獨協大初のプロ、ヤクルト並木選手と荒木大輔さんの話=新富町「煉瓦亭」御主人との初会話

 これだけ銀座、築地、新富町とランチで色んな店を徘徊しているというのに、店の御主人と顔馴染みになって話をするようなお店はそれほど多くはありません。5~6軒、いや3~4軒ぐらいではないでしょうか。

 昔の歌謡曲に「東京砂漠」といった曲があったように、大都会では、なるべくソッとしておいて、他人のプライバシーに立ち入らず、良い意味で見て見ぬふりをしてあげる、というのが習わしになっているからだと思います。

 1895年創業で、カツレツなどの発祥地として知られる銀座の洋食屋「煉瓦亭」から暖簾分けした新富町の「煉瓦亭」(創業1963年)には月に2回ぐらいは通う馴染みの店ですが、カウンター席の目の前で配膳する御主人と話を交わすことはほとんどありませんでした(注文しますからねえ。それぐらい言葉は交わします=笑)。

 それがひょんな拍子で本日はおしゃべりすることになったのです。カウンター席から目の上にある壁には日ハム時代の大谷翔平ら沢山の野球選手やラグビー選手のパネル写真が飾られています。それらを食事が来る前に見るとはなしに見ていたら、御主人の篠原さんが、「その右端の写真のヤクルトの並木って選手、獨協大学の後輩なんですよ。独協から初めてプロになったんですよ」と、嬉しそうに私に話しかけてきたのです。

銀座「シシリア」(京都新聞東京支社地下)

 最近のプロ野球には私は疎くなってしまいましたが、確かに、並木秀尊選手(24)は、2020年のドラフト会議でヤクルトから5巡目で指名された外野手でした。背番号は「0」。俊足でならし、大学3年秋に参加した日本代表候補合宿の50メートル走計測で、「サニブラウンに勝った男」と呼ばれた中央大学の五十幡亮汰の5秒42を上回る5秒32を記録したことから、「『サニブラウンに勝った男』に勝った男」の綽名が付き、並木選手は、写真の色紙にも「『サニブラウンに勝った男』に勝った男」とサインしていました(笑)。

 3年目の今年は、82試合に出場し、打率2割7分4厘、本塁打1を記録しています。とにかく、「煉瓦亭」の御主人としては「獨協大からの初めてのプロ野球選手」ということで嬉しくてたまらないのです。本人は「我々の時は、草野球程度でしたよ」と大いに謙遜してましたが、実際は、首都大学リーグの獨協大学野球部のショートの巧打者として頑張っていたようなので、後輩の活躍に目を細めるばかりでした。

銀座「シシリア」ハンバーグ定食980円 安くて美味しい老舗店です

 獨協大学と言えば、2年前に亡くなった私の親友の神林康君の出身大学で、一度、埼玉県草加市にある獨協大の文化祭に行ったことがありました。当時、(今も)人気女優のかたせ梨乃も同大学出身で、もしかして大学祭に来るかもしれないということで行ったのですが、結局会えず仕舞いでした(苦笑)。「煉瓦亭」の御主人は「昔は、獨協大の駅は東武伊勢崎線の『松原団地駅』でしたが、団地が老朽化して取り壊されたりしたので、今は『獨協大学前駅』に変わったんですよ」と教えてくれました。私が獨協大の文化祭に行ったのも半世紀近い昔ですから変わるはずです。

 そうそう、御主人は成城高校時代も野球部で、甲子園大会予選の東東京大会の準決勝か準々決勝で、当時、大人気スターの荒木大輔擁する早稲田実業高校に惜敗したそうです。そのパネル写真も飾っていました。

 新富町「煉瓦亭」の御主人は、テレビ東京の「アド街ック天国」にも出演していたので、「テレビに出てましたねえ」と冷やかすと、「もう60歳なのに、いやはや」と照れたような表情を浮かべていました。いやいや、私より年長に見えていたので、意外な若さに吃驚です。後で、荒木大輔(ヤクルトなど~野球解説者)さんの年齢を調べてみたら、1964年5月生まれの59歳。確かに、甲子園大会東京予選で、御主人が激突した同世代でした。

 あの荒木大輔が来年、還暦になるとは、私も年を取るはずです。

銀座で出会った有名人=梶原一騎さんと乙武洋匡さんは強烈な印象でした

Jardin de Karatsu Copyright par Y Tamano

「私の銀座物語」…なんて書いても、誰も興味も関心もないことでしょうから、別に読んで頂かなくて結構で御座いますが、ブログ主宰者の特権でこのまま勝手ながら続けさせて頂きます(笑)。

 最も古い記憶は子供の頃に連れて行ってもらった時に見た森永製菓の地球儀ネオン(銀座5丁目不二越ビル、1953~83年)か、不二家のネオンか…、それとも単にテレビか映画で見ただけか、その辺は曖昧です(笑)。銀座通りはまだ都電が走っていたことを覚えていますが、1967年12月に廃止されてしまったということですから、私は当時小学生だったので記憶に間違いない。多分、不二家でアイスクリームかケーキを食べさせてもらったと思います。

銀座で最も好きなお店の一つ、文房具の「伊東屋」さん ここでお買い物

 親から銀座に連れて行ってもらったのは、地下鉄ではなく国鉄だったということを覚えているのは、当時有楽町駅のホームから毎日新聞社が見えたからです。窓の奥で働いている人さえ見えました。毎日新聞本社は1966年に有楽町から今の一ツ橋のパレスサイドビルに移転したということですから、これも間違いない。ということは、森永や不二家のネオンの思い出は、東京五輪が開催された1964年とか翌65年頃の話だったかもしれません。

 一人で行くようになったのは高校生ぐらいからで、当然、まだお酒は飲んではいけませんから、行くとしたら、本屋さんでした。晴海通りの5丁目、今、高級ブランド「ボッテガ・ヴェネタ」がある辺りに「近藤書店」という本屋さんがあり、その3階に「イエナ書店」という洋書専門店がありました。あまり、買えませんでしたが、当時の海外の最先端の文化情報を吸収しているつもりでした。今は銀座も本屋さんはほとんど消滅してしまったので本当に残念です。もう取返しがつかないでしょう。

 そう、今やなくなってしまったお店は本屋さんだけではありません。20代~40代の頃によく通った銀座6丁目の交詢社ビルに「ピルゼン」(1951~2001年)というビアホールがありました。ビルの建て替えを機に閉店してしまったと聞きます。ピルゼンは、チェコのビールだと聞いたことがありましたが、そもそも現在、世界で飲まれているビールの80%を占め、ビールの代名詞とも言えるピルスナービールは、ドイツではなく、このチェコのピルゼン(プルゼニ)という街で誕生したというのです。ここで、おつまみとして食べたニシンの酢漬けが懐かしい。もう1軒、この旧交詢社ビルには「サン・スーシー」(1929~2001年頃)というバーがありました。文豪谷崎潤一郎が名付け親と言われ、フランス語のsans souciは、「憂いがない」「心配ない」といった意味です。

 大抵、酔っぱらって行ったので、場所を覚えていなくて調べ直したら、どうやら「ピルゼン」と同じ旧交詢社ビルだったことが分かり、吃驚。案外狭い範囲で飲んでいたことになります。もう誰と一緒に行ったのかあまり覚えておらず、当然、何を熱く語っていたかも覚えていません。ビールの泡と一緒に消えました。嗚呼。これも残念。

「伊東屋」の近くでランチ店を探していたら、結局「煉瓦亭」になってしまいました。7年ぶりでした。

 なくなった話ばかりではつまらないので、話題を変えますと、銀座ですから、歩いていると色んな有名人に出くわします。何と言っても、一番の強烈な印象を放っていたのが、「巨人の星」や「あしたのジョー」などで知られる漫画原作者の梶原一騎(1936~87年)さんでした(歴史上の人物とはいえ、とても呼び捨てできません!)。確か、1985年春頃、狭いみゆき通りの歩道ですれ違いそうになったのですが、梶原一騎さんは、実弟で空手家の真樹日佐夫(1940~2012年)さんをボディガードのように引き連れて、二人とも上下純白の高級スーツに黒っぽいネクタイなしのシャツを着こんで、肩を切って歩いてこっちに向かって来ました。梶原さんは薄いサングラスをかけ、その筋の人ではないかと思われるような威圧感。私? 曲がりたくもないのに、直前の並木通りを右折して逃げましたよ(笑)。

 他に、今はどうされているのか、3年ほど前に沢尻エリカさんと出くわしたことがありますが、大人の対応で、何も知らない、何も見ないふりを致しました。彼女はどこか危なげな症状に見えたのはこちらの錯覚だったと思いますが、数人の取り巻きさんに囲まれていました。落語家の三遊亭好楽さんは、両手に花(女性です)を抱えて、横断歩道を歩いてました。随分背が小さい人だなあという印象でした。また、名前が出てきませんが(笑)、ちょんまげを結った国会議員がいたじゃありませんか。彼もホステスさんに拉致されるように高級クラブに消えていったことを覚えています。

元祖ポークカツ(2000円)とライス(300円)煉瓦亭は明治28(1895)年創業。三代目が7年前に引退して、今の御主人は四代目。昔は1500円ぐらいだったと思うんだけどなあ。この値段ですから、釈正道老師にもお薦めです

 最後に一人挙げるとしたら乙武洋匡さんでしょうかね。今年1月某日の夕方でしたが、あの特殊な自動運転車いすに乗られて、アシスタントらしき妙齢の女性と談笑しながら「歩いて」おられました。乙武さんは2016年3月、不倫騒動とかを週刊新潮で報じられ、あれから相当苦労されたようでした。まさか銀座で本物と出会うとは本当に吃驚してしまいました。餓鬼ではないので、追いかけたりしませんでしたが、思わず振り返ってしまいました。何か宝くじに当たったような気分でした(笑)。

 まあ、実につまらない「私の銀座物語」を最後までお付き合い下さり、誠に有難う御座いました。本当は、ジャーナリストとして有名人さんとは多くお会いしてきましたが、銀座はプライベートで、仕事以外でお見かけしたという話でした。失礼をば仕りました。