細川重男著「頼朝の武士団」(朝日新書、2021年11月30日初版)を読了しました。
当初、一昨日の渓流斎ブログ「鎌倉幕府は暗殺と粛清が横行した時代だった?」に【追記】として添え書きしようかと思ったのですが、少し長くなってしまうかもしれませんので、章を改めることに致しました。
この本の前半の3分の2ほどは、2012年に洋泉社歴史新書yの1冊として刊行され、絶版となっていたのを改めて、朝日新書として後半3分の1ほどを書き加えて9年ぶりに再発行したものでした。前回も書きましたが、前半はちょっと人を喰ったような書き方でしたが、後半は、そういった筆致は改められて結構真っ当に学術的に書かれています。版元が変わるとこうも違うのでしょうか?
前半は、源頼朝の生い立ちから薨去まで。書き加えられた後半は、頼朝薨去から承久の乱を経て伊賀氏の変の結末に至るまで描かれ、著者の言うところの頼朝の武士団の「完全版」となっています。前半も後半と同じようにあまり羽目を外さずに記述されていれば、これから800年は読み継がれる名著になっていたでしょうから、惜しまれます。
それでも、非常に面白く、勉強になりました。
私は学生時代に「平家物語」は、途中で挫折してしまったのですが、一番印象深かったのは、熊谷直実の逸話です。一ノ谷の戦いで、平敦盛を討ち取りますが、息子ほどの年齢の若武者の命を奪ったことで無常観を感じて、出家する動機となり、法然上人に弟子入りする話はあまりにも有名です。この話はその後、能や人形浄瑠璃、歌舞伎でも題材として取り上げられました。
私は、この熊谷直実の軍団は数千規模の大きなものだと思っていたのですが、熊谷氏は直実と子息直実と家臣(旗差し)のたった3人しかいなかったんですね。「平家物語」巻九「一二之懸」にあるらしいのですが、忘れておりました(笑)。
何と言っても、頼朝の御家人のトップ3といえば、相模の三浦氏(義澄、義村)、下総の千葉氏(常胤)、下野の小山氏(政光)だといいます。総勢2万騎と日本一の軍団を誇った上総広常は、頼朝が脅威を感じて、恩人だったはずなのに、結局、梶原景時に暗殺させています。(当時は、文字通り、多くの家臣も「鞍替え」して裏切ったりして、皆、疑心暗鬼で、親分・子分との間の抗争は激しかったことでしょう。)
このビッグ3の三浦、千葉、小山、それに足利、新田、比企などは現在でも残っている地名ですが、どうやらこれらの苗字は、所領、つまり地名から来ているようです。でも、鶏が先か、卵が先か、どちらか分かりませんが、恐らく、地名から苗字になったということなのでしょう。他に、渋谷重国、江戸重長、葛西清重、海老名秀貞、河越重頼ら地名のような東国武将が登場しますが、こちらも所領名と関係がありそうです。
◇源氏政権は平氏がつくった?
この本の巻末の系図は大いに参考になりました。よく見ると、鎌倉幕府を成立させて源氏再興に貢献した北条氏も、三浦氏も、鎌倉党の梶原氏も、秩父党の畠山氏も、上総氏も千葉氏も、ほとんど皆、桓武平氏の流れを汲んでいるのです。
あれっ?という感じです。天下を取った平清盛は、桓武平氏の中の「伊勢平氏」という一分派で、この分派が権力を独占したため、他の分派が反旗を翻したように見えます。前回にも書きましたが、源氏と平家との間の策略的な婚姻関係があり、源氏だろうが、平氏だろうが、各々お家のために、勝ち馬に乗ることが先決だったのでしょう。こういうことは現代人もやってますよね?(爆笑)。
よく、鎌倉時代は、暗殺と粛清が横行し、言葉が通じない野蛮な世界というレッテルが貼られますが、当時は憲法もなく、法律も形骸化された、いわば無法地帯で、武力だけが頼みの世界でしたから、本能の赴くまま、太く短く生きるしかなかったのかもしれません。
著者も書いている通り、頼朝の挙兵に参加した坂東武士たちは、一か八かの大博打に賭けたというのは、真実でしょう。