「禁じられた西郷隆盛の『顔』」=写真から消された維新最大の功労者

いつも何かと小生に気を遣ってくださるノンフィクション作家の斎藤充功(みちのり)氏から、出版社二見書房を通して本が送られて来ました。

 「禁じられた西郷隆盛の『顔』 写真から消された維新最大の功労者」(二見文庫、2020年10月25日初版)という本です。2014年に刊行された「消された『西郷写真』の謎 写真がとらえた禁断の歴史」(学研パブリッシング)を増補改訂した文庫版です。

 ちょうど1年前に出版され、小生もこのブログ(2019年9月26日付)で取り上げさせて頂いた「フルベッキ写真の正体 孝明天皇すり替え説の真相」(二見文庫)の続編にもなっております。

 一応、帯にある通り、「明治維新史の暗部に切りこむノンフィクションミステリー」となっていますので、タネ明かしをしてしまうのはフェアではありませんが、結論を先に言ってしまいますと、結局、これまで出回っている西郷隆盛の「真顔」と言われていた写真は、東京歯科大学法人類学研究室の橋本正次教授による鑑定で「一致」に至らず、なおも探索作業が続いている…ということでした。

 著者は、「西郷写真」の存在を求めて、上野の西郷さん像をスタートして、二戸、大阪、下関、長崎、鹿児島…と関係者に会い、3年間かけて丹念に取材しています。そのフットワークの軽さはさすがです。

 斎藤充功氏が特に問題とした代表的な写真が、加治将一著「幕末 維新の暗号」(祥伝社、2007年)で再脚光を浴びた「フルベッキ群像写真」(幕末に来日したオランダ系米人宣教師フルベッキと息子を囲んで44人の武士が写ったもの。写っている武士たちは、坂本龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、伊藤博文…ではないかと推定された)、明治2年から8年にかけて浅草で撮影された「スイカ西郷」と呼ばれる写真(西瓜のような頭をした人物が西郷ではないかと言われたが、法人類学者の鑑定では否定。医師小田原瑞苛が有力だが、確定にまで至っていない)、天皇の専属写真師、内田久一撮影の「大阪造幣寮前に集合した近衛兵と3人の指揮官らしき人物=その中央が西郷か?」、オーストリア人のスティルフリードによって盗撮された「横須賀造幣所を行幸中の明治天皇」などです。

 実際、写真がないと、参照できず、このように文字だけ並べても、お読みになっている方は何のことか分からないことでしょう。仕方がないので、ご興味のある方は本書を手に取って頂きたいと存じます。

 フットワークの軽い斎藤氏は、鹿児島県さつま町にある「宮之城島津家資料センター」を訪れ、加治将一著「西郷の貌」などで、西郷隆盛と同定している「一三人撮り」写真の史料根拠としていた「宮之城史」が、資料として存在しないことを同センター専門委員の川添俊行氏から引き出したことは、この本の手柄でしょう。

「スイカ西郷」に写る右端の男性が大久保利通と一致

 著者の斎藤氏は、法人類学の橋本教授とタッグを組んで、さまざまな「西郷写真」を鑑定し、結果的には西郷さんに「一致」と断定できる写真は見つかりませんでしたが、その過程で、思わぬ収穫がありました。

 「スイカ西郷」の写真で右端に立ち、西郷と思しき西瓜頭の男性の肩に手を掛けている男性が、大久保利通であるとほぼ確定できたことでした。有名な髭もじゃの大久保ではなく、まだ明治初期の若い頃の写真です。

 結局、西郷隆盛と断定できる写真は発見できませんでしたが、著者は「必ずどこかにあるはずだ」という確信を持っていることから、この続編が書かれるかもしれません。

 坂本龍馬も高杉晋作も桂小五郎=木戸孝允も大久保利通も幕末の志士と呼ばれた人たちのほとんどの写真が残っているというのに、維新最大の功労者である西郷隆盛の写真だけが残っていないのは何故か?ー 著者は、西郷隆盛が神格化されたり、反政府の象徴にされないように、明治の要人の誰かが故意に、隠したり、消したりしたのではないかという説を取っておりましたが、確かに、その通りなのでしょうね。

 「あるものをなかったことに」したのは現代の安倍政権下の官僚によって行われましたが(公文書破棄事件)、西郷写真の抹殺は、確かに明治維新史暗部のミステリーですね。

斎藤充功著「フルベッキ写真の正体 孝明天皇すり替え説の真相」は驚きの連続

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

この本「フルベッキ写真の正体 孝明天皇すり替え説の真相」(二見文庫)を読んで、まずは、びっつらこいてしまいました。まさに、この表現がピッタリです。

 この本は、「日本のスパイ王: 陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実」(学研)を書かれたノンフィクション作家の斎藤充功氏がわざわざ私に献本してくださったのです。昨年、この渓流斎ブログで、この秋草俊の本を取り上げたところ、ネットで目敏く見つけた斎藤氏御本人から小生に御連絡があり、意気投合し、昨冬、陸軍中野学校にも詳しいインテリジェンス研究所の山本武利理事長とも御一緒に銀座の安酒場で鼎談したことがありました。

 その後、少し御無沙汰してしまったのですが、今日は斎藤氏からわざわざ電話までありました。

 で、何で驚いたかといいますと、3日前にこの本を読む直前に、仙台にお住まいの一力先生から電話があり、伊藤博文を1909年にハルビンで暗殺して処刑された韓国の独立運動家安重根と、その看守だった千葉十七をしのぶ合同法要が9月22日に、千葉十七の菩提寺である宮城県栗原市の大林寺で行われた、といった河北新報に出ていた記事をきっかけに、今の最悪の日韓関係の話をしたばかりだったからです。

 「フルベッキ写真の正体」の第1章の「六発の銃声」ではいきなり、この日本ではテロリストと呼ばれている安重根による暗殺場面が出てきたのです。この中で、著者の斎藤氏自身は、旧満洲のハルビンにまで足を運び、現場を取材し、実際の下手人は、実は安重根ではなかったのではないか、と判断するのです。なぜなら、安重根は、ハルビン駅頭で、群集と儀仗兵の間に紛れて、伊藤博文の間近の低い所から拳銃を撃ったとされています。となると、弾丸は下から上に流れなければなりません。それなのに、伊藤博文の致命傷になった弾丸は、右肩から胸にかけて右上から左下に貫通していたというのです。斎藤氏は、当時のハルビン駅舎の2階は食堂になっていたことを通訳を通して取材したハルビン駅の助役に確認します。そして、安藤芳氏が「伊藤博文暗殺事件」の中で書かれたように、真犯人は2階食堂の従業員の着替え室から狙撃したのではないか、という説に同調するのです。

 まるで、ケネディ米大統領暗殺事件みたいですね。それでは、狙撃犯人の背後にいた人物とは誰だったのか?この本は「歴史ノンフィクション・ミステリー」と銘打っているので、種明かしはできませんので、実際この本を手に取って読んでみてください。

そうそう表題になっているフルベッキの写真とは何かについても説明しなければなりませんね。御存知の方も多いと思いますが、フルベッキとは幕末に来日した蘭出身の宣教師のことで、写真は、フルベッキと息子を囲んで44人の武士が写ったものです。撮影者は、日本の写真師の元祖上野彦馬。写っている武士たちとは、坂本龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、伊藤博文…と錚々たる幕末の志士ばかり。私も以前、加治将一著「幕末 維新の暗号」(祥伝社、2007年)を読んで大変興奮した覚えがあります。

 なぜなら、ここに写っている大室寅之祐なる人物が、明治天皇としてすげ替えられた(つまり、睦仁親王の替え玉)のではないかという推理小説だったからです。大室は、南朝の流れを組む人物で、明治天皇の父君である孝明天皇は天然痘で死亡したのではなく、毒殺されたという驚きの推理です。

 その毒を盛った下手人の背後にいたのが、実は伊藤博文だったということで、最初に出てきた安重根に繋がります。安重根が伊藤暗殺の理由として挙げた15カ条の罪状の中に、この孝明天皇について、「伊藤さんが弑逆(しぎゃく)しました。そのことは皆、韓国民は知っています」とあったのです。

 さて、このフルベッキの写真に写っていたのは本当に有名な幕末の志士と大室寅之祐だったのかー?これも、ミステリーなので本書を買って読んでみてください(笑)。斎藤氏は、ベルリン出張取材の経費が必要だと、電話で仰っておりました。

 何と言っても、斎藤氏の取材に懸けた情熱とフットワークの軽さには感服します。何かネタがありそうだと思うと、旧満洲、田布施、横須賀、長崎、佐世保、京都、角館…と何処にでも行って人に会いに行きます。残念なのは、年号の間違いあったこと。校正の段階ですぐ分かるので、ミスプリントかもしれませんが、「1956年(昭和33年)」(39ページ)、「明治元年10月28日(1886年12月10日)」(96ページ)は、一目見ればすぐ分かるはずですが…。

いや、これで終わってはいけませんね。斎藤氏のベルリン出張費のためにも、重ね重ね、皆様のご協力をお願い申し上げます。