「存亡の危機」も「口先三寸」も間違い?=日本語は難しい

 会社で、記事の校正の手引きとして使っている「バイブル」のような「憲法」のような本として「用字用語ブック」というものがあります。内閣告示による「常用漢字表」や「現代仮名遣い」などに準拠して、漢字の読み方や送り仮名の付け方、それに数字の書き方、地名・固有名詞の書き方、計量単位の使い方、敬語の使い方など、文章を書く上での基準として、まあ、ありとあらゆることが記載されています。

 この中で、「間違えやすい語字句」というものがあります。私は長年、文章を書く仕事に従事してきたので、一応、知っているつもりでしたが、この年になっても、まだ、勘違いしていたり、誤用していたりした語字句があったので、情けなくなってしまいました。

 例えば、存亡の危機です。これは、存亡の機存続の危機に書き直すように指導されています。何故なら、「存亡」とは「存続するか、滅びるか」という意味なので、「危機」はおかしいというのです。言われてみればその通りですね。日本語は難しい。

 足元をすくわれるも間違いだというのです。足をすくわれるに書き直すようになっています。

 口先三寸なんかは、よく使っていましたが、これも間違いで、舌先三寸が正しいといいます。

 枯れ木も花のにぎわい、かと思っていたら、これは枯れ木も山のにぎわいが正しい。「つまらないものでも無いよりまし」という意味でした。

 私淑するも間違って覚えていました。面識のない人を著作などを通じて師と仰ぐことで、直接指導を受けた人に対して、「〇〇先生に私淑した」などと使うのは誤り、と書いておりました。

築地

 キリがないですが、私自身が誤用していた、勘違いしていた語字句を正直に書いておきます。(左が間違い、右が正しい)

頭の先から爪の先まで ⇒ 頭の先から足の先まで頭のてっぺんから足の爪先まで

アリの入り込む隙もない ⇒ アリのはい出る隙もない

いやが応にも ⇒ いやが上にも

上や下への大騒ぎ ⇒ 上を下への大騒ぎ

笑顔がこぼれる ⇒ 笑みがこぼれる

押しも押されぬ ⇒ 押しも押されもせぬ

お求めやすい値段 ⇒ お求めになりやすい値段

つつましい暮らし ⇒ つましい暮らし

 まあ、この辺にしておきます(苦笑)。

 人が亡くなった時、享年80とし、享年80歳とするのは間違いかと思っていましたが、享年80歳でも大丈夫なようです。また、排気ガスに関しては、「気」と「ガス」が重複するので、排ガス、もしくは排出ガスに書き直すようになっていますが、「排気ガス」を認めている辞書もあるようです。ただし、新聞表記としては使わないとしてます。

 嗚呼、やっぱり日本語は難しい。

英語は普遍的、中国語は宇宙的、日本語は言霊的

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 昨晩は、中部北陸地方にお住まいのT氏と久しぶりに長電話しました。T氏は、学生時代の畏友ですが、十数年か、数十年か、音信不通になった時期があり、小生があらゆる手段を講じて捜索して数年前にやっとメールでの交際が再開した人です。

 彼は、突然、一方的に電話番号もアドレスも変えてしまったので、連絡の取りようがありませんでした。そのような仕打ちに対しての失望感と、自分が悪事を働いたのではないかという加害妄想と自己嫌悪と人間不信などについて、今日は書くつもりはありません。今日は、「空白期間」に彼がどんな生活を送って何を考えていたのか、長電話でほんの少し垣間見ることができたことを綴ってみたいと思います。

 T氏は、数年前まで、何年間か、恐らく10年近く、中国大陸に渡って、大学の日本語講師(教授待遇)をやっていたようです。日本で知り合った中国人の教授からスカウトされたといいます。彼は、私と同じ大学でフランス語を勉強していて、中国語はズブの素人でしたが、私生活で色々とあり、心機一転、ゼロからのやり直しのスタートということで決意したそうです。

 彼の中国語は、今でこそ中国人から「貴方は中国人かと思っていた」と言われるほど、完璧にマスターしましたが、最初は全くチンプンカンプンで、意味が分かってもさっぱり真意がつかめなかったといいます。それが、中国に渡って1年ぐらいして、街の商店街を一人で歩いていると、店の人から、日本語に直訳すると「おまえは何が欲しいんだ」と声を掛けられたそうです。その時、彼は「サービス業に従事する人間が客に対して、何という物の言い方をするんだ」とムッとしたそうです。「日本なら、いらっしゃいませ、が普通だろう」。

 しかし、中国語という言語そのものがそういう特質を持っていることに、後で、ハッと気が付き、それがきっかけで中国語の表現や語用が霧が晴れるようにすっかり分かったというのです。もちろん、中国語にも「いらっしゃいませ」に相当する表現法はありますが、客に対して「お前さんには何が必要だ」などと店員が普通に言うのは、日本では考えられません。しかし、そういう表現の仕方は、中国ではぶっきらぼうでも尊大でもなく、普通の言い回しで、「お前は何が欲しいんだ」という中国語が、日本語の「いらっしゃいませ」と同じ意味だということに彼は気づいたわけです。

 考えてみれば、日本語ほど、上下関係に厳しく、丁寧語、敬語などは外国人には習得が最も困難でしょう。しかも、ストレートな表現が少なく、言外の象徴的なニュアンスが含まれたりします。外国人には「惻隠の情」とか「情状酌量」とか「忖度」などという言葉はさっぱり分からないでしょう。

 例えば、彼は先生ですが、学生から「先生の授業には実に感心した」といった文面を送って来る者がいたそうです。それに対して、彼は「日本語では、先生に対して、『感心した』という表現は使わないし、使ってはいけない」と丁寧に説明するそうです。また、食事の席で、学生から、直訳すると「先生、この食事はうまいだろ」などとストレートに聞いてくるそうです。日本なら、先生に対して、そんな即物的なものの言い方はしない、せめて「いかがですか?」と遠回しに表現する、と彼は言います。

 そこで、彼が悟ったのは、中国語とはコスミック、つまり「宇宙的な言語」だということでした。これには多少説明がいりますが、とにかく、人間を超えた、寛容性すら超えた言語、何でも飲み込んでしまう蟒蛇(うわばみ)のような言語なのだ、という程度でご理解して頂き、次に進みます。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 一方、英語にしろフランス語やドイツ語にしろ、欧米の言語はユニバーサル(普遍)だと彼は言います。英語は記号に過ぎないというのです。もっと言えば、方便に過ぎないのです。これに対して、日本語は「言霊」であり、言語に生命が込められているといいます。軽く説明しましょう。

 福沢諭吉が幕末に文久遣欧使節の一員として英国の議会を視察した時、昼間は取っ組み合いの喧嘩をしかねいほどの勢いで議論をしていた議員たちが、夜になって使節団との懇親会に参加すると、昼間の敵同士が、まるで旧友のように心の底から和気藹々となって会話を楽しんでいる様子を見て衝撃を受けたことが、「福翁自伝」に書かれています。

 それで、T氏が悟ったのが、英語は記号に過ぎないということでした。英語圏ではディベートが盛んですが、とにかく、相手を言い負かすことが言語の本質となります。となると、ディベートでは、AとBの相手が代わってもいいのです。英語という言語が方便に過ぎないのなら、いつでも I love you.などと軽く、簡単に言えるのです。日本語では、そういつも簡単に「愛しています」などと軽く言えませんよね。日本語ではそれを言ってしまったら、命をかけてでもあなたを守り、財産の全てを引き渡す覚悟でもなければ言えないわけです(笑)。

 欧州語が「記号」に過ぎず、相手を言い負かす言語なのは何故かというと、T氏の考えでは、古代ギリシャに遡り、ギリシャでは土地が少なかったので、土地に関する訴訟が異様に多かったからだそうです。そのお蔭で、訴訟相手に勝つために色んなレトリックなども使って、表現法や語用が発達したため、そのようになったのではないか、というのです。

 なるほど、一理ありますね。フランスには「明晰ではないものはフランス語ではない」という有名な格言があります。つまり、相手に付け入るスキを与えてはいけない、ということになりますね。だから接続法半過去のような日本人には到底理解できない文法を生み出すのです。日本語のような曖昧性がないのです。言語が相手をやり込める手段だとしたら。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 一方、日本語で曖昧な、遠回しな表現が多いということは、もし、直接的な言辞を使うと、「それを言っちゃあ、おしめえよ」と寅さんのようになってしまうことになるからです。

 ところで、幕末には、尊王攘夷派と開国派と分かれて、激しい殺し合いがありました。その中でも、西洋の文化を逸早く学んだ開明的な洋学者だった佐久間象山や大村益次郎らは次々と暗殺されます。洋学者の直接的な言葉が攘夷派を刺激したのでしょう。適塾などで学び欧米文明を吸収していた福沢諭吉も、自分の生命が狙われていることを察知して、騒動が収まるまで地元の中津藩に密かに隠れ住んだりします。

 それだけ、日本語は、実存的で、肉体的な言語で、魂が込められており、「武士に二言はなし」ではありませんが、それだけ言葉には命を懸けた重みがあるというわけです。そのため、中国語や欧米語のように軽く言えない言葉が日本語には実に多い、とT氏は言うのです。

 繰り返しますと、英語は、何でも軽く言える記号のような言語で普遍的、中国語は、寛容性を超えあらゆるものを飲み込む宇宙的、そして、日本語は命を張った言語で言霊的、ということになります。その流れで、現在の言語学は、文法論より、語用論の方が盛んなんだそうです。

 以上、T氏の説ですが、それを聞いて私も非常に感銘し、昨晩は久しぶりに味わった知的興奮であまり眠れませんでした。

変な日本語

銀座4丁目

9月28日のこの日乗で、「身体が壊れていく…」のタイトルで、目の不調を訴えたところ、有り難いことに、SNSを通じて、東アジア広域を活動拠点にしている衣川さんから「アントシアニン、ルティン、ゼアキサンチンを摂りましょう」とのアドバイスを頂きました。

そこで、藁をもすがる思いで、それらが配合されているサプリメントを捜し求めました。

私は、東京・銀座界隈を活動拠点にしておりますから、たまたま、派手に新聞テレビやネットで宣撫活動を行っているD社の直営店があったので、早速そこに入ってみました。

猫の額ほどの狭い店舗に3人も若い女性スタッフがいて、暇を持て余しており、私が入ると、「いい鴨が来た」とばかり、網に掛かった獲物を捕らえる蜘蛛のように店員が近寄って来ました。

あたしは、最初から買うものは決まってましたから丁重に介助はお断りして、アントシアニンなどが配合されている「速攻ブルーベリー」とかいうサプリメントを買いました。

1458円。「ちょっと高いかな」と思いつつ、「直営店だからしょうがないか」と支払いを済ませたところ、レジの女性は「お飲み方は、ご存知だったりされましたか?」と言うではありませんか。

「はあ!?」ですよ。コンビニやファストフードに行ったりすると、「5000円からお預かりします」などと、馬鹿丁寧な間違った敬語もどき言葉が飛び交います。マニュアルにでも書いてあるのでしょう。やたらと変な日本語が蔓延ってます。

「ご存知だったりされましたか、だと?」ーなんじゃやらほい、と言いたくなりましたが、向こうは「朝食後にお飲みになると、一日中効果がありますよ」と澄ました顔で言うではありませんか。

その後、たったこれだけの小さな商品なのに、「お出口までお持ちします」と言うので、まさか、グッチやエルメスの高級ブランド品を買ったわけじゃあるまいし、こちらも丁重にお断りしました。

はっきし言って、過剰サービスですね(笑)。

後から、「高い値段はサービス料が入ってるせいだな。田舎のマツモトキヨシで買えば、もっと安く買えたかもしれないなあ」なぞと、自ら、器の小ささを露呈してしまいました。これは内緒ですよ(笑)。