを取材したことがありますが、「ポール・ラッシュ杯」のことなど気にも留めていませんでした=笑)

 このほか、関東大震災で崩壊した聖路加国際病院再建の募金活動や、戦後、澤田美喜が設立した孤児院「エリザベス・サンダースホーム」の支援者などとしても知られます。

 ポール・ラッシュは来日以来、日本聖公会と深いつながりがあったため、自然の成り行きで聖公会系の大学である立教大学や聖路加国際病院などと関係したのでしょう。余談ですが、私は聖路加病院系の築地のクリニックに今でもかかっているのですが、診察券は聖路加国際病院と同じです。その先生から聞いた話では、立教大関係者は聖路加の入院費等が優遇されるそうです。英国教会に属する聖公会系の大学は、他に桃山学院、松蔭女学院などもあります。(ちなみに青山学院大学、関西学院大学などは、米メソジスト監督教会系。明治学院大学、東北学院大学などは長老派教会系。カトリック系の代表はイエズス会の上智大学です。)

 ま、これがポール・ラッシュの表の「正」の部分で、ネット上では彼の功績を讃えるサイトで溢れています。

◇戦犯リスト作成と731石井免責工作

 もう一つ、裏の「負」の部分は、彼が戦後、日本占領期にGHQ・G2の民間情報局(CIS)に採用され、陸軍中佐として日本人の戦犯リストを作成したり、731細菌部隊の石井四郎の免責工作に関わったり、G2のウイロビー部長の指示で、反共赤狩り政策の一環として、中国革命賛美派のアグネス・スメドレーらを標的にしたゾルゲ事件の再調査(ウイロビー報告書)の一躍を担ったことです。ゾルゲ関係者生き残りの川合貞吉らに訊問したりしました(二人一緒に写っている写真が米国立公文書館のファイルに保存されています)。これらは、加藤哲郎一橋大名誉教授の研究で本(平凡社新書「ゾルゲ事件」)も出版されて公になっているので、「裏」ではないかもしれません。しかも、ポール・ラッシュ自身としては、米国市民として本国に忠誠を尽くしたので、「負」の側面でも何でもないのかもしれません。とはいえ、教会の牧師さんが一転して軍服を着た中佐になるとは日本人的感覚なのか、随分異様です。

 CISの本部は、麹町にあった外交官の澤田廉三・美喜夫妻の自宅を摂取したそうですが、美喜が聖公会教会の信者だった関係もあったようです。(夫妻の次男久雄も外交官で、二番目の妻は由紀さおりの姉で歌手の安田祥子)

 いずれにせよ、滞日経験のあった宣教師が日本占領活動の重職を担っていたことは、今の殆どの日本人は知らないことでしょう。私の周囲にいる立教大学のOBに、立教大と聖路加病院との関係を聞いても、ポール・ラッシュの名前を出しても知りませんでした。そんなわけで、こんなことを書いてみたのです。

 聖路加国際病院を含む築地・明石町辺り(福沢諭吉の中津藩中屋敷があった所でしたね)は、戦後占領期を見越して、米軍は空爆せずに温存しました。これも、ポール・ラッシュが、東京大空襲の司令官カーティス・ルメイ将軍に進言、助言したのかしら、と思いましたよ。聖路加病院は占領期、米陸軍病院と呼ばれました。

歴史教科書に「占領時代」と明記すべきでは=「米軍ヘリが都心で実践訓練か」の記事を読んで

 日本は、アジア太平洋戦争での敗戦後の1945年9月2日からサンフランシスコ講和条約締結後の1952年4月28日まで約7年間、連合国軍GHQという名の実質上米軍によって占領されていたという史実を知らない人が多いことに唖然とすることがあります。若者だけでなく、教養のありそうな中年や初老の人もそうでした。「時間切れ」で学校で教えてくれなかったことが原因でしょうが、それにしても情けない。

 3月5日付毎日新聞朝刊が社会面で、「米軍ヘリ、スカイツリーに6回接近 都心で実戦訓練か」と題して、米軍が、日本の首都東京のど真ん中で白昼堂々とヘリコプターによる実践訓練の模様を報じ、ネットでも動画を配信しておりました。米軍は、取材に対して具体的な飛行理由を明かさなかったのですが、専門家は軍事訓練ではないかと分析しています。占領国だから政府に許可なく勝手放題していいということなんでしょうか?

 1952年で終わったはずの米軍による占領が、まだ終わっていないことを証明しているのかもしれません。

 何と言っても、この事実は、毎日新聞が報じなければ、日本国民は誰も知らなったことでした。考えるだけでも恐ろしい。メディアには頑張ってもらいたいものです。

 それにしても、この「事件」に関して、日本政府が抗議したことなど、寡聞にして知りません。何で、こうも弱腰なんでしょうか。日本人は占領下民として駐留費を負担し、半永久的に占領国の言いなりにならなければならないということなんでしょうか。歴代政権も米国の顔色を窺い、少しでも反米的態度を取れば、田中角栄元首相のように、葬り去られると思っているのかしら。

銀座アスター

 昨日この渓流斎ブログで取り上げた「検閲官」(新潮新書)の著者山本武利氏も、同書の最後の方で、日本政府の弱腰を批判しておりました。

 山本氏が批判したのは、現代史研究者にとって最も重要な資料で、日本の文化遺産でもある「プランゲ文庫」のことです。同文庫は、戦勝国によって戦利品のようにabduct(拉致)されたというのに、敗戦国としての当然の権利を行使せず、日本政府は弱腰で、返還請求したことは一度もないというのです。

 プランゲ文庫の正式名称は「ゴードン・W・プランゲ文庫 ー1945~1952年日本における連合国の占領」で、ゴードン・W・プランゲ(Gordon William Prange 1910~80年)が歴史学教授を務めていた米メリーランド大学図書館に収蔵されています。プランゲは、1942年、同大教授の職を休職して海軍士官として軍務につき、1946年からGHQの参謀第2部(G-2)で戦史の編纂作業に当たった人でした。

 私自身は、以前からゾルゲ事件に関心があったので、プランゲといえば「ゾルゲ・東京を狙え』上・下(早正隆訳、原書房)の著者として知っていました。非常に面白い本で、ゾルゲ事件を映画化した篠田正浩監督もこの本を大いに参考にしたと思われます。

 昨日書いた記事(山本武利著「検閲官」)の復習になりますが、GHQ傘下のCCD(Civil Censorship Detachment、民間検閲局)は、検閲のため、当時発行されたあらゆる図書、雑誌、新聞などの資料を収集します。それがそっくりそのまま、日本に返還されることなく、プランゲがG-2の部長ウィロビー将軍に取り入って、占領期のどさくさに紛れ込んで、母校の大学に「拉致」したというのが、山本氏の見立てです。その数は、雑誌約1万3800タイトル、新聞・通信約1万8000タイトル、図書約7万3000冊、通信社写真1万枚、地図・通信640枚、ポスター90枚と言われています。

 やはり、日本の歴史教科書の年表の1945年9月2日から1952年4月28日までは「占領時代」と明記すべきですね。奈良、平安時代…江戸時代などと同格です。文部科学省が明記させないとしたら、いまだ占領状態が続いていると思っているからなのでしょうか?

 あ、あまり書くと、今も密かに生き残る検閲官の手によって翻訳され、私も消されてしまうかもしれませんね。

「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」はお薦めです

 4連休中は、沖縄にお住まいの上里さんから航空便でお贈り頂いた安田一郎著「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」(青土社、2020年3月31日初版)をずっと読んで過ごし、読了しました。

 皆さんから「お前は、いつも人様から贈られた本ばかり読んでいるのお」と批判されれば、「責任を痛感しています。真摯に反省しております」と応えるしかありません。

 上里さんからは、これまで、大島幹雄著「満洲浪漫  長谷川濬が見た夢」 (藤原書店)や森口豁著「紙ハブと呼ばれた男 沖縄言論人 池宮城秀意の反骨」(彩流社)など何十冊もの心に残る良書を贈って頂き、本当に感謝申し上げます。

 さて、安田一郎著「ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち」のことです。

 これでも私はかつて、「ゾルゲ研究会」(通称、すでに解散)なる会に属したことがあるので、ゾルゲ事件の関する書籍はかなり読んでおりますから、事件には精通しているつもりでした。

 もちろん、安田徳太郎(1898~1983、享年85)についてもゾルゲ事件に連座して逮捕された諜報団の一員だということは知っておりました。しかし、正直、医者だったということぐらいで、彼がどういう人物で、何故逮捕されたのかまではよく知りませんでした。諜報団の中で、それほど目立った動きをした重要人物でもなかったし、半ば当局がこじつけて諜報団の一員に仕立て上げたような感じもあったからです。

 本書を読んで初めて、安田徳太郎という人となりが分かりました。この本の著者は、徳太郎の長男一郎(1926~2017、享年91、元横浜市立大学文理学部教授、心理学者)ですから、徳太郎本人の少年時代の日記を始め、家族親族でしか知り得ない事柄が満載されています。(著者は文章を書く専門家ではないので、前半は読みづらいというか、分かりにくい箇所がありましたが、後半はすっきり読めました)

 まず驚くべきことは、徳太郎の縁戚関係です。労働農民党代議士でただ一人治安維持法に反対して暗殺された「山宣」の愛称で慕われた山本宣治は、従兄弟に当たり、ホトトギス派の俳人として名をなした山口誓子(せいし、本名新比古=ちかひこ)はまたいとこに当たります。

 また、同じようにゾルゲ事件で逮捕された作家の高倉テル(京都帝大時代、河上肇の影響でマルキストになる)は、徳太郎の妹つうの夫、つまり、義弟に当たります。

 このほか、徳太郎の進路に影響を与えた人として小説家の近松秋江まで登場します。

 徳太郎は、明治31年、京都市生まれ。旧制府立三中から京都帝大医学部を卒業したエリートで、日本で初めてフロイトの「精神分析入門」を翻訳して紹介した人でもあります。若い頃に大逆事件などを体験し、軍国主義が高まる中、三・一五事件など治安維持法による共産党弾圧を見聞し、昭和初期には東京・青山の一等地(とはいっても、当時の青山はファッション街ではなく、麻布連隊区司令部や第一師団司令部、陸軍軍法会議などがある「軍都」でした)に内科医を開業します。特高によって拷問死した日本共産党中央委員の岩田義道や作家の小林多喜二の凄惨な遺体を検分したりしたことも、当局からマークされる遠因になります。

 徳太郎のゾルゲ事件での逮捕容疑のきっかけは、この青山の内科医にゾルゲ諜報団の中心人物宮城与徳が昭和10年1月に「肺病で喀血した」と診察に訪れたことで始まりました。

 宮城は沖縄出身の画家で、1920年に渡米、27年には米共産党日本人部に入党し、コミンテルンによる派遣で昭和7年(1932年)に日本に戻り、本部から指令されるまま、ゾルゲの下で諜報活動に従事した男でした。診察以外でも「諜報活動」のため、度々医院を訪れるようになった宮城与徳は、昭和15年の初めに「ドイツ大使館にいる私の友人が肺炎で危篤なってます。先生、例の肺炎の特効薬を下さいませんか」と頼み込んできました。徳太郎は「宮城さんの友人がナチ・ドイツ大使館にいるというのはおかしな話だ」と思いながらも薬を渡します。数日後、宮城が「おかげで、友人は全快しました」と御礼にやって来ます。これが、この本のタイトルにもなっている「ゾルゲを助けた医者」につながるわけです。

 徳太郎は昭和17(1942)年6月に逮捕され(尾崎秀実やゾルゲらが逮捕されたのは、前年昭和16年10月)、治安維持法、軍機保護法、国防保安法違反の罪名で起訴されますが、結局、治安維持法違反の一つだけで昭和18年(1943)年7月に仮釈放されます(判決は懲役2年、執行猶予5年)。この中で、面白い逸話が書かれています。

 裁判が終わって、徳太郎は平松検事に挨拶に行き、「正直言ってこの事件は何が何だかさっぱり分からないのですが、真相は何なんですか?」と尋ねます。すると、平松検事は「分かるわけない。わしらでさえ分からないのだから。コミンテルンというが、実際(ゾルゲ)はソ連赤軍第4本部の諜報機関(所属)なんだよ」と答えたといいます。

 徳太郎を逮捕し、取り調べに当たった警視庁青山署の高橋与助・特高警部は「てめえこのやろう、ふざけやがって、ゾルゲの命を助けたな。この国賊、非国民が。天皇陛下に申し訳ないと思わないのか」と怒鳴りまくり、髪の毛を引っ張ったりしましたが、コミンテルンとの関係ばかり追及したといいます。一方の司法省の検事たちは、ゾルゲの自白で、ある程度、真相を分かっていたということになります。

 実際、ゾルゲは赤軍4部から派遣されたスパイであり、コミンテルンは、徳太郎が釈放される1カ月前の1943年6月10日に解散していたわけですから。

 この本は、ゾルゲ事件に関心がない人でも、明治末に生まれた若者が、大正デモクラシーと米騒動と労働争議と昭和恐慌、軍国主義まっしぐらという日本史の中でも稀に見る激動の時代を生き抜いた様子を読み取ることができます。

 他にも、青山にあったすき焼き料亭「いろは」の創業者木村荘平(葬儀社「東京博善」=現廣済堂グループ=の創業者でもあり、女性関係が盛んで30人の子持ち。八男荘八は、画家で永井荷風の「濹東綺譚」の挿絵担当、十男荘十は直木賞作家)の話など、意外と知られていない色々な逸話も描かれていますので、お薦めです。

 ちなみに、著者の安田一郎は3年前に亡くなっているので、編者として本書の出版にこぎ着けたのは一郎の次男で徳太郎の孫に当たる安田宏氏(1960〜、聖マリアンナ医科大学教授)です。

思想検事がいた時代なら渓流斎はアウト

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

《渓流斎日乗》なる詭激(きげき)思想を孕(はら)む危険分子は、機宜(きぎ)を逸せず禍(か)を未然に防遏(ぼうあつ)するの要ありー。

 先月、満洲研究家の松岡先生とLINEでやり取りしていた際、2人の共通の知人である荻野富士夫・小樽商科大学教授(現在名誉教授)の書かれた「思想検事」(岩波新書・2000年9月20日)は、小生だけが未読だったので、私は「いつか読まなければならないと思ってます」と返事をしておきました。もう20年も昔の本です。今では古典的名著になっているのか、立花隆著「天皇と東大」の膨大な参考文献の1冊としても挙げられていました。

 20年前の本ですから、古書で探すしかありません。やっとネットで見つけたら、送料を入れたら当時の定価(660円)の2倍の値段になってしまいました。そうまでもしても、手に入れたかった本でした。(A社では最高1万2800円もの値が付いていました!)

 先程、やっと読了したところですが、明治末からアジア太平洋戦争中にかけて、検察権力が肥大化していく様子が手に取るように分かりました。昭和初期の異様な軍部の台頭と軌を一にするかのような司法省の増長ぶりです。いや、逆に言えば、軍部だけが突出していたわけではなく、司法も行政も立法も、そして庶民の隣組や自警団に至るまで一緒になって挙国一致で国体護持の戦時体制を築き挙げてきたということになります。国家総動員法や大政翼賛会など政治面だけみていてはこの時代は分かりません。最終的には司法の検事、判事が臣民を支配していたことが分かります。その最たるものが「思想検事」で「皇国史観」にも染まり、それが判断基準でした。

 検察や裁判官は神さまではありません。権力当局者は、かなり自分で匙加減ができる恣意的なものだったことが分かります。これは過去の終わった話ではなく、現代への警鐘として捉えるべきでしょう。

「黒川高検検事長事件」が起きたばかりの現代ですから、検察の歴史を知らなければなりません。

 でも、正直、この本は決して読み易い本ではありません。ある程度の歴史的時代背景や、大逆事件、森戸事件、三・一五事件、四・一六事件、小林多喜二虐殺事件、ゾルゲ事件、それに横浜事件などについての予備知識がない人は、読み進む上で難儀するかもしれません。なぜなら、この本は、それら事件の内容については詳しく触れず、司法省内の機構改革や思想検察を創設する上で中心になった小山松吉、塩野季彦、平田勲、池田克、太田耐造、井本台吉ら主要人物について多く紙数が費やされているからです。

 読み易くないというもう一つの要因は、本書で度々引用されている「思想研究資料」「思想実務家合同議事録」など戦前の司法省の公文書では、現在では全く使われないかなり難しい漢語が使われているせいなのかもしれません。しかし、慣れ親しむと、私なんか読んでいて心地良くなり、この記事に最初に書いたような「創作語」がスラスラ作れるようになりました(笑)。

 「思想検察」の萌芽とも言うべき「思想部」が司法省刑事部内にできたのは1927(昭和2)年6月のこと(池田克書記官以下4人の属官)でした。泣く子も黙る特高こと特別高等課が警視庁に設置されたのが1911(明治44)年8月ですから、16年も遅れています。それが、1937年に思想部が発展的解消して刑事局5課(共産主義、労働運動など左翼と海軍を担当)となり、38年に刑事局6課(国家主義などの右翼と類似宗教、陸軍を担当)が新設されると、検察は、裁判官にまで影響力を行使して「思想判事」として養成し、捜査権を持つ特高警察に対しては優位性を発揮しようと目論見ます。司法省対内務省警保局との戦いです。これは、まるで、陸軍と警察との大規模な対立を引き起こした「ゴーストップ事件」(1933年)を思い起こさせます。

 司法省刑事局6課が担当する類似宗教とは、今で言う新興宗教のことです。これまで、不敬罪などで大本教などを弾圧してきましたが、治安維持法を改正して、国体に反するような反戦思想などを持つ新興宗教に対しても、思想検察が堂々と踏み込むことができるようになったのです。キリスト教系の宗教団体や今の創価学会などもありましたが、ひとのみち教や灯台社なども「安寧秩序を乱す詭激思想」として関係者は起訴されました。あまり聞き慣れないひとのみち教は、今のPL教団、灯台社は、今のエホバの証人でした。

新橋の料亭「花蝶」

 先程、戦前の思想検事をつくった主要人物を挙げましたが、塩野季彦については、山本祐司著「東京地検特捜部」(角川文庫)に出てきたあの思想・公安検察の派閥のドンとして暗躍した人物です。そして最後に書いた井本台吉は戦前、思想課長などを歴任し、戦後は、検事総長にまで昇り詰めた人で、1968年の日通事件の際の「花蝶事件」の主役だった人物でしたね。

 中でも「中興の祖」というべきか、思想検察の完成者とも言うべき人物は太田耐造でしょう。彼は、刑事局6課長として1941年3月の治安維持法の大改正(条文数を7条から65条へ大幅増加)を主導した立役者でした。

 太田耐造は、20世紀最大のスパイ事件といわれるゾルゲ事件に関する膨大な資料も保存していて、国立国会図書館憲政資料室に所蔵されるほど昭和史を語る上で欠かせない人物です。現在、荻野・小樽商科大学名誉教授教授も推薦している「ゾルゲ事件史料集成――太田耐造関係文書」(加藤哲郎一橋大名誉教授編集・解説)も不二出版から刊行中です。

 思想検事は戦後、GHQにより公職追放となりますが、間もなく、「公安検事」として復活します。

《渓流斎日乗》なる詭激思想を孕む危険分子は、機宜を逸せず禍を未然に防遏するの要ありー。

 扨て扨て、このブログは書き続けられるのでしょうか?

新段階に入ったゾルゲ事件研究=思想検事「太田耐造関連文書」公開で

 「ゾルゲ事件研究の新段階」と題した加藤哲郎一橋大学名誉教授による講演が11月9日(土)に東京・早稲田大学で開催された第29回諜報研究会の報告会で行われ、私も聴講してきました。その4日前の11月5日付朝日新聞朝刊で、「ゾルゲ事件 天皇への上奏文案 旧司法省主導 都合よく添削」という記事が掲載され、そこには、「概要は9日に都内で発表される」とあったので、さぞかし多くの方々が詰めかけると思いましたが、それほど多くはなく90人ぐらいだったでしょうか。(6月8日の専修大学での報告会では200人以上だったらしい)

 それも、どうみても年配の方々ばかり。若い人は新聞を読みませんからね。時代を反映しているということでしょう。時代の反映といえば、ゾルゲ事件研究も、かつては高度経済成長にあった日本が最先端で、世界的にみても量も質もピカ一でしたが、「失われた30年」で、中国が経済大国に成長してからは、今後は中国(ゾルゲの上海時代の活動は未だ未解明部分多し)での研究が期待されていると言われています。学術研究もお金がかかるというわけです。会場には大御所の研究家渡部富哉氏も参加されていましたが、御年数えで九〇歳。懇親会で大声を出されて、まだ元気溌剌でした。

 さて、講演会の副題は「思想検事・太田耐造と特高警察・天皇上奏・報道統制」でした。ゾルゲ事件に関しては私自身、勉強会やセミナーなどにも参加して15年近く関連書籍も読んできて、このブログにも散々書いてきました(ただし、その間の記事は小生の不手際で全て消滅!)。そんな私ですが、講演会の内容は色々と複雑に派生した問題がからんでおり、結構難しかったですね。資料を読み込んだりしているうちに、これを書くのに3日もかかってしまいました(苦笑)。

 ですから、そんな複雑な話は、ある程度の予備知識がある人でないと分からないので、茲で書くことは最小限に絞り、固有名詞、用語の説明については最低限に留めます。その代わり、リンクを貼っておきますので、ご自分で参照してください。

 加藤先生は講演タイトルを「ゾルゲ事件研究の新段階」とされてましたが、長年、ゾルゲ事件を研究をしてきた人にとっては、実に画期的で革命的な「新段階」なのです。何故なら、かつての研究者が元にしてきたのは、1962年からみすず書房が刊行した「現代史資料 ゾルゲ事件」全4巻で、これは戦前の内務省警保局特高警察資料を元にした戦後の警察庁版「外事警察資料」(1957年)だとみられるからです。

 それが、2017年に国会図書館憲政資料室から「太田耐造関連文書」が公開され、司法省の「思想検事」だった太田耐造が残した文書にはゾルゲ事件に関する膨大な資料が含まれ、そこには司法大臣名の昭和天皇宛上奏文や新聞発表統制資料などが含まれていたことが初めて分かったのでした。

 つまり、加藤先生によると、ゾルゲ事件の捜査・検挙・取り調べ、新聞発表を主導したのは、治安維持法による共産主義の取り締まりに当たった内務省警保局(特高警察と外事課)ではなく、また陸軍憲兵隊でもなく、国防保安法、軍機保護法に基づく国家機密漏洩を重視した司法省思想検察だったというのです。外務省や情報局はほとんど関与できなかったといいます。

 太田耐造(1903~56)は、ゾルゲや尾崎秀実らを逮捕する際の法的根拠とした治安維持法の改正(1941年3月10日、7条だったのを65条にも増やした!)、軍機保護法の改正(同日)、軍用資源秘密保護法(同年3月25日施行)、軍機保護法(同年5月10日施行)の全てに関わっていたのです。驚きですね。当時、太田はまだ30代の若さでした。

 太田耐造関連文書の中の「ゾルゲ事件史料集成」(全10巻)は現在、不二出版から刊行中ですので、ご興味のある方はご参照ください。講演会では隣席にこの不二出版の小林社長が座られて、何年ぶりかでお会いし(当時は、編集者でした)、向こうから御挨拶して頂き、社長業も大変で何となくお疲れ気味でしたので、茲で紹介させて頂くことにしました。

 司法大臣岩村通世からゾルゲ事件について昭和天皇に上奏されたのは、昭和17年(1942年)5月13日(水)午前11時30分。司法省刑事局長室での新聞発表はその3日後の5月16日(土)午後4時でした(朝日新聞の記事では【司法省十六日午後五時発表】となっている。不思議)。ゾルゲやブーケリッチ、宮城与徳、尾崎らが逮捕されたのは、これを遡る7カ月も前の1941年10月でしたが、報道差し止め。事件の発覚が国民の目に触れたのはこの時が初めてでした(しかも具体的な諜報内容は伏せられた)。その後、日本が敗戦となるまで、44年11月のゾルゲと尾崎の処刑も含めて一切の報道はありませんでした。

探しました!昭和17年5月17日(日)付東京朝日新聞朝刊1面「国際諜報団検挙さる」 扱い方が司法省の命令により地味 紙面は戦中のせいなのか、わずか4面。夕刊は2面でした。

 ここで注目したいのは、太田耐造文書に関しては既に毎日と朝日で報道されていますが(読売、日経、産経、東京などは精通した記者がいないのか?報道していないようです)、天皇上奏文と新聞発表では明らかに、かなりの相違があったことです。新聞発表では、「トップ扱いにするな」「四段組以下扱いにせよ」「写真は載せるな」(現代文に改め)など事細かく「新聞記事掲載要綱」で報道統制していたことも分かりました。

2018年8月18日付 毎日新聞朝刊1面

 上奏文と新聞発表の大きな違いは十数点ありますが、一つだけ挙げるとすると、上奏文の内部資料とみられる文書では、ゾルゲは「ソ連の赤軍第四本部の諜報団」と正確に明記しながら、新聞発表文では治安維持法適用のために「コミンテルン・共産党関係の諜報団」としたことでした。司法省も大本営発表のような偽情報を流したということですね。

 (ただし、日本共産党関係は、治安維持法の制定(1925年)で、28年の「三・一五事件」、29年の「四・一六事件」や幹部の転向などで壊滅状態となり、加藤先生によると、1935年以降の共産党関係者の検挙率は1%にも満たなかったといいます。えっ!驚きです。むしろ、太田耐造らが関わった41年3月の治安維持法改正では第七條「國體ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者 」も加えられ、労組関係者や宗教団体への弾圧が増えたといいます。)

 そして、何よりも付け加えたいのは、上奏文にはあった「ソ連」が新聞発表文では、一切削除されていたことでした。これは、当時、ソ連とは日ソ中立条約を締結しており(しかし、昭和20年8月にソ連が一方的に破棄して、満洲の悲劇が生まれる)、内務省警保局外事課では、ソ連は、何と「親善国」とされていたという背景があります。「ソ連」と新聞発表しなかったのは、親善国ソ連を徒らに刺激することを避けたとみられます。そういえば、終戦間近、日本はソ連を仲介して和平工作を進めていましたね。満洲で暴虐の限りを尽くし、「シベリア抑留」をしたロシア人を信用するなど実におめでたい話だったことは歴史を見れば分かります。

 いずれにせよ、太田耐造関連文書の公開で、ゾルゲ事件の研究がさらに進むことが望まれますが、景気低迷、少子高齢化の日本では興味を持つ若い人材すら減り、危うい感じもします。

 ゾルゲ国際諜報団が、ソ連赤軍に打電した重大事項の中には、尾崎が情報収集した昭和16年(1941年)7月2日の御前会議で決定された南部仏領インドシナへの進駐(いわゆる南進政策)のほか、ゾルゲがドイツ大使館で入手した独ソ戦開戦に関するドイツ側の開戦予定日と意図などもあり、世界史的にも注目されます。(ただし、スターリンは信用していなかったという説もあり)

 ゾルゲ関係の資料や200冊近い関連書籍を読みこなすには何年もかかりますが、多くの人に少しでも興味を持って頂ければ私も嬉しいです。

「解明されたゾルゲ事件の端緒ー日本共産党顧問真栄田(松本)三益の疑惑を追ってー」

昨日21日(土)は、東京・御茶ノ水の明大リバティータワーで行われた講演会を聴きに行きました。

「偽りの烙印」などの著書があるゾルゲ事件研究の第一人者の渡部富哉氏が88歳のご高齢になられ、これが「最後の講演会」ということでしたので、渡部氏には大変お世話になったり、こちらもお世話をしたり(笑)した仲でしたので、会場で会いたくない人がいるので気が進まない面もありましたが、足を運んだわけです。

私は読んでませんが、「ゾルゲ研究の第一人者の最後の講演」は、朝日新聞(恐らく都内版)に掲載されたらしく、それを読んだ人が、「大変だ」とプレミア価値を持ったのか分かりませんが、驚くほど大勢の人が押し寄せて、受付も長蛇の列で長い間待たされました。

概算ですが、500人以上は詰め掛けたのではないでしょうか。資料代1000円でした。

プレミアで来られた方の中には、ゾルゲ事件についてあまり詳しいことを知らない人もいたようで、何だか分からないピンボケの質問をする自信満々の唐変木な老人もおりました。

あまりにも多くの人が押し寄せたので、気を良くした渡部さんは「これを最後にしようかと思いましたが、話しきれないので、もう1回やります」と宣言するので、こちらも拍子抜けしてしまいました。

とても88歳とは思えない矍鑠ぶりで、志ん朝のようなべらんめえ調の話術は相変わらずで、落語を聴いているようで、会場から笑いを誘ってました。

肝心の講演会は「解明されたゾルゲ事件の端緒ー日本共産党顧問真栄田(松本)三益の疑惑を追ってー」で、日本共産党中央委員会顧問などを務めた松本三益(1904〜98年、享年94)が、当局(特高)のスパイだった、という説を特高資料や当時の関係者の証言録を引用してかなり説得力がありました。

渡部氏によると、松本三益は、日本共産党入党を1931年10月(「赤旗」など日本共産党の公式見解)としておりますが、真実は、既に1928年に入党しており、これなども当局によるスパイ松本三益隠しの一つだった、などといいます。

ただ、表題の「解明されたゾルゲ事件の端緒」に関しては、全く要領を得ず、納得できるような論は展開されなかった、と私なんかは聴きました。

ゾルゲ国際諜報団の中心人物の一人、宮城与徳(沖縄県名護出身。渡米し、画家に。米国共産党に入党。コミンテルンの指令で日本に戻り、ゾルゲ・グループに合流。逮捕され獄中死。享年40)は、日本に潜入した際、最初に接触したのが、沖縄師範学校時代の同級生だった喜屋武保昌(きやむ・やすまさ、東大新人会に参加し、官憲からマークされた。私立巣鴨高商教授。宮城与徳が描いた喜屋武保昌とその息子と娘の肖像画は記念館に展示されている)で、この喜屋武から「農業部門に詳しい専門家」として松本三益を紹介された。松本は、宮城与徳に高倉テル(1891〜1986、京大英文科卒、作家、教育赤化事件などで検挙。脱獄を企て、その脱獄に便宜を与えた疑いで三木清が逮捕された。戦後、日本共産党に入党し、国会議員)、安田徳太郎(1898〜1983、医師、社会運動家。京大医学部卒。東京・青山に医院を開業し、宮城与徳に、通院していた軍関係者の情報を提供したとして検挙)、久津見房子(1890〜1980、社会運動家。3・15事件で検挙、ゾルゲ事件に連座し、懲役8年の判決。敗戦で4年で釈放)らを紹介した。…などという話は渡部氏は事細かく説明してましたが、松本三益が、いかにしてゾルゲ事件の端緒を開いたのか、説明なしでした。

そこで、講演会の二次会を欠席し、自宅に帰って、古賀牧人編著「『ゾルゲ・尾崎』事典」(アピアランス工房、2003年9月3日初版。加藤哲郎一橋大教授のお薦めで、当時4200円なのに、2012年に古本で4949円で購入)を参照したら「真栄田(松本)三益密告説」など色々書いてあり、これを読んでやっと要点が掴めました。

高倉テルが安田徳太郎に語ったところによると、真栄田(松本)三益は、満州の事件(恐らく、合作社・満鉄調査部事件)で昭和16年に検挙されたが、助けてもらうために、警視庁がまだ知らなかった宮城与徳の諜報活動を密告して、当局と取引したというのです。

「伊藤律端緒説」という誤った説を広めたため、渡部氏が蛇蝎の如く嫌っていた尾崎秀樹(1928〜1999、文芸評論家、尾崎秀実の異母弟)も「越境者たち」の中で、「事実だとすれば、組織発覚の端緒は、これまでいわれていた伊藤律ー北林トモー宮城与徳といった線ではなく、真栄田三益ー宮城与徳ということになる」とはっきり書いてありますね。

私自身、日本ペンクラブ会長も務めた尾崎秀樹さんとは、かつて取材などで親しくさせて頂いたこともあり、渡部氏が批判するほど、そんな頑なで悪い人には思えず、もし彼がもう少し長生きされていたら、「伊藤律端緒説」を取り下げて、渡部氏と和解していたんじゃないかと思っております。