行動遺伝学とは何か?=橘玲、安藤寿康著「運は遺伝する」は読み応えあり 

 数日前から少しずつ橘玲、安藤寿康著「運は遺伝する 行動遺伝学が教える『成功法則』」(NHK出版新書、2023年11月10日初版)なる本を読んでいます。有楽町の三省堂書店にNHKラジオのフランス語のテキストを買いに行って、ついでに書棚を覗いていたら、偶然この本が見つかったのです。まさに、セレンディピティ(思い掛けぬ幸運)かもしれません。

 この本は、三省堂有楽町店の新書部門で第1位を獲得していたので目立つ所にありました。中をパラパラめくっていたら、こんな文章に巡り合いました。(ちなみに、この本は、「言ってはいけない」などで知られるベストセラー作家の橘氏と、「能力はどのように遺伝するのか」を今年出版した行動遺伝学者の安藤慶大名誉教授との対談で構成されています。)

 病気になったり、近しい人が亡くなったり、強盗に遭うなど、一般的に運が悪かったとされる偶然の出来事と、離婚や解雇、お金の問題など、本人にも責任があると見なされる出来事を比較したところ、偶然の出来事の26%が遺伝で説明でき、本人に依存する出来事の遺伝率30%と統計的に有意な差はなかった。(14ページ)

 えっ?どういうこと???  次にこんなことが書かれています。

 よく考えてみると、病気には遺伝が関わっているし、…強盗に遭うのは確かに運が悪かったのでしょうが、危険な場所にいたり、目立つ行動をとったりしたのが原因だとすれば、そこにも遺伝の要素がある。知人が交通事故に遭ったら、「運が悪かったね」と同情するでしょう。でもそれが信号を無視して横断歩道を渡ろうとしたり、無理な追い越しをしようとして起きたら単なる偶然とは言えない。そう考えれば、私たちの人生の全てを遺伝の長い影が覆っていて、そこから逃れることができないのではないでしょうか。(15ページ)

 この渓流斎ブログを長年お読み頂いている皆様はご承知かと存じますが、私は色んなことに好奇心を働かせております。そのうちの一つが、「人間は、遺伝で決まるのか、育った環境によって決まるのか」といった難題です。俗に言う「氏(うじ)か、育ちか」、「生まれつきか努力か」、Nature or Nurture? です。だから、これまで苦労して人類学や進化論に関する書籍を読んできたのです(苦笑)。

 でも、我思うに、もしこれが、AかBかの二者択一問題だとしたら、日本人は圧倒的に「氏」を尊重してきた民族だと言っても良いのではないでしょうか。天皇制にしろ、武家社会にしろ、現代政界にせよ、芸能の歌舞伎の世界にせよ、「世襲」を重んじてきたからです。

大興善寺(佐賀県)

 この本では、作家の橘氏が、行動遺伝学者である専門家の安藤氏に質問を投げかける形で対談が進んでおりますが、博覧強記のお二人ですから、私なんか全く知らなかった多くの文献を引用されています。例えば、行動遺伝学の大御所ロバート・プロミンは、著書「ブループリントーDNAはどのようにして、私たちが何者であるかをつくりあげるのか」を出版し、遺伝子レベルで行動遺伝学の知見が証明されたと「勝利宣言」したといいます。 

 また、行動遺伝学の大立者エリック・タークハイマーは「行動遺伝学の3原則」(原則1:人間の行動形質は全て遺伝の影響を受ける。 原則2:同じ家庭で育ったことの影響は、遺伝の影響よりも小さい。 原則3:人間の複雑な行動形質に見られる分散のうち、相当な部分が、遺伝でも家族環境でも説 明できない。)を提唱し、この3原則が今や、行動遺伝学の基本中の基本になっているようです。

 そんなことを急に言われても、何のことを言っているのか分からないと思いますので、そもそも行動遺伝学とは何かと言いますと、知能や性格を含めて、あらゆる行動や心の働きが遺伝の影響を受けるというのが原則だという学問です。おおよそですが、知能は60%ぐらい遺伝子の影響を受け、「協調性」や「外向性」や神経質」などの性格は、30~40%遺伝によるというものです。行動遺伝学は、主に、双生児(一卵性、二卵性)の方々を長年追跡して科学的知見を追究していきます。

 そこで、この本は、まさに「遺伝か環境か、どちらなのか」の議論が展開されています。1冊の本になるぐらいですから、色んな所見が出てきて面白い読み物になっていますが、なかなか結論は出てきません。色んな要素が複雑に絡み合っているからだというのです。結局、ヒトは、遺伝と環境の要素を50%ずつ受けているのが正解なのでしょうが、「30%の遺伝でも多いと言えばかなり多い」「偶然であっても、遺伝的に必然だったかもしれない」などと言われると、こちらも思わず頷いてしまいます(笑)。

大興善寺(佐賀県)

 さらに言えば、例えば、私は、電車やバスや職場などで嫌~な奴に遭遇することがあるのですが、彼ら本人だけが悪いのではなく、生まれつきの遺伝の産物なんだと思うと、あまり腹が立たなくなるんですよね(笑)。

 「病気になったのは遺伝のせい」「学力がなく、年収が低いのも全て遺伝のせい」ということにすれば、大変気が楽になりますが、この本をじっくり読めば、行動遺伝学はそこまで結論づけて断定的に言っていない、ということになっています。「じゃどっち何だ!」と思う方はこの本を読むしかないでしょう。そして、自分自身で納得する結論を引き出したらどうでしょうか。

明治維新~77年目の終戦から78年

 本日8月15日は、78回目の終戦記念日です。昭和20年8月15日は、明治維新から77年目のことでしたから、それを越えてしまったわけです。

 「降る雪や明治は遠くなりにけり」と中村草田男が詠んだのは昭和6年(1931年)でしたから、昭和20年(1945年)当時の人々から振り返っても、明治維新(1868年)は遥か昔に思えたことでしょう。(江戸時代生まれの日本人も健在だったことでしょうが)

 同じように令和の現代人が、昭和の敗戦時を振り返れば、同じように遥か遠い彼方の出来事だと思うのは当然です。戦後生まれは、既に、日本の人口の8割以上占めていますから、戦争体験者も減りましたし。

Ginza

 本日、日本武道館で開催された全国戦没者追悼式(台風7号の影響で、9府県の代表者が参加出来ず)では、天皇陛下から「さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。…ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」とのお言葉がありました。

 その半面、岸田首相の式辞は、昨年とほとんど同じのコピペ原稿を感情も入れずに棒読みしていただけでしたから実に情けない。東京新聞の調べでは、660字の9割が「一言一句同じ」だったといいます。岸田さんにして1957年の戦後生まれですが、さらに自分より若いスピーチライターに丸投げして、戦禍の悲惨さの想像力の欠如がおぞましい。

 世界史上初めて、日本は原爆の被爆国であり、先の大戦では、民間人、軍人、軍属ら310万人という尊い生命が奪われました。戦争で最初の犠牲になるのは無辜の市民であることは、ロシアによるウクライナ侵攻でも見せつけられました(ブチャ虐殺の悲劇)。同時に日本はアジア諸国等に対する加害者でもありました。

 私も、二度と戦争を繰り返してはいけないという強い信念がありますが、今の「戦争を知らない」為政者たち、特に、自民、公明、日本維新の会の皆様は、一刻も早く平和憲法を改正して、軍備増強に躍起になっておられます。本人や家族は絶対に戦場に行かないと思っているからでしょう。

 また、戦前と全く同じように、強大な財閥、中でも、軍需産業企業がこれらの政党を後押ししているような言動が最近、見受けられます。

 先の大戦は、政界、財界、官界のエスタブリッシュメントが立案、計画、プロデュースして、新聞と臣民が追従、追認、挙句の果てには率先して遂行したものでした。

Ginza

  もし仮にまた戦争が起きるとしたら、全く同じ轍を踏むことでしょう。何を差し置いてでも情報戦から始まります。好戦的なメディアが周囲の危機感を煽り、SNSでは流言蜚語が飛び交い、逆に世論が政府を突き動かすことでしょう。「何で、早く始めないのか」と。

政府による思想統制を端緒に隣組も復活して、裏切り、寝返り、告げ口、陥れ、濡れ衣が横行することでしょう。日本人は集団ヒステリーを起こす傾向が強いので、非国民をあぶり出し、不逞外国人を排斥し、膺懲(ようちょう)といって、集団暴行をすることでしょう。

 嗚呼、こんな悪夢が正夢にならないことを祈るばかりです。が、やはり、教育が重要です。戦争の悲惨さは何世代にも渡って伝えていかなければなりません。だからこそ、こうして終戦記念日があり、全国戦没者追悼式が挙行されるわけですから。

権威主義的、不平等主義的直系家族のドイツと日本=E・トッド著「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」を読破

 ネット通販でスニーカーを注文したら、どうも小さくて、交換してもらうことにしました。以前にも何足か通販で靴を買ったことがあり、大抵、26センチで間に合っていたのですが、今回のスニーカーはスイス製の「オン」という防水性に優れた高級靴です(とは言っても、メイド・イン・ヴェトナムですが)。部屋で試し履きしてみて、無理して履けないことはなかったのですが、ちょっときつい。また外反母趾になったりしては嫌なので、26.5センチに替えてもらうことにしました。

 通販のポイントが付くので、かなり安く買えたと思ったのですが、先方に靴を送り返す宅急便代が1050円も掛かってしまったので、結局、チャラになった感じです(苦笑)。

 さて、エマニュエル・トッド著、堀茂樹訳「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」上下巻(文藝春秋、2020年10月30日初版)を昨日、やっと読了することが出来ました。上下巻通算700ページ近い難解な大著でしたから、正直言って、悪戦苦闘といった感じで読破しました。上巻の「アングロサクソンがなぜ覇権を握ったか」は11月15日頃から読み始め、読了できたのが12月5日で、下巻の「民主主義の野蛮な起源」を読破するのに12日間かかったので、上下巻で1カ月以上この学術書に格闘してきたわけです。

 評判の本ということで、発売1カ月で、日本でも4万部を突破したらしいですが、果たして全員が読破できたのか、疑問が付くほど難解な本でした。私のような浅学菲才な人間が読破できたので、思わず、自分で自分を褒めてやりたくなりました(笑)。

 はい、これで終わりにしたのですが、ありきたりの書評を書いてしまっては、つまりませんね。エマニュエル・トッドという大碩学様に、浅学菲才が何を言うか、ということになりますが、もう少し分かりやすく書けないものですかねえ、と言いたくなりました。矛盾点も見つかりました。

 この本を渓流斎ブログで取り上げるのは、これで4回目です。過去記事は、最後の文末の【参考】でリンクを貼っておきますが、直近に書いた「アングロサクソンはなぜ覇権を握ったのか?」の中で他殺率の話が出てきます。孫引きしますと、こんなことを書いています。

 この本(上巻)の345ページには、1930年頃の他殺発生数が出て来ます。10万人当たり、英国では0.5件、スウェーデンとスペインで0.9件、フランスとドイツで1.9件、イタリアで2.6件、そして日本では0.7件だったといいます。それに対して、米国は8.8件という飛び抜けた数字です。著者のトッド氏は「アメリカ社会は歴史上ずっと継続して暴力的で、そのことは統計の数値に表れている。」と書くほどです。

 そう、この辺りを読んで、私も正直、大変失礼ながら、アメリカは野蛮な国だなあと思いました。

 そしたら、下巻では、上巻には出て来なかったロシアの他殺率が出てきて驚愕してしまいました。251ページに、ロシアの他殺率は、「2003年に10万人当たり30.0人だったのが、2014年に8.7人に急減した」という数字が出てくるのです。10万人当たり30人とは米国どころではありません。時代は違っても、米国を野蛮国と断定したのは無理がありました。何で、トッド氏は、このロシアの数字を上巻に入れなかったんでしょうか?

 原著は5年前の2017年の5年前に出版されたので、当然ながら今年2月のロシアによるウクライナ侵攻のことは書かれていません。(「日本語版のあとがき」の中では少し触れていますが、あくまでも、著者は「ウクライナ軍を武装化してロシアと戦争するように嗾けたのは米国とイギリスです」と、ロシア贔屓の書き方です。)

 下巻の240ページでは、「モスクワによるクリミア半島奪回、ウクライナにおけるロシア系住民の自治権獲得など、伝統的な人民自決権に照らせば、正統な調整と思われることが、西洋一般において、とんでもなく忌まわしいことと見なされている。歴史の忘却を超え、地政学的現実の考慮を超えて、唖然とせざるを得ないのは、ロシアの脅威の過大評価にほかならない」とトッド氏は断言されていますが、結局、ウクライナ侵攻という事実によって西側メディアや学者らがロシアのことを脅威と見なしていたことは、過大ではなく、正当で、トッド氏の予言ははずれたと、私は思うのですが。

◇ユーラシア大陸中央部だけが権威主義的か?

 もう一つ、私が矛盾点を感じたことは、下巻10~11ページに書かれていたことです。

 個人主義的・民主主義的・自由主義的イデオロギーが、ユーラシア大陸の周縁部に、歴史の短い諸地域に位置しているということである。逆に、反個人主義的で権威主義的イデオロギーーナチズム、共産主義、イスラム原理主義ーは、ユーラシア大陸のより中心的ポジション、より長い歴史を持つ諸地域を占めている。

 確かにそうかもしれません。ユーラシア大陸の中央にあるロシアや中国は実質的に共産主義で、イランやアフガニスタンなどはイスラム原理主義です。でも、ユーラシア大陸のはじっこの周縁部にある北朝鮮やベトナムはどうなるのでしょうか?

 それでも、著者による「人口」「出生率」「識字率と高等教育」「宗教」「イデオロギー」「家族形態」に着目して、世界のそれぞれの国家を分析、仕分けした学説は説得力があり、データの使い方に恣意的な面が見られるとはいえ、感心せざるを得ません。表記も換骨奪胎して、それらの部分を引用します。

 ・政権交代を伴う自由主義的民主制が容易に定着したのは、欧州でも英国、フランス、ベルギー、オランダ、デンマークといった核家族システムにおいてだけだった。(19ページ)

 ・カルヴァン的不平等主義から民主的な平等主義へ移行した米国は、独立宣言で、インディアン(アメリカ先住民)のことを「情け容赦のない野蛮人」と述べ、1860年から1890年までの間に、インディアン25万人を殲滅した。人種差別はむしろ、アメリカン・デモクラシーを支える基盤の一つだ。(22~23ページ)

◇人類の知的能力は頭打ちか?

 ・米国の高等教育は、1900年は、25歳の男性のわずか3%、女性の2%しか受けていなかったが、1940年には男性7.5%、女性5%、1975年には男性27%、女性22.5%、2000年頃には男性30%、女性25%に達した。しかし、試験の平均スコアは1970年代からほぼ停止状態入った。これは、受け入れシステムの制約ではなく、高等教育を受けるに足る知的能力の持ち主の比率が上限に達した結果だ。(43~46ページ)

・米国の1950年代以降の知的能力の停滞は、テレビの普及の可能性があるのではないか。私は既に、6歳から10歳までの思春期以前の集中的読書がホモ・サピエンスの知的能力を高めることを言及したが、集中的読書を抛擲したがゆえに頭脳の性能が落ちたとしても、いささかも意外ではない。(50ページ)

・ロシアや中国の基本的家族型は、外婚制共同体家族だが、セルビアやベトナムなども含め、農村で起こった共同体家族の崩壊で人々が個人として解き放たれたが、急に解き放たれた個人は、直ぐに自由に馴染めず、ほとんど機能不全に陥った家族の代替物として、党や中央集権化された計画経済や警察国家に求めた。(142ページ)

◇不平等で反個人主義のドイツと日本

 ・ドイツと日本は直系家族の典型で、父系制が残存し、長子相続の記憶を保全し、不平等な反個人主義だ。女権拡張的価値観に乏しく、人口面で機能不全を来し始めた。その一方、今日の世界貿易の面では、英語圏の全ての国が赤字で、一般的に直系家族型社会が黒字になっている。(170~176ページ)

 ・ゾンビ・直系家族は、集団的統合メカニズムを恒久化し、不平等主義を促し、非対称性のメンタリティがあるが、ドイツや日本の技術的優越性は自己成就的予言となり、かくしてドイツ製品や日本製品は高いレベルに到達していく。(190ページ)

 ・大陸ヨーロッパでは、オランダ、ベルギー、フランス、デンマークを別にすると、自由主義的、民主主義的であったことは一度もない。大陸ヨーロッパは、共産主義、ファシズム、ナチズムを発明した。何よりも、ユーロ圏の多くの地域が権威主義的で不平等主義的な基層の上にあることを忘れないようにしたい。(232~237ページ)

 ・直系家族であるドイツや日本の階層的システムは、社会秩序を安定化させる不平等原則を内包している。(271ページ)

 こうして読んでいくと、ドイツも日本も19世紀までいわばバラバラの領主分権国家だったのが、統一国家(プロシャ、大日本帝国)として成立した時期も似ています。明治日本がプロシャを手本にして憲法をつくったりしたのも、先の大戦で、日独伊三国同盟を樹立したのも、同じ直系家族として、偶然ではなく、必然だったのかもしれません。勤勉で真面目で、組織力がある性癖は日独に共通しています。

 私の経験では、英国で道に迷って、人に聞くと「No idea」と言って素っ気ないのに、ドイツ人ならわざわざ一緒に歩いて目的地まで連れて行ってくれたりしました。同じ直系家族としてウマが合うのかもしれません。

【参考】

 ・2022年11月18日=「人類と家族の起源を考察=エマニュエル・トッド著『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』」

 ・2022年12月1日=「『ドミノ理論』は間違っていた?=家族制度から人類史を読み解く」

 ・2022年12月6日=「アングロサクソンはなぜ覇権を握ったのか?」

保険業界の裏

普段、ラジオを聴いていますが、如何せん、「ながら」で聴いて、しっかりメモを取っているわけではないので、細かい所まで、ここに書き写せないのが残念です。とても、重要な情報を発信していたりするのです。

 

例えば、今、大分県で教員採用試験を巡って贈収賄事件が世間を騒がせていますが、教育評論家の尾木直樹氏が、某ラジオに出演して「昔は、そう20年か、30年前は、教頭になるのに60万円、校長になるのに100万円かかっていました」と爆弾発言していたのです。これが事実なら大問題になるはずなのに、あまり話題になりませんね。

 

実はこの尾木先生は、私の高校時代の現代国語の先生でした。とても、小柄の人で、教壇に立っても後ろから見えないほどでした。(嘘です)

 

先生の授業内容なぞ、もうとっくに忘れてしまいましたが、教科書には全く関係ない話ばかり覚えています。例えば、先生は、メキシコの画家シケイロスに相等入れ込んでいて、突然、大きな画集を持ってきて「シケイロスはすごい。シケイロスはすごい」と言うのです。顔に目と鼻も口もないのっぺらぼうの男が勢いよく立ち上がっているような絵とか、何か抵抗運動する民衆の象徴のような壁画の写真を見せながら熱弁を振るっていたことを思い出します。

 

もう一つ、昨晩聴いていたラジオ番組で、「保険業界の真相と裏」みたいな特集をしていました。これまた、単に聞き流していたので、どなたが話していたか名前も忘れましたが、某大手保険会社でセールスを20年間続けた後、フリーで保険代理店をやっている人でした。

その人によると、保険というのは、プリペイドカードを買ってもらうようなものだそうです。しかも、スイカとかパスモのような安いカードではなく、いわばベンツなど最高機種の外車を買ってもらうようなものだというのです。しかも、保険会社は、お金と引き換えに現物を提供するわけではなく、最後まで「納車」しなくてもすんだりする。こんな美味しい商売はない。保険は、博打みたいなもので、保険会社は胴元みたいなもの。会社は損しないカラクリになっている。なるべく沢山のはずれ籤を売れば売るほど儲かるというのです。

「60歳以上でも誰でも入れます。安心、安全」なんて盛んにコマーシャルしている保険なんて、生命保険ではなく、損害保険なのだそうです。保険会社など最初から利益を確保してから、雀の涙ほどのおこぼれを庶民に分け与え、ひどい時には、顧客が請求してこないことをいいことに、保険料を払わなかったりします。そういえば、あれだけの量の宣伝を垂れ流していて、一体誰がコマーシャル料を払うのかと思ったら、最初から天引きされていたんですね。

おっと、ここまで、書いていて、このブログの熱心な読者の方の中で、保険業界に勤めている方もいらっしゃったことを思い出しました。もちろん、反論をお待ちしています。どうか真実を啓蒙してください。

 

そのフリーの保険代理店業者によると、結局、どんな保険に入ったらいいか迷ってしまいますが、一番いいのは、奨める保険会社の人と同じ保険に入るのがいいというのです。「相手の保険証書を見せてもらうことです。こちらは、年収まで情報開示しているわけですからね」と説得力のある御託宣でした。

ちなみに、私は、一昨年に、加入していた大手保険会社の保険が一気に2・5倍近く保険料が値上がったのを契機に解約してしまいました。

ゆとり教育の責任者出て来い!

公開日時: 2008年6月7日

昨晩は、調布先生の呼びかけで、天下の東京大学の学食に14人ほどのツワモノが集まりました。著名作家、敏腕編集者、有名大学教授、経済評論家、大手マスコミ研究員…とそれぞれ一家言の持ち主ばかりで、自分達の言いたいことを銘々勝手にしゃべっていますから、ワイワイガヤガヤ全く収拾がつきませんでした。まさに梁山泊の様相を呈しておりました。二人ばかし、声が異様にデカイ輩がいたので、周囲に迷惑だったことでしょう(笑)。

 

調布先生が呼びかければ、こうして、皆が都合を付けてパッと集まってくるところがすごいところです。でも、当の調布先生はちょっと体調を崩されて、普段の元気がなかったのが心配でした。

 

学食から本郷三丁目の某居酒屋に河岸を変えました。そこで、随分興味深い話を聞きました。

 

まず、今年4月から「ゆとり教育」で育った学生が大学に入ってきたという話です。私は、ゆとり教育の実体については、それほど詳しく知らないのですが、象徴的なのが、円周率を3・14ではなく、わずか「3」として計算するように教育された世代だということです。円周率を「3・1」でもなく、大まかに「ゆとり」で「3」にしてしまうところがすごいところです。恐らく、というか間違いなく、彼らは、小数点どころか、分数も不得手でしょう。これら、以前だったら小学生レベルでマスターしなければならなかった学識を、今、大学で教えるように任せられていると聞いたものですから、驚いてしまったわけです。

 

これら、「ゆとり教育」を最前線に立って推進実行したのが、文部科学省の高級官僚だった寺脇研という人物で、今は、映画評論家と称して盛んにテレビのワイドショーに出てくるらしく、ゆとり教育についても「当時の時代の要請に従っただけ」と開き直っているということですから、呆れてしまいました。

 

今、本や雑誌が売れないという話も聞きました。特に、出版社のドル箱だった漫画やファッション雑誌が売れなくなったということです。以前は年間6万点の本が出版されていましたが、今は8万点も出版されているそうです。点数が増えたということは、それだけ、部数が低迷したので点数でカバーせざるを得なくなったということです。

 

フリーペーパーや無料誌の出現の影響もあるかもしれません。ファッション雑誌も「CanCan」の一人勝ちでその他はもうそれほど売れていないとか。漫画は「少年ジャンプ」が以前は600万部という驚異的な売り上げを誇っていましたが、今はもう100万部を切るそうです。小学館や集英社など大手出版社でさえ、昨年度は赤字決算だったというのです。

 

うーん、大変な時代というか、変革の時代ですね。

 

要するに、若い「ゆとり教育」世代が漫画を読まなくなったということです。では、彼らは何をしているのかー。やはり、携帯に嵌っているらしいのです。ゲームやアニメなど様々なコンテンツがありますが、どんどん進化しているそうです。ストーリー動画も、映画なら遠景からパンしてアップするという芸術的パターンを敢行できますが、携帯の画面は小さいので、アップにしないとよく見えないし、分からない。ということで、顔も大きく、字幕も短く大きいコンテンツばかりできるというのです。

 

普段、一人で引きこもっているので、偶に人に会うと、色んな話を聞けるので、刺激になります。

続きはまた次の機会に。

OCWの時代

 根津神社

大学の講義をネットで配信するOCW(オープンコースウエア)というのが、今、日本でも盛んになっているという記事を読みました。

OCMは、2001年に米国のMIT(マサチューセッツ工科大学)が始めたものらしいのですが、私も、昨年か一昨年に、NHKラジオの杉田敏先生の英語講座「ビジネス英会話」で初めて知りました。学生は、講義に直接出なくても、ネット配信された講義をiPodなどにダウンロードして、お風呂に入りながら見たりしているというのです。

「大変な時代になったもんだ」と関心したものです。

今日、どんなものか、アクセスしてみました。慶応大学、東工大、京都大、MIT…とざっと見てみたのですが、学籍がなくても誰でもいつでも講義ビデオを簡単に見ることができるんですね。講義資料も非常に充実しています。京大は何とユーチューブを使っていました。

中には、「人気アクセスランキング」なるものもありました。今は、何でもランキング時代なんですね。売り子さん(教授)も、お客さん(学生)から採点される時代なので、先生もウカウカしてられません。

私が学生時代は、昭和のバンカラ時代の最期の生き残り世代みたいなものでした。学生は、ほとんど、真面目に講義に出席することなく、雀荘やパチンコ屋や映画館にしけこんだり、「文学修行」と称して、下宿に籠もって本を読んだり、酒を飲んで暴れたりしていました。

先生も先生で、シメタもんで、雨が降ったらどういうわけか「休講」する名物教授がいて、学生も阿吽の呼吸でした。

でも、今は時代が変わったようですね。真面目な女子大生が増え、授業には欠かさず出席し、一言も漏らさないように講義をメモに取り、逆に不真面目な先生には、肩叩きもあるようです。

それで、OCWですが、今後ますます色んな大学に拡大していくことでしょうね。私のようなまだまだ知的好奇心がある市井の民にとっては朗報ですが、残された時間が若い人ほどないので、溜息も出てきます。