戒律は何処へ行った?=築地本願寺カフェ「Tsumugi」で肉食す

 今、何かと話題になっている築地本願寺カフェ「Tsumugi」紬に初めて行き、会社の近くなんでランチして来ました。

 築地本願寺は、御説明するまでもなく、浄土真宗本願寺派(西本願寺)のいわば東京の総本山みたいな寺院です。江戸初期の元和2年(1617年)に浅草で創建されましたが、1657年の「明暦の大火」で焼失してしまいます。その後、幕府から与えられた土地が現在の場所で、当時は海上。そこで埋め立てをして「土地を築き」、本堂を建立したことから「築地」の由来になったことは皆さまも御案内の通りです。なお、大正12年(1923年)の関東大震災で再度本堂を焼失し、昭和9年(1934年)に現在のちょっと変わったというか、初めての方が見れば異様なインド寺院風の本堂になっております。

 400年以上の歴史があるわけですが、実は、オウム真理教事件などもあり、最近、若者らの既成宗教、特に仏教離れが進み、参拝者も激減していたそうです。

 そこで、築地本願寺は、あの開成高校から慶應大を卒業し、銀行員からコンサルタント会社社長も経験して僧侶の資格を得たA氏を2015年から事務方トップの宗務長に起用し、「開かれた寺」を目指すA氏の大幅改革によって、参拝者は2015年からの5年で実に2倍の250万人に増えたといいます。

 A氏は、数多くのテレビや雑誌の取材に応じて「顔見世興行」のように露出されているので、皆さまも御存知のことでしょう。

築地本願寺 カフェ「Tsumugi」紬

 私は「野次馬」ですから、カフェに初めて行ってみました。

 その前に、本堂は、会社から近いので、昼休みを利用して何度も行ってます。でも、キリスト教会のようなパイプオルガンが設置されていて、1台3億円もするとは知りませんでしたね。(テレビの番組で知りました)

 築地本願寺カフェ「Tsumugi」紬は、まさに21世紀のカフェ・レストランでした。加賀の一向一揆や織田信長による石山本願寺攻めの歴史を知っている我々にとっては、実に感慨深いものがあります。

 とにかく、ビックリです。

十三穀御飯と和風ビーフステーキ 1540円 写真の上部にメニューがあり「オーダーはこちらから 1」と書いてある

 何と!注文するのに、メニュー表紙のバーコードをスマホで読み取って、それから初めて注文することができるのです。スマホを持っていない人はどうしたらいいんでしょうかねえ?

  最近、海外旅行に行っていないので、知りませんが、こんなバーコード注文なんて、紐育や巴里や倫敦でもやっているんでしょうか? IT先進国のフィンランドや、何でも一番になりたがる中国なら既にやってそうですが、もしかして、世界初なのかもしれません。

 でも、すぐ目の前に接客してくれる係の若い綺麗な女性がいるのに、何か味気ない(こらっ!)私はスマホ中毒というか、スマホ廃人ですから、バーコードを読み取り、すんなり「注文」のボタンを押せましたが、それでも、どこか解せない。そこで、美人さんに「どうして、私が注文したことが分かるんですか?」と尋ねたところ、「あ、それは、テーブルごとに番号が付いていて、バーコードで読み取る際に、場所が分かるのです。お客様のメニューには『1』と書かれていますよね?」

 なるほど、よく分かりました。

 会計の際、スマホのアプリで、R社のポイントを加算してくれて、カードも使えました。「凄く、IT化が進んでいるんですね」と帰り際に言ったところ、美人さんは「2月の頭から始めたんです」とニッコリ微笑んでくれました。(マスクではっきり見えませんでしたが)

◇「般若湯」「桜」「牡丹」なら食べ放題、飲み放題

 ところで、私は「和風ビーフステーキ」を注文したのですが、仏教寺院が経営するカフェだというのに、肉も魚も食べ放題、日本酒もビールもワインもウイスキーも飲み放題でした(ただし、総務省の高級官僚を見習わずに、御自分でお支払いくださいね)。

 細かく言えば、殺生を禁じる仏教の戒律に違反しますよね?あ、僧侶御自身だけが守っていればいいのかしれませんが、色んな宗派の中でも、浄土真宗は特に寛大な気がします。僧侶でも肉食妻帯は許されているようで、何と言っても件の宗務長をはじめ、僧侶でも剃髪せず、長髪を伸ばしている方を多く見受けられます。日本の仏教の宗派の信者の中で、浄土真宗が一番多いのは、このように、戒律に対して寛大なせいなのかもしれません。

 隠語として、お酒のことを「般若湯」と言ったり、馬肉を「桜」、鹿肉を「紅葉」、猪を「牡丹」もしくは「山鯨」などと言ったりしております(花札の影響か?)。歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」や落語なんかにも出てきますよね。ということは、お坊さんたちも、昔から隠れて、いや正々堂々と戒律を破っていたということになりますか。親鸞聖人が見たら吃驚するかもしれませんが。

往相と還相という親鸞聖人の教え=「教行信証」を読んで

 会社の近くに築地本願寺があります。

 心がささくれだった時、心が疲れた時ー、そんな時、たまに昼休みを利用して訪れると、心が洗われる気持ちになれます。

 昔は、ということは、今より若かった頃は、信者ではありませんが、聖書をよく読んでいたので、たまにキリスト教会に一人で行ったものですが、織豊時代の宣教師が日本植民地化の先兵だったり、聖職者のはずの宣教師がルソン島へ日本人を送り込む奴隷船の仲介したりしていたという史実を知り、また現代では、神父による少年への性的虐待等を知り、少しキリスト教に失望してしまい、足が遠のいてしまいました。

 私自身は浄土真宗の信者でも、本願寺の門徒でもありませんが、寺院は出入りが自由なので分け隔てなく、迎え入れてくれます。それどころか、守衛さんにお伺いしたら、寺院内の撮影までお許し頂きました。

築地本願寺

 実は、ここ半年間、少しずつ、浄土真宗の宗祖親鸞の主著「教行信証」を読み進め、もうすぐ読破しそうなのです。

 読破など言っては、怒られそうですね。神聖な宗教書を冒涜するな、とー。はい、すみません、と謝るしかありません。その上、私のような凡夫では、到底理解できず、同じ個所を何度も何度も読み返して、それでもよく分からないことが多いのです。でも、私のような懐疑主義者は、果たしてどれだけの門徒の方が、実際にこの書を読み通しているのであろうか、という疑問を持ってしまったことです。現代人は、テレビにゲームにエンタメにアイドルにスポーツに、麻雀・競馬にと寸暇が惜しいほど忙しいのです。専門の僧侶の方でさえ、原書(漢文)で読んでいらっしゃるのかなあ、と疑ってしまいました。

 というのも、私が読んでいるのは、昭和58年7月20日初版発行の中公バックス「日本の名著」の「親鸞」で、現代語訳と補注を担当しているのが、石田瑞麿氏(当時東海大教授)なのですが、例えば、補注の中で、石田氏は「この箇所の親鸞の読み方には無理があり、…一つづきに読まなければ、意味が通らない」とか「『転じて休息とも呼んでいる』とあるが、実は『転ずるとは、休息することに名づける』と読むのが正しい。今は親鸞の読み方に従った」とか「…写し誤ったために生じた読み違いであろうか」といった注釈が何度も出てくるからです。ただし、漢籍の素養のない私自身は、真蹟本である坂東本と別本である西本願寺本の漢文の原著を読む能力もなく、現代語訳で読むしかなく、その違いもよく分かっていないのですが…。

 「教行信証」とは何か?-勿論、浄土真宗の聖典ではありますが、「浄土三部経」を中心に「華厳経」「菩薩処胎経」「大乗大方等日蔵経」など非常に多くの仏典から引用された仏教説話なども織り込まれていますが、どういう聖典なのか、私自身、一言で説明する能力はありません。

 ただ、恐らく、これが一番、親鸞聖人が言いたかったことではないか、といいますか、私自身が、全く知らなかったといいますか、誤解に近い形で理解していたことで、親鸞が明快に答えていたところがあり、その中で私自身が一番印象に残っていた1カ所だけを茲で記したと思います。

築地本願寺

 それは「信巻」に出てくる極楽浄土に往生することについてです。石田氏の現代語訳を引用させて頂きますとー。

 如来の回向には二種の姿がある。一つには往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)である。

 往相は、如来ご自身の功徳を全ての人に回らし施して、誓いを立てて、共にかの阿弥陀如来の安楽浄土に生まれさせられることである。

 還相とは、かの国に生まれてから、心の乱れを払った精神の統一と、正しい智慧を働かせた対象の観察と、さらに巧みな手立てを講ずる力とを完成させ、再び生死の迷いの密林に立ち戻って、全ての人を教え導かせ、共に悟りに向かわせられることである。

 往相にしても還相にしても、いずれも世の人を苦悩から解放して、生死の海を渡そうとするために与えられたものである、といっておられる。(262ページ、原文にない行替えし、一部漢字表記改め)

 なるほど、極楽浄土に一方的に行くだけでは駄目だったんですね。もう一度娑婆世界に戻って来て、衆生を救済する役目があったんですね。

 ですから、ここから4ページ先の266ページに、以下のことが書かれています。

 釈迦仏が王舎城で説かれた「無量寿経」について考えてみると、(中略)この最高至上の悟りを求める心はすなわち仏になろうと願う心であり、仏になろうと願う心は、すなわち世の人を救おうとする心であり、世の人を救おうとする心は、すなわち世の人を救い取って、仏のおいでになる国に生まれさせようとする心である。だから、かの安楽浄土に生まれたいと願う人は、最高至上の悟りを求める心を必ず起こすのである。もし、誰かが、この最高至上の悟りを求める心を起こさないで、ただかの国で受ける楽しみに間断がないと聞いて、その楽しみのために、生まれたいと願うとしても、また当然生まれるはずがない。

 そう断言している箇所に、私は目から鱗が落ちたといいますか、頭を後ろからガツーンと殴られたような感覚に陥りました。

 つまり、楽しみだけを求めて極楽浄土に往生したいと願っても、当然、行けるわけがない。そもそも往生を願うならば、また娑婆世界に戻って、今度は貴方が衆生を救済する役目を担おうとしなければ、最初から往生するわけありませんよ、と親鸞は言っているわけです。

 私自身は、これこそが親鸞聖人の深い教えの肝ではないかと愚考致しました。

 西念寺

 承元の法難(浄土宗では建永の法難)で越後国に配流された親鸞聖人(1173~1262年)は、その後、すぐ京都に戻ることなく、常陸国の「稲田草庵」と呼ばれた地に留まり、関東布教の拠点にします。

 親鸞聖人と家族はこの地に20年(1214~35年、数え年42歳から63歳にかけて)も住み留まり、親鸞はここで「教行信証」を執筆したと言われます。現在の茨城県笠間市の稲田禅房西念寺です。浄土真宗別格本山です。私も今年6月に、この寺院を参拝し、その頃から「教行信証」を読み始めたのでした。

しこりを残した浄土真宗本願寺派と高田派の争い=北陸の戦国興亡史

 昨日も取り上げた「歴史人」11月号「戦国武将の国盗り変遷マップ」特集ですが、全国でも異彩を放っているのが「『北陸』の戦国興亡史」です。文明6年(1474年)、加賀の守護富樫氏の家督相続争いに浄土真宗の本願寺派(一向宗)と高田派が分かれて戦い、弱体化した富樫氏を凌駕して本願寺の「加賀三箇寺(さんかじ)」(本泉寺、松岡寺、光教寺)が北陸の支配権を確立したりするからです。

 宗教とは何か、と思ってしまいますね。この本には軍事的戦略について詳細されていませんが、お寺のお坊さんや門徒たちが、武士という軍事専門集団に互角かそれ以上に戦って勝ってしまうということは、僧兵などという生易しいものではなく、武士と同じような鎧兜で武装し、弓矢や刀剣などの軍備は、武装集団以上だったのかもしれません。(一向一揆は農民だけでなく武士も参戦したようです)

 人を殺めることは仏教の戒律に反するはずですが、破戒してもそれに見合うメリットがあったからなのでしょう。寺院による支配権・自治権を持つということは経済的基盤を確立するということに他ならないからでしょう。寺社領から収穫される農作物を取り立てたり、領民から税を徴収したりしていたに違いありません。

 いずれにせよ、北陸地方は、他の日本各地と比べて、異様です。戦国武将同士だけの戦いではなく、浄土真宗の門徒らが参戦した三つ巴、四つ巴の争いで複層しています。そして、一向宗一揆が強かったのは、門徒たちが「死ねば極楽浄土に行ける」と信じて、命知らずにも勇敢に戦ったせいなのかもしれません。

「北陸」の戦国興亡史を年表風にするとー。

1474年 応仁・文明の乱で東軍に属した加賀の守護富樫政親(まさちか)が、西軍に属した弟の幸千代(こうちよ)と家督争い。本願寺派を味方につけた政親が、高田派の専修寺を味方につけた幸千代を追放。

1475年 越前朝倉孝景、権勢を強めた本願寺派8世蓮如の吉崎御坊を攻め落とす。蓮如、吉崎を去り、山科に本願寺建立。

1487年 富樫政親が本願寺派の弾圧を始めたため、加賀一向一揆が勃発。本願寺派は政親居城の高尾城を落とし、政親自害に追い込む。

1493年 明応の政変。10代将軍足利義稙(よしたね)が畠山政長らを率いて、畠山義豊(義就の嫡男)を追討するために河内に出陣。その間隙に、細川政元が義稙と対立していた足利義澄を11代将軍に擁立。畠山政長、自害。

1506年 本願寺派加賀本泉寺の蓮悟、本願寺派9世実如(蓮如の第8子)の支援を仰ぎ、11代将軍義澄を擁す細川政元の要請で越前侵攻。10代将軍義稙を匿う越前の朝倉貞景、本願寺派と対立する高田派の勝鬘寺、本流院、称名寺などを味方につける。朝倉貞景、不意討ちで本願寺派の門徒を一掃。

1507年 細川政元、暗殺死。政元の養子澄元(11代将軍義澄派)と高国(10代将軍義稙派)の覇権争い。澄元の子晴元が高国を敗死に追い込み、12代将軍義晴を擁立。一向一揆の強大化を怖れた晴元、法華宗と結び、山科本願寺を焼却。本願寺派10世証如(実如の孫)、大坂の石山本願寺に移る。(後に織田信長が石山本願寺を攻略し、その跡地に豊臣秀吉が大坂城を建立することになります)

 以下略

 こうして見ると、同じ浄土真宗でも本願寺派と高田派は敵・味方に分かれて血と血で争う歴史があったことが分かります。

 学生時代の親友T君は神童で、中学校は三重県の地元の名門高田中学に通いましたが、この学校は浄土真宗高田派の学校でした。授業で宗教の時間があり、親鸞聖人の教えは熱心に教えてくれましたが、本願寺の話になると、「そういうものもある」と大変素っ気なかったんだそうです。浄土真宗といえば、西本願寺と東本願寺と築地本願寺ぐらいしか知らない人にとっては驚きです。

 でも、こうして歴史を見ると謎が解けましたね。先生は、550年も昔に起きたこと(本願寺派と高田派専修寺との争い)を忘れていなかったということなのでしょうね。

「歎異抄」を読む=邪道に興味を持つ救いようのない悪人である私

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 私は長年、ジャーナリズムの世界にいるので、職業病なのか、何でも斜に構えて物事を搦め手から見る傾向があります。当事者ではないからです。何か話題になるようなことが起きれば取材しますが、いつも第三者ですから、それらの事象は醒めた目で見なければなりません。何でもそうです。政治の世界は当然ながら、普通の人が楽しんでいるスポーツや芸能の世界まで正面から観察しません。いつも、これは何か裏があるな、と猜疑心の目を持って見ます。だから楽しめません(笑)。娯楽にもなりません。

 宗教の世界もそうです。教祖や開祖の教義よりも、分派した経緯やイザコザや争いの方に興味を持ってしまいます。実に邪道です。罰当たりです。分かっています。

 先日、「もっと古典を読もう」と一念発起し、親鸞の直弟子・唯円が書いたと言われる「歎異抄」を再読しました。若い頃読んだ時、よく理解できなかったのですが、ここ数年、柳宗悦「南無阿弥陀仏」や法然「選択本願念仏集」等を読んできたので、何とか読むことができました。「歎異抄」は、親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の悪人正機説が有名ですが、阿弥陀仏の大慈悲を絶対視する(とまでは言ってませんが)「他力本願」を重視した書と言えるでしょう。歎異抄とは、師・親鸞亡き後、異説が蔓延る世を嘆く、という意味です。親鸞聖人がお伝えしたかった本当のことを会得してほしい、といったことを意図した書です。

 「歎異抄」は、昔買った中央公論社の「日本の名著」に収録されている石田瑞麿・東海大教授による現代語訳を読んだので、数時間で読めました。それで満足していたら、ネット上で実に精細に「歎異抄」を分析して原文と現代語訳を対比したサイトを偶然発見しました。驚いたことに、このサイトでは、石田瑞麿も含み、梅原猛、五木寛之、阿満利麿、倉田百三、暁烏敏、松原泰道、紀野一義、野間宏ら錚々たる宗教学者や作家といった各氏の現代語訳や解釈の誤りを指摘して、「親鸞聖人の書き残されたものとは合わない」とまで言うのです。そして、「歎異抄の正しい解説は、ほとんどの学者ができません」「最も正確で、分かりやすい解説書」はこの本しかない、とばかりに、新聞でよく広告を見かけるある一冊の本がアマゾンの宣伝付きで紹介されていました。

法然上人

 確かに、このサイトは分かりやすく、明解な解説で読み応え十分です。例えば、「摂取不捨の利益」を「絶対の幸福」と訳すあたりは「凄いなあ」と感心しますが、その解釈が正しいのか、また、過去の碩学の解釈がこのサイトが指摘している通りに大間違いなのか、私自身は無学で判断できません。京都A寺の御住職さまならすぐ分かるかもしれませんが、私はただ、「これは宗教論争なのかなあ」と思ったり、「ある本を売るための宣伝サイトなのかな」と思ったりします。

 そして、何よりも、こうした解釈の違いこそが、弟子による分派や新教団設立などが生まれていくのではないかと、罰当たりの不逞の輩である私なんか思ってしまいます。

 例えば、親鸞は自らは生涯を法然の弟子として過ごし、新しく教団を設立する意思はなかったと言われています(親鸞は、法然190人の門弟の中の86番目の弟子だったと言われます。そのせいか、もしくは、故意なのか、作為的なのか、寺内大吉の名著「念仏ひじり三国志―法然をめぐる人々」に親鸞はほとんど登場しません)。浄土真宗(という教団)をつくったのは、京都で親鸞の最期を看取った末娘の恵信尼の孫の覚如だと言われてます。ところが、これは本願寺派の話で、他にも東国の門徒を中心にして教団が継承された高田門徒(専修寺派)や荒木門徒など他にも沢山の分派があるのです。

 浄土真宗といえば、中興の祖・蓮如がすぐ思い浮かび、西本願寺と東本願寺、それに築地本願寺と有名な寺院が多く、本派本流だと思っていました。そしたら、特に真宗高田派は、15世紀に加賀の守護富樫氏の内紛の際に、本願寺派と敵対し、同じ宗派なのに、その後も度々、相争ったりしています。私の学生時代の畏友T氏は、この真宗高田派の名門中学校に通いましたが、仏教の授業では「とにもかくにも親鸞聖人様。本願寺派のことは扱いはするが、ただ『そっちもある』みたいな冷淡さだった」というのです。これには私のような素人は「へー」と、腰を抜かすほど驚いてしまいましたね。高田派は、浄土真宗とは言わず、正式には単に真宗とだけいうことも後で知りました。

 このように、神聖な宗教に対してさえも、ブンヤの私は、例えば、浄土真宗の信者(門徒)数は国内最大、その理由は何故かなどといった邪道な逸話ばかりに興味を持ってしまいます。

 ついでながら、最近、もう一つ、驚いたことは、日本の仏教の祖ともいうべき天台宗の開祖最澄(767~822年)が近江出身(今の大津市坂本本町生まれ)だということは知っていましたが、宗教学者の塩入良道・大正大学教授によると、最澄は、後漢の王族の帰化人の子孫と伝える三津首百枝(みつの おびと ももえ)の子息だというのです。となると、最澄=三津広野は渡来人(の子孫)だったということになります。

 嗚呼、普通の人なら京都の清水寺が何宗で、金閣寺が何宗なのか、融通念仏宗と天台宗との違いは何なのか、なんて気にしないでしょう。私のように、こんな邪道ばかり探っていては、地獄に堕ちることでしょうね。地蔵菩薩さまに救いを求めるしかありません。

 

釈徹宗著「法然親鸞一遍」を読む

 小生、最近は、皆様ご案内の通り、仏教思想に再び目覚めて、通勤電車の中では、隣席でスマホゲームに夢中になっている老若男女を横目でチラと見つつ、ひたすら仏教関係の本を読んでいます。「自分は一体何をやっているのだ。隣席の人たちと同じようにもっと遊べばいいのに」と自問しつつ、勉強の方が好きなのでしょう、先日は、釈徹宗著「法然親鸞一遍」(新潮新書)を読了しました。2011年10月20日の初版ですから、もう8年前の本ですが、不易流行です。

 タイトルからして、法然〜親鸞〜一遍の思想遍歴を辿った「柳宗悦著『南無阿弥陀仏』(岩波文庫)の影響かしら」と思いましたら、本文の中での引用も含めて、この柳宗悦本がしっかり取り上げられていたので、何故か嬉しかったです。これまで過小評価されてきた時宗の開祖一遍の見直しも出てきたので、これもまた嬉しかったです。

 著者は、浄土真宗本願寺派の住職であり、大学教授であり、NPO法人の代表でもあるという何足もの草鞋を履き、著書もかなり多くあり、文名も上がっています。浄土真宗の住職なので、親鸞のことに重点が置かれているかと思いましたら、三者三様にある程度の批判も交えつつ同格に描かれ、宗教学者としての学術的中立性が保たれているように見受けられました。入門書として相応しいでしょう。

 開祖である三人の高僧の中で、私自身が一遍上人に惹かれた最大のお言葉は、以下の語録です。(ちなみに、一遍は死の直前に全ての自著を焼却してしまったといいます)

 「念仏の行者は智慧をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願ふ心をも捨て、一切の事をも捨てて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に尤もかなひ候へ」(一遍上人語録)

 (現代語訳)念仏者は、智慧も捨て、煩悩も捨て、善悪の境界も捨て、貴賤も捨て、地獄を怖れる心も捨て、極楽を願う心も捨て、仏教の悟りも捨て、一切のことを捨てて申す念仏こそ、阿弥陀仏の本願に最もかなうものなのです。

 つまり、浄土教というのは、念仏を唱えて、極楽浄土に往生することを願う教えかと思っていたら、それさえ「一切捨ててしまいなさい」と一遍上人は言うのです。危険思想と言ってもいいくらいの純化した究極の思想です。

 でも、一遍は、ただ「捨てなさい」とだけ言っているわけではなく、「任」に転換しなさい、つまり、「任せなさい」とも言っているのです。(阿弥陀如来を信じなさい)

 孫引きながら、著者の釈氏は、唐木順三の「無常」などを引用しながら、「唐木によれば、法然・親鸞は『浄土と穢土』『煩悩と菩薩』などが二元的に対立しており、しかもこの両者は最後までおのが罪業性を捨て得なかったことになります。それに対して、一遍は『捨てる』という主体さえなく、『任せる』という次元に到達している。それこそが融通無碍、自在の世界というわけです」とまで主張します。

一遍については、「法然・親鸞が開いた世界を平安時代の習俗宗教に逆戻りさせてしまった」と批判される一方、「法然・親鸞を超えて浄土仏教を完成させた」と高く評価する人もいます。

 私は、一遍が法然・親鸞を超えたとまでは思いませんが、一遍が唱えた「聖俗逆転」の思想は、実に恐ろしいほど革命的です。つまり、大変大雑把な言い方ですが、「無量寿経」で語られる出家者を上輩、在家者を中輩、念仏者を下輩としていたのを、一遍は、戒律に捉われない念仏者こそ上根で、在家者を中根、出家者を下根と、大逆転させてしまったのです。こんなこと、法然、親鸞すら思いもつかなかったことでした。

法然は、従来の仏教の中から二項対立構造で取捨選択して、他力の浄土門の専修念仏を説き、親鸞は法然が純化した仏教をさらに徹底し、非仏教的信仰を削ぎ落とした、と著者は言います。法然、親鸞については自分自身、まだまだ勉強が足りないので、もっと精進しなければならないと思っています。

 ただ、私は、定住せず、自己の信念を貫いて51歳の生涯を終えた「捨聖(すてひじり)」一遍にどういうわけか惹かれてしまいます。我々が、とてもまね出来ない、及びもつかない修行僧だからでしょう。いつか「一遍上人伝絵巻」を拝見したくなりました。

浄土教の系譜=法然ー親鸞ー一遍は三者で一人格

 前々回に日本浄土思想に魅せられた話を書きましたが、今回はその続きです。

 書店で偶然、柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を見つけて、長年抱いていた浄土教に関する疑問が氷解したことまで書きました。その前に、美術評論家である柳宗悦が何故、宗教書を書いたのか、ということでした。

 時宗の開祖である「一遍上人絵伝」(歓喜光寺蔵)の一枚の絵を見て感銘し、一遍上人のことをもっと知りたいと思ったことがきっかけの一つだったようです。美術から宗教に分け入ったということになります。私も若き頃、キリスト教徒でもないのに、「聖書」を熟読しましたが、「救いを求めて」以外では、その理由として、西洋美術では多くの題材が聖書からの引用で、「聖マタイの召命」にせよ、「ペテロの改悛」にしろ、鑑賞する際に聖書を読んでいないと描かれた深い意味が分からなかったからでした。

  柳宗悦の場合、 この本を読むと、美術史家というより、専門の宗教評論家と言っていいくらい、あらゆる経典に目を通していることが分かります。驚嘆します。

 著書「南無阿弥陀仏」は、昭和26年から29年にかけて「大法輪」(昭和9年から毎月発行されている仏教総合誌)に連載されたものを加筆して昭和30年に単行本として出版されたものです。何といっても、若い人向けに書かれているので、文章が分かりやすいのです。柳は「例えば、『依正(えしょう)二報』とか『化土に二種あり、一には疑城胎宮(ぎじょうたいぐ)、二には懈慢辺地(けまんへんじ)』などと書いても、一般の若い読者には何のことか全く通ぜぬであろう。たとえ辞書や解説に頼ったとて、何故こんな表現を用いずば真理を伝え得ないのか、むしろ反感さえ起こさせるであろう」とまで書いてます。

 この本の画期的なことは、執筆当時、文献もほとんどなく、信徒以外はほとんど顧みられていなかった一遍上人にスポットライトを当てたことです。語弊がある大雑把な言い方ですが、浄土宗を開いた法然→それを止揚(アウフヘーベン)して浄土真宗を確立した親鸞→さらにこの二つの宗教を統合して時宗として浄土教を完結させた一遍、という捉え方です。これは優劣ではなく、誰一人欠けても日本の浄土思想は完成しなかったという考え方です。まるで、正ー反ー合の弁証法的思考みたいですが、3人の違いについてはこの本に沿って、 追々明らかにしていくつもりです。

 柳宗悦は、法然、親鸞、一遍の三者を一者の内面的発展として捉え、「3人ではあるが、一人格の表現として考えたい」と論考を進めます。ですから「今までは浄土宗の人は、とかく真宗のことをよく言わぬ。恐らく嫉妬の業であろうか。また、真宗の人は、自分の方が浄土宗より進んだものだという風な態度に出る場合が多い。恐らく高慢の業によるものだろう。しかし、法然なくして親鸞なく、親鸞なくして法然の道は発展せぬ。それで二者はむしろこれを一人格の表現と見る方がよい。宗派に囚われると、どうもそういう見方が封じられてくる」とまで主張しています。

◇西山義の哲学的深さ

 法然の入滅後、浄土宗は大きく五派に分流します。長西の「諸行本願義」と幸西の「一念義」は、祖師の意に悖るものとして排せられ、隆寛の「多念義」は途絶え、今日残るのは聖光坊弁長の鎮西派と 善慧房証空の西山派の二流です。「中でも鎮西が本流を相承し、今日浄土宗といえば(知恩院総本山の)鎮西派を意味するこに至った。これは恐らく、鎮西の流れに有能な中興の祖が輩出したのによるのと、徳川家の菩提宗(増上寺など)となって繁栄を来したがためであろう。しかしこの派において説く『二類往生』の考え(念仏に非ざる行にも往生を認めるという立場)は如何なものだろうか。純教義の上から見ると、鎮西よりもむしろ西山義の『一類往生』(念仏の義のみ往生を認める)の方が、一段と祖師の原意を発揚したものと思われてならぬ。その西山の教学には一層の哲学的深さがあるといえるであろう」(58ページ)と、柳宗悦は語っています(小生が一部、寺院名を挿入)。

 この箇所は、西山浄土宗安養寺の村上住職も大喜びするのではないか、と読みながら思ってしまいました。

 ちなみに、時宗の開祖一遍は、浄土宗西山派の祖、証空の弟子の聖達(しょうたつ)の弟子に当たります。証空の孫弟子です。ということは、時宗は、浄土宗の中でも西山義の影響が強いと言えます。

 浄土真宗について、柳宗悦は「人も知る親鸞上人を開祖とする。彼自らは一宗を起こす意向はなかったであろう。偏えに師法然の教えを守ろうとしたのである」とはっきりと書いています。その一方で「この真宗は一時衰えを見せたが、足利時代に蓮如上人が出づるに及んで、宗勢とみに栄え、ついに念仏門中比類なき檀徒の数を得、寺院の数を増し、巨大な一宗となって今日に及んでいる。…この派に妙好人が引き続き現れる事実は看過することができぬ。この意味で、祖師法然の志を最も正しく継いだものといえよう。浄土真宗たる所以である」とまで分析しています。

 この後、本書では、法然が選択した「三部経」とは何か。その中の「第十八願」が何故、最も重要で大切なのか。そもそも南無阿弥陀仏とはどういう意味なのか。念仏とは何か。何故、法然は仏教を超えて日本思想上も最も偉大な革新的な思想家といわれるのか。…などと具体的に核心の部分に入っていきます。

(つづく)