田中与四郎さんって誰のこと?=歴史上の人物の本名にはまってます

 最近、我ながら、勝手にはまっているのが、歴史上の人物の本名(幼名、俗名、諱)クイズです。

 きっかけは、田中与四郎さんです。大変、失礼ながら、現代人でも何処にでもいそうなありふれたお名前です。それが、あの茶人・千利休の本名(幼名、1522~91年)だと知った時は、大いに驚いたものです。千利休は、今年、生誕500年ということで、テレビや雑誌で取り上げられることが多いのですが、テレビの番組で初めて知りました。

 堺の商家(家業は倉庫業)生まれで、雅号は抛筌斎(ほうせんさい)、法名は千宗易。千利休という名前は、天正13年(1585年)の禁中茶会で、町人の身分では参内できないため正親町天皇から与えられた居士号だといいます。姓の千は、彼の祖父である田中千阿弥から由来するという説もあります。

 田中与四郎さんで味をしめたので、他にも探してみました。一番、記憶に残っていたのは、藤井元彦さんと藤井善信さんです。このお二人、どなたのことか分かりますか?将棋の棋士ではありません(笑)。ヒントは「歎異抄」です。最後の後序に出てきます。

 1207年、いわゆる承元の法難(建永の法難)で、後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然と親鸞ら門弟7人が流罪となった事件のことです。この時、法然上人(76)は、(当初、)土佐国の番田という所へ流罪となり、罪人としての名前が藤井元彦。親鸞聖人(35)は越後国へ流罪となり、罪人としての名前は藤井善信などと「歎異抄」には書かれています。

 今から800年以上前の藤井元彦も藤井善信も、全く、現代人としても通用する名前です。

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 この事件、真偽は不明ですが、後鳥羽院が寵愛する女官(鈴虫と松虫)と法然の門弟との密通事件が背景にあって、死罪という重い処分が下されたともいわれています。私怨が絡んでいたのかもしれません。私はすっかり忘れていましたが、法然、親鸞らに「島流し」の処分を下した後鳥羽院は、その14年後の1221年に承久の乱で、逆に、二代執権北条義時によって隠岐の島に流されてしまうんですよね。波乱万丈の人生でしたが、やはり、鎌倉時代は面白い!

 さて、これぐらいにして、皆様にもクイズを差し上げましょう。以下の本名の人は、普通は何という名前で知られているでしょうか?

(1)佐伯真魚(さえき・まお)

(2)坂本直柔(さかもと・なおなり)

(3)長谷川辰之助(はせがわ・たつのすけ)

(4)永井壮吉(ながい・そうきち)

(5)津島修治(つしま・しゅうじ)

(6)平岡公威(ひらおか・きみたけ)

 簡単過ぎましたね(笑)。

 私も筆名を3回も4回も変えてきましたが、あの葛飾北斎は生涯で30数回名前を変えてますからね。 されど名前、たかが名前ですか…。

(答えは下欄)すぐ見ちゃ駄目よお

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【答え】

(1)空海(2)坂本龍馬(3)二葉亭四迷(4)永井荷風(5)太宰治(6)三島由紀夫

常林寺で萩見を=京都

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 9月になって少しは暑さが和らぎましたが、渓流斎先生の暮らし向きは如何でしょうか? 京洛先生です。

 貴人のブログを見ると相変わらず、難しそうな本ばかり読んでおられますが、もっと頭を柔らかくしないと息苦しくなりませんか?(笑)。

 年齢が行けば行くほど、持って生まれた気性、性格は治らないものですが(笑)、読む本も、もっと柔らかいものも読まないとね。それに「読書」は足腰の鍛錬をおろそかにします。二宮尊徳みたいに薪を担いで、歩いて読書すれば別ですが(笑)、本は、大体が、座って読むわけですからね。

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 小生は「一日、一万歩」目標で散歩を心掛けています。

 昨日も晴天だったので、今の時季、綺麗に咲き始めた「萩」を愛でに出掛けました。

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 出掛けた場所は、叡山電車「出町柳」駅そばの「常林寺」です。浄土宗のお寺ですが、京都市民には「萩のお寺」として知られています。ちょうどこれから10月初めにかけてが見頃です。

 此処は幕末に勝海舟が上洛した時に宿坊にしていて、中岡慎太郎らと密議をしていたということです。

ちょうど、連休明けで、人けもなく、静かで萩の見物にはよかったですね。

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「常林寺」の前は賀茂川と高野川が合流して「鴨川」になる葵橋界隈です。

 「下鴨神社」も近くですが、常林寺は、それほど大きなお寺ではなく、観光寺院でもないので、日頃は、お寺の前を通っても、目立たないので誰もが通り過ぎます。でも、この時季は、萩が咲き誇っているので、門の外からもその光景が見えます。

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それに気づいて、可憐な萩の花を愛でると、何か得した気分にもなるものです。

以上

 常林寺ですか。。。知りませんでしたね。勝海舟の京都の宿坊で、坂本龍馬も訪れていたということですから、幕末ファンにはたまらないでしょうね。

  調べたところ、毎年9月の敬老の日に「萩供養(はぎくよう)」が催されるそうですね。今でも 四季折々の花々や年中行事を大切にする京都の人にはいつも感服致します。

聚楽第跡~首途八幡宮~武信稲荷神社~「いづ源」

高倉通綾小路下ルの「いづ源」京都寿司の老舗 お醤油は付けはりしまへんで お食べどす

ー京洛先生!また、あの渓流斎の野郎が京都見物の話を書こうとしてまっせ。あんの野郎、許せませんね!

ーまあまあ、お手柔らかに頼みますよ。

10月7日(土)のことでした。京都駅近くあるヨドバシカメラ一階のエビスバーで、京洛先生と全国に情報網を巡らす広域一次団体幹部の吉田氏と赤坂方面にある大手マスコミの元幹部で今は悠々自適の田岡氏と小生と初めて顔を合わせ、ハンバーグランチを食べながら、これから先、何が起こるか分からない弥次喜多道中について、思いを馳せておりました。

結局、これから2泊する大宮中立売にある「ワサビそば」とかいうゲストハウスに荷物を預けに行こうということになり、このゲストハウス近くにあった「聚楽第」跡に立ち寄りました。

聚楽第は「じゅらくだい」ではなく、「じゅらくてい」と読むのが本当らしいですが、「かましまへん」と立看板に書かれていました。

この看板がなければ、あの太閤秀吉が築いた城跡(建物群、庭園、茶屋なども)だったことなど、全く想像もつかなかったことでしょう。

当時の面影なんぞ、全くありゃしまへんでした。

もっとも、この聚楽第跡の歴史を辿れば、ここは、もともと平安宮の大蔵省跡だったらしく、これもやはり、看板がなければさっぱり分かりませんでした。

栄枯盛衰ですね。

この後、所用で立ち寄ったお店近くの首途(かどで)八幡宮に立ち寄りました。

ここは、京都市内で、奥州で産出される金の商いをしていた金売吉次(かねうり・きちじ)の屋敷跡だったらしく、鞍馬山で修行した牛若丸こと源義経が東北平泉に赴く際に、吉次に世話になって旅立ったそうです。

私の話より、この看板の方が来歴は確かです(笑)。

でも、奥州と繋がりがあった吉次という商人は、当然、情報網も持っていたことでしょう。義経が、奥州への首途(かどで)にここに訪れたのも何か理由があったのでしょう。御縁だけでは説明がつかない気がします。

続いて訪れたのは、堀川三条商店街にある武信稲荷神社です。

昨日書きましたが、この商店街にある京洛先生行きつけのレストラン「力」の女将さんの謦咳に接しようとお尋ね申し上げたのですが、不在でしたので、この近く名所旧跡を訪れたわけです。

この武信稲荷神社の近くに、幕末には六角獄舎というものがあり、龍馬の妻になるおりょうさんの父親が、勤王志士の医師だったため、捕えられていたそうです。

龍馬は見回り組などから命を狙われていたので、若い二人は、この神社で密会していたそうです。詳しくは上部にアップした写真の看板をお読みください(笑)。

この神社は、伝説の一寸法師と関係があります。彼が住み込みで奉公していた「三条の大臣殿」というのが、藤原良相公のことで、この良相公は屋敷内にこの武信神社は創祀したというのです。

そこで、この神社にお参りすると、龍馬さんの関係で縁結びの神様に恵まれ、一寸法師の関係で、出世すると言われております。

うーん、私は「終わった人」(内舘牧子)ではありますが、これ以上、出世してどうするの?

いづ源の鯖寿司 このまま食べてくれやす

夜は、高倉通綾小路下ルにある京寿司の老舗「いづ源」に連れて行ってもらいました。食事も美味しいし、女将さんのワンマンショーも素晴らしかった。女将さんの京言葉は、まるで、映画を見ているような感じでした。

京都に寿司の老舗として、祇園新地に天明元年(1781年)の創業の「いづう」があります。味も値段も天下御免。ほんの少しだけ座敷が高い感じのお店です。

そのいづうの別家に「いづ源」「いづ重」「いづ松」があるそうです。別家というのは、弟子筋の人が暖簾分けしてもらって店を開くことだそうで、子どもや親戚が継ぐ分家とは違うといいます。

いづ源は、大正年間創業ということで比較的新しい別家ですが、「安くて旨い」と三三七拍子が揃っています(ナンデ…)

いづ源の女将さんのお名前は伺いませんでしたが、御年はご自分で申告されておりました(笑)。もう、オペラのコロラトゥーラかカンツォーネのような京言葉を唄うように話します。

小生が、「『渓流斎日乗』という世界最小メディアをやっております」という話を伝えたところ、「京都の老舗創業番付」のコピーを私だけにくださいました。勧進元は「時代マップ編集部」になっており、そのキャッチコピーは「100年、200年は当たり前。京には創業1000年以上の老舗がある」というもので、西の横綱は、仏具の「田中伊雅仏具店」で創業は仁和年間(885~889年)。何と創業1132年!東の横綱は、あぶり餅の「一和」で長保2年(1000年)、創業1017年ですか。

このほか、私が知っているのは、和菓子の「とらや一条店」が東の前頭で創業が大永年間(1521~27年)、坂本龍馬も関係のある旅籠屋「寺田屋」が西の十両で慶長2年(1597年)創業。仏教書の「法蔵館」が東の三段目で慶長16年(1611年)、お酒の「月桂冠」が西の序二段で慶長14年(1637年)創業となっておりました。

いづ源の女将さんのお話で面白かったのは、京寿司は、箱寿司といって箱に詰めた押し寿司なので、関東などのように寿司屋の板前さんのカウンターがない。外の「寿司」の看板を見て、店に入ってきた人がカウンターがないので、「あ、間違いました」と言って帰ってしまう御客さんも多いらしいですね。

でも、この店は、大徳寺などほとんど仕出しが専門で、店内の御客さんは収益の1割ほどだというので驚きました。とはいえ、我々4人が食事している間、他に御客さんが入って来ないので少し心配してしまいましたが。

女将さんは、京都という土地柄の有職故実と言いますか、祥月命日など毎日毎日、年中行事でいっぱいだという話をされておりました。どういう漢字が分かりませんが、お祝い事をする時、「ひろぶだ」に入れて、簡単な手紙も添える話をしておりましたが、とても関東人では面倒臭くてできませんね。

あと、京都では和尚さんのことを「おっさん」と言うのが普通らしく、これにも吃驚しましたね。発音記号が書けませんが、「おっさん」ではありません。男体山みたいな発音ではありません。どっちかと言うと、月山みたいな発音の「おっさん」です。こんな説明で分かるかなあ…。

京博120周年記念展「国宝」、養源院、堀川三条「力」の女将さん、

京都タワー

二泊三日の駆け足で、非常に充実、満喫した京都の旅を終えて、今、帰宅の新幹線の中です。(10月9日午後5時40分記)

驚いたことに、京都駅は大変な大混雑で、東京までの新幹線は2時間先までの予約席は、全て満員完売。せっかく、事前に指定席券を買いましたが、自由席に飛び込み、ギリギリ座ることができました。

今回の京都旅行の目的は、49歳の若さで亡くなった京洛先生の奥方様ゆりさんの13回忌の法要に列席するためでした。

そのことは、また明日以降に記録させて頂くとして、忘れないうちに本日あったことを書いてみます。

本来なら3日前の方が忘れてしまうので最初に書くべきですが、順序があべこべですねえ。何だかよく分かりません(笑)。

まずは、9日午前中は、念願の国宝展(1500円)に行ってきました。京都国立博物館開館120周年を記念した大博覧会で、本当は、国宝展ではないのです。展は付きません!たった二言「国宝」だけなのです。「頭が高い。分かったかあー⁉︎ 」というスタンスです。威張ってますねえ(笑)

開館時間の午前9時半。市バスで、京博前で降りたところ、びっつらこきましたよ。人、人、人。京博の周りをとぐろを巻いたようにグルグル列が並び、最後尾を辿ったら、東山七条の妙法院辺りまで列が連なってました。

結局、1時間並びましたが、その甲斐はありました。まさに眼福。目に青葉 山ほととぎすでした(意味不明)。

感動の嵐でした。何しろ、じぇーんぶ、ほんまもんの国宝なのですから。

私が実物を見て特に感服したのは、「法然上人絵伝」「信貴山縁起」などの絵巻でした。800年ぐらい経っているのに未だに鮮やかな色彩には驚かされました。

あと、パンフレットに載っていた志賀島の金印や伝源頼朝像(神護寺)も見たかったのですが、この後に公開されるようでした。展覧会は四期に分かれて展示されるので、「こりゃあ最低4回は来ないとダメだなあ」と思った次第。

京博の近くの寺社仏閣として、長谷川等伯の絵画がある智積院と、俵屋宗達の象の絵画などがある養源院を京洛先生から紹介してもらいましたが、時間の関係で養源院だけしか行かれませんでした。

でも、こちらは大正解。ドンピシャリでした。ちょうど、最近、関ケ原の戦い前後の歴史を勉強していたので、まさに登場人物がドンピシャリ合ったわけです。

養源院とは、織田信長に滅ぼされた北近江城主浅井長政の戒名だということを不勉強にも知りませんでした。長政の正室お市の方は信長の妹。2人の間の長女茶々は、豊臣秀吉の側室淀君。三女お江は、徳川二代将軍秀忠の正室という華麗なる一族でした。

この養源院は当初、淀君が秀吉の了解を得て父長政の二十一回忌の供養のために創建したものでした。程なくして焼失してしまいますが、今度は妹のお江が秀忠の許しを得て、表向きは徳川家臣の菩提寺として復興します。

その際、消失した伏見城から広間や襖絵なども移築します。特に、関ケ原の戦いの前哨戦とも言われた伏見城の戦いで、石田三成勢に囲まれて籠城した徳川家臣鳥居元忠ら将士が切腹して血染めになった廊下を、この養源院では血天井として使われていました。

養源院

このほか、何と言っても、画壇に出てきたばかりの若き俵屋宗達(生没年不詳、「風神雷神図」で有名)による象や麒麟、松の襖絵が、手で触れるぐらいの身近で見られることです。

ここはお薦めです(拝観料500円)

けつねうろんをご馳走になってしまいました。

旅先を急いでいたのは、堀川三条商店街「力」の女将さんと午後1時にお会いする約束をしていたからでした。京博に入るのに随分時間を取られてしまいましたからね。

堀川三条通りは、坂本龍馬がおりょうさんと逢引を重ねた所でした。このことは、またいつか書きます。そして、物識りの京洛先生によると、六車線ある京都市内でも指折りの広い大通りである堀川通りは、米軍占領時代、米軍機の滑走路として使われていたそうです。

最近、占領時代の京都を舞台にした本が出版され、そこには烏丸通りで、米軍が示威行動のために軍事パレードしていたという話が載っているらしいですが、堀川通りのことも書いてあるのかしら。

「カフェKEIZO」は、いつもいつも行列

堀川三条商店街のレストラン「力」は、残念ながら、諸般の事情があって店仕舞いしてしまい、次に入るテナントさんが、この商店街の近くでやっている「カフェKEIZO」がチョコレート専門店として、出店するという極秘情報を掴んできました(笑)。

この「カフェKEIZO」は、雑誌に載ったのか、ネットに載ったのか、超人気有名店として浮上し、東京から日帰りで訪れるお客さんもいるとか。コーヒーのほか、軽食とスイーツを売り物にしているようです。

で、「力」の美人の女将さんは、前回ここで食事した時は、キリッとしてましたが、お店をやめてしまったので、すっかり穏やかな表情の一般の市民になっておりました(笑)。京洛先生のお導きで、お頼みしたわけでもないのに、何が悲しいのか、この「渓流斎日乗」の熱心な愛読者になってしまい、今では12年前のアーカイブ記事まで読んでくださっているというお話でしたから、有難い限りでした。

この懇話会で面白かったのは、京洛先生が清水寺近くにある松寿軒の饅頭は、建仁寺や高台寺にもおさめていてとても美味いといった話でした。

私は全く知らなかったのですが、薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう=最近は、簡略して上用饅頭と記されているようです)と言われる饅頭にはアンコの中に隠し味として、自然薯が入っているそうですね。

そしたら、頓知の効いた女将さんが「お芋の入って無いのは蒸しパンや」と仰るので皆んなで大笑いしてしまいました。

「幕末 維新の暗号」

加治将一著「幕末 維新の暗号」(祥伝社)を一気に2日で読了しました。神田の神保町の三省堂書店で「売り上げ第2位」ということで、手に取ってみたら、驚きの連続。

古ぼけた幕末の頃の写真に写っているのは、何と、坂本竜馬、西郷隆盛、桂小五郎、岩倉具視、高杉晋作、伊藤博文、勝海舟、大久保利通…といった幕末維新で活躍する超一級の面々。まず「ありえない!」というのが正直の感想で、この集合写真(中央に鎮座する外国人宣教師の名前を取って「フルベッキ写真」というらしい)はなぜ撮られたのか、そもそも、後世の人間にはほとんど知られることはなく闇に葬られたのは、何か理由があるのかー?など、次々と疑問が押し寄せてきて、迷うことなく、購入していました。

もし、これから、この本を読んでみようという人は、この先は読まない方がいいかもしれませんよ。何しろ、話は、サスペンスかミステリー仕立てで進んでいくからです。種明かしを先に読んでしまうことになります。

この話がどこまで本当かどうか、わかりませんが、もし真実なら、日本の歴史というか近代史を根底から書き直さなければなりません。歴史のタブーに挑戦したため、この本の中で、真相を知った研究者が次々と殺されていきます。

もう、最初にこの本の筋の要を書いてしまいますよ。

何と、明治天皇がすげ替わっていた!というのです。本来なら、北朝系統の孝明天皇の実子である睦仁親王が皇位を継承するはずだったのが、明治維新を遂行した「元勲」連中によって、本物の睦仁親王は暗殺され、南朝の血を引く大室寅之祐という長州の若武者が、明治天皇の座に収まったというのです。この集合写真は、その秘密を知る連中の証拠写真のようなもの、ということになります。キーパーソンは、横井小楠です。

まさに、荒唐無稽、驚天動地、俄かに信じがたい話です。しかし、読み始めると止まらなくなりますが、作者の取材力がものをいうせいか、「もしかしたら」と思わせてしまうのです。集合写真の中の人物と、一般に出回っている写真を比較したものが、何点が掲載されていますが、どう見ても、大隈重信は、本人に見えるし、坂本竜馬にしても似ていないことはない。「うーん、何か、隠されている」と思わざるをえなくなってしまうのです。

いずれにせよ、我々は、明治維新を評価しすぎています。坂本竜馬も大久保利通も皆々、「悪しき」徳川幕府を倒したヒーローです。しかし、彼らは、そこまで、偉大だったかどうか。後世の歴史家や小説家が書いた受けおりだけなのかもしれないのです。革命を起こして権力の座に収まった連中が、自分たちに都合の悪い資料や証拠は抹殺します。よくある話です。佐賀の乱を起こした(と言われる)江藤新平の扱いが象徴的な話です。

作者は、フリーメイソンの内幕を暴いた「石の扉」を書いており、私も随分、衝撃を持って読んだものです。しかし、この本では、加治氏は、読者の「また、陰謀説か」といった反駁を警戒して、わざと相対する早稲田大学の教授らを登場させて、陰謀説を徹底的に否定して、中和させています。

つまり、フィクションの形にして、真実を織り込もうとしたのです。

私も、坂本竜馬や勝海舟らが偉いと思ったのも、司馬遼太郎や子母澤寛らの小説を読んだからです。

しかし、最近では、この本のような「見直し」が出てくると、物事は複眼的に見なければならない、と思ったりするのです。