討ち入り、拷問、切腹、暗殺の世界=永倉新八著「新撰組顛末記」

唐津の叔母が京都に旅行し、新選組が駐屯した壬生寺も参拝したらしく、お土産に永倉新八著「新撰組顛末記」(新人物文庫)を買い、郵便で送ってくれました。

 突然で、何の前触れもなかったので吃驚です。ちょうど、8月15日付の渓流斎ブログで、日暮高則著「新選組最強剣士 永倉新八 恋慕剣」(コスミック・時代文庫)を取り上げたばかりだったので、何か「偶然の一致」を感じました。こちらは、小説で、永倉新八が島原の芸妓小常との間に出来た娘の磯探しがプロットの中心になっていましたが、「新撰組顛末記」の方は、ノンフィクションといいますか、回想記です。映画やテレビや小説の新選組ものの「種本」としても有名です。

 幕末に新選組二番組長として活躍した剣豪・永倉新八は、近藤勇や土方歳三らとは違い、明治を越えて大正時代まで生き延びました。その最晩年に、北海道の小樽新聞社会部記者の加藤眠柳と吉島力の取材を受けて、新聞連載され、後にまとめられたのがこの「顛末記」です。時代の証言者の回想録ですから、面白くないわけありません。

 ちなみに、新選組隊士本人の「聞き書き」の回想録は、昭和13年まで生き延びた池田七三郎(稗田 利八)を取材した当時東京日日新聞記者だった子母澤寛の「新選組聞書(稗田利八翁思出話)」などもあります。

 「新撰組顛末記」は、以前から読みたいと思っておりました。永倉新八の回想録ですが、小樽新聞の記者の書き方は、主語が「私」や「拙者」などではなく、「永倉新八」と他人行儀になっています(笑)。歴史の証言として客観的に残したいという表れなのかもしれません。また、江戸での清川(清河)八郎暗殺事件など、永倉新八自身が現場で立ち合っていないことも書かれているので、「新撰組通史」として残したいという永倉新八と記者の信念が伺われます。

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 有名な「池田屋事件」(1864年)では、永倉新八は、近藤勇、沖田総司、藤堂平助らとともに、最前線で斬り込みに立ち合ったので、その描写が生々しい。

 敵(長州の志士)は大上段にふりかぶって「エイッ」と斬りおろすを、青眼にかまえた永倉はハッとそれを引き外して、「お胴ッ」と斬り込むと敵は、ワッと声をあげてそのままうち倒れたので、さらに一太刀を加えて即死せしめ、再び縁側にかけ戻り、敵やあるとみるまにまたもひとりの志士が表口へ飛び込んでいくと、待ち構えた谷の槍先に突かれてあとずさりするところを追っかけていった永倉が一刀のもとに切り殺す。

 いやはや、今から158年前の出来事です。他に拷問あり、斬首あり、切腹あり、作り物ではなく史実なので、読むと胸が痛くなる場面が出て来ます。

◇◇◇◇◇

 相変わらず、ブッキッシュな生活です。他に読む本が沢山あるのに、面白いので、ついこの本を取ってしまいました。

 それにしても、自分は何でこうも真面目なんでしょう? 本ばかり読んでいるので、また温泉にでも行って静養したくなりました。

【追記】①

 143ページに、後に「油小路事件」で暗殺される新選組参謀・伊東甲子太郎が「もともと常陸水戸のわかれ宍戸藩士で鈴木姓を名乗っていた」と書かれていたので吃驚しました。伊東は、常陸志築藩士だったという説もありますが、もし、宍戸藩士だったとすると、最近知った驚くべき事実があるからです。

 それは、幕末の宍戸藩主(九代)は松平頼徳(よりのり)と言いますが、この人、天狗党の乱の鎮圧に失敗し、幕府からその責任を取らされて切腹した藩主でした。この頼徳の妹・高の曾孫に当たるのが平岡公威、そう、あの割腹自殺した作家の三島由紀夫だというのです。

 三島には、御先祖さまの血縁者に、切腹した藩主がいたとは、驚くほかありません。

【追記】②2022年9月1日読了

  何ともまあ、とてつもない時代を生き抜いた男の生涯でした。神道無念流の剣の達人。新選組では、沖田総司、斎藤一と並ぶ「三羽烏」と呼ばれた男。

 本文の最後の方に「死生のあいだをくぐること百余回、おもえば生存するのがふしぎなくらいの身を、大正の聖代まで生きのびて」と永倉新八は振り返っています。自分自身は、浪士組内部闘争、新選組内権力闘争、禁門の変、鳥羽伏見の戦い、甲州鎮撫、会津転戦と100回以上も生きるか死ぬかの戦闘場面に出くわしながら、辛うじて生き延び、その一方で、その途中で、新選組の近藤勇、沖田総司、土方歳三、原田左之助、靖兵隊の芳賀宜道、米沢藩の雲井竜雄といった「同志」をほとんど亡くしてしまったわけですから。

 日本の歴史上、こんな波乱万丈の生涯を送った人も稀でしょう。でも、永倉新八が生き延びたおかげで、明治新政府により、「憎き敵」であり、乱暴狼藉の悪辣集団の汚名と烙印を押されていた新選組の名誉を回復した功績は長く語り継がれることでしょう。

書き下ろし長編時代小説「新選組最強剣士 永倉新八 恋慕剣」は力作です

 今年6月でもうFacebookのチェックはやめたのですが、大学と会社の先輩でもあった日暮高則氏から出版社を通して、拙宅に本が送られてきました。書き下ろし長編時代小説「新選組最強剣士 永倉新八 恋慕剣」(コスミック・時代文庫)という本です。

 あれっ? 日暮さんは今年2月25日に「板谷峠の死闘」(コスミック・時代文庫)を出版されたばかりで、私も早速購入して、この渓流斎ブログに「感想文」を書いたばかりなのに、もう新刊を発表されたんですか!?

 しかも長編です。相当前から何作か、書き溜めていたのかもしれません。

 文庫本なので2~3日で読めるかと思ったら、結局、読了するのに1週間以上掛かってしまいました。実は、私はこれでも「新選組フリーク」なので、ちゃんと史実に沿っているのかどうか、チェックしながら読んでいたからでした。嫌な性格ですねえ(笑)。

 いくら小説だからといって、あまりにも史実からかけ離れていると荒唐無稽で、興醒めしてしまいます。あの司馬遼太郎は、作品を書くのに、馴染みにしている神保町の高山書店から最低トラック1台分の書籍を購入して、膨大な資料を読み込んで執筆していたと言われていますから、たとえフィクションでも史実にそれほど逸脱しない、あれだけの物語が書けたのだと思います。

 そこで、この「新選組最強剣士 永倉新八 恋慕剣」はどうでしょう? 永倉新八はあまりにも有名です。物語の主軸になっている京都・遊郭島原の芸妓との間にできた娘探しや、明治24年の大津事件の犯人津田三蔵と永倉新八が出会っていたというのは、作者が長編小説に仕立てるために苦心したフィクションであることは明々白々なので、それらは良しとしましょう。

 永倉新八は松前藩江戸定府取次役の子息として生まれ、神道無念流の剣客に。近藤勇の天然理心流道場「試衛館」の食客になった縁で、新選組では二番組隊長に。あの池田屋事件では近藤勇らとともに正面から斬り込み、すっかり名を上げた剣士…。フムフムその通りです。新選組時代の朋友島田魁は、維新後も生き延びて京都・西本願寺の太鼓楼の寺男になっていた?…うーん、確かに史実はその通りです。藤堂平助は、伊勢藤堂藩主の御落胤だったという異説まできっちりと抑えています。著者は、新選組フリークが驚くほど、かなり細かく調べ尽くしています。

 でも、永倉新八が江戸で近藤勇らと別れた後、芳賀宜道らと幕臣らを集めて組織した隊のことを「靖共隊(せいへいたい)」と80ページに書かれていますが、これは「靖共隊(せいきょうたい」もしくは、「靖兵隊(せいへいたい)」の書き違いでしょう。また、永倉新八ら靖共隊が行軍途中で原田左之助と別行動を取ったのが、「小山付近」(81ページ)となっていますが、これも、「山崎宿(千葉県野田市)」の間違いではないでしょうか。

 あと、二つ、三つ、隊士の死因について、通説とは違うものが散見されましたが、通説を取らなかったということで済むかもしれませんが、194ページに「明治二十九年(一八九六年)は、…この時、日本は日清戦争の真っ最中」と書かれていますが、明らかに勘違いですね。日清戦争は1894~95年で、前年に終わっていますから。

 いやあ、今、校正の仕事もしているので、誤字脱字や事実関係について、つい過敏に反応してしまうのは、「職業病」なのです。意地悪ではないので、2刷になった時に訂正されたら良いと思います。

 というのも、この本は力作なので必ずや増刷されると思うからです。これから読まれる方の楽しみがなくなるので、内容については触れられませんが、元新選組の永倉新八と大津事件の津田三蔵に接点があったなどという発想は、誰にも出来るものではありません。それでいて、もし、老境を迎えた永倉新八が明治24年、その2年前に開通したばかりの鉄道(東海道線)に乗って京都に行き、芸妓小常との間に出来た娘磯を探しに行ったとしたら、その年に起きた大津事件の報道に身近で接していたことになり、もしかして津田三蔵にも会ったかもしれない、と読者に思わせることに成功しています。

 また、大阪堂島の米相場の先物売買についてもかなり調べて描写されています。

 新選組ファンでなくても、複雑な人物関係と物語の構成について、関心すると思います。日暮氏の作家としての力量がこの一冊で証明された、と私は思いました。

 【追記】2022年9月1日

 永倉新八の回想記「新撰組顛末記」(新人物文庫)の181ページに「永倉新八がかねてなじみを重ねていた島原遊郭内亀屋の芸奴小常が、かねて永倉の胤を宿していたがその年の7月6日に一女お磯を産んで…」とあります。また、229ページには「新撰組時代に京都でもうけた娘の磯子にあって親子の対面をする。磯子はそのころ女優となって尾上小亀と名のっていた。」とあります。

 小常も磯も実在人物だったことが分かります。