明治の銀座の「新聞街」散策は、今回が第3弾となります。
例によって、江戸東京博物館(東京・両国)に展示されているパネル「東京で刊行された主な新聞」を手掛かりに歩いてみました。
銀座といえば、何と言っても、その中心は銀座4丁目です。そこに建つセイコー服部時計店は銀座のシンボルになっています。そこで、今回はその銀座4丁目周辺で明治に創刊された新聞社を巡ってみました。
まずは、銀座5丁目にある「ソノコ・カフェ」などが入居する銀座幸ビル 。「白い美顔」の美容研究家として一時期、一世を風靡した鈴木その子さんが所有されていたビルかどうかは分かりませんけど(笑)、彼女が2000年に68歳の若さで亡くなるまでここに美容教室?があったことを覚えています。今でもカフェがあるので、いまだに関係があるかもしれません。
ここは、明治時代、 ㉔絵入自由新聞(1882年9月~1890年11月) があったようです。自由党は、政党機関紙として「自由新聞」を創刊しますが、大衆向けに自由民権の思想を普及するため創刊したのがこの「絵入自由新聞」です。黒岩涙香の探偵小説などで人気を集めましたが、自由党の解党後、1892年 、黒岩が創刊した「万朝報」に吸収されます。
「ソノコ・カフェ」 から晴海通りをワンブロック北上するともう銀座4丁目の交差点です。
その銀座5丁目の角に建つのが「銀座プレイス」ビルです。地下に銀座ライオン、1階に 日産自動車、 3階にソニーの各ショールームなどが入っています。
ここに明治時代、 ㉜毎日新聞(1886年5月~1906年7月) があったということです。沼間守一社長の⑭東京横浜毎日新聞が、 1886年5月 に紙名を「毎日新聞」と改題してここに移って来たと思われます。この ⑭東京横浜毎日新聞 については、前回の「東京横浜毎日新聞社は高級ブランドショップに」で詳しく触れましたので、今回繰り返しませんが、現在の毎日新聞とは関係ありません。
「銀座プレイス」を京橋方向に向かって銀座4丁目の交差点を渡ると「銀座三越店」が聳え立っています。 ここは、立地条件が良いのか、④東京曙新聞(1875年3月~1882年3月)、⑳東洋新報(1882年3月~1882年12月)、㉘絵入朝野新聞(1882年11月~1889年5月) が社屋を構えました。
と思ったら、東洋新報は、東京曙新聞が廃刊されたので、紙名を改題して継続発行されたものでした。一方、絵入朝野新聞は、次に出てくる、真向かいの服部時計店にあった「朝野新聞」が一時期、経営していたようです。
いずれにせよ、 東京曙新聞 には末広鉄腸、大井憲太郎らが在社し、民権論、征韓論を鼓吹した明治の重要新聞であることは確かです。
やっと、三越前の銀座4丁目交差点(地元の人は「尾張町交差点」とよく言っていて、最初は道を聞いてもよく分かりませんでした)を渡ると、銀座のシンボル、服部時計店がやっと登場します。1932年(昭和7年)に竣工されたということで、篠田正浩監督の映画「スパイ・ゾルゲ」でも効果的に使われていました。戦前のビルはもう銀座ではあまり残っていませんからね。
ここには、 ②朝野新聞(1874年9月~1894年12月) があったことは、以前、このブログで何度も触れましたので、《渓流斎日乗》の御愛読者の皆様なら御存知のことでしょう。
幕臣出身、しかも将軍直々への侍講職も務めた成島柳北が社長、主筆でしたが、反政府的論調のため、1875年6月の新聞紙条例で逮捕され、禁固刑となります。片や、先程登場した東京曙新聞の末広鉄腸は、讒謗律などのお陰で政府寄りの論調になった曙新聞の社主に抗議して、 同社を退職し、同年10月に朝野新聞に入社しています。( 末広鉄腸は、後に朝野新聞の主筆となりますが、成島柳北と同じように筆禍事件で投獄されます。)
曙新聞を退社した末広鉄腸にとって、朝野新聞は、目の前ですから、今で言えば、三越を退社して、目の前の服部時計店まで、横断歩道を渡って入社したことになりますか。いや、まさか(笑)。
いずれにせよ、明治時代、尾張町交差点付近は情報発信の拠点だったことが分かります。
この服部時計店の裏手にある銀座4丁目の浜一・和光ビル には ⑨新聞集誌(1877年10月~1878年12月)と㉙自由燈(1884年5月~1886年1月) があったようです。
新聞集誌はまだ調査中でよく分かりませんが、自由燈 は、星亨が創刊した自由党の機関紙でした。
晴海通りを北上して、数寄屋橋に近い所に建つ衣料品店GAPが入居しているビルに、㉒日の出新聞(1882年4月~1883年2月) がありました。
明治15年4月1日に旭光社が創刊した日刊紙で、1年も持ちませんでしたが、詳細についてはこれまた調査中です。
皆様の方が詳しいと思いますので、何か情報がありましたら、ご提供賜れれば幸甚で御座います。