仏教思想と古代史と現代人=2019年の個人的回顧

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

今日は大晦日。午前中は、狭い陋屋を一人前に大掃除して、窓も綺麗に拭いて、良い新年を迎えられそうです。

 皆様にはこの一年、御愛読賜り、誠に感謝申し上げます。中には「つまらない」だの、「読む価値なし」だのと仰る方もおりましたが、それは、読んでいる証拠でもあり、叱咤激励のお言葉と勝手に受け取って、来年も続けて参りたい所存で御座います。

 このブログは、気の進まないまま、フェイスブックとツイッターに同期しておりますが、フェイスブックでは毎回アップする度に、まだお会いもしたことがない西日本にお住まいのYさんがお忙しい中、無理を押して「いいね!」ボタンを押してくださるので、励みになっております。イニシャルだけでお名前は書けませんが、御礼申し上げます。

 さて、この後に書くことは、本当にどうでも良い個人的な話です。一年を振り返って、個人的に一応区切りを付けたいだけですので、もうお読み続けることはありませんよ(笑)。

高野山 壇上伽藍

 我が人生、いつの間にか、老境の域に達してしまい、個人的な趣味が、全国の寺社仏閣とお城巡りになりましたが、昨年は、その長年の念願を実現することができました。7月に和歌山県の高野山、12月には出雲大社と、日本を代表する国宝姫路城に行くことができたのです。その内容については、既に事細かく書きましたので、このブログ内で検索して頂ければ出てきます(笑)。

 高野山から帰った後、真言宗について勉強を始めました。アカデミックではなく、職業柄、残念ながらジャーナリスティックな面での勉強、というか情報収集です。具体的には、真言宗内の宗派の力関係とか、全国に展開される真言宗寺院の展開、そして宗祖空海の人となりについてです。これも、ブログにかなり詳しく書きましたので、また、検索でもしてご参照ください(笑)。

 その後、ひょんなことで、このブログを通して、作家村上春樹氏の従兄弟に当たる西山浄土宗安養寺の村上純一住職と知り合い、8月の最も暑い盛りに京都・安養寺を訪れて村上御住職と面談しました。その際、また、色んなお話を聴くことができ、また、何度かメールをやり取りするうちに、法然上人や浄土宗にも興味を持つようになりました。

 またまた、ジャーナリスティックなアプローチで、浄土宗の宗派や全国の寺院について勉強していたら、たまたま、柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)と出合い、日本の浄土教思想に目覚めてしまいました。この後、読んだ沖浦和光著「天皇の国・賤民の国 両極のタブー」(河出文庫)により、仏教とカースト制度に影響を受けた差別問題が日本の歴史の底流に流れていることを初めて知り、実に、実に衝撃的でした。

出雲大社

 出雲大社に行ったのは、古代史に大変興味があったためで、実際に参拝し、その規模と大きさを知ることができたのが収穫でした。やはり、大和朝廷との関係が気になるところで、大陸や半島との交流で一足先に文明が進んでいた出雲が、最終的には大和に「国譲り」したことになるのでしょうが、何とも言えない、霊的な「気」も感じることができました。

  既にこのブログで登場させて頂いた武光誠著「一冊でつかむ古代日本」(平凡社新書) によると、 これまで「大王」と呼ばれた王族の長を初めて「天皇」と名乗ったのは壬申の乱を経て統一した天武天皇(631?~686年)でした。「古事記」「日本書紀」に則った紀元2680年にならんとする皇室からみると、「天皇」の名称が登場したのは1300年ほど前ということになるので、意外と最近だったことが分かります。

 また、古代の朝廷は、十数人からなる公卿と呼ばれる太政官(左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議)による合議制で政策が決まり、天皇はそれを追認する形だったという史実を知り、「いかにも日本的だなあ」と改めて思いました。中国やドイツでは考えられないことです。

 先の大戦で、戦艦「大和」が米軍の爆撃によって沈没したことは、まるで古代から続いてきた大和朝廷が滅ぼされたような象徴的な意味合いがあり、それに代わる(米国直輸入の)「戦後民主主義」と呼ばれる時代も、70年も過ぎれば綻びが目立つようになり、ついには、公文書を改竄したり、破棄したり、処分したりしても平気な政権が長期にわたるというのに、その弊害さえ、その政治システムにより除去できない日本の現代人は、歴史的に見ても、古代の朝廷を批判できないんじゃないかと思っています。

 このブログも、どういうわけか、最近、驚くほどアクセスが増えてきており、感謝申し上げる次第で御座います。取材費も原稿料も出ないのですが(笑)、色んな世界(精神世界も含む)を駆け巡って、これからも頑張って執筆していこうかなと存じます。

 来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 令和元年12月31日

 渓流斎 敬白

鳥取砂丘~姫路城~倉敷・大原美術館=山陰・山陽の旅最終日

姫路城

 12月3日(火)は「山陰・山陽の旅」の3日目、最終日でした。待ちに待った姫路城です。

 その前に、この日の朝は、前日暗くて行けなかった鳥取砂丘へ。

鳥取砂丘

 前日夕食を取った丘の上の土産物屋さん付近から二人乗りのリフトで下って砂丘へ。往復300円のリフト代はツアー代に含まれていました(笑)。5~6分で砂漠へ。

朝の9時前で、シーズンオフだったせいか、我々ツアー参加者以外誰もおらず、日本海から吹きすさぶ風が冷たくて、寒くて早く帰りたくなりました(笑)。

ラクダさんもおらず、「ラクダの写真を撮ったら料金頂きます」との看板だけが空しく、突風に耐えていました。

1993年 世界文化遺産の日本第一号として記載された姫路城

 鳥取市から無料高速道路の鳥取自動車道と有料の中国自動車道などを通って、約2時間ぐらい掛けて南下して一路、姫路城へ。

 バスの中で、御一緒した「一人旅の達人」で74歳ぐらいにみえるK氏と話が弾み、彼は「鳥取自動車を有料にしたら、通る人がいなくなっちゃうからだよ」とか、「このツアーは安いよ。東京~岡山の新幹線グリーン車券だけで、元が取れちゃうから。ホテル代もバス代もタダみたいなもんだよ」と仰るではありませんか。

姫路城 籠城に備えて城内には11カ所の井戸があった

 なるほど、鳥取県の人口はわずか57万人。10月末に、栗原先生のお導きで宇都宮城に行きましたが、宇都宮市の人口だけで51万人ですからね。鳥取市の駅前商店街もシャッターで閉まっている店が多く、何と言っても、街灯が少なくて薄暗い。物価も他府県と比べて安いのでしょう。だから、「おまけ」の宿泊ホテルは鳥取県になったと思われます。K氏は「瀬戸内海側の岡山や姫路に泊まったら採算が合わないわけですよ」と言うのです。

 もう一つ。東京~岡山の新幹線グリーン車往復料金は、4万7460円。それなのに、ツアー旅行代金は、シーズンオフのため4万9900円。差し引き2440円で、ホテル代、バス代、入場料代、ガイド代等を賄っていたわけか…んな、そんなことできるわけない!

 2泊3日で、夕食は1回だけしか付いていなかったり、一日何カ所も土産物店を回ったりしていることから、提携、連携、共済、共存等色んなバックマージンで、業務を維持しているのでしょうね。

姫路城 地上6階、地下1階の7階構造 大天守の高さは31.5メートル 

 あ、旅行記のはずが、とんだ話になってしまいましたね。とにかく、姫路城です。ツアーに参加していなければ、入場料は1000円でした。

 姫路城の歴史は元弘3年(1333年)、護良親王の命により挙兵した赤松則村が京に上る途中、姫山に砦を築いたのが始まりだと入り口で入手したパンフレットに書かれていました。

 歴代の姫路城主の中で重要人物を挙げると、まずは羽柴秀吉(1583年から3年間)。長州毛利攻めの際、黒田官兵衛の勧めで入城しました。今の姫路城を整えたのは、関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600年)に城主になった池田輝政。徳川家康の次女督姫と結婚し、播磨52万石を与えられました。薩摩、長州など西国列強に睨みを利かせる役割を担わされたわけです。

 元和3年(1617年)には、徳川四天王の本多忠勝の嫡男忠政が、伊勢国桑名から移封され、一緒に同行した忠政の嫡男忠刻に、二代将軍秀忠の長女千姫が再嫁します。千姫は7歳で豊臣秀頼と政略結婚させられますが、大坂夏の陣で大坂城から脱出しました。西の丸には今でも「千姫の部屋」があります。

 本多家のほかに、徳川の親戚と思われる松平家や、やはり徳川四天王の榊原康正や酒井忠次の末裔と思われる榊原家や酒井家などが城主となっていることから、相当な重要拠点だったことが分かります。

 姫路城がなぜ、国宝になったかと言えば、何と言っても、明治政府の愚かな廃城令から幸運にも免れ、太平洋戦争での米軍による2度の姫路空襲で奇跡的に生き残ったことが大きいですね。

 明治、昭和の大修理を経て、平成21年(2009年)には6年かけて「平成の修理」が行われ、「白鷺城」の異名通り、輝くばかりの白さが復活しました。

好古園 入園料300円(姫路城との共通券なら1050円だとか)

 そして、現在は、この城はどなたが所有しているのかと思ったら、な、何と文部科学省なんだそうです。「なあんだ、日本国民の共有の財産か」と安心していては駄目ですね。何しろ、今の官僚は、人事権を握られた安倍最長期政権に忖度して生きています。姫路城も、偽造されたり、改ざんされたり、廃棄されたり、シュレッダーで「なかったこと」にしたりしかねませんよお。

 いや、ブログが炎上してはいけないので、この辺で。2時間の自由時間が少し余ったので、姫路城西御屋敷跡に日本庭園として平成4年に開園した「好古園」を散策しました。結構広くて、途中で迷子になって、駆け足でバスにまで戻りましたが、紅葉がとても綺麗でした。

倉敷

 念願だった姫路城を後にして、バスは倉敷へ。当初は、色々と散策しようかと思いましたが、昨日書きましたが、急きょ、1時間15分の自由時間を大原美術館一本に絞ることにしました。

大原美術館 本館/ 分館と工芸・東洋館を合わせて1300円

大原美術館といえば、代表作は、エル・グレコの「受胎告知」でしょうけど、あたしは、グレコはスペインのトレドやマドリードでかなり観てきましたからね。お目当ては日本美術でした。

 「工芸・東洋館」では、河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチなどの陶芸作品が充実していました。

 創立者の大原孫三郎が支援し、美術館の収集品の元になった買い付けもした画家の児島虎次郎の作品も初めて見ましたが、なかなか良かったですね。岡山出身の虎次郎は東京美術学校は2年飛び級で卒業し、欧州に留学してベルギーのゲント美術アカデミーを首席で卒業します。帰国後、「朝顔」など印象派の影響がみられる大作など旺盛な創作活動を続けましたが、病に倒れ、47歳の若さで亡くなっています。

 この後、倉敷から岡山に戻り、新幹線のグリーン車で帰京した次第。3日間、小生の旅行記にお付き合いくださり、誠に有難う御座いました。私もこれで、やっと、一息つくことができました。

 業界団体の幹部職員から「渓流斎さん、ブログは何時間もかけて執筆されているとのことですが、やめたらきっと楽になりますよ」と甘い誘惑の声を囁かれましたが、頑張ってその誘惑を断ち切って完走することができました。これも皆様のお蔭です。感謝!