団塊の世代が起こした凄惨な歴史=連合赤軍「あさま山荘事件」から50年

 2月19日は、連合赤軍による「あさま山荘事件」発生から50年ということで、新聞各紙が特集してくれています。

 もう半世紀も経つので、同時代人として生きた人はもう少ないと思います。私自身は、事件関係者とは何の接点もありませんでしたが、「最後の世代」として目撃し、人生最大の衝撃的な事件の一つでした。勿論、テレビの生中継には釘付けでした。

  事件に参加して逮捕された最年少者に、私と同世代の16歳の少年がいたことが衝撃に拍車が掛かりました。一連の連合赤軍内部の集団リンチ事件は、14人もの若者が殺害された驚愕的で悲惨なものでしたが、赤軍派の指導者森恒夫(大阪市立大出身、拘置所で自殺。行年28歳)と革命左派の委員長永田洋子(共立薬科大・現慶大薬学部出身、拘置所で病死、行年65歳)は、逮捕当時ともに26歳で、戦中生まれ。いわゆる団塊の世代(1947~49年生まれ)より一つ、二つ上で、団塊世代を統率する立場にいました。「団塊世代の後はぺんぺん草も生えない」と言われた次の世代である我々の世代は、「白け世代」(大学紛争が挫折したため)とも言われましたが、ギリギリ、全学連を中心にして盛り上がった政治闘争に参加できた世代でもありました。

 要するに「他人事」ではなかったのです。

東銀座・イタリアン「ヴォメロ」

 ちょうど、高度経済成長が終わりかけて停滞期に入り、その一方で、公害問題が騒がれ、社会的弱者が虐げられ、ベトナムではいまだに戦争が続き、社会的矛盾を革新する運動が盛り上がっていたという時代背景がありました。でも、これら一連の連合赤軍事件のお蔭で、左翼的革命運動は下火となり、当然ながら共感していた多くの市民も離れていきました。

 皮肉なことに、学生運動の最後の世代(1950年代生まれ)が、その四半世紀後にオウム真理教事件を起こすのですから、次元や思想背景が全く違うとはいえ、真面目なエリートのインテリ階級が社会を変革しようとして起こした事件という意味では共通したものがあります。

 ただ、オウム事件の場合、教祖の空中遊泳のトリック写真に騙されて入信したインテリたちのその洞察力と想像力と思慮のなさと世間知らずのお坊ちゃん、お嬢ちゃんぶりには漫才のような滑稽味がありました。

 一方の連合赤軍事件の当事者たちには、少なくとも社会の矛盾と正面から向き合うひた向きさがありました。理想に燃える純粋さがありました。とはいえ、彼らは恐らく、マルクスはおろか、ジョン・ロックもアダム・スミスもケインズもルソーも読んだことがなかったでしょう。インテリとはいえ、組織となると、教条主義的に人を支配しようとする本能が打ち勝って、あのような凄惨な事件を起こしたのでしょう。

 「山岳ベース」という世間から閉ざされた密室の中で、皮相な正義感に加えて、集団真理と同調圧力が蔓延し、「総括」の名の下で、戦慄的な集団リンチ殺人という連鎖が黙認されました。

銀座・宝珠稲荷神社

 連合赤軍兵士の生き残りとして、懲役20年の刑に服役して出所した後、後世への証言者として謝罪と反省の日々を送る植垣康博氏(1949年生まれ)は、2月16日付の毎日新聞のインタビューの中で、ドイツなどは、組織の下部の者が指導部に間違っていることを「おかしい」と言えるほどメンバーの個人が自立していたのに、日本の場合は、個人でものは考えられなかった、と振り返っています。まさに、催眠術にかかったように洗脳されてしまったのでしょう。先の大戦中の一兵卒と同じです。

 そんな「個」がなく、指導者には絶対服従で、集団真理に左右され、同調圧力peer pressureに屈しやすい日本人のエートス(心因性)は、オウム真理教事件でも遺憾なく発揮され、現在のさまざまな社会的な事件でも反映されています。

銀座・宝珠稲荷神社

 連合赤軍事件から半世紀が経って「歴史」となり、当時生まれていなかった大学教授の研究対象になりましたが、恐らく、何であんな事件が起きたのか解明できないことでしょう。だから、あの時代の空気を吸っていた者の一人として、今回、当時体験した「皮膚感覚」をブログに書いてみたかったのです。

 今振り返れば、団塊の世代は、あまりにも人が多過ぎて生存競争が激しかったことが遠因になったと思います。人は、何も群れることはないということです。人間、所詮、孤独な生き物です。「一匹狼」でも何ら恥じることはない。堂々と胸を張って生きていいということです。

【追記】2022年2月20日

 ビートルズに「レボルーション」という曲があります。1968年にシングル盤「ヘイ・ジュード」のB面として発表されました。当時は「68年世代」と言われるほど世界的に学生運動が盛り上がった年でした。この「革命」という曲を作ったのは恐らくジョン・レノンで、彼は「君たちは革命を起こしたいんだね。俺たちは皆、世の中を変えたいからね。でも、それが破壊工作なら、僕は抜けるよ。当てにしないでくれ」と言ってます。しかも、「とにかく、毛沢東の写真を持ち歩いているようでは、誰ともうまくやっていけないよ」とまで唄っているのです。

 毛沢東は「大躍進」と「文化大革命」という権力闘争の末、5000万人もの人民を虐殺したとも言われていますが、ジョン・レノンはそこまで、その事実を当時は知らなかったと思います。

 それにしても、ジョン・レノンには先見の明があり、天才だったんですね。