「猿族」で最も劣る人類が何故、生物の頂点に立てたのか?

 私が子どもの頃に観た「猿の惑星」(1968年)は今でも忘れられない映画です。衝撃的なラストシーンは、本当に「あっ」と驚きましたが、それ以上に、ヒト種族の人間が、他のオラウータンやゴリラやチンパンジーなどの猿に体力的にも知的にも劣る「下等動物」として奴隷のような扱いを受けている姿は、本当に衝撃的でした。

 原作となったピエール・ブールの同名SF小説(1963年発表)は読んだことはありませんが、内心では全くあり得ない、実に荒唐無稽な、科学的根拠のない全くのフィクションだと思い込んでいました。

 しかし、実はそうではなかったんですね。ピエール・ブールは正しかった。実際、人類は、いかなる猿にも劣る生物として誕生したのです。このことは、ゴリラ研究の世界的権威である山極寿一・元京大総長による論文や新聞記事で知りました。

 山極氏によると、人類が、同じ霊長類であるチンパンジーから分岐して誕生したのが、約700万年前のことでした。その時の人類は、同じ「猿族」の中で、木登りも下手くそで、走るのも遅く、体力的にも、そして脳の容量という意味で知的にも最も劣る、いわば最低の「猿」だったようです。何で、そんな下等動物が、生物界の頂点に立つとは不思議の中の不思議です。(結局は、「進化」がポイントになったのでしょう)

 人類の脳がゴリラより大きくなり始めたのは、今からやっと200万年前だったといいます。やはり、ピエール・ブールのSFは荒唐無稽ではなかったんですね。人類誕生して500万年間は、いわゆる「下等動物」だったことになります。そして、現代人並みの脳の容量が達成したのは約40万年前です。ちょうど、ホモ・サピエンスが誕生した時期と重なります。(サピエンス誕生は30万年前という説も有力ですが、それでも、脳の容量はネアンデルタール人より少なかったのです)

 さらに、我々が話しているような言語が登場したのは、7万年前だと推測されると山極氏は言います。人類が700万年前に誕生したとすれば、「人類の進化史の99%は言葉なしに暮らしていた」ことになります。

 その間、身振り手振りやアイコンタクトや雄叫びとやらでお互いにコミュニケーションを図っていたんでしょう。山極氏は面白いことを言っております。化石人類の頭骨の大きさから、当時の集団サイズの大きさを算出したところ、10~15人だったといいます。これは初期の人類がゴリラと同じぐらいの脳のサイズだったことから算出されました。200万年前に脳が大きくなり始めた頃には、集団は30人となり、現代人の1400ccぐらいの脳サイズの集団は150人ぐらいのサイズになったといいます。

 この150人の集団サイズは、現代でも狩猟採集生活を続けている民族でも大体それぐらいだ、と文化人類学者は報告しています。つまり、7万年前に言葉が登場し、1万2000年前に農耕牧畜が始まる前まで、人類は150人ほどの集団で暮らしていたと考えられるというのです。

 面白いことに、スポーツの団体競技で、サッカーは11人、ラグビーは15人です。20人とか30人とかの集団になるとやっていけないようなのです。15人なら、人類がいまだ言葉を持たなかった時の集団サイズと一致します。ということは、15人というのは、競技中は、言葉が通じないので、身振り手振りやアイコンタクトでコミュニケーションをせざるを得ない、その限界値だということになります。

 200万年前に人類の脳が大きくなり始めた時、集団は30人とか50人になりました。これは学校のクラスや宗教の布教集団、軍隊の小隊の数に一致します。

 そして、現代人の脳の大きさに匹敵する150人という集団サイズは、過去に喜怒哀楽を共にし、スポーツや音楽などで身体を共鳴して付き合った仲間で、まさに信頼できる仲間の数の上限だと山極氏は言います。

 つまり、FacebookやYouTubeなどでフォロワーがたとえ10万人、100万人いたとしても、面識があるわけではなく、本人の手に余るということなのでしょう。脳の限界だからです。

 こういう話って、面白くありませんか? 私なんか、面白い話は、他の人にもどんどん喋りたくなります。この話は、せめて150人ぐらいの読者の皆様に届けば、大変嬉しい限りです(笑)。

【追記】

 山極寿一氏の発言の主な部分は、2022年7月6日に東京・日仏会館で行われた講座記録から引用させて頂きました。

 話し言葉は7万年前に生まれたとしたら、その一方、文字ともなりますと、世界で最も古い文字は、今から5000年から3000年前になります。エジプトのヒエログリフ、メソポタミア・シュメールの楔形文字、中国の甲骨文字です。それ以前、4万年前から1万年前の欧州の氷河期の洞窟に文字らしきものが発見されたようですが、人類の歴史のほとんどが、話し言葉も書き言葉もなかったことに変わりありませんね。

【追記2】2023年4月4日

 思い出しました。私の大学時代のクラスは15人でした。言語もなかった初期人類の最大集団が15人でした。語学専門だったので、クラス15人は、その限界値だったのか、と改めて目を見張りました。

マツタケも人類も絶滅危惧種?

 今朝の朝刊各紙で、「マツタケが絶滅危惧種として初めて指定された」という記事を読み、何か、「偶然の一致」の既視感を味わいました。

 私自身、高級食材マツタケとは、「縁なき衆生」(誤用)ではありますが、絶滅してしまう、というニュアンスにビクッと反応してしまったのです。

 というのも、昨日の日経夕刊の記事で、生物学者の池田清彦氏が人類の滅亡を予想していたからです。池田氏によると、これまで地球上に存在した生物の99%は絶滅したといいます。実に99%ですよ!! ほとんど全部じゃないですか。絶滅種といえば、すぐアンモナイトとか恐竜とか思い浮かびます。人類も700万年前に誕生し多くの種類がいましたが、ほとんど絶滅し、我々ホモサピエンスは人類最後の一種だといいます。記事には書いていませんでしたが、絶滅した人類とは北京原人とかネアンデルタール人とかのことでしょう。いずれにせよ、池田氏は「我々ホモサピエンスが遠からず絶滅するのは自明だと思います」と発言しています。

 マツタケどころの話ではありませんね。

 人類が滅亡したらどうなるんでしょうか?

 人類が生み出したあらゆるものー理性も知性も、科学も、歴史も、文明も芸術もなくなるということでしょうか?なくなることはないでしょうね。せめて化石として残るでしょう。書物やDVDとして残っても、それを理解する人類がいなくなったらどうなるか?といった方が問題です。池田氏は、一部の金持ちが自分の脳のシステムをAIにコピーして、不老不死のAI人間が取って代わると「予言」していますが、それって、人類なんでしょうか?

 遠からず、人類滅亡の日、その時は、老若男女、富裕層も貧困層も区別なく、権力者も弱者も分け隔てなく一様に滅びて、財産も名誉も勲章も、そして名声も全く意味がなくなると私なんか思っています。それじゃあ、生きている意味あるの? と皆さんは訝しがることでしょう。

 人生は無意味と言えば無意味だし、宗教や哲学で意味付けしようとすれば、それもできる、としか言いようがありません。

 不安や恐怖に駆られるのも人間だし、死亡率100%と「達観」できるのも人間です。

 でも、絶滅ともなると、それすら越えてしまいますね。はっきり言って、人類もマツタケと同じように、「絶滅危惧種」に指定してもおかしくないでしょう。これだけパンデミックが蔓延り、地球環境が悪化すれば。(40億年以上前から生存しているウイルスは、コウモリでもハクビシンでも生物に取りつくわけですから、絶滅することなく不滅なんでしょうか?)

 別に皆さんを不安や恐怖に陥れる目的で、こんな一文を書いたわけではありません。これだけ壮大な話になると、小さな、細々(こまごま)とした日々の悩みなんか吹き飛びませんか?

 人智を遥かに超え、私なんか、微苦笑さえ浮かびます。厭世観や不条理観に浸っていても、意味もないし、報われることもないからです。

 「だけども問題は今日の雨 傘がない」(井上陽水)