熱田神宮の草薙神剣は本物だった?

 渓流斎ブログの「熱田神宮と「自宅高級料亭化」計画=名古屋珍道中(下)」で、「宝物館」の受付の女性と大口論寸前にまでいった話を書きました。

 熱田神宮には、「三種の神器」の一つである草薙神剣を所蔵されていると言われますが、壇ノ浦の戦いで、安徳天皇とともに海中に沈んでしまったというので、「こちらの草薙神剣は本物ですか? 本物は壇ノ浦に沈んでしまったのではないですか?」と受付の人に聞いたら、「いえ、あちらは形代(複製?)でしたから、本物の神剣は非公開ですけど、ちゃんとこちらで所蔵しております。何なら、神職を呼びますかあぁぁーー!?」と怒られた話を書きました。

 正直、私自身はあれからずっと「わだかまり」を持っていたのですが、自宅書斎で積読になっていた古い雑誌「歴史道」第20巻「古代天皇の謎と秘史」特集(朝日新聞出版、2022年3月15日発行)の稲田智宏氏の書かれた「三種の神器に隠された真実」を読むと、少し疑問が氷解しました。

 稲田氏によると、三種の神器は、第10代崇神天皇が「畏れ多い」ということで、「本体」のほかに、新たに神鏡(八咫鏡=やたのかがみ)と神剣(草薙神剣)の「分身」を作らせたといいます。三種の神器の残りの八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)はそのままです。ちなみに、初代神武天皇と「欠史八代」と言われる二代綏靖天皇から九代開花天皇までは「神話の世界」で実在性を証明するのが乏しく、10代崇神天皇こそが初代天皇だという説があります。

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 いずれにせよ、まず、八咫鏡の本体は伊勢神宮に伝わり、現在でも伊勢神宮の内宮に収められていて、壇ノ浦の戦いで沈んだのは「分身」の方で、しかも、無事に回収されて、宮中に伝わり、現在は皇居賢所にあるといいます。

 八尺瓊勾玉も壇ノ浦の戦いでいったん海中に投げ出されましたが、無事に回収されて、宮中に伝わり、現在は皇居の剣璽の間に収められているといいます。

 さて、最後は問題の?草薙神剣です。壇ノ浦の戦いで海中に沈んでしまい、回収できなかったのは、「分身」の方でした。「本体」の方は、そのまま尾張の熱田神宮に伝わり、現在も所蔵されているというのです。熱田神宮の宝物館の受付女性の主張は正しかったわけです!

 海中に沈んだ分身の剣の方は、その後、鎌倉時代に伊勢神宮が新たに「草薙剣」として再生して天皇に進上し、これが宮中に伝わり、現在、八尺瓊勾玉と同じく、皇居の剣璽の間に収められているといいます。

 とはいえ、「本体」の草薙神剣とは、そもそも、スサノオノミコトがクシイナダヒメを救うために退治した八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出てきたとされています。これが天照大御神の所有物となり、伊勢神宮に奉仕する初代斎宮・倭姫命に渡ります。倭姫命は、東国平定に向かう甥の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)にこの神剣を渡し、日本武尊は、途中の駿河国で、この剣で草を薙いで火を避けることができたことから、「草薙剣」の名前の由来になったといいます。(現在、静岡市清水区に草薙の地名が残っています)

 つまり、神話の世界の話なので、科学的エビデンスを示せと言われれば、難しいかもしれません。しかし、信仰の世界なので、熱田神宮の草薙神剣は「本体」であることを信じてお参りすれば良いだけの話です。

 私は熱田神宮では「健康長寿」のお守りを買いましたから、「本体」であることを信じることにしました。何か問題でも?

【追記】

 鎌倉幕府をつくった源頼朝は尾張生まれ、と聞いて、えっ?と思ってしまいました。

 実は、頼朝の生母由良御前(源義朝の正室)は、熱田大宮司・藤原季範の娘だったので、頼朝は熱田で生まれたのでした。

 頼朝も熱田神宮と関係があったとは驚き。

 宝物館の受付女性に、もし、このことを確かめるために、「本当ですか?」と聞いたら、女性は、今度は「本当です。何なら、大宮司を呼びますかあぁぁぁー!?」と怒られそうですね(笑)。

名古屋といえば尾上菊五郎丈を思い出す

 お断りするまでもなく、《渓流斎日乗》は、「双方向性メディア」を謳っておりますが、個人的な身辺雑記です。最近は「読書感想文」が多いのですが、日々感じた由無し事(よしなしごと)を気儘に書き連ねています。

 ということは、その時「知り得た情報」と「時代背景」での感想ですので、その後、「転向」して考え方も変わっていることもあります。むしろ、そういう場合が多いでしょう。いずれにせよ、本日、このブログの総閲覧数が、2017年9月15日に独立(2005年開始から2017年までは、gooブログでお世話になっておりました)して以来、61万アクセスを超えましたので、読者の皆様には感謝申し上げます。本当に有難い限りです。

奉供養庚申之塔・宝永□□□九月吉祥日 宝永年間(1704~11年)綱吉、家宣の時代、300年以上昔の碑か?

 扨て、また、個人的な話ですが、来月、名古屋に行くことにしました。旧い友人に会うためですが、半ば冗談で「大先生(私のこと=笑)がお出ましになるので、粗相のないように」とメールしたら、彼は、3日も寝ずに考えたような旅程表を作ってくれました。

 私自身は、旨い酒の肴を出す飲み屋さんと、名所旧跡は秀吉、清正所縁の地を希望していたのですが、彼は熱田神宮を旅程に組み込んでくれました。熱田神宮といえば、名古屋から離れたずっと遠い所かと錯覚していたのですが、結構近いんですね。名古屋市内でした(笑)。私は40年近い昔、名古屋にはプロ野球の取材等で何十回訪れたのか分からないほどですが、ほとんどホテルと球場と飲み屋さんの往復ぐらいで、名古屋城さえ行ったことはありませんでした。駄目ですね(苦笑)。

 そう言えば、思い出したのですが、これまた30年ぐらい昔の話ですが、歌舞伎の尾上菊五郎丈主演の舞台が名古屋の御園座で行われるということで、演劇記者の招待会がありました。どういう経緯(いきさつ)だったのか忘れましたが、記者会見と懇親会が終わった後、どういうわけか、私一人だけが音羽屋さんに気に入られてしまい、二次会に誘われました。

 音羽屋さんとは、勿論、当代七代目菊五郎丈のことです。そこで私は生涯忘れない数奇な経験をするのです(笑)。

 音羽屋さんは「芸人の鑑」みたいな方で、名古屋一の繫華街「栄」に馴染みの店がたくさんあるようでした。しかも、行く所は、東京・銀座の高級クラブのような、綺麗どころさんを何人も揃えて「座ってナンボ」みたいな店です。恐らく、座っただけでも3万円ぐらい取られそうな超高級クラブばかりです。

 1軒目は、水割りを1、2杯呑み、「俳名(はいみょう)」など真面目な話をして、「髙田さん、次、行きましょうか」と仰るのです。30分も座っていなかったと思います。2軒目は、ちょっとお化粧がケバイ、ちょっと董(とう)が立ったマダムで、「あらあ、ヒーさん。ちょっと、何処で浮気してたのよー」と、映画か漫画でしか見たことがないようなセリフをしゃべり、菊五郎丈も「俺も忙しいんだよ」とか何とか言いつつ、高級ブランデーを舐めて、この店も20分ほどで切り上げ、「河岸(かし)を変えましょう」と3軒目へ。ここは、かなり若いキャピキャピの女の子がいっぱい。ワイワイ、キャアキャア言いながらも、客が、あの天下の七代目菊五郎だということがまるで分っていない様子。

 ここも20分ほどで切り上げて4軒目へ。今度は照明を落とした薄暗いバーで、菊五郎丈は、ママに「よっ!」と声を掛けて、水割りをほんの少し口に含んで、次の店へ。もう、その頃は、私も酔いが回り、右も左も分からず、ただ「はい、はい」とついていくばかりです。5軒目は、またキャバレー風の明るい店で、熟練の女性が3人付き、菊五郎丈は「俺を誰だか知ってるかあ?暴れん坊将軍とは俺のことだあー」とすっかり興に乗ってしまい、「おーい、次、行くぞー、髙田~」と豹変。あれ?最初は「さん」付けしてくれたのになあ?と思いつつ、御主人様に只管付いていくのみです。6軒目、7軒目ぐらいまでは覚えているのですが、あとは記憶が消えました。ただ覚えているのは、本当に「座っただけ」で何も頼まず、「次~」の掛け声で新たな店に移っていたことでした。

 こんな体験したのは、世間広しといえども、歴史上、私ぐらいでしょう(笑)。勿論、お店は「顔パス」で、払いはツケでしたから、後で高額の請求書は勧進元の松竹に回って来ました。松竹の広報の人からは「髙田さん、派手に引き回してくださいましたねえ」と嫌味を言われてしまいました。勿論、「えっ!?逆でしょう!!」と言い返しました。もう音羽屋さんは覚えていないかもしれませんが(笑)、私は一生忘れない想い出です。

 あ、そうそう熱田神宮の話でした。ここは三種の神器の一つ「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」を御霊代(みたましろ)とした格式の高い神社として有名ですが、この剣は、源平合戦の壇ノ浦の戦いで、三種の神器を携えた安徳天皇とともに海に沈んだはずです。と思ったら、私の手元にある「一生に一度は行きたい日本の神社100選」(宝島社)には、関門海峡に沈んだとされる草薙神剣は形代(かたしろ=本物になぞらえたもの)で、本物は今でも熱田神宮にまつられている、と書いてありました。

 勿論、草薙神剣は非公開でしょうが、熱田神宮のお参りが楽しみになりました。

【追記】2022.4.18

 今思い出しても、音羽屋さんとの名古屋での「はしご酒」は奇跡のような体験でした。考えてみれば、当時の菊五郎丈は50歳代で今の私より若い!ズバリ、竹を割ったような裏のないさっぱりとした性格で、男気のある方でした。

 私の世代は、音羽屋さんが菊之助時代に出演したNHK大河ドラマ「源義経」(1966年、音楽は武満徹!)の印象が強いので、その話をしたら、「俺はもうテレビ(のドラマ)には出ねえよ。歌舞伎役者だから舞台に懸けているだ」と話してくださったことがとても印象的でした。

 「源義経」で静御前役だった藤純子さんと後に結婚されたので、ドラマの共演がきっかけだったと思いましたが、その話ははぐらかされました。とても真面目な人でした。