かなりの知的労働作業?=中村京蔵 爽涼の會「フェードル」

 土曜日、久しぶりに、恐らく4年ぶりに舞台芸術を鑑賞しました。勿論、コロナのせいです。久しぶりだったせいか、その世界に没入するのが最初は大変でしたが、最後は終了するのが惜しいぐらいに感じました。

 舞台は、私の数少ない歌舞伎役者の友人である中村京蔵丈(京屋)の自主公演である爽涼の會です。今年の演目は、フランスのラシーヌの古典劇「フェードル」を翻案した同名作品(岩切正一郎訳)です。ラシーヌの原作は、ギリシャ悲劇を題材につくられていますが、京屋さんの舞台も、登場人物がアテネ王テゼ(池田努)もその妻で王妃のフェードル(中村京蔵)も、フェードルの義理の息子の禁断の恋の相手であるイポリット(須賀貴匡)も、そのまま、その名前で舞台に現れます。しかも、舞台衣装は、男性は、恐らく、日本の戦国時代と思われる甲冑姿で、女性は艶やかな和服姿ですから、和洋折衷といいますか、うーん、何と言いますか、日本人の武将が「フェードル!」などと叫ぶと、どう理解したらいいのか、正直、最初は頭の中が混乱してしまいました。

 まさに、歌舞伎でもない、新劇でもない、ギリシャ劇でもフランス古典劇でもない、21世紀の革新劇でした。

 それにしても、翻訳台本通りでしょうが、あまりにも長い台詞に驚きつつ、役者さんには少し同情してしまいました。演じる方も観る方もかなりの知的労働作業ではないかと思いました(笑)。私の左隣席の高齢の御婦人と中年の令夫人は、暗い客席で船を漕いでおられました。

 何で京屋さんが、「フェードル」を取り上げたのか、会場内で配布されたプログラムを読んでやっと理解できました。京屋さんがラシーヌの「フェードル」を知ったきっかけは三島由紀夫で、三島は、この作品を翻案して、「芙蓉露大内実記(ふようのつゆ おおうちじっき)という歌舞伎の義太夫狂言に仕立てていたというのです(三島は29歳か30歳ぐらいですから、やはり天才ですね)。これは、1955年11月に歌舞伎座で、六世中村歌右衛門と二世實川延二郎の主演で一度だけ上演されたといいます。三島は、舞台を戦国時代の大内氏による尼子攻めに設定し、フェードルを芙蓉の前、イポリットを大内晴時などとしました。京屋さんは、その舞台は観ていませんが、学生時代から三島の演劇台本を熟読していて、三島とは違うフェードルをつくりたいという構想を抱いていたといいます。

 今回、舞台に登場する人名も地名もそのまま翻訳台本のままにして、扮装を和様式にしたのは、京屋さんが1980年に日生劇場で観た蜷川幸雄演出の「NINAGAWA・マクベス」の影響だということもプログラムの中で明かしておられました。

 よく知られていますように、中村京蔵さんは国立劇場歌舞伎俳優養成所の御出身です。歌舞伎は江戸時代に始まった伝統芸能ですから、身分社会の残影から家筋が重視されております。幹部俳優とそれ以外では長くて深い溝があります。割り当てられた役に対して不満を抱く「役不足」は、歌舞伎から来た用語だという説もあります。それだけ、役は重要なのですが、歌舞伎の場合、主役は幹部俳優しか演じられない伝統があります。

 それだけに、中村京蔵さんは、毎年、自分のプロデュースと主演で自主公演を開催されているわけですから、大変な資本が掛かります(今回はクラウドファンディングを実施されました)。本当に頭が下がるといいますか、尊敬しております。

 1966年に開場された国立劇場は、今年10月で閉館して建て直しされるそうですね。私はあの校倉造り風の建物が大変好きで、まだまだ持つんじゃないかと思っていましたが、日本人はスクラップアンドビルドが大好きですからね。

 2029年秋に再開場されるという話ですが、6年後ですか!生きているかなあ?

 ちなみに、この国立劇場の辺り、江戸時代はあの渡辺崋山の田原藩の上屋敷があった所でした。渡辺崋山は蛮社の獄で蟄居を命じられ、自害した蘭学者であり、画家でもあり、私も偉人としてとても尊敬しています。特に、ドナルド・キーン著「渡辺崋山」を読んで、その人となりを知りました。画家としては、谷文晁に師事しただけあって、「鷹見泉石像」は国宝に指定されています。鷹見泉石は古河藩(現茨城県)の家老で、優れた蘭学者であり、大塩平八郎の乱を平定した人としても知られています。

ドナルド・キーン著「渡辺崋山」

 トムラウシ

 

公開日時: 2007年6月12日 @ 09:25

ドナルド・キーン著(角地幸男訳)「渡辺崋山」(新潮社)を読了しました。こんな魅力的な日本人がいたとは知りませんでした。日本人として誇りを持ちます。歴史に埋もれてしまった崋山を「再発見」してくれた米国人のキーンさんに感謝したくなりました。(キーンさんは、日本人以上に日本的な人なのですが…)

 

渡辺崋山(1793-1841年)といえば、どこか小藩の武士でありながら、蘭学者で、徳川幕府の政策に異議を申し立てて、いわゆる「蛮社の獄」で捕縛されて獄死した。「慎機論」という著作があった…という程度の知識だったのですが、この本を読んで、私の知識の大半が間違いで、彼について何も知らなかったということが分かりました。

 

 本職は、今の愛知県にある田原藩の藩主の側用人にまで取り立てられ、藩政の改革に尽力を尽くした武士なのですが、彼の名声を高めたのは何と言っても「近代絵画の祖」とも言うべき画家としてです。谷文晁に弟子入りし、あの時代に浮世絵とは全く違う西洋風で写実的な肖像画を数多く残したのです。「鷹見泉石像」は、国宝に指定されていることはよく知られています。崋山の友人だった鷹見は、下総国古河藩の家老で、「大塩平八郎の乱」の鎮圧を指揮した人物だったということも、この本ではじめて知りました。

 もともと儒学者だった崋山が洋学に近づいたのも藩政の改革、沿岸警備のための参考と絵の技法を学ぶために、知識を取り入れる目的がありました。ですから、蘭学者とはいっても、オランダ語が相等できたわけではなく、文献は小関三英(崋山捕縛の報を聞いて自殺)や高野長英(蛮社の獄で連座)らに翻訳してもらっています。幕府の「異国船打払令」に反対したのも、西洋事情に精通していたためで、幕府転覆など大それたことは考えていなかったのです。その当時、庶民や幕府の幹部が誰も知らなかった阿片事件など世界史的事件を知っていて、鎖国政策が如何に時代遅れであるかを認識していたからです。

 結局、崋山の捕縛も、保守派で蘭学嫌いで、大儒学者・林述斎の三男である大目付の鳥居耀蔵による「でっち上げ」に近いものだったのです。本書で書かれたことで私にとって圧巻だったのは、「いざという時に、人間の本性が現れる」という事実を発見したことです。人間、それは江戸時代でも現代でも何ら変わりがありません。

 

 崋山が捕縛された途端、あれ程親しかった友人、知人、親友、師匠、弟子らが自分にも嫌疑が及ぶと恐れて手の平を返したように「崋山と自分とは無関係なり」と主張し、崋山救済のために何もしようとしなかったのです。この歴史的事実は忘れてはいけません。とりわけ明記したいのは、「南総里見八犬伝」で知られる有名な戯作者の滝沢馬琴と、佐久間象山、横井小楠ら俊才を多く育成し、「弟子三千人」ともいわれた儒学者の佐藤一斎の二人です。

 滝沢馬琴は亡き息子の肖像画を崋山に依頼し、崋山とはかなり頻繁に会っていたにも関わらず、「特に親しくなかった。蘭学をする者など快く思っていなかった」という自己保身の手紙を残しています。馬琴の息子と崋山は同じ文晁の弟子で、一緒に画を学んだ友人でもありました。馬琴も崋山の才能を早くから見抜いて若い時からかわいがっていたのです。それが…。

 佐藤一斎は、崋山の漢学の師であり、何点かの自分の肖像画を描かせているのに、彼のために何も尽力しなかった。助命運動に連名することさえ拒否するのです。美濃国岩村藩家老の子として江戸屋敷で生まれ、藩主の子林述斎(鳥居耀蔵の父親)と一緒に儒学を学んだ経歴があります。鳥居に遠慮したのでしょう。しかし、これには、さすがのキーンさんも「ひどい仕打ち」と、この本の中ではっきり書いています。今、「佐藤一斎に学ぶ」ような本が盛んに出版されていますが、「人の裏切り方」を学ばせるつもりなのでしょうかねえ?

 その半面、崋山の助命運動に誠心誠意、奔走したのが儒学者の松崎慊堂(こうどう=崋山による肖像画が口絵に載っています)であり、画の弟子であった椿椿山(つばき・ちんざん=先生崋山を描いた肖像画がこの本の表紙になっています)らだったということは、後世の人間として忘れてはならないと思います。馬琴や一斎ほど有名ではないにしても、逆に、有名人といえども、この程度のもの、と認識すべきなのかもしれません。

 最後に私のうろ覚えの知識の間違いを訂正しなければならないのですが、崋山は獄死したのではなく、生涯のほとんどが江戸詰めだった崋山は、江戸から所払いされて、田原藩に蟄居を命じられます。そこで、乞われるまま、生活のために画を描いていたのですが、主君に迷惑が及ぶのを怖れて切腹しています(享年48歳)。著作の「慎機論」は、公に出版されたものではなく、草稿の形で、捕縛された折、崋山の自宅から没収されたものでした。そこには、徳川幕府を批判する条項は見当たりません。洋学嫌いの鳥居耀蔵が、政治的野心から、気に入らない輩を捕縛するために、ただ難癖を付けただけという事実が後世になって分かるのです。