「和田義盛の乱」、三浦義村裏切りの真相

 「歴史人」7月号(「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」特集)をやっと読了しました。戦国時代の豊後の大名大友宗麟の御先祖さまが、「鎌倉殿の13人」の中原親能だったとか、梶原景時を追撃した駿河の武士・吉川友兼が、戦国時代の吉川氏の御先祖さまだったとか、教えられることが多く、色々と勉強になりました。

 でも、誤植や間違いが多過ぎました。私が発見しただけでも7カ所はありました。特に酷かったのは、「8代執権・時宗の祖・一遍もまた武士層に心の支えを与えていた」と105ページに書かれていることです。時宗(じしゅう)の開祖一遍上人が、8代執権北条時宗(ときむね)の祖になってしまっています! 明らかに筆者の記憶違いなのでしょうが、校正の段階で気付くはずです。編集長も目を通していないのではないでしょうか?

 名前の漢字の間違いも結構見受けられましたし、商品価値を貶めてしまうことになります。繰り返しになりますが、これらは校正の段階で直せるはずです。もう優秀な人材が出版界に入ってこなくなってしまったということなのでしょうか?

 あまり批判しても、しょうがないので、最終的にはこの本(雑誌)を買って良かった、と私は思っていることを強調しておきます。本当に色んなことを教えてもらいました。

 最後に一つだけ、取り上げてみますと、「和田義盛の乱」のことです。侍所の別当(長官)も務めた最有力御家人の一人である和田義盛は、三浦義明の孫であり、三浦一族です。乱を起こす直前に、一族の三浦義村からの支援を得るために起請文まで交わしたというのに、結局、最終的に三浦義村は裏切って、北条義時側に付きます。とても不可解で、さっぱり理由が分からなかったのですが、この本には、考えられる真相が列挙されていて、それを読んで初めて納得できました。

 まず、三浦義村にとって、和田義盛は、父方の従兄弟に当たりますが、北条義時は、母方の従兄弟でもあったのです。義村が、義盛よりも義時側に付いたのは、三浦一族の中で、義村がトップに立ちたかったからで、侍所別当など大出世している和田義盛は目の上のたん瘤だったというわけです。そういうことだったら、理解できますね。

 鎌倉幕府の初期は、血と血で争う権力闘争で、親子だろうが、兄弟だろうが、従兄弟だろうが関係ありません。むしろ、幕府御家人の幹部連中は、ほとんど全て、政略結構で姻戚関係を結んでいますから、義父だったり、義兄弟だったり、乳母子同士だったりします。

 「古今著聞集」巻十五「闘諍」の中に、寝返った三浦義村が千葉胤綱(千葉常胤の曾孫)から「三浦の犬は友を食らう」(三浦は同族を裏切った)と詰め寄られた話が出てきます。

 それを言ったら、始まりません。初代将軍源頼朝は、平氏滅亡の最大の功労者で、異母弟でもある源義経と源範頼まで自害・暗殺に追い詰めています。

 二代将軍頼家も三代将軍実朝も暗殺され、有力御家人だった「坂東武者」比企能員も、畠山重忠も、梶原景時も北条時政の陰謀で誅殺され、そして、時代は下って、三浦泰村(義村の次男)も五代執権北条時頼によって一族が滅亡され(宝治合戦)、北条氏に対抗できる御家人がいなくなり、北条家の独裁政権が確立します。(ちなみに、時頼は、鎌倉大仏をつくり、蘭渓道隆を招いて鎌倉五山第一位の建長寺を創建した人です。)

 鎌倉幕府の初期は、いつ何時、寝首をかかれてもおかしくないマフィアの抗争みたいな時代です。戦乱と疫病と飢饉で明日のの命も知れず、元寇という国難も起きました。貴族や武士だけでなく、民衆も何か精神的に縋りたいものが欲しいことはよく分かります。だからこそ、浄土宗、禅宗、日蓮宗など鎌倉新仏教が生まれ、彼らに支持され発展したのでしょう。

 運慶、快慶ら仏師が活躍した「写実主義」の時代でもあり、彼らの仏像や作品は今でも感動します。でも、命がいくつもあっても足らない鎌倉時代に生まれなくてよかった、と私なんかつくづく思ってしまいます。

時宗総本山遊行寺(藤澤山清浄光寺)お参り記

 柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)に巡り合って以来、日本の仏教、中でも浄土思想にかなり興味を持つようになりました。(日蓮は「真言亡国」「禅天魔」「念仏無間」「律国賊」と痛烈に批判しましたが…)

 若い頃に表面的に触れていた仏教は、かなり理解が浅く、それどころか、誤解している面が多々ありました。曰く、「浄土教は単に極楽浄土への往生を願い、来世だけが大事で、現世はどうでもいい…」、曰く、「浄土思想も踊り念仏も、いたって前近代的で、現在ではもはや通用しない…」云々。

 そんな誤解を吹き飛ばしてくれたのが、柳宗悦著「南無阿弥陀仏」でした。特に、法然(浄土宗)~親鸞(浄土真宗)~一遍(時宗)に至る一連の浄土教の変遷、発展、止揚、変容には目を見張るものがありました。

 著者の柳宗悦は、中でも、当時(終戦後間もない頃)軽視され過ぎていた一遍上人(1239~89年)に焦点を当て、再評価し、名誉を復活させたい意気込みを感じました。一遍は「捨聖(すてひじり)」の異名を持ち、臨終間際には、所持していた全ての経典を寺僧に譲るか、焼き捨ててしまいました。上人は「多くの学僧が色々と立ておかれた教えがございますが、全て色んな疑念に対する仮初めの教えである。念仏行者はこのような教えも捨ててしまって念仏すべきである」とまで言ってます。(ですから、本人は教団を設立する意思はなく、時衆→時宗教団をつくったのは二祖真教上人=1237~1319年=でした)

 私の古い友人に、財産を捨て、家族を捨て、友人を捨て、名誉を捨て、全てを捨てて「捨聖」のような生活を送っている人がいるので、個人的に尚更、一遍上人に惹かれます。

 本を読んで、いつか、一遍上人が開いた(ことになっている)時宗の総本山遊行寺に行ってみたいと思っていました。遊行寺のある神奈川県の藤沢市は、自宅から遠方なので、いつになることやら、と思っていましたが、先日、意外と早く、その夢を実現することができました。

遊行寺本堂

総本山だけになかなか立派な寺院でした。

本堂内にはかろうじで靴を脱いで中に入れました。無人でしたが、監視カメラが見張っていたと思います。御本尊は、金色に輝く立派な阿弥陀如来さまでした。写真を撮りたかったのですが、もちろん、控えました。

一遍上人像

 本堂前に一遍上人像があります。時宗の宗祖ではありますが、この寺を創建したわけではないことは先に書いた通りです。

 一遍上人は、全国各地を遊行し、出会った人々に「南無阿弥陀佛」と書いた念仏札を配り歩いて定住していなかったからです。(その活動は、算(ふだ)を賦(くば)り、結縁することから賦算(ふさん)と呼ばれました)

 ということで、この総本山遊行寺は、正式名称は藤澤山(とうたくざん)清浄光寺(しょうじょうこうじ)といいます。創建したのは、1325年、四祖の呑海上人でした。

 上の写真の説明文にある通り、この呑海上人の実兄が地頭の俣野景平で、この広大な敷地を寄進したとあります。景平は死後、俣野大権現として境内で祀られています。

 藤沢は、東海道五十三次の宿場町としても栄え、歌川広重の浮世絵などに描かれています。ですから、藤沢は近世の宿場町から名前を取ったものとばかり思っていましたら、既に中世鎌倉時代から遊行寺の門前町として大いに栄え、藤沢山から取って、藤沢の地名になったというのです。

 勉強になりました。

 本堂の裏手の長生院に「小栗判官の墓」があるというので足を運んでみました。

 小栗判官は、歌舞伎の演目「當世流小栗判官」にもなった実在の人物で、私も20年近く昔に、先代市川猿之助主演で舞台を見たことがあるので、馴染み深かったからです。

 小栗判官と照手姫伝説の「史実」に関しては、上の写真の看板に書かれていますので、お読みください。

上の写真の「中雀門」はなかなか風格がありました。

 説明では、幕末に紀伊大納言の徳川治宝による寄進とありますが、徳川家の葵の御紋ではなく、菊の御紋の方が目立ちますね。

 ◇「国宝 一遍上人聖絵」買えず、非常に残念

 今回、時宗総本山遊行寺をお参りしたもう一つの目的は、境内で販売している「国宝 一遍上人聖絵」の図録(2000円)を購入することでした。しかしながら、残念。この中雀門の奥にある寺務所にも行きましたが、「新型コロナの感染防止」を理由に閉まっておりました。「お守り札も御朱印もお手渡ししません」と掲示されていたので、大声を出して呼んでも無理なのでしょう。残念でした。

 この寺務所だけでなく、境内にある「遊行寺宝物館」も新型コロナのため、まだ依然として休館でした。「新型コロナを世界で一番怖がっているのはお坊さんですよ」と言う人がおりましたが、その通りですね。広い境内では、たったのお一人も僧侶に遭遇することはありませんでした。

【追記】

一遍上人語録に以下のものがあります。

 念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟りをもすて、一切の事をすてて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に尤もかなひ候へ。(消息法語5)

 地獄を怖れる心を捨て、極楽浄土を願う心も捨て、仏教の悟りも捨て、とにかく智慧も愚痴も一切の事を捨てろ、とまで言ってます。超過激な究極の思想ではないでしょうか。