建仁寺

 

建仁寺は、京都五山の中で最も古い名刹です。開祖は、臨済宗を起こした栄西。日本にお茶を伝えた備中吉備の人です。ここに、調布先生の奥方さまが眠っておられます。今回の旅の主目的が、 二年前にわずか49歳で亡くられた奥方さまのお参りでした。生憎、雨が降ったり、止んだりの天気で、お坊さんがお経をあげている時に、滂沱の雨が降り注ぎました。

調布先生が、墓前でお線香をあげながら「朋之介さんが、遠路はるばるお出でになってくださいましたよ」と声を掛けてくださり、私も思わず、色々と思い出すこともあり、目頭が熱くなってしまいました。

 

 

この建仁寺は本当に、素晴らしいお寺でした。京都でたった一箇所しかお寺に行けないのなら、ここがお奨めです。西芳寺のような苔庭がありますし、竜安寺のような石庭もあります。何しろ、俵屋宗達の「風神雷神図」はこの寺所蔵なのです。(寺には複製のみで、本物の国宝は京都国立博物館に委託されている由)

 

 

建仁寺には、安国寺恵瓊の首塚まであるのですね。恵瓊は、加藤廣さんの「秀吉の枷」にも出てきますが、毛利の交渉人というか全権委任大使として、羽柴秀吉と毛利軍の和睦の仲介をした歴史上の重要人物です。もし彼がいなければ、本能寺の変を逸早く察知した秀吉の「中国大返し」ができず、秀吉が天下国家を取ることはできなかったでしょう。関ケ原の合戦では、石田三成の西軍に味方しましたが、小早川秀秋の裏切り(この人の名前はよーく覚えておいてください)に遭い、敗退して、京都六条河原で斬首の刑を受けます。この首を密かに建仁寺に持ち帰って塚が建てられたいたとは知りませんでしたね。

 

 

 

ね、竜安寺みたいでしょう?なかなか手入れが行き届いた寺です。ここの四代目管長が竹田黙雷さんという高僧で、明治から昭和にかけて活躍された方です。明治の元勲伊藤博文をはじめ、鈴木大拙、東武鉄道の創始者根津嘉一郎ら多くの信奉者がおり、書画をよくし、彼の作品は今でも骨董店で高価な額で売買されています。建仁寺では法堂を再建するなど荒れかけた寺を再興した中興の祖です。寺内には、もちろん彼の水墨画がありましたが、本物かどうか不明。

 

 

 

そして、これが私が見たかった念願の小泉淳作さんの「双龍図」です。建仁寺開創八百年を記念して法堂の天井画として描かれたものです。やはり、本物の迫力は違いましたね。

大きさは畳108枚分もあるそうです。説明文に「中札内村の小学校の体育館で描かれた」ことも明記されていましたよ、北海道の皆さん!是非、京都に行かれるのなら、建仁寺に立ち寄るといいですよ。

京都慕情


京都~奈良とまさに駆け足で非常に中身の濃い旅行に行って参りました。
ちょっと、暴飲暴食してしまい、歩くのもしんどかったのですが、同行の調布先生は私と全く同じものを飲食しても、全くけろっとして、ご老人(?)とは思えない異様な健脚ぶりでした。京都は調布先生の生まれ故郷なので、勝手知った街。観光客が行かない裏道でも脇目振らず、まさに猪突猛進といった感じでした。

京都は、お墓参りの建仁寺を含め、主に四条通りを行ったり、来たりしておりました。17日の祇園祭のメーンイベントの巡行に備えて、山鉾が待機していました。生憎の雨続きでしたが、外国人観光客の多さには驚きました。
何と言っても、一番驚いたのが、店番の接客係の殆んどが外国人だったことです。アジア系なので、顔では分かりませんが、話し方で、すぐ中国人か韓国人であることが分かります。

居酒屋もそうでしたが、奈良の二月堂の茶店の若い男女二人とも中国人で、かなり日本語は上手いのですが、イントネーションが少し違い、二人だけの間では中国語で話していました。
「もう、日本人の若者は、こういう仕事はやりたがらないんだなあ」と、ニートの意味を実感した次第です。

古の町、雅の京都


わぁお~!
遂に京都にやって来ました。まさか毎日このブログを読まれている方は、地球上に一人もいないと思いますが、一日お休みいただいたのは、そういう事情によります。これから関西の素晴らしい写真を添えてリポートしていきます。
今、京都は祇園祭の真っ最中です。外国人観光客もわんさかと詰めかけています。
まだ、宵々々山の段階ですが、もうすでに山鉾が四条通りにスタンバイの状態で待機していました。ちょうど、曳き初(ぞ)めの日だったようです。
何か、血が騒ぐようで、久しぶりに興奮してしまいました。