しこりを残した浄土真宗本願寺派と高田派の争い=北陸の戦国興亡史

 昨日も取り上げた「歴史人」11月号「戦国武将の国盗り変遷マップ」特集ですが、全国でも異彩を放っているのが「『北陸』の戦国興亡史」です。文明6年(1474年)、加賀の守護富樫氏の家督相続争いに浄土真宗の本願寺派(一向宗)と高田派が分かれて戦い、弱体化した富樫氏を凌駕して本願寺の「加賀三箇寺(さんかじ)」(本泉寺、松岡寺、光教寺)が北陸の支配権を確立したりするからです。

 宗教とは何か、と思ってしまいますね。この本には軍事的戦略について詳細されていませんが、お寺のお坊さんや門徒たちが、武士という軍事専門集団に互角かそれ以上に戦って勝ってしまうということは、僧兵などという生易しいものではなく、武士と同じような鎧兜で武装し、弓矢や刀剣などの軍備は、武装集団以上だったのかもしれません。(一向一揆は農民だけでなく武士も参戦したようです)

 人を殺めることは仏教の戒律に反するはずですが、破戒してもそれに見合うメリットがあったからなのでしょう。寺院による支配権・自治権を持つということは経済的基盤を確立するということに他ならないからでしょう。寺社領から収穫される農作物を取り立てたり、領民から税を徴収したりしていたに違いありません。

 いずれにせよ、北陸地方は、他の日本各地と比べて、異様です。戦国武将同士だけの戦いではなく、浄土真宗の門徒らが参戦した三つ巴、四つ巴の争いで複層しています。そして、一向宗一揆が強かったのは、門徒たちが「死ねば極楽浄土に行ける」と信じて、命知らずにも勇敢に戦ったせいなのかもしれません。

「北陸」の戦国興亡史を年表風にするとー。

1474年 応仁・文明の乱で東軍に属した加賀の守護富樫政親(まさちか)が、西軍に属した弟の幸千代(こうちよ)と家督争い。本願寺派を味方につけた政親が、高田派の専修寺を味方につけた幸千代を追放。

1475年 越前朝倉孝景、権勢を強めた本願寺派8世蓮如の吉崎御坊を攻め落とす。蓮如、吉崎を去り、山科に本願寺建立。

1487年 富樫政親が本願寺派の弾圧を始めたため、加賀一向一揆が勃発。本願寺派は政親居城の高尾城を落とし、政親自害に追い込む。

1493年 明応の政変。10代将軍足利義稙(よしたね)が畠山政長らを率いて、畠山義豊(義就の嫡男)を追討するために河内に出陣。その間隙に、細川政元が義稙と対立していた足利義澄を11代将軍に擁立。畠山政長、自害。

1506年 本願寺派加賀本泉寺の蓮悟、本願寺派9世実如(蓮如の第8子)の支援を仰ぎ、11代将軍義澄を擁す細川政元の要請で越前侵攻。10代将軍義稙を匿う越前の朝倉貞景、本願寺派と対立する高田派の勝鬘寺、本流院、称名寺などを味方につける。朝倉貞景、不意討ちで本願寺派の門徒を一掃。

1507年 細川政元、暗殺死。政元の養子澄元(11代将軍義澄派)と高国(10代将軍義稙派)の覇権争い。澄元の子晴元が高国を敗死に追い込み、12代将軍義晴を擁立。一向一揆の強大化を怖れた晴元、法華宗と結び、山科本願寺を焼却。本願寺派10世証如(実如の孫)、大坂の石山本願寺に移る。(後に織田信長が石山本願寺を攻略し、その跡地に豊臣秀吉が大坂城を建立することになります)

 以下略

 こうして見ると、同じ浄土真宗でも本願寺派と高田派は敵・味方に分かれて血と血で争う歴史があったことが分かります。

 学生時代の親友T君は神童で、中学校は三重県の地元の名門高田中学に通いましたが、この学校は浄土真宗高田派の学校でした。授業で宗教の時間があり、親鸞聖人の教えは熱心に教えてくれましたが、本願寺の話になると、「そういうものもある」と大変素っ気なかったんだそうです。浄土真宗といえば、西本願寺と東本願寺と築地本願寺ぐらいしか知らない人にとっては驚きです。

 でも、こうして歴史を見ると謎が解けましたね。先生は、550年も昔に起きたこと(本願寺派と高田派専修寺との争い)を忘れていなかったということなのでしょうね。

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