追悼 山崎朋子先生

スペイン・コルドバ

私淑していたノンフィクション作家の山崎朋子先生が10月31日に亡くなられていたことが、昨日11月16日付毎日新聞朝刊で知りました。

ショックでしたね。亡くなられて半月も経って毎日新聞だけに訃報が掲載されたことと、当然、逸早く知っていなければならない私自身が、何も知らなかったという二重の面で。

そして、既に葬儀も親族で済まされたということでした。

山崎先生は、3年前に御主人である児童文化研究家の上笙一郎氏に先立たれ、都内で一人暮らしでしたが、入院については、よっぽど親しい人か親類の方ぐらいしか連絡されなかったのでしょう。

私は、山崎先生の御自宅には一度だけ伺ったことがあり、住所も電話番号も知っておりますが、まず電話には出られない。こちらから緊急に連絡を取りたい時は、FAXしかありませんでした。

大抵は山崎先生の方からこちらの携帯に電話を掛けて下さいました。年に数回、間隔が空いても半年に一回は律儀に電話を下さるのでした。その時は、大体、山崎先生が30分ぐらい一方的にお話しされ、「では、今度お会いしましょう」ということで、年に数回、銀座や神楽坂や自由ケ丘などでお会いしていたのです。

そう言えば、ジャーナリストの牧久氏と3人でお会いしたこともありました。

◇1995年以来、23年のお付き合い

私が山崎先生に初めてお会いしたのは1995年6月でした。この年は「戦後50年」で、その特別企画として、各界の著名人にお会いして戦後50年経った感想を聞くといったものでした。

私がインタビューを担当した方は、他に俳優の池部良さん(学徒出陣で、乗船した軍艦が米軍の奇襲で沈没し、数時間、流木に捕まって海上を漂流した壮絶な体験の持ち主)らがおりました。実は、作家部門は宇野千代さんを予定してましたが、御高齢ということで断られたため、山崎先生にお願いしたのでした。もし、あの時、宇野千代さんが承諾して下さっていたら、恐らく、山崎先生とお会いすることはなかったでしょう。

山崎先生の代表作は、からゆきさんの悲話を描いて大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した「サンダカン八番娼館」(筑摩書房)で、熊井啓監督により、田中絹代と栗原小巻主演で映画化もされましたが、私は、桜美林大学を創設したクリスチャンの清水安三の不撓不屈の生涯を描いた評伝「朝陽門外の虹」(岩波書店・2003年)の方をかっています。

これは、戦前の中国・北京郊外にあったスラム街で、少女たちに手に職をつけて自立できるように読み書きと手芸などを教育する学校を日本人である清水が、利他精神で設立しながら、敗戦後は無一文で帰国し、悪戦苦闘の末に東京郊外に今度は大学を創設する話です。

◇虐げられた人の味方

山崎先生のスタンスは処女作以来、常に、虐げられた人や弱者に対する同情と温かい思いやりの念が通奏低音のようにあり、この作品もそうでした。

私も人生で色々とあり、何回か引越しているうちに、どういうわけか、山崎先生と一緒に写った写真や、私が地方新聞などに書いた記事や書評が見当たらなくなってしまいました。

ただ、山崎先生は、文筆家ですから、私とやり取りしたかなりの量のハガキや手紙が辛うじて一部残っておりました。中身については、かなりプライベートなことが含まれているので茲では書けませんが、私の問題だけでなく、山崎先生の問題に私の方から助言するといった事案もありました。

もうあの特徴がある筆跡の手紙を頂くことができなくなると思うと哀しくなります。

この《渓流斎日乗》でも数回、山崎朋子先生のことを書いてありますので、一番下の「関連欄」を参照されるか、検索されれば出てくると思います。

◇最後に「先生」と呼ばさせて頂きます

実は、山崎先生は、「先生」と呼ばれることを嫌がってました。いや、それ以上に嫌ってました。「私はそんな偉くありませんから、『山崎さん』にして下さい」と釘を刺されました。

でも、彼女は戦後すぐの数年間、代用教員をしていた経験があり、教え子たちとの同窓会をいつも楽しみにして参加しているという話を何度も聞いてましたから、教え子さんたちからは「先生」と呼ばれていたはずです。

私の筆名の「朋之介」は、山崎朋子先生から一字拝借したもので、山崎先生も「あ、そんなことされるんですか」と一応認めて下さったのでした。

◇さようなら

若い時に大変な苦労をされた山崎先生は、私と会う時は、いつもお元気で、長い足の私と同じくらいの速足で、いつまでも少女のような可愛らしい声だったので、年相応には見えませんでした。

お別れする時に、いつもきちんと言っていた「さようなら」という少女のような声が今でも私の耳の奥に残っています。

でも、本当に「さようなら」になってしまったんですか。やっぱり悲しいですね。何で、山崎先生は、私のような凡人をいつも気に掛けて下さり、お声まで掛けて下さったのか今でも不思議です。

今は、掛け替えのない人を失ってしまった悲しみに打ちひしがれております。

山崎朋子さんとの久しぶりの会食

銀座「和らん」

昨晩、ノンフィクション作家の山崎朋子さんと東京・銀座の夜は敷居がチト高い日本料理店「和らん」で久しぶりに懇談しました。以前は年に数回お会いしておりましたが、小生、2年前に黄泉の国に散歩に行っている間、音信不通となってしまいました。

それが一昨日、急に、3年ぶりに電話がかかってきまして、その翌日、私の勤務する会社近くの歯医者さんに行く用事があるのでお会いしましょう、ということになって、急きょ再会したわけです。

銀座「和らん」

特段の急用はなかったのですが、2年前の2015年1月に山崎さんのご主人である児童文化研究家の上笙一郎さんが急逝されたことで、改めて面と向かってお悔やみのお言葉を述べておきました。

思い起こせばもう四半世紀近いお付き合いで、小生が初めて山崎さんとお会いしたのはまだ30歳代の頃でしたから、月日の経つのは誠に早いものです。

ニューヨークにお住まいのお嬢様のことなど、お互いのちょっとプライベートなことまでお伺いしたり応えたりしたので、茲ではちょっと書けませんなあ(笑)。

銀座「和らん」

山崎朋子先生の代表作は「サンダカン八番娼館」ですが、1974年に熊井啓監督によって映画化されました。元からゆきさん役が田中絹江、山崎さん役が栗原小巻でしたが、元からゆきさん役に、杉村春子の師であった新劇女優の田村秋子が、役を志願していたという隠れたエピソードを聞きました。

また、山崎さん役も栗原小巻ではなく、若くして急逝した太地喜和子も候補に挙がっていたという逸話も聞いてしまいました。

山崎さんは、世代的に携帯のスマホどころか、パソコンもしないので、「ネットのことは何も知らない」と仰っておりました。そこで小生が「山崎さんは有名人ですから、色んなこと書かれてますよ。写真もたくさん掲載されてます」とご教授したところ、「でも、本人が了解していないのに、そんなことしていいのかしら…」と困惑顔でした。

確かに、写真の肖像権、著作権などがありますから、どうなってるんでしょうかね?

山崎朋子さんは美人ですから、若い頃、女優やモデルもやっていて、その頃のポートレート写真がありますが、撮影者が何と、木村伊兵衛さんだったという、これまた知られざる逸話に驚いてしまいました。

山崎朋子「サンダカンまで」

ローマ

公開日時: 2007年4月1日 @ 09:38

山崎朋子著「サンダカンまで」(朝日新聞社)をやっと読了しました。何とも凄まじい、波乱万丈の半生でした。

偶然にも著者とは謦咳を接する機会に恵まれ、これまで、何度もご本人から直接肉声で伺ったり、何冊かのエッセイを読んでいたので、ある程度の身の上話については、知っているつもりだったのですが、ここまで壮絶だったとは知りませんでした。色々と断片を耳にしていたものですから、今回読了して、細かい断片が継ぎ合わされてジグゾーパズルが完成したような感覚になりました。

例えば、戦時中に潜水艦長だったご尊父が事故で亡くなった話は何度か聞いていましたが、当時は超軍事機密だったため、情報は隠匿されていました。潜水艦が遭難した場所について、海軍省は「東京湾南方海面」としか発表していませんでしたが、後年、著者の調査で、その遭難地点がマリアナ群島東の海域、つまり太平洋のどまん中だったということが分かるのです。この極秘の軍事訓練は「昭和十五年海軍特別大演習」と呼ばれ、推測するに、翌昭和十六年の真珠湾攻撃のための軍事演習だったということが分かるのです。

ご母堂と妹さんとの確執については、何度も聞かされていましたが、広島に原爆が投下されるわずか2ヶ月前に「近いうちに、この広島も軍都だから爆撃されるに違いない。おまえたちをアメリカの飛行機の爆撃で亡くしたりしたら、お父さんに申し訳けがたたないから」という母親の判断で、母親の実家の福井県大野町に疎開したという話をこの本で初めて知りました。山崎さんが通っていた県立広島第二高等女学校の同級生は、ほとんど原爆で亡くなってしまうわけですから、まさに九死に一生を得たわけです。ご母堂の判断がなければ…。

山崎さんが26歳のとき、「顔を切られる」事件に遭遇したことは、当時、小学校の教師を辞めて、喫茶店でウエイトレスやモデルのアルバイトをしながら女優志望だった彼女の人生を大幅に変更せざるをえないきっかけとなり、後の高名な女性史研究家、ノンフィクション作家誕生につながるわけですから、第一部から詳述されています。事件後、何十年たってもトラウマに悩まされたことも正直に告白しています。

最初に結婚した東大大学院生の金光澤氏のことについては、朝鮮半島出身ゆえ、露骨な差別で就職活動もままならなかったこと、その後の悲しい別離の話や欧州に渡って行方不明になった話などは、何かことあるごとに聞いていました。彼と知り合ったきっかけが、山崎さんが当時、女優志望で、スタニスラフスキー理論を本格的に勉強したいがために、ロシア語を学ぼうとして、個人教授としてお願いしたことだったということも初めて知りました。もちろん、現在のご主人の上笙一郎氏との出会いもかなりのページを割いています。

自分のことはなかなか客観的に描写できないものですが、ノンフィクション作家として、あからさまに自己の半生を冷徹に記録したことは、偉業に近いと言ってもいいでしょう。感動の渦に巻き込まれました。

とはいえ、本に出てくる山崎さんと私が直接見た山崎さんとは多少の乖離があります。私が見た山崎さんは、女々しいところが一切なく、とても、せっかちで、思ったことは、考える前に、すぐ行動を起こしてしまう人です。自分に大変厳しい人なので、その分…。あ、これ以上はもう書けません。破門されてしまいます。

山崎朋子さん

かんの温泉

今晩は、ノンフィクション作家の山崎朋子さんと銀座でお会いしました。山崎さんから先週「お渡ししたいものがあるのですが…」という電話を受け、ジョンとヨーコが雲隠れした例の喫茶店「樹の花」で待ち合わせしたのです。

「お渡ししたいもの」とは何だと思いますか?

秘密にしたいので、コメントを戴いた方にだけお教えしましょう。

山崎さんとは、本当に色んな話をしました。座を代えてすぐ近くの穴場の居酒屋「中ぜん」で4時間くらい粘ってしまいました。山崎さんはお酒は召し上がらない人なのに、私が一人でパカパカ飲んでいるものですから、ほんの少しだけ付き合ってくださいました。

山崎さんはもちろん、パソコンもしませんし、携帯も持っていません。ブログも知らないかもしれません。だから、好き勝手に書こうと思えば書けるのですが、そこまでしようとは思いません。

三国連太郎さんのこと、田中絹代さんのこと、栗原小巻さんのこと等色々お伺いしましたが、書けないこともたくさんあります。

書けることは、今度、山崎さんの代表作の「サンダカン八番娼館」が、カンボジア語に翻訳される話があるが、今許諾しようか、しまいか迷っているという話です。

山崎さんは、本当に好奇心の塊みたいな人です。これだけ有名な方ですから、皆さんも簡単に彼女の実年齢を調べることができるでしょうが、まだまだ少女のあどけなさが残る純真な人です。これだけ、世間に揉まれながら純真さを失わないのは人類史上稀有なことだと思います。

何か奥歯にモノが挟まったようなモノ言いで恐縮ですが、彼女は作家でありながら、ゼネラルプロデューサー、つまり仕掛け人でもあるのですが、その自覚がほとんどありません。行き当たりバッタリ、という言い方は失礼なのですが、ぶつかった対象相手にトコトンぶつかって、それが、文学作品になろうがなるまいが関係ない。ですから、メモも取らず、テープにも録音しないそうです。全く作為がないのです。

「私の名前は朋子ですから、一度、お友達になった方は、相手が嫌で離れるまでずっとお付き合いします」

なかなかの人です。

彼女に興味を持った方は、彼女の「サンダカンまでー私の生きた道」(朝日新聞社)

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4022576782/503-8476322-6834359?v=glance&n=465392

をご参照ください。