生物に運命なし、全ては偶然の産物=ダーウイン「種の起源」を読了

 「わーお、やったーー」。通勤電車の中で一人、心の中で快哉を叫んでしまいました。ダーウインの「種の起源」(渡辺政隆訳、光文社古典新訳文庫)をついに、やっと読了出来たのです。ハアハアと3000メートル級の高山を登頂できた爽快感と疲労感が入り混じったあの感覚が押し寄せて来ました。

 「種の起源」は1859年11月24日に初版が発行され、ダーウインはそれ以降、13年間も地道に改訂作業を続け、1872年2月に「第六版」まで出版しました。訳者の渡辺氏によると、ダーウィンと言えば直ぐに連想できる「進化」evolution という言葉は、この最後の第六版になってやっと出て来た言葉だといいます。(それまでは「変異を重ねて来た」といったような表現。)また、ダーウィン主義のキーワードとなる「適者生存」も、1869年の第五版になって初めて登場したといいます。「進化」も「適者生存」も社会学者のハーバート・スペンサーが命名した造語でした。

日比谷公園

 いわゆるダーウィンの進化論は、今や定説になっていて疑問の余地はないと私は思っていましたが、今でも、キリスト教原理主義者だけではなく、科学者の中でも反ダーウィン主義者がいるとは驚きでした。訳者の渡辺氏も「あとがき」の中で、同氏が1970年代の前半、大学の生物学の最初の授業で、高名な教授から「ダーウィンの『種の起源』は読む必要もない。あそこに書かれているのは嘘ばかりだから」と聞かされたといいます。

 ダーウィンの進化論とは、一言で言えば、「全ての生物は共通の祖先から進化してきたという考え方」で「生物の進化は世代交代を経た枝分かれの歴史であって、一個人が進化することはありえない」ということになります。しかし、「種の起源」は決して読みやすい本ではなく難解のせいか、正しく読まれずに、ダーウィンの業績も正しく評価されないまま、学界で論争を生んだのではないか、と訳者の渡辺氏は書いております。

 なるほど、そういうことでしたか。「種の起源」の最後は「実に単純なものから極めて美しく素晴らしい生物種が際限なく発展し、なおも発展し続けているのだ。」という文章で終わっています。「種の起源」第六版を出版した時のダーウィンは63歳になっていました(その10年後の73歳没、ニュートンやヘンデルら著名人が眠るロンドンのウエストミンスター大寺院に埋葬)。

内幸町

 この難解の書物を私自身、どこまで理解できたのか心もとないのですが、読破できたことだけは自分自身を褒めてあげたいと思っております。「種の起源」を読まずに進化論を語る勿れですね。

 訳者の渡辺氏も「解説」の中でこう書いています。

 進化の起こり方は、常に偶然と必然に左右され、行方が定まらない。あらかじめ定められた運命など存在しないのだ。生存することの意味を問う中で虚無に走るのは容易い。しかし、偶然が無限に繰り返された結果として人生は存在するという考え方には荘厳なものがある。「種の起源」を読まずして人生を語ることができない。

 これ以上、付け足すことがないほどの名言です。

 

 

「絶滅種は復活しない」と「アルゼンチンの由来」

 相変わらず、といいますか、いまだに、まだダーウィンの「種の起源」(下、渡辺政隆訳、光文社古典新訳文庫)を読んでいます。

 この中で、「いったん絶滅した種は二度と出現しない」とか「一つのグループが、いったん完全に消滅すると、二度と復活しない。世代の連鎖が途切れてしまうからである」(174~175ページ)といった記述にぶつかり、ハッとしてしまいました。

 そっかあー。当たり前のことですけど、映画「ジュラシック・パーク」などでは、絶滅したはずの恐竜が「復活」したりしましたが、あれはあくまでもフィクションの世界だったんですね。ダーウイン先生に言わせれば、絶滅した恐竜は二度と出現しないし、同じように我々、ホモ・サピエンスの人類に最も近いデニソワ人もネアンデルタール人も絶滅したので、もう二度と出現しない、ということなのでしょう。

 そうなると生物に課せられた「生き延びること」と「生き残ること」は、最大最高の使命であり、最大の目的であり意味であることが再認識されます。(この後、ダーウインは、何百キロも離れた大陸や群島で、ある同じ植物が群生するのは、鳥や魚や動物たちが食べた果実や種子が嗉嚢(そのう)などに残り、遠距離で運ばれ、動物が死骸になっても、中に入っていた種子が長らく発芽能力を維持していることを実験で証明したりしております。)

◇絶滅危惧種を救え

 環境庁が発表している「レッドデータブック」をチラッと拝見しますと、既に「絶滅」した種としてニホンオオカミやニホンカワウソなどがあり、ラッコやジュゴンは「絶滅危惧」で、房総半島のホンドザルや紀伊山地のカモシカなどは「絶滅のおそれ」に分類されています。

 絶滅したニホンオオカミなどは二度と復活しないということになり、人魚姫のモデルになったとも言われるジュゴンなどの危惧種も絶滅したら、二度とその姿を見ることができなくなります。それらは人間の責任と言うべきか、それとも、生存闘争の末の「自然淘汰」と言うべきなのか? 少なくとも絶滅の恐れがある動物や植物たちは「人口問題なんかより、同じ地球に住んでいるんだから、俺たちの生存権をもっと大事にしてくれよ」と主張することでしょう。

 そんなことを考えながら、「種の起源」を読み進めています。

 話はガラリと変わって、先日、化学の元素記号を眺めていたら、ヘリウムheliumはHe、マグネシウムmagnesiumはMgなどと分かりやすいのに、何で金はgold なのにAu、銀はsilver なのにAgなんだろう、と思ったら、ラテン語だったんですね(実は知ってましたが=笑)。

 金は、ラテン語でaurum、銀はargentum。ですから、金の元素記号はAu、銀はAgとなるわけです。この銀のargentum(フランス語の銀は、argent でした!)は、どうも南米のアルゼンチンと関係があるのかな、と思って調べたら、やはり、アルゼンチンという国は、このラテン語の銀から取ったんですね。侵略したスペイン人が銀の鉱山を発掘したからでしょう。ついでながら、アルゼンチンとウルグアイを流れる有名なラプラタ川がありますが、スペイン語で、ラは冠詞、プラタは銀という意味なんですね。

 この年にして何ーも知らなかった、と恥じた次第です。

 アメリカの地名の由来は、イタリアの探検家アメリゴ・ベスプッチから取られたことは知っておりましたが、それ以外の北米、中南米の国々の地名の由来はほとんど知りませんでした。そこで、調べたところー。

カナダ=先住民の「村」「村落」を意味する「カナカ」が元になったという。

メキシコ=アステカ族の守護神メヒクトリ(「神に選ばれし者」の意味)にちなんで呼んだメヒコに由来する。

キューバ=先住民の「クーバ」(中心地の意味)の英語読み。

エクアドル=スペイン語で「赤道」の意味。

ブラジル=貴重な赤い染料が取れる「パウ・ブラジル」の木から。

ボリビア=ボリビア独立の功労者シモン・ボリバルに因む。

 まだまだ沢山ありますが、取り敢えず、この辺で(笑)。

用不用説は日常生活で感じられます

ダーウィンの「種の起源」(光文社古典新訳文庫、下巻)を読んでおりますが、ちょっと難解で、正直言って、途中で投げ出したくなります。科学者になる人、科学者になった人は必読書ですが、恐らく、多くの人は挫折しているんじゃないかと断言したいぐらいです。

 私の場合は、翻訳者の渡辺政隆氏が下巻の「訳者まえがき」に「ダーウィンの『種の起源』は手強い本である。決して読みやすい本ではない。」というお言葉に励まされて、息も絶え絶え、何とか読み続けております。

 頑張って読んでいると、20ページに1カ所ぐらい、私のような素人でも面白いと感じる箇所が出てきます。例えば、キリンに尻尾があるのは、その用途の一つとして、蠅を追い払うため、などと書かれたりすると、「へ~」と思ったりします。猿は尻尾で木の枝をつかんだりしますが、人類の尻尾が退化したのは、使わなくなったからでしょう(用不用説)。もう木に登らなくてすむようになったし、蠅や蚊はベープマットを使ったりしますから(笑)。

 でも、牛や馬やキリンさんにとって、蠅や蚊を追い払うことは「死活問題」です。もし、変な病気を持った蠅や蚊にやられたらイチコロですから、尻尾は必需品で、なくならないのでしょう。

有田

 用不用説ーつまり、使わなかったら、退化したり、なくなったりすることは、普段の生活で誰でも感じるのではないでしょうか。先月、私は健康診断でバリウム検査をした時、とんでもない体験をしました。機械の上に乗ってグルグル回されますよね。その時、両手は脇の棒にしっかり捕まって、変な姿勢を取らされる時に我慢しなければなりません。検査する医師が、マイクを通して、「はい、右に90度回転して」とか「左回転で1周回って」とか命令します。その時、私は、普段使わない左腕の筋肉がつってしまい、とても痛くて、脇の握り棒をつかめなくなり、体を回転するのも難儀になってしまったのです。

 それでも、検査医師は知らぬか、知ってか、「はい、真面目にしっかり握って!」とか「左じゃない、右に回転して」とか命令し続けるのです。

 あれには参りましたね。

 検査が終わって反省しました。「そう言えば、ここ何年も、鉛筆より重いもの持っていなかったなあ。だから腕がつったりするんだ」という事実に気が付いたのです。毎日、通勤で、書籍やペットボトルなどが入った重い鞄を持参していますが、リュックサックなので肩で背負って、手で持つことはありません。「あっ! 腕は全然使わず、鍛えられていなかったのだ」との用不用説に気が付いたのです。それ以降、なるべく、歩くとき、鞄は手で持つようにしました。(人類が二足歩行したのも、前脚で赤ん坊やモノを持つため、という説もありましたね!)

 1年も続ければ、腕は鍛えられるでしょう。もう腕はつったりしないかもしれません。来年の検診が楽しみになってきました(笑)。

池波正太郎さんの行きつけだった築地「かつ平」

 このように、用不用説は日々の日常生活で感じることが出来ます。歩かなければ、足が退化しますし、笑わなければ、顔面筋肉も退化することでしょう。そう言えば、入院した時、人と話さなかったら、声が出なくなった体験をしたことがありました。

 頭も使わなければ、退化しますので、こうして、私は毎日、一生懸命、ダーウィンの「種の起源」を読んでおります。電車の隣席では、おばさんが熱心にスマホゲームしてますが。