古代史の新発見が望まれる=東博で「出雲と大和」展

 新型コロナウイルスが猛威を奮う中、「よゐこは不特定多数の人が集まる所に行ってはいけません」と一国の総理大臣から通告されていたにも関わらず、上野の東京国立博物館に行って来ました。「出雲と大和」が開催されていたからです。

 週末なので混むはずでしたが、空いていたわけではありませんが、近くで見られました。けど、中国語が聞こえると(彼らは何処にいようが我が物顔で声がデカい!)、ドキッと緊張している自分を発見しました。

出品目録をざっと見ただけですが、出品111点中、国宝が23点、重要文化財75点という豪華絢爛さです。失礼、太古の発掘物ですから、絢爛さまではいかず、正直、余程、古代に関心があり、ある程度の知識がないとつまらないかもしれません。

 国宝「銅剣、銅鐸、銅矛」(出雲市荒神谷遺跡出土、弥生時代、前2〜前1世紀、文化庁蔵)や日本書記にも記された国宝「七支刀(しちしとう)」(古墳時代、4世紀、奈良・石神神宮像)など眼を見張るものが沢山ありました。でも、私自身は、ある程度の知識はあるつもりでしたが、はっきり言って難しかったですね。

 銅鐸一つ取っても、祭司用だと言われてますが、実際にどのように使われたのか諸説あります。

 また、考古学や古代学は、大半は文字がない時代ですから発掘された出土品から想像しなければなりません。専門家なら勾玉一つ見ただけで、色んなことが分かるでしょうが、悲しい哉、素人には限界があります。

 個人的には古代には48メートルの高さを誇ったと言われる出雲大社本殿の縮小版の模型が良かったですね。昨年は、実際に初めて出雲大社をお参りする機会に恵まれたので、感激も一入です。巨大本殿が存在したという証明になる鎌倉時代の宇豆柱(うづばしら)も展示されていました。

 出雲では博物館に立ち寄らなかったので、今回、初めて色んなお宝を見ることができました。

 3世紀になって大和に王権が成立し、巨大な前方後円墳がつくられます。しかし、多くの古墳は文化庁と宮内庁の管轄で、学者でさえ立ち入り禁止されているので、まだまだ未解明な所が多いのです。

◇国譲りで大和が出雲を征服したのか?

 最後のコーナーの年譜を見ていたら、大陸との交流が盛んだった出雲の勢力というか文明圏は弥生時代初期からあり、その一方で、後から大和政権は成立して、「国譲り」で大和が出雲を併合したのは明白に思えました。

 「古事記」は、敗れた出雲の側の立場を描き、出雲のことはあまり触れていない「日本書記」は、大和の側から叙述したものだということをある学者さんは言ってましたが、そう考えると分かりやすいですね。

 いずれにせよ、古墳が考古学者に公開されて、新史実が発見されれば、素晴らしいと思っております。

 この後、遅ればせの新年会が根津駅近くの「駅馬車」という店であるので、地下鉄で行こうとしたら、博物館のチケットの裏を見たら地図が載っていて、歩いて行けそうな距離だと分かり、徒歩で行きました。

 そしたら、参加した赤坂さんも東博を見て歩いて根津まで来たという小生と同じコースだったので笑ってしまいました。

 新年会では赤坂さんは、ピントが外れた唐変木なことばかり発言するので皆の笑い者、いや人気者でした(笑)。

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