古代日本をつくったのは藤原不比等だったのかも=梅原猛著「葬られた王朝ー古代出雲の謎を解くー」を読んで

出雲大社

 大手出版社の大河内氏から贈呈して頂いた梅原猛著「葬られた王朝ー古代出雲の謎を解くー」(新潮文庫)を読了していたので、この本を取り上げるのは、これで3回目ですが、改めて取り上げさせて頂きたく存じます。

 大雑把に言いまして、私なりの解釈では、古代の日本は、群雄割拠の豪族社会で、その最大級がスサノオ系の出雲王国と天孫系の大和王朝だったことです。出雲は、朝鮮の新羅と高句麗からの渡来人が農業や最新医療を伝え、影響が強かった。一方のヤマトは、朝鮮の百済系(秦氏など)の影響が強かった。

 最初は、出雲が大和や近畿まで制圧して一大王国を築き上げましたが、オオクニヌシの後継者争いの内紛につけこんだ大和が勢いを増して、出雲を「国譲り」の形で征服して全国統一を果たす。

 「古事記」「日本書紀」は、天孫系の大和朝廷の正統性を伝える書で、国の成り立ちを神話の形で暗示しましたが、その神々は、実在の豪族をモデルにした可能性が高い。両書は、出雲王国の神話も取り入れていますが、記紀の最高編集責任者は、実は大和朝廷の礎をつくった藤原不比等だったというのが梅原説です。それによると、「古事記」を太安万侶(その父、多品治=おおのしなじ=は壬申の乱で功績を挙げた渡来人だった)に口承して語ったと言われる稗田阿礼は、アメノウズメの子孫で、誰一人として五位以上になったことがない猨女(さるめ)氏出身だったという説もありますが、全く謎の人物で、梅原氏は、稗田阿礼は、藤原不比等ではないかと主張しています。

 梅原氏は、144ページなどにはこう書いています。

 出雲のオオクニヌシ王国を滅ぼしたのは、物部氏の祖先神であるという説がある。その点について、はっきりしたことは言えないが、「古事記」では国譲りの使者はアメノトリフネを副えたタケミカヅチであるのに対して、「日本書紀」では主なる使者は物部の神を思わせるフツヌシであり、タケミカヅチは副使者にすぎない。「出雲風土記」にも、ところどころにフツヌシの話が語られているのをみると、出雲王国を滅ぼしたのは、ニニギ一族より一足先にこの国にやって来た物部氏の祖先神かもしれない。

出雲大社

 そうですか。出雲を征服した先兵は物部氏でしたか。ちなみに、フツヌシを祀っていたのは香取神宮ということで、物部氏は今の千葉県香取市の豪族か神官だったかもしれません。タケミカヅチを祀っているのは鹿嶋神宮で、タケミカヅチは、今の茨城県鹿嶋市から神鹿に乗って大和にやって来て、藤原氏の興福寺や春日大社に祀られるようになったと言い伝えがあります。つまり、鹿嶋神宮の神官だった中臣氏が、出雲王国の征服で一翼を担い、大化の改新では、蘇我氏を滅ぼして、中臣鎌足が藤原姓を賜って異例の出世を遂げた史実を、記紀は暗示したかったかもしれません。

出雲大社

 梅原氏は295ページでこう書きます。

 中臣氏はどんなに贔屓目に見ても、せいぜい舒明朝の御世に朝廷に仕えた中臣御食子(みけこ)の時代に初めて歴史に姿を現したにすぎない。(乙巳の変後)天才政治家、藤原鎌足が現れ、一挙に成り上がった氏族なのである。そのような氏族がアマテラスの石屋戸隠れ及び天孫降臨の時に活躍するはずがない。これは明らかに、神話偽造、歴史偽造と言わざるを得まい。

 厳しい言い方ですが、石屋戸に隠れたアマテラスを引き出す妙案を考えたのはオモイカネで、藤原氏の祖神とされているからです。中臣=藤原氏は、この時に活躍したフトダマを祖神に持ち、(現実世界では)宮廷の神事を司っていた忌部氏を排斥して、天智帝の下で神事を独占するわけです。

 こうして、藤原氏は天皇の外戚の地位を独占して政をし、近現代の近衛氏に至るまで1300年以上も日本の歴史に影響を与え続けます。その礎を創った藤原鎌足と、律令制を確立し、史書までつくった藤原不比等の功績は図抜けています。特に、不比等は、実務、実働部隊の最高責任者なのに記紀の編纂者として明記せず、黒子に徹した辺りは、まるで「黒幕」のようです。恐らく、不比等は、父鎌足の代で急に成り上がった氏族であることを骨身に染みて分かっており、他の有力豪族からの嫉妬や、やっかみや 、反発や反抗を怖れて、「影武者」に成りきっていたのでしょう。

 このような梅原氏の説は、古代史学会では正式に認知されていないのかもしれませんが、面白い本でした。大河内さん、有難う御座いました。

 

古代史の新発見が望まれる=東博で「出雲と大和」展

 新型コロナウイルスが猛威を奮う中、「よゐこは不特定多数の人が集まる所に行ってはいけません」と一国の総理大臣から通告されていたにも関わらず、上野の東京国立博物館に行って来ました。「出雲と大和」が開催されていたからです。

 週末なので混むはずでしたが、空いていたわけではありませんが、近くで見られました。けど、中国語が聞こえると(彼らは何処にいようが我が物顔で声がデカい!)、ドキッと緊張している自分を発見しました。

出品目録をざっと見ただけですが、出品111点中、国宝が23点、重要文化財75点という豪華絢爛さです。失礼、太古の発掘物ですから、絢爛さまではいかず、正直、余程、古代に関心があり、ある程度の知識がないとつまらないかもしれません。

 国宝「銅剣、銅鐸、銅矛」(出雲市荒神谷遺跡出土、弥生時代、前2〜前1世紀、文化庁蔵)や日本書記にも記された国宝「七支刀(しちしとう)」(古墳時代、4世紀、奈良・石神神宮像)など眼を見張るものが沢山ありました。でも、私自身は、ある程度の知識はあるつもりでしたが、はっきり言って難しかったですね。

 銅鐸一つ取っても、祭司用だと言われてますが、実際にどのように使われたのか諸説あります。

 また、考古学や古代学は、大半は文字がない時代ですから発掘された出土品から想像しなければなりません。専門家なら勾玉一つ見ただけで、色んなことが分かるでしょうが、悲しい哉、素人には限界があります。

 個人的には古代には48メートルの高さを誇ったと言われる出雲大社本殿の縮小版の模型が良かったですね。昨年は、実際に初めて出雲大社をお参りする機会に恵まれたので、感激も一入です。巨大本殿が存在したという証明になる鎌倉時代の宇豆柱(うづばしら)も展示されていました。

 出雲では博物館に立ち寄らなかったので、今回、初めて色んなお宝を見ることができました。

 3世紀になって大和に王権が成立し、巨大な前方後円墳がつくられます。しかし、多くの古墳は文化庁と宮内庁の管轄で、学者でさえ立ち入り禁止されているので、まだまだ未解明な所が多いのです。

◇国譲りで大和が出雲を征服したのか?

 最後のコーナーの年譜を見ていたら、大陸との交流が盛んだった出雲の勢力というか文明圏は弥生時代初期からあり、その一方で、後から大和政権は成立して、「国譲り」で大和が出雲を併合したのは明白に思えました。

 「古事記」は、敗れた出雲の側の立場を描き、出雲のことはあまり触れていない「日本書記」は、大和の側から叙述したものだということをある学者さんは言ってましたが、そう考えると分かりやすいですね。

 いずれにせよ、古墳が考古学者に公開されて、新史実が発見されれば、素晴らしいと思っております。

 この後、遅ればせの新年会が根津駅近くの「駅馬車」という店であるので、地下鉄で行こうとしたら、博物館のチケットの裏を見たら地図が載っていて、歩いて行けそうな距離だと分かり、徒歩で行きました。

 そしたら、参加した赤坂さんも東博を見て歩いて根津まで来たという小生と同じコースだったので笑ってしまいました。

 新年会では赤坂さんは、ピントが外れた唐変木なことばかり発言するので皆の笑い者、いや人気者でした(笑)。