姫路城
12月3日(火)は「山陰・山陽の旅」の3日目、最終日でした。待ちに待った姫路城です。
その前に、この日の朝は、前日暗くて行けなかった鳥取砂丘へ。
前日夕食を取った丘の上の土産物屋さん付近から二人乗りのリフトで下って砂丘へ。往復300円のリフト代はツアー代に含まれていました(笑)。5~6分で砂漠へ。
朝の9時前で、シーズンオフだったせいか、我々ツアー参加者以外誰もおらず、日本海から吹きすさぶ風が冷たくて、寒くて早く帰りたくなりました(笑)。
ラクダさんもおらず、「ラクダの写真を撮ったら料金頂きます」との看板だけが空しく、突風に耐えていました。
鳥取市から無料高速道路の鳥取自動車道と有料の中国自動車道などを通って、約2時間ぐらい掛けて南下して一路、姫路城へ。
バスの中で、御一緒した「一人旅の達人」で74歳ぐらいにみえるK氏と話が弾み、彼は「鳥取自動車を有料にしたら、通る人がいなくなっちゃうからだよ」とか、「このツアーは安いよ。東京~岡山の新幹線グリーン車券だけで、元が取れちゃうから。ホテル代もバス代もタダみたいなもんだよ」と仰るではありませんか。
なるほど、鳥取県の人口はわずか57万人。10月末に、栗原先生のお導きで宇都宮城に行きましたが、宇都宮市の人口だけで51万人ですからね。鳥取市の駅前商店街もシャッターで閉まっている店が多く、何と言っても、街灯が少なくて薄暗い。物価も他府県と比べて安いのでしょう。だから、「おまけ」の宿泊ホテルは鳥取県になったと思われます。K氏は「瀬戸内海側の岡山や姫路に泊まったら採算が合わないわけですよ」と言うのです。
もう一つ。東京~岡山の新幹線グリーン車往復料金は、4万7460円。それなのに、ツアー旅行代金は、シーズンオフのため4万9900円。差し引き2440円で、ホテル代、バス代、入場料代、ガイド代等を賄っていたわけか…んな、そんなことできるわけない!
2泊3日で、夕食は1回だけしか付いていなかったり、一日何カ所も土産物店を回ったりしていることから、提携、連携、共済、共存等色んなバックマージンで、業務を維持しているのでしょうね。
あ、旅行記のはずが、とんだ話になってしまいましたね。とにかく、姫路城です。ツアーに参加していなければ、入場料は1000円でした。
姫路城の歴史は元弘3年(1333年)、護良親王の命により挙兵した赤松則村が京に上る途中、姫山に砦を築いたのが始まりだと入り口で入手したパンフレットに書かれていました。
歴代の姫路城主の中で重要人物を挙げると、まずは羽柴秀吉(1583年から3年間)。長州毛利攻めの際、黒田官兵衛の勧めで入城しました。今の姫路城を整えたのは、関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600年)に城主になった池田輝政。徳川家康の次女督姫と結婚し、播磨52万石を与えられました。薩摩、長州など西国列強に睨みを利かせる役割を担わされたわけです。
元和3年(1617年)には、徳川四天王の本多忠勝の嫡男忠政が、伊勢国桑名から移封され、一緒に同行した忠政の嫡男忠刻に、二代将軍秀忠の長女千姫が再嫁します。千姫は7歳で豊臣秀頼と政略結婚させられますが、大坂夏の陣で大坂城から脱出しました。西の丸には今でも「千姫の部屋」があります。
本多家のほかに、徳川の親戚と思われる松平家や、やはり徳川四天王の榊原康正や酒井忠次の末裔と思われる榊原家や酒井家などが城主となっていることから、相当な重要拠点だったことが分かります。
姫路城がなぜ、国宝になったかと言えば、何と言っても、明治政府の愚かな廃城令から幸運にも免れ、太平洋戦争での米軍による2度の姫路空襲で奇跡的に生き残ったことが大きいですね。
明治、昭和の大修理を経て、平成21年(2009年)には6年かけて「平成の修理」が行われ、「白鷺城」の異名通り、輝くばかりの白さが復活しました。
そして、現在は、この城はどなたが所有しているのかと思ったら、な、何と文部科学省なんだそうです。「なあんだ、日本国民の共有の財産か」と安心していては駄目ですね。何しろ、今の官僚は、人事権を握られた安倍最長期政権に忖度して生きています。姫路城も、偽造されたり、改ざんされたり、廃棄されたり、シュレッダーで「なかったこと」にしたりしかねませんよお。
いや、ブログが炎上してはいけないので、この辺で。2時間の自由時間が少し余ったので、姫路城西御屋敷跡に日本庭園として平成4年に開園した「好古園」を散策しました。結構広くて、途中で迷子になって、駆け足でバスにまで戻りましたが、紅葉がとても綺麗でした。
念願だった姫路城を後にして、バスは倉敷へ。当初は、色々と散策しようかと思いましたが、昨日書きましたが、急きょ、1時間15分の自由時間を大原美術館一本に絞ることにしました。
大原美術館といえば、代表作は、エル・グレコの「受胎告知」でしょうけど、あたしは、グレコはスペインのトレドやマドリードでかなり観てきましたからね。お目当ては日本美術でした。
「工芸・東洋館」では、河井寛次郎、浜田庄司、バーナード・リーチなどの陶芸作品が充実していました。
創立者の大原孫三郎が支援し、美術館の収集品の元になった買い付けもした画家の児島虎次郎の作品も初めて見ましたが、なかなか良かったですね。岡山出身の虎次郎は東京美術学校は2年飛び級で卒業し、欧州に留学してベルギーのゲント美術アカデミーを首席で卒業します。帰国後、「朝顔」など印象派の影響がみられる大作など旺盛な創作活動を続けましたが、病に倒れ、47歳の若さで亡くなっています。
この後、倉敷から岡山に戻り、新幹線のグリーン車で帰京した次第。3日間、小生の旅行記にお付き合いくださり、誠に有難う御座いました。私もこれで、やっと、一息つくことができました。
業界団体の幹部職員から「渓流斎さん、ブログは何時間もかけて執筆されているとのことですが、やめたらきっと楽になりますよ」と甘い誘惑の声を囁かれましたが、頑張ってその誘惑を断ち切って完走することができました。これも皆様のお蔭です。感謝!