政友会と民政党の覇権争いの怨念は今でも

  自民党の岸田文雄総裁(64)が第100代の総理大臣にもうすぐ就任されるということで、まずはおめでとうございます。最近メディアがよく使う「3A」(安倍、麻生、甘利)采配によって担ぎ上げられたということで、またまた彼らの操り人形になるということを意味するわけで、「あまり政策には期待していません」と、釘を刺しておきますが。

 政策よりも、64歳の岸田さんという「人となり」の方に興味があります。各紙を読むと、「こんなこと書いて大丈夫?」と思われるようなことまで、書いちゃってます。まず、「東大合格全国一位」の名門開成高校から3回も東大受験に挑みましたが失敗、とか、御子息が3人いて、そのうち2人は同居だとか…これ以上書きませんが、想像力が逞しくなります。

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 さて、岸田さんは第100代総理大臣ということですが、初代総理大臣は勿論、御存知ですよね?ー伊藤博文です。それでは、彼がつくった政党は? はい、政友会です。自由民権運動華やかりし頃ですから、板垣退助がつくった自由党や、「明治14年の政変」で参議を追放された大隈重信がつくった立憲改進党など、明治は政党がたくさんつくられました。

 同時に、全国で「大新聞」と呼ばれた政党系の新聞も多く創刊されたわけです。改進党は、進歩党、憲政党などと幾度か名前を改称しますが、昭和初期までには民政党の名称で落ち着き、政友会との「二大政党制」になり、代わる代わる首相を輩出します。このブログの2019年7月6日に「『政友会の三井、民政党の三菱』-財閥の政党支配」という記事を書きましたが、この中で、筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム」(中公新書)から、以下のくだりを引用しています。

 (昭和初期の)大分県では、警察の駐在所が政友会系と民政党系の二つがあり、政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するという。結婚、医者、旅館、料亭なども政友会系と民政党系と二つに分かれていた。例えば、遠くても自党に近い医者に行くのである。…土木工事、道路などの公共事業も知事が変わるたびにそれぞれ二つに分かれていた。消防も系列化されていた。反対党の家の消火活動はしないというのである。(176ページ)

 このように、政友会と民政党は「水と油」なのですが、1941年12月の新聞事業令の制定によって、「1県1紙」の統合が行われました。

 その熾烈な合併の代表が愛知県です。政友会系の新愛知新聞(1888年創刊)と憲政本党(後の民政党)系紙として創刊された名古屋新聞(1906年創刊)が強制的に合併させられて中部日本新聞となるのです。

 新愛知の創刊者は、自由党の闘士だった大島宇吉で、政友会の衆院議員を務めたことがあり、1933年には東京紙の国民新聞を東武財閥の根津嘉一郎から買い受けて傘下に置くなど有力紙として存在感を示していました。

 一方の名古屋新聞は、大阪朝日新聞の名古屋支局長だった小山松寿が、中京新報を譲り受けて同紙を改題して創刊したもので、小山も民政党の衆院議員となり、1937年7月から1941年12月まで衆院議長を務めた人でした。

 中部日本新聞は今の中日新聞であり、都新聞と国民新聞が統合した東京新聞を戦後になって買収し、大手ブロック紙というより、系列新聞を合計すれば、読売、朝日に次ぐ全国3位の販売部数を誇る大新聞です。

 中日新聞は、戦前の新愛知と名古屋が合併したという経緯から、現在も、大島家と小山家が交代で2オーナー制を取っていることは知る人ぞ知る話です。オーナーが代わる度に、プロ野球の中日ドラゴンズの監督やスタッフまで変わるというのは、熱烈なファンの間では周知の事実のようです。何となく、今でも、名古屋は、政友会と民政党の怨念を引きずっている感じがしますねえ(笑)。

 以上「1県1紙」統合などについては、里見脩著「言論統制というビジネス」(新潮選書)からの一部引用です。もう一つ、この本から、特筆すべき点として引用させてもらいますと、戦時中、新聞業界は、軍部など政府からの圧力によって、仕方なく言論統制した被害者のように振舞っていますが、事実は、部数拡大のために、積極的に新聞は軍部に協力し、「社史」からその事実さえ消している、という著者の指摘です。

 例えば、陸軍は1942年9月、「南方占領地域ニ於ケル通信社及ビ新聞社工作処理要領」という軍令によって、同盟通信社は、南方軍総司令部が置かれたシンガポール、マレー、北ボルネオ、スマトラ、朝日新聞はジャワ、毎日新聞はフィリピン、読売新聞はビルマと担当地域が割り当てられ、続いて、海軍も同じように、朝日は南ボルネオ、毎日はセレベス、読売にはセラムの担当を命じたといいます。命令を受けた同盟通信と全国三紙は、ぞれぞれ現地で新聞発刊作業を展開し、同盟には北海道新聞、河北新報、中日新聞、西日本新聞など有力地方紙13紙が参加して、邦字、英語、中国語、マレー語など16もの新聞を発行したといいます。

 このブログでは書きませんでしたが、9月11日の第37回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)で、講師を務めた毎日新聞の伊藤絵理子氏が書いた「記者・清六の戦争」(毎日新聞出版)の主人公で彼女の曾祖父の弟に当たる東京日日新聞の従軍記者だった伊藤清六は、大陸で従記者を務めた後、フィリピンで「マニラ新聞」の編集発行に従事しました。何故、マニラ新聞なのか?と思っていたら、陸軍が決めたこと(毎日新聞はフィリピン)だったですね。この本を読んで初めて知りました。

【追記】

 新聞社だけではなく、通信社も「政友会」系と「民政党」系があったことを書き忘れました。

 1936年に聯合通信社が、電報通信社の通信部を吸収合併する形で、国策通信社の同盟通信(戦後は解散し、共同通信、時事通信、電通として独立創業)が設立されます。

 この電報通信社を1907年に創業した光永星郎は、自由民権運動の自由党の闘士だった人で、保安条例の処分対象となる経歴の持ち主で、政友会系の地方紙を顧客としました。陸軍にも食い込み、1931年の満州事変は、電通によるスクープでした。

 一方の聯合通信社ですが、まず、1897年に立憲改進党の機関通信社として設立され、改進党(後の民政党)系の地方紙を基盤とした帝国通信社と1914年に渋沢栄一らが創立した国際通信社、それに外務省情報部が経営していた中国関係専門の東方通信社などを吸収合併して、1926年に岩永裕吉が創立したものでした。ということは、聯合は、民政党系で、外務省のソースが強かったといいます。

 

「政友会の三井、民政党の三菱」-財閥の政党支配

やっと、筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム」(中公新書、2018年3月10日再版)を読了しました。

 先日、「昭和恐慌と経済政策」(中村隆英著)などに出てきた「帝人事件」などを話を友人の木本君に話したら、「この本にも『帝人事件』のことが出てきたよ。読んでみたら」と、貸してくれたのでした。

 中村教授の本が経済の側面から昭和初期をアプローチしているのに対して、筒井教授の本は、日露戦争終結直後の「日比谷焼き打ち事件」に始まり、昭和初期の「統帥権干犯問題」「天皇機関説事件」など、政治的、社会的事件を扱ったものです。

 筒井教授の著書は、タイトルの「ポピュリズム」にある通り、大衆の群集心理とそれを煽るマスメディアとの関係を描いていますが、ちょっと大衆デモと新聞報道との因果関係を強調し過ぎている嫌いがあります。

 大衆は、インテリ階級が考えているほど無知蒙昧でもなく、案外したたかに計算しており、新聞は、学者が思っているほど堅忍不抜ではなく、また、確固とした主張もなく時流に流され、自分たちの影響力を認識していないケースが多いからです。

 前半では、1905年の日比谷焼き打ち事件、1914年のシーメンス事件にからむ山本内閣倒閣運動、1918年の普選要求と米騒動など、今から100年ぐらい前の事件が登場しますが、100年経っても、世相はあまり変わらないなあと思ってしまいました。

 米国ではトランプ大統領が当選して、移民国家なのに、早速、本人は移民排撃政策を掲げましたが、移民排斥は今に始まったわけではなく、1924年5月15日には、「排日移民法案」が上下両院で可決されています。よく働く日系人たちは、「移民先では脅威と感じられた」からだそうです。この歴史的事実は、今の現代日本人はほとんど知りませんが、当時の反日運動の中で、プールでは「日本人泳ぐべからず」との看板が掛けられたのでした。(日本はその後、1930年代の上海租界で、同じような看板を立てました)

 カリフォルニア州の日系移民排斥の立て看板には「JAPS DONT LEAVE THE SUN SHINE ON YOU HERE   KEEP MOVING」と書かれました。「鬼畜日本人よ ここではお前たちに太陽の恵みを与えてやるものか とっとと出ていけ」とでも訳されることでしょう。つい最近、わずか95年前の出来事です。

 これに対して、日本では同年5月に米大使館前で抗議の切腹自殺が行われたり、東京と大阪の主要新聞社19社が米国に反省を求める共同宣言を発表したり、翌6月には帝国ホテルに60人が乱入して、「米国製品のボイコット」「米人入国の禁止」などを要求したビラを散布したりしました。これも、そのわずか95年後の現在、どこかの国で日本製品のボイコットが叫ばれたりして、何となく、既視感を味わってしまいました。

 さて、1931年9月18日、柳条湖事件をきっかけに満洲事変が勃発します。それまで、一貫して「反軍部」と「軍縮」を主張していた朝日新聞が、大旋回して社論を180度変更します。これまで陸軍批判の急先鋒だった(大阪朝日新聞主筆の)高原操は、10月1日の大阪朝日新聞紙上で「満洲に独立国の生まれ出ることについては歓迎こそすれ、反対すべき理由はない」とすっかり「転向」します。

 この背景には、著者は、朝日の不買運動があったことを挙げています。「満洲事変後、『朝日』に対する不買運動は奈良、神奈川県、香川県善通寺などで拡大、『3万、5万と減っていった』という。これに対して、『大阪毎日』は拡張していった。朝日の下村海南副社長は『新聞経営の立場を考えてほしい』と発言し、10月中旬の重役会で『満洲事変支持』が決定した」といいます。会社ですから、ビジネスを重視したわけです。

 こうして、大新聞は「軍神物語」を書きたてて、1945年8月15日の終戦まで、イケイケドンドンと大衆を煽り立てたわけですね。

◇反対党の家の消火はしません

 この本では、昭和初期の二大政党だった政友会のバックには三井が、民政党のバックには三菱がついており、財閥が政党を支配していたことが書かれています。こんな調子です。

 大分県では、警察の駐在所が政友会系と民政党系の二つがあり、政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するという。結婚、医者、旅館、料亭なども政友会系と民政党系と二つに分かれていた。例えば、遠くても自党に近い医者に行くのである。…土木工事、道路などの公共事業も知事が変わるたびにそれぞれ二つに分かれていた。消防も系列化されていた。反対党の家の消火活動はしないというのである。(176ページ)

 なるほど、こんな極端のことが起きていたんですね。これを読んで、クーデターを起こした青年将校や右翼団体員たちが、財閥とともに、政党政治を批判していたことがやっと分かりました。

あと、細かいことですが、この本では、満洲事変の前に起きた1931年8月に公表された有名な中村大尉事件のことにも触れていますが、最後まで中村大尉で押し通して、名前が書かれていません。(実際は、中村震太郎大尉)この他にも、何カ所か、名前の姓だけしか表記されていないところがありました。

また、高原操のように、氏名だけしか書かれておらず、相当の知識人や研究者ならすぐ大阪朝日新聞社の主筆と分かるかもしれませんが、大抵の読者はピンと来ません。せっかく一般向けの教養書として書かれたのなら、もう少し簡単な説明や一言が欲しい気がしました。