上総介の本当の意味とは?=「鎌倉殿の13人」の上総広常

  相変わらず、「歴史人」7月号の「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」特集を読んでいます。複雑な人物相関図なので、真面目にこの本を、他の本に掲載されている系図などを参照したりして読むと、読了するのに2~3週間は掛かる情報量があります。

 鎌倉幕府と中世史に興味が湧いたのは、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響です、と以前、このブログでも書きましたが、正直、ドラマは見ていてつまんないですね。戦記物の話なのに、三谷幸喜の脚本は、橋田壽賀子のファミリードラマみたいだからです。源平合戦のドラマなら、以前なら必ずといって良いぐらい出てきた、例えば、那須与一の扇の弓射だとか、熊谷直実と平敦盛との一騎打ちだとか、「見るべきほどのことは見つ」と壇ノ浦の戦いで最期の言葉を残した平知盛とか、奥州平泉の戦いでの弁慶の立ち往生などは、ワザとらしく、ことごとく故意に省略しおります。本人は、革新的に描いたつもりのようですが、画竜点睛を欠きますね。見たくもない親子、きょうだい間や御家人同士の嫉妬や憎しみ合いを重視している家族劇、心理劇を見せつけられている感じがします。

 そもそも三谷さんは合戦シーンを書くのが苦手なようです。6年前の「真田丸」でも重要な関ケ原の戦いの合戦場面が全く出て来ないので唖然としました。合戦シーンは人馬が多く登場し、ロケに莫大な費用が掛かります。となると、制作費が少なくて済む三谷さんは、「NHK泣かせ』ではなく、「NHK喜ばせ」です(笑)。だから、何度も大河ドラマの脚本家に指名されるんでしょうね。

 批評はこれぐらいにして、「歴史人」に戻りますと、87ページにこんな記述があります。

 (上総)広常は「介(すけ)」を称する地方官人で、受領(国司)からすれば使用人レベル。京にあっては院のそば近くにも寄れない卑小な存在。…

 と書かれていますが、何かの間違いではないかと思います。何故なら、上総国は、そのトップの長官職に当たる「守(かみ)」には皇族が任命されるからです。つまり、上総守は名誉職で、実際は次官に当たる上総介がトップだからです。ですから、「上総介が使用人レベル」という言い方はどうかなあ、と思うわけです。(それに、上総広常は2万騎の兵を引き連れて、頼朝に従った大豪族でした。)

 このような、トップに皇族が任命される国は、他に上野、常陸などがあり、「親王任国」と呼ばれます。皇族が実際に地方のトップとして任地に赴任する場合は少なく、実体は、その次官の上野介や常陸介がトップになるわけです。(古代より四等官は「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「目(さかん)」の順です、)

 ですから、歴史上、忠臣蔵で有名な吉良上野介や幕末の小栗上野介は出てきても、何とか上総守や上野守や常陸守は見かけないわけです。

 上総介といえば、戦国時代の織田信長がこの上総介を称していました。実際、信長の織田家は、地方の領主からやっと尾張守護代にまで這い上がって来た「成り上がり者」に過ぎません。(その当時の尾張守護は斯波氏)。何故、信長が上総介と称したのかというと、尾張守護代より上総介の方が格上だと思ったからだという説があります。私もそう思います。

 と思ったら、ネット情報ですが、こんな記事が出てきました。 

 桓武平氏の祖である高望王が平姓を賜った直後、上総介に任官し、「坂東平氏」が始まります。高望王の長男国香、次男の良兼、また五男良文の孫で、「平忠常の乱」で知られる忠常も上総介を名乗っていました。ということで、坂東平氏にとって「上総介」とは、平氏一門の総領格を意味しました。(一部換骨奪胎)

 なるほど、そいうことでしたかあ。

 信長の本名は、「平朝臣織田上総介三郎信長」というのだそうです。織田家は平氏の末裔を自認しているので、坂東平氏のトップである棟梁の意味を込めて上総介を自称したということかもしれません。

 ちなみに、徳川家康は新田氏の末裔を自称したので、源氏です。新田氏は、源頼朝と同じ河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が最も有名です。

 以前、日本近世史の専門で2年前に亡くなった山本博文・東大史料編纂所教授の本を読んでいたら、江戸時代になると、大岡越前守とか吉良上野介とかいう役職は必ずしもその実態が伴うものではなく、「官職」として売買され、自分の好きな国の守や介を自称できたというのです。ただし、江戸城がある武蔵国の守や介は「畏れ多い」ということで自称も他称もできなかったようです。

 あ、そうそう、大老職も本来、老中を長年務めた人の名誉職だったようで、井伊氏の大老職も、田沼意次から買った、と山本博文の著書(何の本だったか失念)に書かれていました。

 いつの世も、「金次第」ということなのかもしれません。

 

勝ち馬に乗って武力だけが頼みの世界=細川重男著「頼朝の武士団」を読了して

  細川重男著「頼朝の武士団」(朝日新書、2021年11月30日初版)を読了しました。

 当初、一昨日の渓流斎ブログ「鎌倉幕府は暗殺と粛清が横行した時代だった?」に【追記】として添え書きしようかと思ったのですが、少し長くなってしまうかもしれませんので、章を改めることに致しました。

 この本の前半の3分の2ほどは、2012年に洋泉社歴史新書yの1冊として刊行され、絶版となっていたのを改めて、朝日新書として後半3分の1ほどを書き加えて9年ぶりに再発行したものでした。前回も書きましたが、前半はちょっと人を喰ったような書き方でしたが、後半は、そういった筆致は改められて結構真っ当に学術的に書かれています。版元が変わるとこうも違うのでしょうか?

 前半は、源頼朝の生い立ちから薨去まで。書き加えられた後半は、頼朝薨去から承久の乱を経て伊賀氏の変の結末に至るまで描かれ、著者の言うところの頼朝の武士団の「完全版」となっています。前半も後半と同じようにあまり羽目を外さずに記述されていれば、これから800年は読み継がれる名著になっていたでしょうから、惜しまれます。

 それでも、非常に面白く、勉強になりました。

 私は学生時代に「平家物語」は、途中で挫折してしまったのですが、一番印象深かったのは、熊谷直実の逸話です。一ノ谷の戦いで、平敦盛を討ち取りますが、息子ほどの年齢の若武者の命を奪ったことで無常観を感じて、出家する動機となり、法然上人に弟子入りする話はあまりにも有名です。この話はその後、能や人形浄瑠璃、歌舞伎でも題材として取り上げられました。

 私は、この熊谷直実の軍団は数千規模の大きなものだと思っていたのですが、熊谷氏は直実と子息直実と家臣(旗差し)のたった3人しかいなかったんですね。「平家物語」巻九「一二之懸」にあるらしいのですが、忘れておりました(笑)。

 何と言っても、頼朝の御家人のトップ3といえば、相模の三浦氏(義澄、義村)、下総の千葉氏(常胤)、下野の小山氏(政光)だといいます。総勢2万騎と日本一の軍団を誇った上総広常は、頼朝が脅威を感じて、恩人だったはずなのに、結局、梶原景時に暗殺させています。(当時は、文字通り、多くの家臣も「鞍替え」して裏切ったりして、皆、疑心暗鬼で、親分・子分との間の抗争は激しかったことでしょう。)

 このビッグ3の三浦、千葉、小山、それに足利、新田、比企などは現在でも残っている地名ですが、どうやらこれらの苗字は、所領、つまり地名から来ているようです。でも、鶏が先か、卵が先か、どちらか分かりませんが、恐らく、地名から苗字になったということなのでしょう。他に、渋谷重国、江戸重長、葛西清重、海老名秀貞、河越重頼ら地名のような東国武将が登場しますが、こちらも所領名と関係がありそうです。

鎌倉 畠山重忠邸跡

◇源氏政権は平氏がつくった?

 この本の巻末の系図は大いに参考になりました。よく見ると、鎌倉幕府を成立させて源氏再興に貢献した北条氏も、三浦氏も、鎌倉党の梶原氏も、秩父党の畠山氏も、上総氏も千葉氏も、ほとんど皆、桓武平氏の流れを汲んでいるのです。

 あれっ?という感じです。天下を取った平清盛は、桓武平氏の中の「伊勢平氏」という一分派で、この分派が権力を独占したため、他の分派が反旗を翻したように見えます。前回にも書きましたが、源氏と平家との間の策略的な婚姻関係があり、源氏だろうが、平氏だろうが、各々お家のために、勝ち馬に乗ることが先決だったのでしょう。こういうことは現代人もやってますよね?(爆笑)。

 よく、鎌倉時代は、暗殺と粛清が横行し、言葉が通じない野蛮な世界というレッテルが貼られますが、当時は憲法もなく、法律も形骸化された、いわば無法地帯で、武力だけが頼みの世界でしたから、本能の赴くまま、太く短く生きるしかなかったのかもしれません。

 著者も書いている通り、頼朝の挙兵に参加した坂東武士たちは、一か八かの大博打に賭けたというのは、真実でしょう。