常林寺で萩見を=京都

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 9月になって少しは暑さが和らぎましたが、渓流斎先生の暮らし向きは如何でしょうか? 京洛先生です。

 貴人のブログを見ると相変わらず、難しそうな本ばかり読んでおられますが、もっと頭を柔らかくしないと息苦しくなりませんか?(笑)。

 年齢が行けば行くほど、持って生まれた気性、性格は治らないものですが(笑)、読む本も、もっと柔らかいものも読まないとね。それに「読書」は足腰の鍛錬をおろそかにします。二宮尊徳みたいに薪を担いで、歩いて読書すれば別ですが(笑)、本は、大体が、座って読むわけですからね。

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 小生は「一日、一万歩」目標で散歩を心掛けています。

 昨日も晴天だったので、今の時季、綺麗に咲き始めた「萩」を愛でに出掛けました。

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 出掛けた場所は、叡山電車「出町柳」駅そばの「常林寺」です。浄土宗のお寺ですが、京都市民には「萩のお寺」として知られています。ちょうどこれから10月初めにかけてが見頃です。

 此処は幕末に勝海舟が上洛した時に宿坊にしていて、中岡慎太郎らと密議をしていたということです。

ちょうど、連休明けで、人けもなく、静かで萩の見物にはよかったですね。

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「常林寺」の前は賀茂川と高野川が合流して「鴨川」になる葵橋界隈です。

 「下鴨神社」も近くですが、常林寺は、それほど大きなお寺ではなく、観光寺院でもないので、日頃は、お寺の前を通っても、目立たないので誰もが通り過ぎます。でも、この時季は、萩が咲き誇っているので、門の外からもその光景が見えます。

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それに気づいて、可憐な萩の花を愛でると、何か得した気分にもなるものです。

以上

 常林寺ですか。。。知りませんでしたね。勝海舟の京都の宿坊で、坂本龍馬も訪れていたということですから、幕末ファンにはたまらないでしょうね。

  調べたところ、毎年9月の敬老の日に「萩供養(はぎくよう)」が催されるそうですね。今でも 四季折々の花々や年中行事を大切にする京都の人にはいつも感服致します。

「東京人」が「明治を支えた幕臣・賊軍人士たち」を特集してます

今年は「明治150年」。今秋、安倍晋三首相は、盛大な記念式典を行う予定のようですが、反骨精神の小生としましては、「いかがなものか」と冷ややかな目で見ております。

逆賊、賊軍と罵られた会津や親藩の立場はどうなのか?

そういえば、安倍首相のご先祖は、勝った官軍長州藩出身。今から50年前の「明治100年」記念式典を主催した佐藤栄作首相も長州出身。単なる偶然と思いたいところですが、明治維新からわずか150年。いまだに「薩長史観」が跋扈していることは否定できないでしょう。

薩長史観曰く、江戸幕府は無能で無知だった。碌な人材がいなかった。徳川政権が世の中を悪くした。身分制度の封建主義と差別主義で民百姓に圧政を強いた…等々。

確かにそういった面はなきにしもあらずでしょう。

しかし、江戸時代を「悪の権化」のように全面否定することは間違っています。

それでは、うまく、薩長史観にのせられたことになりまする。

そんな折、月刊誌「東京人」(都市出版)2月号が「明治を支えた幕臣・賊軍人士たち」を特集しているので、むさぼるように読んでいます(笑)。

表紙の写真に登場している渋沢栄一、福沢諭吉、勝海舟、後藤新平、高橋是清、由利公正らはいずれも、薩長以外の幕臣・賊軍に所属した藩の出身者で、彼らがいなければ、新政府といえども何もできなかったはず。何が藩閥政治ですか。

特集の中の座談会「明治政府も偉かったけど、幕府も捨てたものではない」はタイトルが素晴らしく良いのに、内容に見合ったものがないのが残念。出席者の顔ぶれがそうさせたのか?

しかし、明治で活躍した賊軍人士を「政治家・官僚」「経済・実業」「ジャーナリズム」「思想・学問」と分かりやすく分類してくれているので、実に面白く、「へーそうだったのかあ」という史実を教えてくれます。

三菱の岩崎は土佐藩出身なので、財閥はみんな新政府から優遇されていたと思っておりましたが、江戸時代から続く住友も古河も三井も結構、新政府のご機嫌を損ねないようかなり苦労したようですね。三井物産と今の日本経済新聞の元(中外商業新報)をつくった益田孝は佐渡藩(天領)出身。

生涯で500社以上の株式会社を起業したと言われる渋沢栄一は武蔵国岡部藩出身。どういうわけか、後に最後の将軍となる一橋慶喜に取り立てられて、幕臣になります。この人、確か関係した女性の数や子どもの数も半端でなく、スケールの大きさでは金田一、じゃなかった近代一じゃないでしょうか。

色んな人を全て取り上げられないのが残念ですが、例えば、ハヤシライスの語源になったという説が有力な早矢仕有的は美濃国岩村藩出身。洋書や文具や衣服などの舶来品を扱う商社「丸善」を創業した人として有名ですが、横浜正金銀行(東京銀行から今の三菱東京UFJ銀行)の設立者の一人だったとは知りませんでしたね。

日本橋の「西川」(今の西川ふとん)は、初代西川仁右衛門が元和元年(1615年)に、畳表や蚊帳を商う支店として開業します。江戸は城や武家屋敷が普請の真っ最中だったため、大繁盛したとか。本店は、近江八幡です。いわゆるひとつの近江商人ですね。

田中吉政のこと

話は全く勝手に飛びまくりますが(笑)、近江八幡の城下町を初めて築いたのは、豊臣秀吉の甥で後に関白になる豊臣秀次です。

秀吉は当初、秀次を跡継ぎにする予定でしたが、淀君が秀頼を産んだため、秀次は疎まれて、不実の罪を被せられ高野山で切腹を命じられます。

まあ、それは後の話として、実際に近江八幡の城下町建設を任されたのが、豊臣秀次の一番の宿老と言われた田中吉政でした。八幡城主秀次は、京都聚楽第にいることが多かったためです。

田中吉政は、近江長浜の出身で、もともとは、浅井長政の重臣宮部継潤(けいじゅん)の家臣でした。しかし、宮部が秀吉によって、浅井の小谷城攻略のために寝返らせられたため、それで、田中吉政も秀吉の家臣となり、秀次の一番の家臣になるわけです。

それが、「秀次事件」で、秀次が切腹させられてからは、田中吉政は、天下人秀吉に反感を持つようになり、秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、徳川家康方につくわけですね。山内一豊蜂須賀小六といった秀吉子飼いの同郷の家臣たちも秀次派だったために秀吉から離れていきます。

 田中吉政は、関ヶ原では東軍側について、最後は、逃げ落ち延びようとする西軍大将の石田三成を捕縛する大功績を挙げて、家康から久留米32万石を与えられます。
 そうなのです。私の先祖は久留米藩出身なので、個人的に大変、田中吉政に興味があったのですが、近江出身で、近江八幡の城下町をつくった人だったことを最近知り驚いてしまったわけです。
 明治に活躍したジャーナリストの成島柳北(幕臣)らのことも書こうとしたのに、話が別方向に行ってしましました(笑)。
 また、次回書きますか。

 

行蔵は我に存す 第20刷

銀座に浜松餃子とはな?

慰みに、「宇都宮餃子と浜松餃子」のことを書きましたら、早速、栗林提督から、油断も隙も…とコメント頂きました。

誠に有難う御座いました。

個人的なメールながら、栗林提督様によりますと、「台湾料理」の看板を掲げるお店でも、大陸から安い賃金の農民工を引き連れてやってきた一攫千金を狙う輩がいるそうです。「中国料理」の看板にすると、食材は農薬や抗生物質漬けの野菜や肉を使っているんじゃないかと怪しまれるので、安心感を与える「台湾料理」の看板を掲げて偽装しているとか。

へー、ホンマでっか?と思わず聞き返したくなります。まあ、中には、そういう輩もいるのかもしれませんが。

さて、話は変わって、またまた愚生は、逆境に恵まれることになりました。有り難迷惑ですが、考えてみれば、子供の時から、逆境の中で生きてきて、その度に乗り越えてきましたからね。今回もどうにかなるでしょう。

そんな時に、またまた栗林提督から、以下の言葉を贈って頂きました。

「古より路に当たる者、古今一世の人物にあらざれば、衆賢の批評に当たる者あらず。計らずも拙老先年の行為に於いて、御議論数百言御指摘、実に慙愧に堪えず、御深志忝く存じ候。行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存これなく候。御差し越しの御草稿は拝受いたしたく、御許容下さるべく候也。  福沢先生  安芳」

福沢諭吉が書いた「痩せ我慢の説」に対する勝海舟の返書です。この中の「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候。」という部分が有名です。

行蔵とは、出処、進退のこと。表立った行動と陰徳を積むという意味もあります。

要するに、自分の行動は自らの信念に基づくもので、褒めたり貶したりすることは、他人様のすること。自分は関知しない、といったような意味になります。「痩せ我慢の説」を福沢諭吉が創刊した「時事新報」を通して、世間に公表しても構わないよ、と勝海舟は、福沢諭吉の手紙に返事を書いたのです。(もっと複雑な話ですが、詳細略)

さすが、栗林提督です。今、心理学者のアドラーの本がベストセラーになって日本でも知られるようになりましたが、アドラーについては、そのずっと以前から、渓流斎にご教授して頂いた提督です。知性と教養に満ち溢れています。

それでは、福沢諭吉は「痩せ我慢の説」の中で、勝海舟をどのように批判したのでしょうか?

簡単に言いますと、勝海舟が徳川幕府側の代表として、官軍代表の西郷隆盛と会談し、一戦交えることなく、江戸城を「無血開城」することに合意したことに関して、「何で、やらなかったんだ。痩せ我慢でもいいから、負けると分かっていてもいいから」と批判したわけです。福沢はご案内の通り九州中津藩士として大坂の藩邸で生まれ、いわば幕府の録を食んだ忠君精神を最期まで保持したのに対し、元幕臣でありながら、維新後、転向して明治新政府に仕官し、伯爵にまでなって高位高官を極めた勝海舟を批判したわけです。

うーむ、なるほど…。そういうことだったんですか。私は、無血開城した勝海舟は、江戸市中を戦争の動乱に巻き込まなかった救世主だとばかり、思っていましたが、同時代人の見る眼は、違っていたんですね。

確か、勝海舟と福沢諭吉は、幕末に幕府所有の「咸臨丸」で一緒に渡米しているので、面識どころか、交際もあったはず。いつか、何処かで仲違いしたのでしょう。と、思って調べてみたら、どうやら、咸臨丸の頃から反目していたようです。(詳細略)

勿論、元幕臣の福沢諭吉が、維新後、勝ち馬に乗るように、新政府に出仕した勝海舟や榎本武揚らを批判したのは一理あるとして、勝海舟としては、渋々、無理矢理出仕しただけで、どの官職も長続きせず、すぐ辞めてしまったではないか、と反論したくなるのもよく分かります。

「この人には信念がある。ブレない」とか言って尊崇の念をもって崇め奉られる人でも、実際の本人はかなり守旧的で、案外、時代に取り残された融通が利かない人なのかもしれません。

自分の考え方が一生変わらない人なんて、逆に怖くありませんか?

人の評価は、難しい。やはり、勝海舟の「毀誉は他人の主張」は、よく身に染みて分かります。そして、同時に、高位高官を求めた裏切り者の俗物を批判する福沢諭吉の気持ちも分かります。(単なる推測で、実際そこまで、福沢は勝のことを貶しているわけではありません。事前に勝に掲載許可を取ったのがその証拠です)

お前は、どっちの味方なんだ!?と詰問されれば、困りますねえ(笑)。両方とも、と答えておきます(笑)。

「何でやらなかったんだ?」と言いますと、ローリング・ストーンズが、1968年に「ストリート・ファイティングマン」をリリースして大ヒットした後、その返歌として、ビートルズ(というかポール・マッカートニー)が「ホワイ・ドゥ・ウィ・ドゥ・イット・イン・ザ・ロード」(何で、道路でやらなかったんだ?)を「ホワイト・アルバム」の中で発表したようなものではないか、と私のようなフリークは感じてしまいましたが、これは、ちょっとマニアック過ぎて、誰方もついていけないと思います(笑)。

モネ展から東京ミッドタウン

乃木坂にできたばかりの「新国立美術館」に行ってきました。

「モネ 大回顧展」を見たかったからです。ゴールデン・ウイークとはいえ、連休の谷間の平日を選んで行ったのですが、人、人、人…。何と、日本は、いや東京はこう人が多いのでしょうね。多いところでは、人が五重の列になって1枚の絵の前に立ちはだかっていました。

私は日本人としては背が高い方なので、後方からでも見られましたが、絵を見るにはやはり、東京以外に限りますね。モネは、私の卒論のテーマであり、外国でも数多、見る機会がありましたが、スイスのチューリッヒ美術館の「睡蓮」の連作が忘れません。これでもか、これでもかというモネの執念のような睡蓮が壁一面に広がり、殆んど観客もいなかったので、何か、独り占めする幸福を感じたものです。

モネは「睡蓮」のほか、「積み藁」「ルーアン聖堂」など連作を数々と書いています。一つのテーマを見つけると、30枚も50枚も描いている感じです。作家のYさんも言っていました。「何かテーマを決めてしまえばいいんですよ」。その言葉に意を強くしました。

ついでに、同美術館2階の「異邦人たちのパリ 1900-2005年」展も覗いてきました。こちらは、モネ展ほど人が多くはなかったです。感動したのは、藤田嗣治、ピカソ、モジリアニ…。あまりにもごちゃまぜで、あまりにも散漫で、テーマが絞りきれず、企画展としては、大失敗ではないかと思いました。

3階は、高級フランス料理の「ポール・ボーキューズ」。3000円くらいのランチに人だかりで、「満員札止め」で、幸運にも最後の列に並ぶことができた母娘がテレビのインタビューを受けていました。

馬鹿らしい!

乃木坂から歩いて10分くらいで、六本木のミッドタウンに行きました。できたばかりの話題のスポットとということで、ここも人だかり。

ブランドショップだらけで、私は、ブランドには殆んど興味もないので、ウインドーショッピングさえもしませんでした。

ただ、ここには、素晴らしい庭園がありました。区立檜町公園です。人造池もあり、それにしては、よくできた公園だなあと思っていたら、ここは元々、長州藩の下屋敷で、つまりは、歴史のある長州藩のお庭だったわけです。昨日やそこらでできた公園ではなく、やはり、昔は、庶民は決して立ち入ることができなかったわけですから、散策するだけ感動してしまいました。

ところで、六本木ミッドタウンの前身は、何だったかというと防衛庁の跡地です。その前が、東京鎮台歩兵第一~三連隊が置かれた場所。

そして、乃木坂の新国立美術館の前身は、東大生産技術研究所ですが、その前の戦時中は、何と、陸軍第一師団が置かれた所だったのです。

奇遇とはいえ、平和の重みを感じた次第。

六本木ミッドタウンを北上すると、もう赤坂です。

氷川神社にお参りしました。

ここは、備後三次藩邸があったところで、忠臣蔵の浅野内匠頭の未亡人、瑤泉院が、松の廊下事件の後に引き取られた実家だったそうです。

氷川神社は、八代将軍吉宗が現在の赤坂小学校あたりにあったものを移築したもの。

神社の裏手の本氷川坂の下に住んでいたのが、勝海舟。「氷川清話」の著作で有名ですが、最近は、「氷川の大法螺吹き」として、話していることの大半は、大嘘で、自分を偉く見せるために虚飾に満ちたものだ、という本を続けざまに読んで、多少なりとも、彼に対する評価に疑問を持つようになりました。

歴史そのものではなくて、歴史観は難しい。