最新映画より小津安二郎など旧い作品の方が観たくなりました

 2024年(令和6年)、新年明けましておめでとう御座います。本年も宜しくお願い賜わります。

 扨て、「一年の計は元旦にあり」とよく言いますけど、あまり、しゃちこばらずに今年はどんな一年にしようか、考えてみました。

 一言でいいますと、アナクロニズム(時代錯誤)と批判されようが、もうあまり流行は追わずに、アナログ人間でもいいから、ゆったりとシンプルに過ごしていこうという心構えです。

 昨年末に観たヴィム・ヴェンダース監督の「パーフェクト・デイズ」の影響かもしれません。役所広司演じる主人公の平山のように、あそこまで、カセットテープやネガフィルムカメラに戻る気持ちはないのですが、便利さや効率ばかりを追及するデジタル人間にならなくても、アナログ人間的生き方でも許してもらえるのではないか、と思うようになったのです。

 昨年は、スマートフォンのiPhoneⅩから5年ぶりに20万円以上もするiPhone15Proに買い換えました。4Gから5Gにもなったので、データ送受信速度も目を見張るほど速くなるものと期待したら、楽天モバイルのせいか、殆ど変わりません。アプリもそのまま移行したので、内容も変わらず、変わったのは少しだけバッテリーの持ちが良くなったぐらいです。たったそれだけですよ! スマホの進化は、終わったといいますか、頭打ちになったということなのでしょう。

 昨今、AI(人工知能)やロボットばかり注目されていますが、普段の生活にそれほど必要なのか、私は懐疑的です。本当の人間らしさとは何かを考えた時、そして、心の豊かさを求めようとした時、やはり、AIやデジタルより、アナログ的思考ではないかと思っています。

 私には、人生の全てをアルゴリズムで決められてたまるか!といった感情があります。

さいたま新都心

 昨年末の大晦日に、NHKの紅白歌合戦を何十年ぶりか見たところ、出演者のほとんど知りませんし、怒られますが、歌って踊っている若い歌手は、皆同じ顔に見えて区別がつきませんでした。名前だけは知っている乃木坂だったか、欅坂とかいう若い女性グループは、4~5人なのかと思ったら、40~50人もいるではありませんか。あれじゃ、宝塚です(もっとも、昨年事件を起こした宝塚ですから、出演出来なかったことでしょうが)。私と同世代の郷ひろみさんは、流石に高齢となり、高音の伸びがなくなり、ブレイクダンスまで挑戦しようとしましたが、やっと周囲に支えられてポーズを取るのがやっと、です。何か、痛々しいなあ、と思い、テレビを消してしまいました。性加害事件で旧ジャニーズ事務所所属のタレントが44年ぶりに不出場ということでしたが、似たような、と言っては顰蹙を買うかもしれませんが、他に若い男性グループが沢山出演していたので、「ジャニーズ不在」と言われても分かりませんでした。

 何か、「終わった人」の老人のつぶやきを聞かされているようで申し訳ないですねえ(笑)。

 最初にヴィム・ヴェンダース監督の「パーフェクト・デイズ」の話をしましたが、最新の映画はFXやCGを使った暴力やアクションものが多くなり、年配者にはとても付いていけなくなりました。今は色々と便利になりましたから、私は、今年は最新封切映画より、旧い映画を観なおしたりすると思います。

 この年末年始は、ビデオ録画していた小津安二郎監督の「お早う」(1959年)と「秋刀魚の味」(1962年)を観ました。昨年は没後60年、生誕120年の節目の年で大いに注目された小津安二郎ですが、やはり、いいですね。ヴィム・ヴェンダース監督が影響受けただけあります。

 「お早う」は、東京郊外の新興住宅街を舞台に、テレビを買って、とねだる子どもたちとそれに振り回される家族の日常が描かれた何でもない内容なのですが、何とも滋味深いものがありました。佐田啓二と久我美子主演。公開された1959年は、テレビの普及率は24%、価格は7万円でした。当時のサラリーマンの月給は1万7000円程度でしたから、4カ月以上分と高価でした。騒動になるのは当たり前で、当時最新の話題を盛り込んだホームドラマだったわけです。東京郊外は何処なのかと思ったら、佐田啓二と久我美子が駅のプラットフォームで一緒になる場面があり、その駅は「八丁畷」でした。川崎市にある京浜急行の駅でした。

 「秋刀魚の味」はもう観るのは3回目ぐらいですが、細かい場面は忘れているので何度観てもいい(笑)小津監督の遺作です。笠智衆演じる初老のサラリーマン平山と、岩下志麻演じるその娘路子(みちこ)の縁談話を軸に展開されるこれまたホームドラマです。秋刀魚の味といいながら、秋刀魚が出て来ない不思議な映画で、つまりは秋刀魚の味は初老の平山の感慨のメタファーになっているという説もあるようです。岩下志麻は「極道の妻」のせいで、怖いイメージが強過ぎてしまいましたが、役柄とはいえ、若い時は純朴、おしとやかで、天下一の別嬪さんだったことが分かります。

 とにかく、小津監督が好んで使った女優さんは、他に杉村春子、三宅邦子、原節子、岡田茉莉子ら、大変失礼ながら、今の女優さんにはない品格と内面的美貌がありました。男優も笠智衆、佐田啓二を始め、中村伸郎、東野英治郎、山村聡、加東大介ら重厚で、一度見たら忘れられないアクの強そうな脇役も揃え、脳裏に焼き付いてしまいます。台詞がなくても、背中で演技が出来る名役者ばかりです。(小津組ではなかった高峰秀子や京マチ子、若尾文子らも、今の役者と比べて存在感が全く違います。)

 アナクロながら、最新映画よりも旧作映画の方にどうしても関心が向かってしまうのもそんな理由からでした。

 

老兵は死なず、ただ消えゆくのみ=または余生の過ごし方

 これでも、小生、20年以上昔はマスコミの文化部の記者をやっておりましたから、最先端の文化芸術に触れ、多くの芸能人や作家、画家、文化人の皆様にインタビューもさせてもらいました。ですから、文化関係の分野でしたら、一応、何でも知っているつもりでした。某有名女優さんとは手紙のやり取りまでしておりました。いえいえ、別に自慢話をするつもりではありません。

 それが、急に文化部を離れ、テレビもほとんど見なくなってからは、全く何もかもワケが分からなくなりました。正直、情報過多もあるでしょうが、最新流行にはついていけなくなったのです。最も人気が高かったAKB48も、ジャニーズの嵐も、グループ名はかろうじで知っていても、そのメンバーとなるとさっぱり分からなくなりました。ま、覚えようとしなかったのでしょう(苦笑)。

 今でもそれに近い状態が続いています。テレビに出るような女優、俳優、歌手なら、昔は大抵ほとんど知っていたのに、最近では「この人、誰?」ばっかりです。文芸作家は、毎年2回の芥川賞と直木賞で量産されるので、やはり、「えっ? こんな作家さんいたの!?」です。漫画となると、何百万部、何千万部と売れているという噂は聞きますが、私は読まないので門外漢です。かろうじてタイトルだけ知っている程度です。

銀座「ひろ」1000円ランチ 前菜 「赤字覚悟でやってます」と店主。

 しかし、悲観すること勿れ。人間の頭の構造がそうなっているんでしょう。特に流行音楽なら、誰でも、10代から20代の多感な時に聴いた音楽がその人の一生の音楽になるのでは?小生が子供の頃、テレビで「懐かしのメロディー」といった番組があり、東海林太郎や三浦洸一(現在95歳!)、渡辺はま子といった往年の歌手がよく登場していました。両親は涙を流して熱心に聴き入っていましたが、少年の私はさっぱりついていけず、世代間ギャップを感じたものでした。歳をとると、今度は我々が世代間ギャップを若者たちから糾弾される番になってしまいました。

 私は洋楽派だったので、多感な時代は、ビートルズやローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンばかり聴いていましたが、フォークソングのブームだったので、吉田拓郎やかぐや姫なども結構聴いていました。でも、今の若者は、「四畳半フォーク」なんて、辛気臭くて絶対聴かないでしょうね(笑)。逆に言わせてもらえば、今のラップやらDJやら、我々は、とてもついていけませんが。

銀座「ひろ」1000円ランチ 銀座で一番安いのでは?

 先日、久しぶりに東京・国立劇場で中村京蔵丈の舞台「フェードル」を観て、遅く帰宅したら、たまたま、天下のNHKがMISAMO(ミサモ)という三人組のガールズグループのライブショーをやっていました。勿論、見るのも聴くのも初めてです。名前から、そして顔立ちから、韓国人か中国人かと思いましたら、どうやら、韓国の9人組の多国籍グループ、TWICEの中の日本人サブユニットだということが後で分かりました。ビールを片手に少し酔って見ていましたが、「アラビアンナイト」に出て来るような、かなり性的刺激の強いダンスグループで、天下の国営放送によく出演できたなあと思ってしまいました。若い人は平気かもしれませんが、正常な性的羞恥心を害される(猥褻の定義)と言ってもいいかもしれません。それに、出演しているのが民放ではなく、NHKですからね。時代は変わったなあ、と思いました。(否定はしませんよ。皆さんと同じように、嫌いじゃありませんから=笑)

 老兵は死なず、ただ消えゆくのみ Old soldiers never die, They just fade away

 6年8カ月間、日本を占領したGHQのダグラス・マッカーサー司令官(元帥)が退任に当たって、米議会で演説した有名なフレーズです。流行について行けなくなった今、私の頭の中で、このフレーズが再三、響き渡ります。

 でも、まあ、ええじゃないか、ええじゃないか、です。今は動画サイトがありますから、無理して背伸びして若者たちに媚を売ったりせず、1960~70年代の好きなロックやボサノヴァを見たり、1950年代の黄金時代と言われた日本の全盛期の黒澤明や溝口健二や小津安二郎や成瀬巳喜男の映画を見て余生を過ごせば、それでいいじゃん。

人物相関図がよく分かりました=平山周吉著「小津安二郎」

 平山周吉著「小津安二郎」(新潮社)を何とか読了致しました。まるで難解な哲学書を読んでいる感じでした。基本的にはエンターテインメントなので、もっと楽しみながら読めばいいのに、苦行僧を演じてしまいました(苦笑)。でも、色んな収穫もありました。

 最大のハンディは、私自身、小津作品をほとんど観ていなかったことでした。代表作「東京物語」(1953年)は流石に何度も観ておりましたが、原節子「紀子」三部作(「晩春」=1949年、「麦秋」=1951年、「東京物語」)でまだ観ていなかった「晩春」は慌てて観ました。そうしないと、「『晩春』の壺」と書かれていても何のことなのかさっぱり分からなかったからです。そして、「麦秋」は15年ぐらい昔に安いDVDを買って観たのですが、細かい内容は忘れていました。

 この397ページに及ぶ大作の中で、何度も何度も、大陸戦線に徴兵された小津安二郎監督と、「弟分」として慕っていながら28歳の若さで戦病死した山中貞雄監督との親密な関係と暗喩がしばしば語られています。フィルムが残っている山中貞雄監督の作品は、わずか三作しかないといいます。「丹下左膳余話 百万両の壺」(1935年)、「河内山宗俊」(1936年)、「人情紙風船」(1937年)です。私は、山中監督の名前と代表作名だけしか知らず、まだ作品は観ていなかったので、原節子(16歳)が出演した「河内山宗俊」だけ慌てて観ました。

 著者の平山氏によると、戦後、小津監督は、山中監督へのオマージュとして、自分の作品の中に、山中作品を暗喩するものを登場させたというのです。「風の中の牝鶏」(1948年)の中に「紙風船」を、「晩春」の中に「壺」を、「麦秋」の中で歌舞伎の「河内山」を挿入したりしたことがそれに当たります。

新富町「中むら」アジフライ定食1100円

 「東京物語」にしばしば「書き割り」として登場する葉鶏頭の花も、どうやら山中貞雄監督を隠喩しているらしいのです。昭和12年8月25日、召集令状が来た山中監督らが東京・高輪の小津監督の自宅に挨拶に来たので「壮行会」のようなものを開いた際、山中監督が庭に咲いている沢山の葉鶏頭を見て、小津監督に「おっちゃん、ええ花植ゑたのう」と呟いたといいます。そして、程なく小津監督も召集され、最前線の中国大陸でも葉鶏頭の花が沢山咲いていたといいます。

 個人的に「東京物語」は10回ぐらいは観ましたが、葉鶏頭の花は全く覚えていませんねえ。これでは、映画鑑賞の巧者ではない、という証明になってしまいました。

 小津監督の「秋日和」(1960年)、「小早川家の秋」(1961年)、「秋刀魚の味」(1962年)が「秋三部作」だったことも知らず、また、この本で詳細な解説をしてくれる「早春」(1956年)、「東京暮色」(1957年)、「彼岸花」(1958年)まで観ていないか、観ても内容をすっかり忘れておりました。これでは、話になりませんねえ(苦笑)。そこで、慌てて、最後の作品、つまり遺作となった「秋刀魚の味」をもう一度観ました。それで、この本で出てくる「鱧」と「軍歌」の話はよく理解できました。小津作品の大半を(再)鑑賞してから、この本を読むべきでした。これから小津作品を観るように心掛けて、この本を再読すれば面白さが倍増するに違いありません。

 小津監督は昭和2年の「懺悔の刃」(松竹キネマ蒲田撮影所)で監督デビュー(24歳)しているので、戦前には30本以上の無声(サイレント)映画も撮っております。そこで、たまたま、この本で何度も取り上げられていた「非常線の女」(1933年)が、ユーチューブでアップされていたので、観てみることにしました。失礼ながら、内容はつまらないB級のギャングアクション映画でしたが、主演の時子は、若き頃の田中絹代でした。私の世代では、田中絹代と言えば、老婆役が多かったので、「こんな若かったとは!」と驚いてしまいました。調べてみたら、田中絹代は1909年生まれ(太宰治と同い年!)ですから、この時、23~24歳。そして、老女かと思ったら、1977年に亡くなった時は67歳でした。今ではまだまだ若い年代なので、二重に驚いてしまいました。

 そうなんです。華やかな芸能界と言われても、すぐに忘れ去られてしまい、世代が違うとまるで何も知らないのです。例えば、「非常線の女」で、ぐれた与太者・宏の姉・和子役で出演した水久保澄子(1916年生まれ)という女優も、本書にも登場していて初めて知りましたが、大変清楚な美人さんで、原節子より綺麗じゃないかと思いました。この水久保澄子は、かなり波乱万丈の人生だったようで、医学留学生を自称するフィリピン人と電撃結婚したものの、騙されたことが分かり、一児を残して帰国。しかし、それまで自殺未遂を起こして降板したり、他の映画会社に電撃移籍したりしてトラブルを起こしていたことから、映画界からはお呼びが掛からず、1941年に神戸でダンサーとして舞台に出ていたことを最後に消息不明になったといいます。戦後は「東京・目黒でひっそり暮らしている」と週刊誌に掲載されたりしましたが、その後の消息は不明のようです。水久保澄子は「日本のアイドル第1号」と言われたこともあるらしく、何か、人生の無情を感じてしまいました。

 この本を読んで初めて知る「人物相関図」が多かったでした。小津安二郎は最後まで独身を貫き通しましたが、小津の親友の清水宏監督は、田中絹代と「試験結婚」。後輩の成瀬巳喜男は東宝に移籍してから主演女優の千葉早智子と結婚(後に離婚)。先輩監督の池田義信は大スター栗島すみ子と添い遂げ、戦前の小津組のキャメラマン茂原英雄の姉さん女房が飯田蝶子、大部屋俳優だった笠智衆は、無名の頃に蒲田撮影所脚本部勤務の椎野花観と早々に結婚したといいます。(152ページ)

 このほか、山中貞雄の「丹下左膳余話」で、やる気のない若殿役を演じた沢村国太郎(歌舞伎役者から映画界に転身。長門裕之と津川雅彦の父)は、沢村貞子と加東大介(山中の「河内山宗俊」や小津の「秋刀魚の味」や黒澤明の「七人の侍」などに出演)の実兄でした。無声映画「その夜の妻」に主演した岡田時彦は、女優岡田茉莉子の父、「東京物語」で笠智衆の旧友服部を演じた十朱久雄は、女優十朱幸代の父だということも教えられました。

 さらには、「早春」「彼岸花」「秋日和」「秋刀魚の味」で皮肉な重役を演じた中村伸郎の養父は小松製作所の社長で、自身も役者をやりながら、小松製作所の子会社・大孫商会の代表取締役を兼任していたといいます。小松製作所は戦時中、爆弾の信管やトラクターのキャタピラの国内生産の8割を占める軍需産業でしたが、中村伸郎は、自ら代表を務める会社・大孫商会が扱っている漆を敵陣に投下して戦意喪失させる案を某大学教授から提案されましたが、養父に相談することなくこの仕事を断ったといいます。

 もう一人、蒲田撮影所の所長から松竹の社長・会長まで務めた城戸四郎は、あの精養軒の創業者北村家で生まれ育ち、旧制一中~一高~東京帝大法学部という絵に描いたようなエリートコースを歩み、松竹入社後、創業者の大谷竹次郎の愛人と言われた城戸ツルと養子縁組し、その娘と結婚し(彼女は病没したが)、松竹内での地位を揺るぎなく確立したといいます。(329ページ)これも、「へ~」でした。

 最後に、273ぺージには「支那事変従軍で小津のいた部隊が毒瓦斯部隊だったことは、余りにも周知となっている。」と書かれていましたが、私自身は初めて知るところでした。やはり、小津安二郎は絵になり、字になる人で、今後も語り継がれることでしょう。

🎬小津作品を観たくなります=平山周吉著「小津安二郎」

 今、話題になっている平山周吉著「小津安二郎」(新潮社)を読んでいます。同時並行で他の本も沢山読んでいますので、乱読です。

 巨匠小津安二郎(1903~63年)に関しては、様々な多くの書籍がこれまで出版され、いわば出尽くされた感じでしたが、それでもなお、この本では今までとは違った視点で描かれている(山中貞雄監督との関係や、円覚寺の墓石にかかれた「無」の揮毫は本人の遺志ではなかったことなど)ということで、多くの書評でも取り上げられ、脚光を浴びています。また、今年はちょうど小津没後60年の節目の年ということもあります。

 没後60年が何故、節目の年かと言いますと、小津監督自身、今ではとても若い60歳で亡くなっているからです。晩年の写真を見ると、80歳ぐらいに見えますが、まだ60歳だったとは驚きです。あれから60年経ったということで、今年は小津生誕120年ということにもなります。

 著者の平山周吉氏は、いつぞやこの渓流斎ブログで何度も取り上げたあの「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社)の著者でもあります。文芸誌の編集長も務めた経歴の持ち主で、古今東西の古書を渉猟して調査研究する手法は、この本でも遺憾なく発揮されています。

 でも、正直言わせてもらいますと、異様にマニアックで、重箱の隅の隅まで突っついている感じがなきにしもあらずで、逆に言えば、マニアックだからこそ出版物として通用するといった感想を抱いてしまいました。

 とは言っても、私は小津安二郎が嫌いなわけではありません。彼がこよなく愛して通った東京・上野のとんかつ屋「蓬莱屋」には今でも通っているぐらいですからね(笑)。世界の映画人やファン投票で、代表作「東京物語」が何度も世界第1位に輝き、私も「東京物語」だけは、10回ぐらいはテレビやビデオで見ています。1953年公開ですから、劇場では見ていませんが。。。(遺作となった小津作品は「秋刀魚の味」ですら1962年公開ですから、小津作品を封切で映画館にまで足を運んで観たのは戦前生まれか、私の親の世代ぐらいではないでしょうか。)

 でも、この本を読んでみて、私自身は、小津作品をほとんど観ていないことが分かり、観ていないと何が書かれているのか分からないので、慌ててDVDを購入して観たりしています。

 早速、観たのは、1949年度のキネマ旬報の1位に輝いた「晩春」と、遺作になった62年の「秋刀魚の味」です。そしたら、あれ?です。何という既視感!

 男やもめの初老の父と年頃の娘がいて、老父は娘が行き遅れ(差別用語で、行かず後家)にならないか心配しています。娘はお父さん大好きで、いつまでも身の回りの世話をしてあげたい。老父は、痛し痒しで、それでは困る。結局、周囲からの縁談を進めて、最後は娘のいなくなった家で、老父は寂しく感慨深気な表情でラストシーンとなる。。。

 「晩春」「秋刀魚の味」ともに、この老父(とはいっても56~57歳)役が笠智衆。行き遅れになりそうな娘(とはいっても、まだ24歳)役は、「晩春」では原節子、「秋刀魚の味」では岩下志麻です。両作品とも、結婚相手は最後まで登場せず、名前だけ。自宅での花嫁衣裳姿は出てきますが、式や披露宴の場面はなし。うーん、同じようなストーリーといいますか、「晩春」から13年目にして、ワンパターンと言いますか、歌舞伎の様式美のような同じ物語が展開されます。それで、デジャヴュ(既視感)を味わってしまったわけです。

 特に老父役の笠智衆(もう40代から老人役を演じていた!)は、意識しているのか、あの独特のゆったりとした台詞の棒読み状態の中で、いぶし銀のような深い、深い味わいを醸し出しています。(「そおかあ、そうじゃったかなあ~」は夢にまで出てきます。)

 小津作品のほとんどがホームドラマと言えば、ホームドラマです。特別な悪人は登場せず(嫌な奴は登場します=笑)、露骨な煽情的な場面もなく、何処の家庭でも抱えそうな身近な問題をテーマにしています。どちらかと言えば、お涙頂戴劇か? 共同脚本を担当した野田高梧の台詞回しは、至って自然で、フィクションではなく、いかにも現実に有り得そうな錯覚に観る者を陥れますが、実生活では、最後まで独身を貫いて家庭を持たなかった小津が、何故ここまでホームドラマに拘ったのか不思議です。この本はまだ半分しか読んでいないので、最後の方に出てくるかもしれませんが、原節子との噂の真相も書いていることでしょう。

  ああ見えてファッション好きで、全く同じ色と柄の服を何着も揃えているとか、酒好きで知られ、行きつけの店は今でも「聖地」になっているとか。 ーこのように、小津安二郎という人が映画監督の枠を超えて、人間的に魅力があったからこそ、世界中の人から愛され、特にヴィム・ヴェンダース監督を始め、超一流のプロの映画人にも愛されたのではないかと私は思っています。日本的な、あまりにも日本人的な小津作品が、海外に通じるのも、人間の感情の機微に普遍性があるからでしょう。

 ところで、「秋刀魚の味」で、どこの場面でも秋刀魚が登場せず、少なくとも、何のキーポイントにもなっていないので、何でだろうと思って、この本の当該箇所を読んでみましたら、著者の平山氏は「『秋刀魚の味』は鱧(はも)と軍艦マーチの映画だ」なぞと書いておられました。恐らく、そう言われても、「秋刀魚の味」を御覧になっていない方は、よく分からないかもしれませんけど、確かにそうでした。そして、「秋刀魚の歌」で一躍有名になった詩人の佐藤春夫とその親友の谷崎潤一郎について触れ、文学少年だった小津安二郎は、二人の作品を全集などで読んでいるはずで、かなりの影響を受けていることも書いておりました。

 先ほど、この本について、「異様にマニアックだ」などと失礼なことを書いてしまいましたが、このように、ここまで各作品の細部について、解明してくれれば、確かに、「小津安二郎伝 完全版」と呼んでも相応しい本かもしれません。

 【追記】

 (1)著者の平山周吉の名前は、小津安二郎の代表作「東京物語」で笠智衆が演じた主役の平山周吉から取られたといいます。それだけでも、筆者は熱烈な小津ファンだということが分かります。

 (2)「秋刀魚の味」では、やたらとサッポロビールとサントリーのトリスバーが出てきます。「提携(タイアップ)商品広告」と断定してもいいでしょう。「ローアングル撮影」など小津安二郎を神格化するファンが多いですが、私は神格化まではしたくありませんね。ただ、小津作品は、歴史的遺産になることは確かです。映画を観ていて、パソコンやスマホどころかテレビもなかった時代。冷蔵庫も電話も普通の家庭にはなかった時代を思い出させます。文化人類学的価値もありますよ。

上野・東博の特別展「東福寺」と小津監督贔屓の「蓬莱屋」=村議会議員選挙も宜しく御願い申し上げます

 旧い友人のKさんの御令嬢Aさんが今回、福島県の裏磐梯にある北塩原村議会議員選挙に出馬されたことが分かり、吃驚してしまいました。投開票は4月23日(日)です。

 Aさんにとって、北塩原村は、幼少時から小学生まで育ち、その後、同じ福島県の会津若松市に引っ越しましたが、第二の故郷のようなものです。長じてから、北塩原村にある観光温泉ホテルで働いておりましたが、選挙に出るともなると、両立することは会社で禁じられ、仕方がないので、退職して「背水の陣」で今回の選挙活動に臨んでいます。

 2年ほど前、私もその観光ホテルに泊まって、Aさんに会った時、将来大きな夢がある話も聞いておりました。ですから、別に驚くこともないのですが、こんなに早く、実行に移すなんて、まさに「有言実行」の人だなあ、と感心してしまいました。

 政治というと、どうも私なんか、魑魅魍魎が住む伏魔殿の感じがして敬遠してしまいますが、Aさんの場合は全くその正反対で、彼女は、裏表がない真っ直ぐなクリーンな人なので、安心して公職を任せられます。とても社交的な性格なので、友人知人が多く、周囲で支えてくれる人も沢山いるように見えました。最年少の新人候補なので苦戦が予想されますが、是非とも夢を着実に実現してほしいものです。Aさんは、SNSで情報発信してますので、御興味のある方は是非ご覧ください。

上野・東博「東福寺」展

 さて、昨日は所用があったので会社を休み、午前中は時間があったので、上野の東京国立博物館で開催中の特別展「東福寺」を見に行きました(2100円)。当初は、予定に入れていなかったのですが、テレビの「新・美の巨人たち」で、室町時代の絵仏師で東福寺の専属画家として活躍した吉山明兆(きつさん・みんちょう)の傑作「五百羅漢図」(重要文化財、1383~86年)が14年ぶりに修復を終えて公開されると知ったので、「これは是非とも」と勇んで足を運んだわけです。平日なのに結構混んでいました。

上野・東博「東福寺」展

 「五百羅漢図」は明兆が50幅本として製作しましたが、日本に現存するのは東福寺に45幅、根津美術館に2幅のみです。それが、近年、第47号の1幅がロシアのエルミタージュ美術館で見つかったそうです。この絵は、ある羅漢が天空の龍に向かってビーム光線のようなものを当てているのが印象的です。明兆の下絵図(会場で展示)が残っていたお陰で、江戸時代になって狩野孝信が復元し、この作品も現在、重要文化財になって会場で展示されています。何で、この本物がエルミタージュ美術館にあるのかと言いますと、どういう経緯か分かりませんが、もともとベルリンの博物館に収蔵されていたものをドイツ敗戦のどさくさで、ソ連軍が接取したといいます。接取と言えば綺麗ですが、実体は戦利品として分捕ったということでしょう。ウクライナに侵略した今のロシアを見てもやりかねない民族です。

上野・東博「東福寺」展 釈迦如来坐像

 この東福寺展で、私が一番感動したものは、東福寺三門に安置されていた高さ3メートルを超える「二天王立像」(鎌倉時代、重要文化財)でした。作者不詳ながら、慶派かその影響を受けた仏師によるもので、異様な迫力がありました。撮影禁止だったので、このブログには載せられず、撮影オッケーの釈迦如来像を掲載してしまいましたが、「二天王立像」は、運慶を思わせる写実的な荒々しさが如実に表現され、畏敬の念を起こさせます。

 東福寺は、嘉禎2年 (1236年)から建長7年(1255年)にかけて19年を費やして完成した臨済宗の禅寺です。開祖は「聖一(しょういち)国師」円爾弁円(えんに・べんえん)です。34歳で中国・南宋に留学し、無準師範に師事して帰朝し、関白、左大臣を歴任した九条道家の「東大寺と興福寺に匹敵する寺院を」という命で東福寺を創建します。鎌倉幕府の執権北条時頼の時代です。特別展では、円爾、無準、道家らの肖像画や遺偈、古文書等を多く展示していました。

現在の上野公園は、全部、寛永寺の境内だった!

 ミュージアムショップを含めて、80分ほど館内におりましたが、お腹が空いてきたのでランチを取ろうと外に出ました。上野は久しぶりです。当初は、森鴎外もよく通ったという「蓮玉庵」にしようかと思いましたが、結局、東博からちょっと遠いですが、小津安二郎がこよなく愛したトンカツ店「蓬莱屋」に行くことにしました。

上野

 司馬遼太郎賞を受賞した「満洲国グランドホテル」で知られる作家の平山周吉さんの筆名が、小津安二郎監督の「東京物語」に主演した笠智衆の配役名だったことをつい最近知り(東京物語は何十回も見ているので、そう言えば、そうじゃった!)、その作家の方の平山周吉さんが、最近「小津安二郎」というタイトルの本を出版したということで、頭の隅に引っかかっていたのでした。上野に行って、小津と言えば「蓬莱屋」ですからね。

上野「蓬莱屋」「東京物語」定食2900円

 「蓬莱屋」に行くのは7~8年ぶりでしたが、迷わず、行けました。でも、外には何も「メニュー」もありません。「ま、いっか」ということで入ったのですが、前回行った時より、値段が2倍ぐらいになっていたので吃驚です。結局、せっかくなので、ランチの「東京物語」にしました。「商魂逞しいなあ」と思いつつ、流石に美味で、舌鼓を打ちました。上野の「三大とんかつ店」の中で、私自身は蓬莱屋が一番好きです。

 隣りの客が、昼間からビールを注文しておりましたが、私は、ぐっと我慢しました。だって、展覧会を見て、ランチしただけで、併せて5000円也ですからね。昔は5000円もあれば、もっともっと色んなものが買えたのに、お金の価値も下がったもんですよ。

死語について考える=昔の話し言葉は素晴らしかった

 今の若い人たちは、と書けば、老人の繰り言に聞こえるかもしれませんが、まあ、聞いてくださいな(笑)。

 今の若い人たちは、「衣紋掛け」と聞いても、何のことか分からない、という話を聞いて、驚いてしまいました。衣紋掛けって、もう死語なんですかねえ? 今どきの若い人たちは、「ハンガー」なら分かるのでしょうか。

 それで思ったのですが、「下駄箱」はどうでしょうか? 私の世代は、小学校や中学校などで当たり前に使っていましたが、それでも、ほとんどの生徒は、学校まで下駄なんか履いて来たことありませんでした。そっかあ、今は「靴箱」と言うんでしょうか? 

 衣料関係では、私たちの世代で言っていた「チョッキ」は死語になり、「ベスト」と言うのは別に抵抗はないのですが、「ズボン」のことを「パンツ」というのはちょっと恥ずかしいですね(笑)。

 こうなったら、「ナウいアヴェックは、チョベリグーだね」とワザと死語を使いたくなってしまいます。どうだ。若いモンよ、意味が分からんだろう?(笑)

これだけ、日本語がちょこちょこ変わっていくと、若い人はもう古いことわざなんかはピンと来ないことでしょうね。「悪銭身に付かず」と言っても、銭なんていまや見たことない。「風が吹けば桶屋が儲かる」と言われても、桶屋って何? 「瓢箪から駒が出る」といっても、なんじゃそれ?でしょう。瓢箪なんか実物を見たことなんかないんじゃないでしょうか?

 その点、外国語は結構「保守的」であまり変わらないようです。以前、ロシア文学者で翻訳家の亀山郁夫氏(当時は東京外国語大学長)にインタビューしたことがあるのですが、19世紀のドストエフスキー(1821~1881年)の小説のロシア語は、現代ロシア語とそれほど変わっていない、という話を聞いた時は、本当に驚いてしまいました。

 そう言えば、私も学生時代にデカルト(1596~1650年)の「方法序説」(1637年)を頑張って原語(つまり、フランス語)で読んだことがあったのですが、20世紀の外国人が読んでも、あまり違和感なく、現代フランス語と同じように読むことができたことを覚えています。でも、17世紀のフランス語が読めるというのに、恥ずかしながら、17世紀の江戸時代の日本語は、崩し字を含めて、読めないし、意味も直ぐには分かりません。

 日本語の場合、その変遷があまりにも激しいので、出版界でも名作や旧作の新しい翻訳本が必要になってくるのでしょう。良いか悪いかは別にしてですが、そのうち、昭和の日本語を分かる人が少なくなる時代も到来するかもしれませんよ。あと100年? いやあ、もっと早いかもしれませんね(笑)。

築地本願寺

 書き言葉がこれだけ変わるのですから、話し言葉も変わります。小津安二郎の名作「東京物語」(1953年)での登場人物の話し方が、本当に、当時しゃべっていた同じ言葉遣いだったのか、と今では疑いたくなるほどです。

 それでも、戦死した次男の妻紀子役の原節子の言葉の言い回しはゾクゾクします。今どき、「でも、お父さま、お母さまも、ちっともお変わりありませんわ」なんて、言いませんからね。丁寧といいますか、情が籠った配慮のある言葉遣い、といいますか。。。「昔の日本人は素晴らしかったなあ…」なんて思ってしまいます。

ブラームス交響曲第1番から原節子まで

 上の写真は、すべてブラームスの「交響曲第1番」です。カラヤン、バースタインからトスカニーニ、ブルーノ・ワルター、小澤征爾まであります。クラシックの中で、この曲だけは特別に好きなのです。「あ、この音とは違う」「この音じゃない」と、一度、FM放送か何かで聴いたことがある「失われた音を求めて」色んな指揮者の演奏CDを集めたらこんなになりましたが、まだまだあることでしょう。

 ブラームスの交響曲第1番ハ短調は、皆さまご案内の通り、恩師シューマンの「マンフレッド序曲」を聴いて感激した1855年に着手し、21年もの長きの歳月を経て、1876年にやっと完成した作品です。22歳の若者が43歳の中年になっていました(ブラームスは64歳で死去)。何でこの曲が好きなのかは、最初の重苦しいテーマが、ゆっくりとだんだんと高まっていき、最終楽章では、ついに「生の躍動 elan vital」を感じさせてくれるからです。我慢して最後まで聴いた価値があるわけです(笑)。クラシックを聴いて、あまり涙を流したりしませんが、この曲とワーグナーの「マインスタージンガー序曲」だけは別格ですね。感情が高まりカタルシスを感じます。

 ということで、私は、ブラームスの1番を聴きながら、ブログを書いています。昨日なんかも書くのに4時間は掛かりましたからね。4時間も、5時間もかけて書いたブログにあまり反応がないのに、20分~30分でさっと書いたブログに注目されたりすると、「あれま」とガクっときます。だって、人間なんだもん。

 この1カ月ばかしは、立花隆著「天皇と東大」(文春文庫)ばかり読み、昨日でやっと完読したことを書きましたが、その間、浮気して月刊文藝春秋も読んでいました。

 さすがに日本で最も売れている雑誌とあって目の付け所が大衆誘導的です。私も洗脳されて買ってしまいました。ざっと主な記事を読みましたが、どうせ忘れてしまうので、備忘録をー。

・巻頭のノーベル賞学者山中伸弥教授と橋下弁護士(呑み友達らしい)との対談「ウイルス vs 日本人」ー。山中教授の仮説では、日本人は欧米人より感染による死者が少ないことから、日本人には「ファクターX」なるものがあるのではないか。それは、日本人は、マスクや入浴など清潔意識が高く、ハグや握手、大声で話すことが欧米人より少ないこと、そしてBCGワクチンにも相関関係あるかもしれないこと等々…。あくまでも仮説なので、楽観視できませんが。

・奥村康・順天堂大医学部免疫学特任教授の「最後は『集団免疫』しかない」は、刺激的、絶望的な論説ではありましたが、最も説得力がありました。直視しなければならないことは、ウイルスは消えたり無くなったりしないということです。共生するしかない。でも、発症しても軽症で済む人や症状が出ない人も大勢いるので、彼らに免疫ができ、免疫を持つ人が一定の割合を占めた時にウイルスの流行は収束に向かう、という話です。そして、軽症で済ますには、個人の免疫力を高めることが大事で、それには(1)不規則な生活(2)激しい運動(3)精神的ストレスーを避けることが最も肝心だといいます。やはり、一番参考になりました。

・村中璃子医師「WHOはなぜ中国の味方なのか」-WHOのテドロス事務局長が「中国寄り」との批判が多いが、テドロス氏はエジプトの保健相、外務相を経て、WHO事務局長選挙で、中国によるプッシュで当選した人。エチオピアは2019年、国全体の直接投資額の60%も中国に頼っている。だから、テドロスさんは中国寄りになっているーという話。あれ?この話は新聞でも報道されていて皆知っている話。村中医師はWHOで勤務した経験があるらしいので、もっと奥深い裏情報を知りたかったので残念。

・峯村健司・朝日新聞編集委員「CIAと武漢病毒研究所の暗躍」は、米中コロナ戦争の内幕を描いたルポ。でも、何で、朝日新聞を蛇蝎の如く嫌って、機会があれば貶めようとしている文藝春秋が朝日の記者やOB(船橋洋一)を採用するのかしら。文春記者でもこれぐらい書けるはず。もしかして、朝日と文春は、表向き「敵対関係」を装っておきながら、テーブルの下ではちゃっかり握手して相互利益を図っているのかしら?

・芝山幹郎×石井妙子対談「『原節子』生誕100年 映画ベスト10」-。1963年に42歳で引退して本名の會田昌江に戻り、2015年に95歳で亡くなった大女優を振り返っています(52年間も隠遁していたとは!)。この人、テレビも舞台にも出ず、映画一筋の女優だったんですね。原節子といえば、小津安二郎の「東京物語」や「麦秋」が代表作かと思っていました(小津の「晩春」「麦秋」「東京物語」で演じる原節子の役は全て紀子なので「紀子三部作」という)が、戦時下では「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年、山本嘉次郎)、「熱風」(1943年、山本薩夫)など結構出ていたんですね。小生、観ていません。戦後直後の黒澤明の「わが青春に悔なし」(1946年)は観てますが、これはあの京大・滝川事件をモデルにしたものでした。何とタイムリーな(笑)。私は(世界の溝口健二から「成瀬君のシャシンはうまいことはうまいが、キン〇〇が有りませんね」と批判された)成瀬巳喜男のファンですから「めし」(1951年)と「山の音」(1954年)は是非観たい。いつか、神保町に行って、成瀬巳喜男のDVDが売っていたら購入するつもりです。

 ※文中敬称略あり。

小津安二郎監督から話は明治維新150年、ファーウェイ、グラバーにまで飛びます

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 今日は2018年12月12日。映画監督小津安二郎の命日です。60歳ので亡くなっています。随分若くして亡くなられていたんですね。1963年ですから、あれからちょうど55年。いまだに熱心なファンがいて、多くの現役監督にも影響を与えている凄い人です。

 私もその一人で、食通と言われた小津が贔屓にしてよく通っていた東京・上野のとんつかつ屋「蓬莱屋」や、こよなく愛した銀座のやきとり屋「伊勢廣」なんかにわざわざ食しに行ったものでした。

スペイン・トレド

 2018年も早いもので、もう終わってしまいますね。そう言えば、今年は「明治維新150年」の節目の年でしたが、何か、派手な国家行事は行われましたっけ?

 薩長土肥では盛大に挙行され、会津と長岡では反対集会が開かれたかもしれませんが、その他の地方は無関心だったのでは?「何それ?」という若者の声が聞こえてきそうです。

 50年前の1968年は「明治100年」。当時の私は紅顔の美少年でしたが、国家行事として盛大に記念式典が開かれたことをよく覚えています。時代は変わったんでしょうか。現首相は長州藩出身を自負しているのですから、何か不思議です。

スペイン・トレド

 でも、江戸幕府=悪で、明治新政府=善といった単純な二元論や、明治維新を境にすっかり世の中が変わったという説は、さすがに最近は見直されてきたようです。江戸幕府は「鎖国」政策を採っていたとはいえ、オランダ、英国、中国から外国の最新情報は熟知しており、幕末には、西周ら優秀な若者をオランダのライデンなどに留学させています。幕僚だった勝海舟も福沢諭吉も咸臨丸で米国に渡っています。

 最近、日本に開国を迫るペリーとの交渉内容を詳細に記した江戸幕府の議事録である「墨夷応接録」の現代語訳(作品社・2592円)が出版されましたが、「武力に屈して開国した」と流布された表面的な解釈は間違いで、幕府側の全権代表である林復斎の腹の据わった外交交渉の手際の良さが克明に描かれています。明治新政府が揶揄するほど、幕閣は無能ではなく、極めて優秀だったのです。

スペイン・トレド

さて、話は少し飛びますが、先日、中国通信機器大手・華為技術(ファーウェイ)副会長兼最高財務責任者(CFO)の孟晩舟容疑者(46)が逮捕され、昨日保釈が決定した事件のこと。彼女の容疑の一つが、対イラン制裁逃れを図って、HSBC経由の取引を通じて銀行法に違反したのではないかという報道がありました。

 このHSBCという銀行は、本社がロンドンにある世界トップクラスの金融会社であることは知ってましたが、気になってその沿革を調べてみたら、驚いてしまいました。HSBCというのは「香港上海銀行」の頭文字を取ったもので、1865年に英国植民地下の香港で創業。そして、早くも翌66年には日本支店を横浜に開設していたというのです。1866年とは慶応2年です。日本はまだ江戸時代だったんですよ(笑)。金融企業の外資の許認可権は、当然、江戸幕府にあったことでしょうから、世界貿易や金融取引は、明治になって急に始まったわけではないことが分かります。

 ついでながら、坂本竜馬と縁が深く、長崎に邸宅を構えたトーマス・B・グラバー(1838~1911)。この人は不可解な人物ですよね。世界史の教科書にも載っている東インド会社で、今でもホテル業など世界で幅広く展開しているジャーディン・マセソン商社の長崎代理店員として来日したのが1861年ですから、まだ22歳か23歳の若者です。後に武器商人として暗躍しますが、幕末の混乱期の日本にはビジネスチャンスがあったということでしょう。トランプさんのような「タフ・ニゴシエーター」だったことは間違いないんでしょうが、後ろ盾になっていた大英帝国が凄かったということかもしれません。あ、そう言えば、彼はフリーメンソンの会員だったという説がありますね。

「終わらなかった人」映画化 贋作「東京物語り」

大学は出たけれど、定年になって大学に入り直す男を描く壮大な家族劇「終わらなかった人」(「日の入り」連載の外館牧子原作のベストセラー小説が原作)が、巨匠小田安二郎のメガホンで、活動写真が撮られたそうですね。主演は、猫ひろしと黒樹瞳。華族出身の入江たか子が友情出演。6月から有楽町の邦画座を始め、全国一番館でロードショウ公開です。

築地・中村家のランチ弁当850円(京都「宮武」の日替御膳880円に対抗しました)

花の都、東京では、銀座の柳も春風に揺られている今日この頃です。

巷の弐番館ではニュース映画がかかってます。

「満洲某重大事件」のニュースの後、「車は作らない」柳瀬元秘書官が「記憶にございません」と能面のように表情一つ変えない答弁で、能吏ぶりを発揮。「私はあなたと違うんです」福田元事務次官は「全体的に見れば私はやってません。だから血税が原資の5000万円の退職金は返しません」と、高らかに宣言しています。

扨て、銀座の柳通り。

ナウいアヴェックが、モボ、モガスタイルで、ミルクホールで逢引を重ねてます。ジルバを踊って、リキュルをあおり、すっかりいい気分。でも、当時はセブンイレブンがなかった!

ソフト帽を被った彼の名前は白澤明。近くの交詢社内にある時事新報の記者。十五代目羽左衛門に似たハンサムな顔立ち。真っ赤な口紅の彼女の名前は原田節子。今はときめくエレベーターガール。今売り出し中の女優原節子似の美人さんだ。

「なあ、節ちゃん。今度の休みはキネマに行かないか。小田安二郎の『終わらなかった人』がかかるんだよ」

「へえ、題名だけだと、つまんなそうね」

「新朝社の『日の入り』に連載された小説が原作なんだよ。大学は出たけれど、定年になった田代宗助が主人公…」

「何か、余計、つまんなそう。いっそ、小田急で逃げましょか」

「節ちゃん、それじゃまるで、『東京行進曲』じゃないか」

「まあ、明さんもよく流行り唄をご存知のこと。それより、今、霞ヶ関で流行っている『接吻はらはら』とかいう遊び、どんなのか、教えてくださらない?『万朝報』のゴシップ欄に出ていたわ」

「だめだめ、子どもがそんなことに興味を持っちゃだめ。美人薄命だよ」

「なあに、それ!? チョベリバ」

「チョベリバ?」

「卍まんじ」

「節ちゃん、余計、分かんないよ」

「えへへへ、明さんも、天保生まれだから、水滸伝しか知らないんでしょ」

「あに言ってるんだか…」

赤塚公園のニリンソウ自生地

若い二人には明日がある。熱血指導マスターの掛け声で、二人は、銀座・交詢社通りの人を押し分け、搔き分け、夕陽に向かって走っていくのでした。

おしまい

岡田監督を応援します

この度、オシム監督が急に脳梗塞で倒れたため、サッカー日本代表の監督として岡田武史氏が9年ぶりに再登板することになりました。

昨日、日本サッカー協会理事会で正式に承認されましたが、岡田氏の今後の活躍には注目していきたいと思っています。サッカーは肉体で戦うスポーツですが、監督指導者は結局は肉体より、頭を使う。戦術面が最も大事ではありますが、もう少し平たく言うと選手にモチベーションを与える「精神論」が重要なのです。監督として堅固な哲学を持っていなければなりません。岡田氏は、その意味で、かなり、修養を積んできたように見受けられるからです。

面白かったのは、昨日の会見で、岡田氏が、オシム監督が倒れる1週間前にJリーグの3チームから監督就任の要請があったが、断ったというエピソードを明らかにしたことです。当分、講演活動をしながら、環境問題をテーマにボランティア活動していくつもりだった、というのです。また、ここ1年半ほど、サッカーから離れていて、Jリーグの試合もあまり見ていなかったというのです。

岡田氏には、物事を根本から見つめ直してみようという修行僧に近い心因性を持っているようです。

その岡田氏が、「ここ10年で、人間がすっかり変わった」と言っています。私もそれはすごく感じています。

小津安二郎の「東京物語」は、昭和28年の作品ですが、「こんな日本人が普通だったのか?」と思われるほど、言葉遣いも丁寧で、皆、慎み深く、謙虚で、自分の身の丈の範囲で一生懸命に生きる日本人が出てきます。

今は、そういう日本人は消滅したとは言いませんが、かなり少なくなりました。公共マナーも悪いし、自分の権利ばかり主張するクレーマーや、給食費を払わないお金持ちの親もいるし、録に挨拶もできない人間も増えました。世の中、ギスギスしてきたと感じるのは私だけではないでしょう。どうして、こんなになってしまったんでしょうかね?

この10年の劇的変化は、インターネットの影響でしょうか。新聞の読者が減っているだけでなく、テレビの視聴率も下がっています。ニュースはネットから得る若者が増えてきました。ネットを使えば、時空を超えて、「大英博物館」 http://www.britishmuseum.org/#でも「MOMA」 http://www.moma.org/でも「ルーヴル美術館」http://www.louvre.fr/llv/musee/alaune.jsp?bmLocale=ja_JPにでも簡単に「行く」ことができるようになりました。

携帯やパソコンによって、「個」が確立したものだと極解して、自ら神のように振舞う人間が増えてきたからなのしょうか?