ドナルド・キーン著「渡辺崋山」

 トムラウシ

 

公開日時: 2007年6月12日 @ 09:25

ドナルド・キーン著(角地幸男訳)「渡辺崋山」(新潮社)を読了しました。こんな魅力的な日本人がいたとは知りませんでした。日本人として誇りを持ちます。歴史に埋もれてしまった崋山を「再発見」してくれた米国人のキーンさんに感謝したくなりました。(キーンさんは、日本人以上に日本的な人なのですが…)

 

渡辺崋山(1793-1841年)といえば、どこか小藩の武士でありながら、蘭学者で、徳川幕府の政策に異議を申し立てて、いわゆる「蛮社の獄」で捕縛されて獄死した。「慎機論」という著作があった…という程度の知識だったのですが、この本を読んで、私の知識の大半が間違いで、彼について何も知らなかったということが分かりました。

 

 本職は、今の愛知県にある田原藩の藩主の側用人にまで取り立てられ、藩政の改革に尽力を尽くした武士なのですが、彼の名声を高めたのは何と言っても「近代絵画の祖」とも言うべき画家としてです。谷文晁に弟子入りし、あの時代に浮世絵とは全く違う西洋風で写実的な肖像画を数多く残したのです。「鷹見泉石像」は、国宝に指定されていることはよく知られています。崋山の友人だった鷹見は、下総国古河藩の家老で、「大塩平八郎の乱」の鎮圧を指揮した人物だったということも、この本ではじめて知りました。

 もともと儒学者だった崋山が洋学に近づいたのも藩政の改革、沿岸警備のための参考と絵の技法を学ぶために、知識を取り入れる目的がありました。ですから、蘭学者とはいっても、オランダ語が相等できたわけではなく、文献は小関三英(崋山捕縛の報を聞いて自殺)や高野長英(蛮社の獄で連座)らに翻訳してもらっています。幕府の「異国船打払令」に反対したのも、西洋事情に精通していたためで、幕府転覆など大それたことは考えていなかったのです。その当時、庶民や幕府の幹部が誰も知らなかった阿片事件など世界史的事件を知っていて、鎖国政策が如何に時代遅れであるかを認識していたからです。

 結局、崋山の捕縛も、保守派で蘭学嫌いで、大儒学者・林述斎の三男である大目付の鳥居耀蔵による「でっち上げ」に近いものだったのです。本書で書かれたことで私にとって圧巻だったのは、「いざという時に、人間の本性が現れる」という事実を発見したことです。人間、それは江戸時代でも現代でも何ら変わりがありません。

 

 崋山が捕縛された途端、あれ程親しかった友人、知人、親友、師匠、弟子らが自分にも嫌疑が及ぶと恐れて手の平を返したように「崋山と自分とは無関係なり」と主張し、崋山救済のために何もしようとしなかったのです。この歴史的事実は忘れてはいけません。とりわけ明記したいのは、「南総里見八犬伝」で知られる有名な戯作者の滝沢馬琴と、佐久間象山、横井小楠ら俊才を多く育成し、「弟子三千人」ともいわれた儒学者の佐藤一斎の二人です。

 滝沢馬琴は亡き息子の肖像画を崋山に依頼し、崋山とはかなり頻繁に会っていたにも関わらず、「特に親しくなかった。蘭学をする者など快く思っていなかった」という自己保身の手紙を残しています。馬琴の息子と崋山は同じ文晁の弟子で、一緒に画を学んだ友人でもありました。馬琴も崋山の才能を早くから見抜いて若い時からかわいがっていたのです。それが…。

 佐藤一斎は、崋山の漢学の師であり、何点かの自分の肖像画を描かせているのに、彼のために何も尽力しなかった。助命運動に連名することさえ拒否するのです。美濃国岩村藩家老の子として江戸屋敷で生まれ、藩主の子林述斎(鳥居耀蔵の父親)と一緒に儒学を学んだ経歴があります。鳥居に遠慮したのでしょう。しかし、これには、さすがのキーンさんも「ひどい仕打ち」と、この本の中ではっきり書いています。今、「佐藤一斎に学ぶ」ような本が盛んに出版されていますが、「人の裏切り方」を学ばせるつもりなのでしょうかねえ?

 その半面、崋山の助命運動に誠心誠意、奔走したのが儒学者の松崎慊堂(こうどう=崋山による肖像画が口絵に載っています)であり、画の弟子であった椿椿山(つばき・ちんざん=先生崋山を描いた肖像画がこの本の表紙になっています)らだったということは、後世の人間として忘れてはならないと思います。馬琴や一斎ほど有名ではないにしても、逆に、有名人といえども、この程度のもの、と認識すべきなのかもしれません。

 最後に私のうろ覚えの知識の間違いを訂正しなければならないのですが、崋山は獄死したのではなく、生涯のほとんどが江戸詰めだった崋山は、江戸から所払いされて、田原藩に蟄居を命じられます。そこで、乞われるまま、生活のために画を描いていたのですが、主君に迷惑が及ぶのを怖れて切腹しています(享年48歳)。著作の「慎機論」は、公に出版されたものではなく、草稿の形で、捕縛された折、崋山の自宅から没収されたものでした。そこには、徳川幕府を批判する条項は見当たりません。洋学嫌いの鳥居耀蔵が、政治的野心から、気に入らない輩を捕縛するために、ただ難癖を付けただけという事実が後世になって分かるのです。

“ドナルド・キーン著「渡辺崋山」” への2件の返信

  1. 驚き!
    テリー様 コメント有難う御座います。あんな長い文章を熱心に読んで戴き、感謝します。

    御宅に崋山の画があったのですか?驚きです。
    随分と由緒ある家系なのですね。
    でも、もったいない。今また崋山さんのブームですから、当時の何十倍で売れたことでしょう。
    私も拝見したかったですね。
    でも、キーンさんによると、崋山の画はまだまだ発掘されており、依然整理されておらず、目録もできていない状態だそうです。

  2. 渡辺崋山
    佐藤一斎は「老いて学べば、即ち死して朽ちず」と言志四録で述べていますね。学ぶことの尊さ、大事さを説いた人だけれども、「自重自愛」がこの人の根本だったのか、と思います。余談ですが、我が家には崋山の絵画があったんだけど、貧乏したときに画商に手放しました。実に40年ぶりに思い出しました・・・。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

旧《溪流斎日乗》 depuis 2005 をもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む