千葉、大月、米子、臼杵…面白い地名の由来

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 さて、相変わらず、学者さんでもないのに本ばかり読んでいます。「本は捨てて、街に出なければ駄目ですよ」と寺山修司のような人生の先輩がおりますが、最近、どうも、映画さえ観に行く気がおきません。傲慢ですが、他人が作った妄想についていけなくなりました(笑)。

 古今東西の名作と言われる絵画、彫刻、陶磁器、青銅器、インスタレーションも見尽くしたので、美術館や博物館に行くのもどうも…と偉そうなことを言いたくなりますが、要するに、田舎の自宅からわざわざバスと電車を乗り継いで都心に出掛けるのが億劫になってきたということなのでしょう(笑)。

 今のところ、本の方が何よりも面白い、と正直に告白しておきます。

 「歴史道」(朝日新聞出版)21巻「伊能忠敬と江戸を往く」を読みましたが、この雑誌の伊能忠敬特集は飛ばし読みしてしまいました。映画とタイアップしたパブ記事(宣伝)であることが見え見えで、その宣撫活動に嫌気を指したからでした。それに、伊能忠敬なら、千葉県香取市にある伊能忠敬記念館にも行って、ちゃんと現地で取材して、関連本も読んだことがあるので、それほど驚くほどでもないと思ったからでした。

 それでも、この雑誌を買ったのは、古地図の読み方や日本全国の地名由来事典が掲載されていたからでした。

 例えば、徳川家康が1590年、小田原征伐の後に豊臣秀吉から関東(江戸)の地を与えられますが、一面湿地帯の上、何度も洪水の被害に遭う難所でした。(小石川、赤坂、牛込は沼地だった)そのため、利根川と荒川の流れを変えたり、神田山を削って、日比谷の入江などを埋め立てしたりして、大改革を成し遂げたことはよく知られています。大雑把に言いますと、利根川の大半は銚子に流れを変え、行徳の江戸湾に注ぐ川を江戸川に、荒川が勢いを弱めて江戸湾に注ぐ支流が隅田川になります。

 また、佃煮で有名になった佃島は、家康が大坂摂津の佃村から連れて来た漁師集団(森孫右衛門一族33人)がつくった村だというのは知っておりましたが、彼らは単なる漁師ではなく、軍事船の船頭だったということをこの本で知りました。要するに、三河の家康は江戸土着の人たちを信用していなかったのです。佃村の森孫右衛門は、本能寺の変の後、逸早く、堺にいた家康の逃亡の水路を確保して助けたことから、家康から絶大な信頼を得ていたというのです。

 このほか、私自身が知らなかった勉強になったことを列挙します。

・古地図で、江戸の上屋敷(大名、家族、家臣が住む)は「家紋」、中屋敷(嫡男と隠居した先代が住む)は「🔷」、下屋敷(別荘、蔵)は「●」で表示された。

・千葉県は鎌倉時代の御家人千葉常胤に由来するのではなく、下総国千葉郡に由来する。千葉は茅が生い茂る土地「茅生(ちぶ)」が転化したという説が有力。

・山梨県の大月は、「大きな欅の木」が由来。欅の古称が「槻」で、「大槻」が、寛文検地の際、駒橋から月が一層大きく見えたことから、「大月」となった。

・長野県の安曇野は、白村江の戦い(663年)で水軍を率いた安曇比羅夫(あずみのひらふ)の一族が移住したという説あり。

・名古屋市の御器所(ごきそ)は、熱田神宮に献上する土器をつくっていたことから命名された(既報)。

・兵庫県の神戸。神社に租庸調を収める農民のことを神戸(「かんべ」または「かむべ」)と呼んだことから由来するので、全国にある。兵庫の場合は生田神社。

・鳥取県の米子は、「八十八の子」の意味。この地の長者が賀茂神社に詣でて、88歳の高齢で子を授かったから。

・大分県の臼杵は、臼杵古墳に由来する。出土した石甲(せっこう=甲冑をまとった武人の石像)が、逆さにすると臼と杵の形に似ていたことから。

・愛媛県今治(いまばり)の治は、「張」「針」「墾」が転訛したもので、開墾という意味。尾張も、本来は「小墾(おはり)」だった。

「承久の乱」は「承久革命」なのでは?=「歴史道」の「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」を読んで

 「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)をやっと読み終わりました。やはり、2週間ぐらいかかったでしょうか。

 でも、実に面白かった。鎌倉時代のことをもっともっと知りたいと思いました。800年続く武家社会(私説)の礎が築かれた時代ですからね。渓流斎ブログ2022年1月24日付「源平の位階はもともと六位の下級だった、と男系の跡目争い=山城の起源とオランダ語通詞」でも書きましたが、その前に読んだ「歴史人」2月号(ABCアーク)「鎌倉殿と北条義時の真実」特集と切り口が違うので、まるで違う本を読んでいる感じでした。(当たり前でしょうけど)

 両誌とも、目下放送中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の便乗商法であることは間違いないのですが(笑)、私もそのお蔭で「鎌倉殿の13人」の補足知識を得ることが出来ました。まず、第一にこの「歴史道」の中で、濱田浩一郎氏によると、「鎌倉殿の13人」とは、以前は二代将軍源頼家が直接訴訟に判決を下すことを停止され、有力御家人13人の合議制による決裁に委ねられたとされて来ましたが、現在この見解は有力視されず、頼家への訴訟の取次を有力御家人13人に限定したに過ぎず、13人の宿老が一堂に会して合議した例は、文献等から確認されないといいます。つまり、「13人の合議制」なるものの実体はないというのです。へー、そうでしたか。

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 平安時代末期から鎌倉初期にかけて、保元・平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、そして何よりも承久の乱と戦乱・内乱が続き、おまけに飢饉、疫病、後に元寇といった国難もあり、この時代は、相当庶民が疲弊した大災難の時代だったと思います。そのために、法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮らが新興宗教を起こし、民衆が縋ったのか、もしくは、あまりにも民衆が救いを求めるので、新仏教が生まれたのではないかと私は思っています。

 この時代の歴史資料の代表的なものとして、「平家物語」「吾妻鏡」がありますが、「平家物語」は、平清盛ら平氏に対してあまりよく思っていない書き方で、「吾妻鏡」は鎌倉時代の正史とはいえ、北条氏に都合の良い書き方がされているといいます。そのお蔭で、「平氏でなければ人にはあらず」に代表される言葉のように、確かに、私自身も平氏に対して悪い印象を植え付けられてきた感じがします。でも、「平氏=悪」「源氏=善」ではなく、互いに権力を争ったに過ぎないと考えるようになりました。(平清盛による開明的な経済政策は特筆に値します)

 また、「吾妻鏡」では、当初、源頼朝の乳母系として北条氏より遥かに所領も多く、権勢を誇っていた比企氏に関する履歴や記述が少ないのは、北条氏を有力御家人に見せるために、後から削除されたのではないかという疑惑もあるといいます。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 さらに、北条氏は、平貞盛の子孫と言われます。北条頼政の義父で、北条義時の祖父に当たる伊東祐親が300騎を動員できた時に、北条氏はわずか30騎に過ぎない豪族でしたが、北条政子が源頼朝の妻になることで一気にのし上がります。その後、比企能員や梶原景時、和田義盛ら有力御家人らを次々と滅ぼし、ついには、承久の乱で勝利を収めて、武家政権を確立した北条義時は、「陸奥守平義時」と称しました。つまり、鎌倉時代は源氏はわずか三代で滅んだので、平氏政権でもあったと言えることでしょう。

 その承久の乱の後、後鳥羽(隠岐島)、順徳(佐渡島)、土御門(土佐→阿波)の3人もの上皇が流罪となり、追放されました。この時、義時と六波羅探題は、皇位継承まで介入し、上皇の荘園まで剥奪し、その権威を有名無実化することに成功しました。ということは、大袈裟に言えば「承久の乱」は、1000年続いた大和朝廷=天皇王権を覆して、武家政権を打ち立てた「承久革命」と言った方が実態に近いのではないでしょうか?

 最後に、もっと知りたいと思ったことは、鎌倉幕府の御家人たちのことです。「鎌倉殿の13人」でさえ、「生年不詳」の御家人が多いので、致し方ないのですが、少なくとも、その後の室町、戦国、江戸時代に活躍する祖先に当たる人たちの話ですから関心があります。例えば、武田信義(戦国武将武田信玄の祖先で甲斐武田氏の始祖)、大江広元(長州毛利氏の始祖)、島津忠久(薩摩島津氏の始祖)、足利俊綱(足利尊氏の祖先)らはあまりにも有名なので分かりますが、千葉常胤、三浦義澄、宇都宮朝綱、小山朝光、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越(川越)重頼、江戸重長は21世紀の現在でも地名として残っているので、土地と名前との関係(あるのかないのか)にも興味があります。えっ?自分で調べなさい、ってか?