尾張町交差点は情報発信の拠点だった=明治の銀座「新聞街」めぐり(3)

 明治の銀座の「新聞街」散策は、今回が第3弾となります。

 例によって、江戸東京博物館(東京・両国)に展示されているパネル「東京で刊行された主な新聞」を手掛かりに歩いてみました。

銀座5丁目 「ソノコ・カフェ」などが入居する銀座幸ビル=㉔絵入自由新聞(1882年9月~1890年11月)

 銀座といえば、何と言っても、その中心は銀座4丁目です。そこに建つセイコー服部時計店は銀座のシンボルになっています。そこで、今回はその銀座4丁目周辺で明治に創刊された新聞社を巡ってみました。

  まずは、銀座5丁目にある「ソノコ・カフェ」などが入居する銀座幸ビル 。「白い美顔」の美容研究家として一時期、一世を風靡した鈴木その子さんが所有されていたビルかどうかは分かりませんけど(笑)、彼女が2000年に68歳の若さで亡くなるまでここに美容教室?があったことを覚えています。今でもカフェがあるので、いまだに関係があるかもしれません。

 ここは、明治時代、 ㉔絵入自由新聞(1882年9月~1890年11月) があったようです。自由党は、政党機関紙として「自由新聞」を創刊しますが、大衆向けに自由民権の思想を普及するため創刊したのがこの「絵入自由新聞」です。黒岩涙香の探偵小説などで人気を集めましたが、自由党の解党後、1892年 、黒岩が創刊した「万朝報」に吸収されます。

銀座5丁目 日産ショールーム ㉜毎日新聞(1886年5月~1906年7月)

  「ソノコ・カフェ」 から晴海通りをワンブロック北上するともう銀座4丁目の交差点です。

 その銀座5丁目の角に建つのが「銀座プレイス」ビルです。地下に銀座ライオン、1階に 日産自動車、 3階にソニーの各ショールームなどが入っています。

 ここに明治時代、 ㉜毎日新聞(1886年5月~1906年7月) があったということです。沼間守一社長の⑭東京横浜毎日新聞が、 1886年5月 に紙名を「毎日新聞」と改題してここに移って来たと思われます。この ⑭東京横浜毎日新聞 については、前回の「東京横浜毎日新聞社は高級ブランドショップに」で詳しく触れましたので、今回繰り返しませんが、現在の毎日新聞とは関係ありません。

銀座4丁目 三越 ④東京曙新聞(1875年3月~1882年3月)、⑳東洋新報(1882年3月~1882年12月)、㉘絵入朝野新聞(1882年11月~1889年5月)

 「銀座プレイス」を京橋方向に向かって銀座4丁目の交差点を渡ると「銀座三越店」が聳え立っています。 ここは、立地条件が良いのか、④東京曙新聞(1875年3月~1882年3月)、⑳東洋新報(1882年3月~1882年12月)、㉘絵入朝野新聞(1882年11月~1889年5月) が社屋を構えました。

 と思ったら、東洋新報は、東京曙新聞が廃刊されたので、紙名を改題して継続発行されたものでした。一方、絵入朝野新聞は、次に出てくる、真向かいの服部時計店にあった「朝野新聞」が一時期、経営していたようです。

 いずれにせよ、 東京曙新聞 には末広鉄腸、大井憲太郎らが在社し、民権論、征韓論を鼓吹した明治の重要新聞であることは確かです。

銀座4丁目 服部時計店 ②朝野新聞(1874年9月~1894年12月)

 やっと、三越前の銀座4丁目交差点(地元の人は「尾張町交差点」とよく言っていて、最初は道を聞いてもよく分かりませんでした)を渡ると、銀座のシンボル、服部時計店がやっと登場します。1932年(昭和7年)に竣工されたということで、篠田正浩監督の映画「スパイ・ゾルゲ」でも効果的に使われていました。戦前のビルはもう銀座ではあまり残っていませんからね。

明治 銀座4丁目の「朝野新聞」本社(江戸東京博物館)

 ここには、 ②朝野新聞(1874年9月~1894年12月) があったことは、以前、このブログで何度も触れましたので、《渓流斎日乗》の御愛読者の皆様なら御存知のことでしょう。

 幕臣出身、しかも将軍直々への侍講職も務めた成島柳北が社長、主筆でしたが、反政府的論調のため、1875年6月の新聞紙条例で逮捕され、禁固刑となります。片や、先程登場した東京曙新聞の末広鉄腸は、讒謗律などのお陰で政府寄りの論調になった曙新聞の社主に抗議して、 同社を退職し、同年10月に朝野新聞に入社しています。( 末広鉄腸は、後に朝野新聞の主筆となりますが、成島柳北と同じように筆禍事件で投獄されます。)

 曙新聞を退社した末広鉄腸にとって、朝野新聞は、目の前ですから、今で言えば、三越を退社して、目の前の服部時計店まで、横断歩道を渡って入社したことになりますか。いや、まさか(笑)。

 いずれにせよ、明治時代、尾張町交差点付近は情報発信の拠点だったことが分かります。

銀座4丁目 浜一・和光ビル=⑨新聞集誌(1877年10月~1878年12月)、㉙自由燈(1884年5月~1886年1月)

 この服部時計店の裏手にある銀座4丁目の浜一・和光ビル には ⑨新聞集誌(1877年10月~1878年12月)と㉙自由燈(1884年5月~1886年1月) があったようです。

  新聞集誌はまだ調査中でよく分かりませんが、自由燈 は、星亨が創刊した自由党の機関紙でした。

銀座4丁目 GAP ㉒日の出新聞(1882年4月~1883年2月)

 晴海通りを北上して、数寄屋橋に近い所に建つ衣料品店GAPが入居しているビルに、㉒日の出新聞(1882年4月~1883年2月) がありました。

 明治15年4月1日に旭光社が創刊した日刊紙で、1年も持ちませんでしたが、詳細についてはこれまた調査中です。

 皆様の方が詳しいと思いますので、何か情報がありましたら、ご提供賜れれば幸甚で御座います。

「大江戸の華」展のために欧米から甲冑が里帰り=江戸東京博物館

 月刊誌「歴史人」の読者プレゼントで、東京・両国の「江戸東京博物館」の入場券が当選してしまったので、昨日の日曜日に行って来ました。

 日曜日なので、混雑を覚悟しましたが、緊急事態宣言下で、早めの午前中に出掛けたせいか、結構空いていました。あまり期待していなかったのに、とても良かった。江戸東京博物館に行ったのは久しぶりでしたが、すっかりファンになってしまいました。

色々威胴丸具足(1613/贈) 英王立武具博物館蔵 

 特別展「大江戸の華」は、チラシでも取り上げられていましたが、やはり、欧米に渡り、この展覧会のために一時里帰りした武具が最高でした。

 上の写真の鎧、兜は、徳川家康・秀忠が1613年頃に、大英帝国との親善のために、国王ジェームズ1世に贈られたものです。もう400年も昔なのに、全然古びていないのが感動的です。恐らく、一度も着用されていない「装飾」用かもしれませんが、それにしても、凄い。(大事に扱って頂き、英国人さん有難う)特別展では他に、刀剣も展示されていましたが、私は圧倒的にこれら鎧兜を食い入るように観ました。

金小札変り袖紺糸妻江威丸胴具足(江戸・紀伊徳川家)米ミネアポリス美術館蔵

 こちらは、紀伊徳川家伝来の具足でしたが、現在は米ミネアポリス美術館所蔵になっています。「エセル・モリソン・ヴァン・ダーリップ基金」との説明がありますから、恐らく、明治に売りに出されていたものを購入したのでしょう。基金ですから、当時も相当高価だったことでしょう。まあ、武具は、戦国武将、大名の財力と権力を見せつける面もあったことでしょうね。

金小札変り袖紺糸妻江威丸胴具足(江戸・紀伊徳川家)米ミネアポリス美術館蔵

 この武具の兜をよく見ると、載っかっているのは、何と、カマキリじゃありませんか!

 いくらカマキリは強いといっても(特に雌が怖い!)、昆虫ですからね。江戸時代ですから、元和偃武(げんなえんぶ)となり、もう戦場で戦うというより、恰好良さや装飾性を追求したからだと思われます。

日本橋(江戸東京博物館)

 特別展「大江戸の華」は、30分ほどで見て回ってしまったので、6階の常設展示室に足を運ぶことにしました。

 そしたら、面白いったらありゃしない。江戸時代から明治、大正、昭和、平成の江戸と東京の風俗、文化、歴史が立体的に展示されていて、すっかり、ハマってしまいました。

 大変広いスペースだったので、全部観るのに2時間以上かかってしまいました。

江戸の寿司屋台(江戸東京博物館)

 この寿司の屋台は、江戸時代をそのまま再現したようですが、寿司の大きさにびっくり仰天です。写真じゃ分かりませんが、現在の1貫の1・5倍か2倍近い大きさです。これでは、寿司ではなく、「おむすび」ですよ(笑)。5貫も食べればお腹いっぱいになりそうです。

江戸の本屋さん(江戸東京博物館)

 こういう所に踏み込むとタイムスリップした感じがします。

 江戸時代なんて、本当につい最近だと感じます。

「助六由縁江戸桜」の助六(江戸東京博物館)

 江戸東京博物館は、リピーターになりそうですね。外国人観光客を一番に連れて行きたい所です。

 でも、このブログでは一言では説明できませんし、あまりにもジャンルが広いのでご紹介できません。

「助六由縁江戸桜」の揚巻(左)と意休(江戸東京博物館)

 最近あまり行ってませんが、歌舞伎が好きなので、中村座の芝居小屋の模型には感服しました。客席は、枡形の中に4~5人が入るようになっていて、今でも江戸時代の雰囲気を色濃く残す四国のこんぴら歌舞伎の金丸座(香川県琴平町)を思い出しました。

明治・銀座4丁目の朝野新聞(江戸東京博物館)

江戸東京博物館は、幕末を経て、明治、大正、昭和、平成までの「東京」が展示されています。(勿論、関東大震災や、米軍による東京大空襲といった災害も)

 成島柳北が社長と主筆を務めた朝野新聞社の実物大に近い大きさの模型を見た時は、感涙しました。現在、銀座4丁目の交差点にあるセイコー服部時計店の所には、明治の文明開化の時期にはこんな建物があったのです。

 感動せざるを得ませんよ。

 私は勉強家ですから(笑)、以前にこの博物館を訪れた時よりも、遥かに知識が増えているので、一を見ると十のことが理解できるようになりました。やはり、「知識は力なり」です。

菅原道真は善人ではなかったのか?=歴史に学ぶ

  「努力しないで出世する方法」「10万円から3億円に増やす超簡単投資術」「誰それの金言 箴言 」ー。世の中には、成功物語で溢れかえっています。しかし、残念ながら、ヒトは、他人の成功譚から自分自身の成功や教訓を引き出すことは至難の技です。結局、ヒトは、他人の失敗や挫折からしか、学ぶことができないのです。

 歴史も同じです。大抵の歴史は、勝者側から描かれるので、敗者の「言い分」は闇の中に消えてしまいます。だからこそ、歴史から学ぶには、敗者の敗因を分析して、その轍を踏まないようにすることこそが、為政者だけでなく、一般庶民にも言えることだと思います。

 そんな折、「歴史人」(ABCアーク)9月号が「おとなの歴史学び直し企画 70人の英雄に学ぶ『失敗』と『教訓』 『しくじり』の日本史」を特集してくれています。「えっ?また、『歴史人』ですか?」なんて言わないでくださいね。これこそ、実に面白くて為になる教訓本なのです。別に「歴史人」から宣伝費をもらっているわけではありませんが(笑)、お勧めです。

 特に、10ページでは、「歪められた 消された敗者の『史料』を読み解く」と題して、歴史学者の渡邊大門氏が、史料とは何か、解説してくれています。大別すると、史料には、古文書や日記などの「一次史料」と、後世になって編纂された家譜、軍記物語などの「二次史料」があります。確かに一次史料の方が価値が高いとはいえ、写しの場合、何かの意図で創作されたり、嘘が書かれたりして鵜呑みにできないことがあるといいます。

 二次史料には「正史」と「稗史(はいし)」があり、正史には、「日本書紀」「続日本紀」など奈良・平安時代に編纂された6種の勅撰国史書があり、鎌倉幕府には「吾妻鏡」(作者不明)、室町幕府には「後鑑(のちかがみ」、江戸幕府には「徳川実記」があります。ちなみに、この「徳川実記」を執筆したのは、あの維新後に幕臣から操觚之士(そうこのし=ジャーナリスト)に転じた成島柳北の祖父成島司直(もとなお)です。また、「後鑑」を執筆したのが、成島柳北の父である成島良譲(りょうじょう、稼堂)です。江戸幕府将軍お抱えの奥儒者だった成島家、恐るべしです。成島司直は、天保12年(1841年)、その功績を賞せられて「御広敷御用人格五百石」に叙せられています。これで、ますます、私自身は、成島柳北研究には力が入ります。

 一方、稗史とは、もともと中国で稗官が民間から集めた記録などでまとめた歴史書のことです。虚実入り交じり、玉石混交です。概して、勝者は自らの正当性を誇示し、敗者を貶めがちで、その逆に、敗者側が残した二次史料には、勝者の不当を訴えるとともに、汚名返上、名誉挽回を期そうとします。

 これらは、過去に起きた歴史だけではなく、現在進行形で起きている、例えば、シリア、ソマリア、イエメン内戦、中国共産党政権によるウイグル、チベット、香港支配、ミャンマー・クーデター、アフガニスタンでのタリバン政権樹立などにも言えるでしょう。善悪や正義の論理ではなく、勝ち負けの論理ということです。

 さて、まだ、全部読んではいませんが、前半で面白かったのは、菅原道真です。我々が教えられてきたのは、道真は右大臣にまで上り詰めたのに、政敵である左大臣の藤原時平によって、「醍醐天皇を廃して斉世(ときよ)親王を皇位に就けようと諮っている」などと根も葉もない讒言(ざんげん)によって、大宰府に左遷され、京に戻れることなく、その地で没し、いつしか怨霊となり、京で天変地異や疫病が流行ることになった。そこで、道真を祀る天満宮がつくられ、「学問の神様」として多くの民衆の信仰を集めた…といったものです。

 ところが、実際の菅原道真さんという人は、「文章(もんじょう)博士」という本来なら学者の役職ながら、かなり政治的野心が満々の人だったらしく、娘衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、さらに、娘寧子(ねいし)を、宇多天皇の第三皇子である斉世親王に嫁がせるなどして、天皇の外戚として地位を獲得しようとした形跡があるというのです。

 となると、確かに権力闘争の一環だったとはいえ、藤原時平の「讒言」は全く根拠のない暴言ではなかったのかもしれません。宇多上皇から譲位された醍醐天皇も内心穏やかではなかったはずです。菅原道真が宇多上皇に進言して、道真の娘婿に当たる斉世親王を皇太子にし、そのうち、醍醐天皇自身の地位が危ぶまれると思ったのかもしれません。

 つまり、「醍醐天皇と藤原時平」対「宇多上皇と菅原道真と斉世親王」との権力闘争という構図です。

後世に描かれる藤原時平は、人形浄瑠璃や歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」などに描かれるように憎々しい悪党の策略家で「赤っ面」です。まあ、歌舞伎などの創作は特に勧善懲悪で描かれていますから、しょうがないのですが、藤原時平は、一方的に悪人だったという認識は改めなければいけませんね。

 既に「藤原時平=悪人」「菅原道真=善人、学問の神様」という図式が脳内に刷り込まれてしまっていて、その認識を改めるのは大変です。だからこそ、固定概念に固まっていてはいけません。何歳になっても歴史は学び直さなければいけない、と私は特に思っています。

「天地間無用の人」の幕臣時代=成島柳北

 「われ歴世鴻恩を受けし主君に、骸骨を乞ひ、病懶(びょうらん)の極、真に天地間無用の人となれり。故に世間有用の事を為すを好まず」

 成島柳北(なるしま・りゅうほく=1837~1884年)の「濹上隠士伝」の有名な一節です。「天地間無用の人」とはあまりにも激烈な言葉です。幕末、第十三代将軍徳川家茂、十四代家茂に直に四書五経等を講じる「侍講」という重職に就く幕臣だった成島柳北は、維新後、和泉橋通りの屋敷からも逐われ、隠居の身となります。まだ朝野新聞社長として活躍する前の話です。(ちなみに朝野新聞社は、東京・銀座4丁目、今、服部時計店「和光」が建っているところにありました。)

 明治の反骨ジャーナリスト成島柳北について、今では知る人も少ないでしょう。彼の次兄(大目付森泰次郎)の孫が俳優の森繁久弥だということぐらいなら御存知かもしれません。私は、彼の幕臣時代の活動について、全く知らなかったのですが、古書店で手に入れた前田愛著「成島柳北」(朝日新聞社、1976年6月15日初版)でその概要を知ることができました。この本、漢文をそのまんま引用だけしている箇所があまりにも多いので、意味を解釈するのが困難で、難しいったらありゃしない(笑)。私も1970年代の大学生ではありましたが、当時、そんな漢籍の素養があった学生は多くはいなかったと記憶しています。訳文がないので、この本はスラスラ読めません。

中津藩中屋敷跡に建つ立教学院発祥地の碑

 でも読み進めていくうちに漢文の文語体は何とも言えない快楽になり、まさに江戸時代の日本人と会話している気分にさせてくれます。意味が分からなければ、漢和辞典で調べればいいだけの話でした。

 「天地間無用の人」は成島柳北が発明した言葉だと思っていたのですが、どうやら先人の寺門静軒(1796~1868年)が「江戸繁盛記」の冒頭で書いて自称した「無用之人」を踏襲したようです。寺門静軒は水戸藩士の庶子として生まれたため、結局、水戸藩に仕官できず、自らを「無用之人」と称して、儒学者として生涯を過ごした人です。代表作「江戸繁盛記」は評判を呼びますが、天保の改革で悪名高い鳥居耀蔵によって「風紀を乱す」との理由で、絶版にさせられ、寺門静軒自身も江戸市中から追放処分を受けます。

 時は幕末。浅薄な尊王攘夷思想にかぶれた勤王の志士たちが血生臭い闘争に明け暮れていたイメージが強かったでのすが、成島柳北ら文人墨客グループは、隅田川に舟を泛べて漢詩を詠い、楼閣に登って芸妓と戯れます(「柳橋新誌」)。そんなヤワなことをしているから、佐幕派は薩長の田舎侍に敗れたのだ、とだけは言われたくないですねえ(笑)。漢籍と芸事は武士の嗜みであり、江戸文化の華でもありました。そんな文人成島柳北も、小栗上野介(1827~68年)や栗本鋤雲(1822~97年)を中心に幕府が導入したフランス式軍隊の騎兵頭に指名されたりします。

東京・築地

 その前に、成島柳北が属した文人墨客サロンの中心人物は、代々将軍の侍医を務める桂川甫周でした。桂川甫周といえば、前野良沢、杉田玄白による「解体新書」の翻訳作業に従事した蘭方医として有名ですが、あれは18世紀後半の明和の時代ですから合わない…。こちらは四代目(1751~1809年)でした。成島柳北の友人の同姓同名の方は、七代目(1826~1881年)でした。七代目甫周も蘭学者でもあったので、江戸時代最大のオランダ語辞書「和蘭字彙」を完成させます。ちなみに、安政年間になると蘭学に代わって英学が台頭し、洋書調所から「英和対訳袖珍辞書」が文久2年に出版されますが、この辞典の訳語の60%が「和蘭字彙」からの借用だったといいます。

 漢詩人大沼枕山(1818~91年)を通して、漢学者大槻磐渓(1801~78年)、書家中沢雪城(1810~66年)、儒者春田九皐(はるた・きゅうこう、1812~62年、浜松藩士)、儒学者鷲津毅堂(1825~82年、永井荷風の外祖父)らと交遊を持っていた成島柳北は、11歳年長の桂川甫周のサロンで、語学の天才柳河春三(やながわ・しゅんさん、1832~70年、尾張藩出身の洋学者)や神田孝平(1830~98年、洋学者、長野県令)、宇都宮三郎(1834~1902年、尾張藩士、洋学者、化学者)らと知り合うことになります。もう一人、忘れてはならないのは福沢諭吉で、彼が咸臨丸の遣米使節に参加できたのは、桂川甫周の推薦だったといいます。

 もっとも、福沢諭吉の方は、舟遊びや芸妓に傾倒する成島柳北らとは一線を画していたようで、桂川甫周の次女、今泉みねは明治になって80歳を過ぎて、「福沢さんは、どうも遊び仲間とはちがふように私の頭に残っています。始終ふところは本でいっぱいにふくらんでいました」と回想しています。(「名ごりの夢」)

 さすが福沢諭吉、緒方洪庵の大坂適塾の塾頭を務めたぐらいですから、かなりの勉強家だったのですね。その福沢諭吉が幕末に大坂から江戸に出て、最初に行ったのが、中津藩上屋敷。何と今の銀座にあったのですね。汐留に近い今の銀座8丁目14~21辺りで、鰻の竹葉亭本店や近く取り壊されると言われる中銀カプセルタワービルなどがあります。何か碑でもあるかと私も歩き回って探しましたが、見つけられませんでした。

中津藩江戸中屋敷

 でも、上屋敷に着いた福沢諭吉は「中屋敷に行くように」と指示されます。中津藩の中屋敷は今の築地の聖路加国際病院がすっぽり入ってしまう広大な屋敷で、福沢諭吉はここで、最初は蘭学の塾を開きます。それが、横浜に行って異人と会話してもオランダ語がさっぱり通じないことから、英語の勉学に変えていくのです。勿論、ここが慶応義塾の発祥地となります。ここから桂川甫周の屋敷と近かったため、福沢諭吉は、本を借りるためなどで桂川邸を行き来していたわけです。

中津藩中屋敷跡に建つ立教女学院発祥地の碑

 明治から昭和にかけて活躍した作家の永井荷風(1879~1959年)は、外祖父鷲津毅堂も交際していた成島柳北(の死後)に私淑し、「柳北先史の柳橋新誌につきて」などの作品を発表し、柳北若き頃の日記「硯北日録」などを注釈復刻しようとしたりしました。荷風ほど江戸の戯作文学に憧憬の念を持った人はいないぐらいですから、江戸文学の血脈は、寺門静軒~成島柳北~永井荷風と受け継がれている気がしました。

「東京人」が「明治を支えた幕臣・賊軍人士たち」を特集してます

今年は「明治150年」。今秋、安倍晋三首相は、盛大な記念式典を行う予定のようですが、反骨精神の小生としましては、「いかがなものか」と冷ややかな目で見ております。

逆賊、賊軍と罵られた会津や親藩の立場はどうなのか?

そういえば、安倍首相のご先祖は、勝った官軍長州藩出身。今から50年前の「明治100年」記念式典を主催した佐藤栄作首相も長州出身。単なる偶然と思いたいところですが、明治維新からわずか150年。いまだに「薩長史観」が跋扈していることは否定できないでしょう。

薩長史観曰く、江戸幕府は無能で無知だった。碌な人材がいなかった。徳川政権が世の中を悪くした。身分制度の封建主義と差別主義で民百姓に圧政を強いた…等々。

確かにそういった面はなきにしもあらずでしょう。

しかし、江戸時代を「悪の権化」のように全面否定することは間違っています。

それでは、うまく、薩長史観にのせられたことになりまする。

そんな折、月刊誌「東京人」(都市出版)2月号が「明治を支えた幕臣・賊軍人士たち」を特集しているので、むさぼるように読んでいます(笑)。

表紙の写真に登場している渋沢栄一、福沢諭吉、勝海舟、後藤新平、高橋是清、由利公正らはいずれも、薩長以外の幕臣・賊軍に所属した藩の出身者で、彼らがいなければ、新政府といえども何もできなかったはず。何が藩閥政治ですか。

特集の中の座談会「明治政府も偉かったけど、幕府も捨てたものではない」はタイトルが素晴らしく良いのに、内容に見合ったものがないのが残念。出席者の顔ぶれがそうさせたのか?

しかし、明治で活躍した賊軍人士を「政治家・官僚」「経済・実業」「ジャーナリズム」「思想・学問」と分かりやすく分類してくれているので、実に面白く、「へーそうだったのかあ」という史実を教えてくれます。

三菱の岩崎は土佐藩出身なので、財閥はみんな新政府から優遇されていたと思っておりましたが、江戸時代から続く住友も古河も三井も結構、新政府のご機嫌を損ねないようかなり苦労したようですね。三井物産と今の日本経済新聞の元(中外商業新報)をつくった益田孝は佐渡藩(天領)出身。

生涯で500社以上の株式会社を起業したと言われる渋沢栄一は武蔵国岡部藩出身。どういうわけか、後に最後の将軍となる一橋慶喜に取り立てられて、幕臣になります。この人、確か関係した女性の数や子どもの数も半端でなく、スケールの大きさでは金田一、じゃなかった近代一じゃないでしょうか。

色んな人を全て取り上げられないのが残念ですが、例えば、ハヤシライスの語源になったという説が有力な早矢仕有的は美濃国岩村藩出身。洋書や文具や衣服などの舶来品を扱う商社「丸善」を創業した人として有名ですが、横浜正金銀行(東京銀行から今の三菱東京UFJ銀行)の設立者の一人だったとは知りませんでしたね。

日本橋の「西川」(今の西川ふとん)は、初代西川仁右衛門が元和元年(1615年)に、畳表や蚊帳を商う支店として開業します。江戸は城や武家屋敷が普請の真っ最中だったため、大繁盛したとか。本店は、近江八幡です。いわゆるひとつの近江商人ですね。

田中吉政のこと

話は全く勝手に飛びまくりますが(笑)、近江八幡の城下町を初めて築いたのは、豊臣秀吉の甥で後に関白になる豊臣秀次です。

秀吉は当初、秀次を跡継ぎにする予定でしたが、淀君が秀頼を産んだため、秀次は疎まれて、不実の罪を被せられ高野山で切腹を命じられます。

まあ、それは後の話として、実際に近江八幡の城下町建設を任されたのが、豊臣秀次の一番の宿老と言われた田中吉政でした。八幡城主秀次は、京都聚楽第にいることが多かったためです。

田中吉政は、近江長浜の出身で、もともとは、浅井長政の重臣宮部継潤(けいじゅん)の家臣でした。しかし、宮部が秀吉によって、浅井の小谷城攻略のために寝返らせられたため、それで、田中吉政も秀吉の家臣となり、秀次の一番の家臣になるわけです。

それが、「秀次事件」で、秀次が切腹させられてからは、田中吉政は、天下人秀吉に反感を持つようになり、秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、徳川家康方につくわけですね。山内一豊蜂須賀小六といった秀吉子飼いの同郷の家臣たちも秀次派だったために秀吉から離れていきます。

 田中吉政は、関ヶ原では東軍側について、最後は、逃げ落ち延びようとする西軍大将の石田三成を捕縛する大功績を挙げて、家康から久留米32万石を与えられます。
 そうなのです。私の先祖は久留米藩出身なので、個人的に大変、田中吉政に興味があったのですが、近江出身で、近江八幡の城下町をつくった人だったことを最近知り驚いてしまったわけです。
 明治に活躍したジャーナリストの成島柳北(幕臣)らのことも書こうとしたのに、話が別方向に行ってしましました(笑)。
 また、次回書きますか。