銀座、ちょっと気になるスポット(2)=南町奉行所

 銀座と言いながら、第2回で取り上げる気になるスポットは、有楽町です。地下鉄ではなく、JRで銀座に行くには、駅は有楽町か新橋になりますので、有楽町も銀座と言えば、銀座なのですが、正確に言えば違います。

有楽町「交通会館」

 何と言っても、有楽町駅の住所は東京都千代田区です。三省堂書店や北海道物産店などが入っている交通会館も千代田区ですが、駅前広場をもう少しだけ南下して、銀座インズの首都の速の下をくぐると、やっと中央区銀座になります。ものの数分ですが。(首都高の下は、数寄屋橋下にしろ、大抵、川が埋め立てられた所です)

有楽町駅前広場

 有楽町の名称は、皆様ご案内の通り、茶人としても知られた織田信長の実弟、織田長益こと織田有楽斎(うらくさい)から由来するものです。有楽斎が、関ヶ原の戦いの後、徳川家康から数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領し、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたのです。江戸城からかなり近いので、家康の有楽斎に対する信任が篤かったと思われます。家康はかつて信長に仕えていましたから、織田家に対する御恩返しかもしれませんが。

有楽町駅前広場にある南町奉行所跡

 江戸切絵図を見ると、今の有楽町駅辺りは、主に阿波徳島の蜂須賀藩の上屋敷だったようです。その隣接する今の駅前広場辺りが、何と、あの名奉行・大岡越前守忠相が活躍した「南町奉行所」があったところでした。

 奉行所は、江戸の行政、司法、警察などの職務を担っていた組織で、老中の支配下にありました。ということは、奉行が全ての権限をもって裁定したわけではなく、特に重罪などの最終判断は老中や将軍に仰いでいたともいわれます。

 白洲でのお裁きも本当にあったのかどうか…。ま、それらしきものはあったことでしょう。

有楽町駅前広場にある「南町奉行所跡」

 「南町奉行所」の御奉行は、八代将軍吉宗の時代に活躍した大岡越前が有名ですが、現在の東京駅八重洲北口にほど近い所には「北町奉行所」があり、こちらは、天保改革の頃に、「遠山の金さん」こと遠山景元という名奉行がおりました。「遊び人金さん」はかなり脚色された話ではありますが、景元自身は、水野忠邦や鳥居耀蔵らとの政争で一時失脚しますが、後に南町奉行に返り咲いたといいます。

 また、元禄期から享保年間にかけて、17年間という短い期間に南北奉行所の中間点に「中町奉行所」がありましたが、それほど詳しいことは分かっていないようです。

 南町奉行所は、2005年の発掘調査で、奉行所表門に面した下水溝や、奉行所内に設けられた井戸などが発見されました。この写真の「南町奉行所跡」の碑もその記念?で出来たと思われます。ということは、2005年以前は、こんな碑はなかったと思います。

 私自身は、よく有楽町駅を利用するのですが、この碑を初めて見つけた時(恐らく2005年頃)は本当に驚いたものです。テレビの時代劇のヒーローが、実在人物だったという証拠みたいなもんですからね(笑)。

 南北町奉行所の奉行は、月番制で、3000石程度の旗本が任命されたようです。実働部隊の幹部である与力は南北奉行所に各25人、その配下の同心は各100人しかいなかったというので、これまた驚きです。彼らのポケットマネーで御用聞き(岡っ引き)を何人も抱えていましたが、江戸町人の人口は50万人だったと言われ、こんなに少ない人数で警察・治安維持や行政、防災に当たっていたわけですから、本当に驚くばかりです。

南町奉行所跡から発見された穴蔵

 ちなみに、時代劇などでよく出て来る「八丁堀」は、与力・同心の組屋敷があったところです。八丁堀から有楽町までの距離は2キロちょっと。与力は馬かもしれませんが、同心は組屋敷から歩いて奉行所まで通ったことでしょう。

 与力の平均禄高は200石、諸大名や豪商からの付け届けなどの別途収入があれば良いのですが、ない人は家計は火の車です。何世代にもわたって、禄高は上がらないので、屋敷を人にまた貸ししていた与力もいたようです。与力の配下の同心ともなると、禄高は30石程度だったといいますから、さらに生活が厳しかったことでしょう。

 江戸時代は、火付け盗賊が多く、治安が悪かったイメージが時代小説で我々は植え付けられていますが、案外、現代よりも治安が良かったのではないかと思ったりしています。「南町奉行所跡」碑の前に立つと、与力・同心たちの「こんな安月給で、やってられないよ」と言う声が聞こえてきました(笑)。

馬廻り衆はとっても偉い旗本だった

 本日は、単なる個人的な雑記ですから、読み飛ばして戴いて結構で御座います。

 皆さん御案内の通り、私は今、通勤電車の中で、アダム・スミスの「国富論」(高哲男・新訳、講談社学術文庫)と格闘しているのですが、文字を読んでも、来年、講師の依頼があった講演会で何を喋ろうかという思いが先行してしまい、さっぱり頭に内容が入ってこなくなりました。

 電車の中の読書といえば、こんなお爺さんが一生懸命に勉強しているというのに、車内の9割ぐらいのお客さんはスマホをやっていて、新聞や雑誌を読む人でさえ皆無になりました。中にはスマホでニュースを読んでいる人もいるでしょうが、ほとんどゲームかSNSかネットショッピングです。こりゃあ、日本の将来は明るい!

「もりのした」みつせ鶏唐揚げ

 お爺さんといえば、その講演会案内用の講師の写真を自撮りしてみたら、まるで、玉手箱を開けてすっかり老人になった「浦島太郎」の心境です。我ながら、「えっ!こんな老けてしまったの?」という感慨です。まあ、既に孫がいるシニアになってしまったので仕方ないのですが、人生って、あっという間ですね。悩んでいる暇はありませんよ。

銀座「わの輪」生姜焼き定食900円

 さて、12月25日付朝日新聞朝刊を見たら吃驚です。このブログで何度も登場して頂いているノンフィクション作家の斎藤充功氏が写真入りでインタビューに応じていたのです。オピニオン&フォーラム耕論のテーマ「死刑 その現実」という中で、斎藤氏は、3人のうちの一人として登場されていたのですが、強盗殺人で計4人を殺害した死刑囚と11年間、131回も面会を続けてきたことと、その心に残った印象を話されていました。

 早速、斎藤氏には「天下の朝日新聞に御真影まで掲載されるなんて凄いですねえ」とメールをしたのですが、返信はありませんでした。普段なら直ぐに返事が来るのでどうされたのでしょうか?彼一流の照れなのか、それとも怒っているのかもしれません。

 その斎藤氏のことですが、このブログで何度も書いているのですが、「斎藤氏の大正生まれの御尊父は、陸軍大学卒のエリート軍人、明治生まれの祖父は、海軍兵学校卒の海軍大佐、江戸幕末生まれの曽祖父は幕臣で、六百石扶持の馬廻役だった」といいます。その曾祖父の「馬廻役」とは、どんなものかそれほど詳しく知らなかったのですが、雑誌「歴史道」別冊(朝日新聞出版)の「戦国最強 家臣団の真実」を読んでよく分かりました。

 馬廻り衆とは殿様の側近中の側近で、戦(いくさ)になれば、騎乗して総大将(大名、藩主)の一番近くに従い、機動力を生かして家臣団の中核を担う花形でした。総大将の近くに「幡(はた)持ち」がいますから、まさにその旗の近くに控える「旗本」ということになります。

 六百石扶持ともなると、供侍(ともざむらい)や小荷駄(こにだ)持ち=武器や食料を運ぶ=ら常に10人近い家来を付き添わせています。平時では、殿様の警護を務めることから、城下町でも藩主の近くに住む上級武士団と呼ばれ、その外側に軽輩の身分の徒士(かち)が住み、その外に町人が住み、さらにその外側に、弾除けの足軽組屋敷が配置されるという五重構造になっていたと言われます。

 とにかく、斎藤氏の御先祖さまの「六百石馬廻役」というのはとても高い身分だったことは確かです。私の先祖の高田家は、九州の久留米藩(21万石)の下級武士でしたが、御船手職の中で、御船手頭、大船頭、中船頭、小船頭に次ぐ御水主頭(おかごがしら)という役職で、わずか、五石六斗二人扶持だったと聞いてます。足軽は三石一斗(三両一分=さんぴんいちぶ)程度で、「このどさんぴんが!」と蔑まされていましたが、私の先祖も足軽に毛が生えていた程度だったことでしょう。でも、私の先祖が住んでいた下級武士の長屋には、後にブリヂストンを創業する石橋家も住んでいました。(自分の祖先については、もう少し調べなければならないと思いつつ、時間が経ってしまっています=苦笑)。

 下級武士とは言っても、江戸時代、武士は全人口のわずか7%しかいなかったと言われています。安藤優一郎著「幕臣たちの明治維新」(講談社現代新書)によると、幕臣と呼ばれた人は約3万人いて、そのうち旗本が6000人で2割、御家人が2万4000人で8割だったといいます。やはり、旗本は凄いエリートだったんですね。

【追記】

 江戸城では、海や大掛かりな堀が少なく警備に隙がある北西に当たる番町(現東京都千代田区)に、旗本を住まわせたことから、広大な屋敷が並び、今でも高級住宅街になっています。

 明治維新後、幕臣旗本は追放され、その後にやって来たのが、薩長土肥の明治新政府陣です。作家有島武郎、里見弴、画家の有島生馬らの父である有島武は薩摩出身で大蔵官僚となり、番町の追放した元旗本の邸宅に住んだわけです。