以前にも書きましたが、皇居から銀座を通って、築地に向かう道路を「みゆき通り」と言います。明治帝が、当時築地にあった海軍兵学校を視察するため、お通りになったので「御幸通り」と付けられました。
銀座から築地に向かう際、途中で大きな道路に突き当たります。昭和通りです。関東大震災で壊滅的な被害を受けた帝都東京を復興する一環として当時の後藤新平東京市長の鶴の一声で整備されました。一説では、道路の下には大震災の瓦礫や〇〇などが埋められたと言われています。
いやはや、本日はそんな話ではありませんでした。
本日は、銀座から築地に向かって昭和通りを渡ったところに、目下建設されている高層ビルの話をしたいのです。
もう2年以上工事を続けていますが、やっと外装が出来て、現在は内部工事をやっているところです。かなりのノッポビルですが、ホテルのようです。上の写真でお分かりのように、「頂上」に「GRAND BACH」と書かれています。日本語にすると「グランド・バッハ」ホテルということになるのでしょうか。
実は、私自身、毎日のように、出勤で、この「グランド・バッハ」ホテル前を通るのですが、ここを通るたびに、苦笑せざるを得ません。今や、バッハと言えば、あの大作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハのことではなく、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長のことを誰でも思い浮かべるからです。そして、バッハ会長と言えば、今や、「ぼったくり男爵」の異名の方が、有名になってしまっております。
◇「賄賂」と「ぼったくり」のハーモニー
私が苦笑せざるを得ないのは、このグランド・バッハの敷地は、江戸時代、あの賄賂政治で名高い老中田沼意次の屋敷跡だったからです。「賄賂」と「ぼったくり」という妙な符合の一致に、苦笑せざるを得ないじゃありませんか。
田沼意次と言えば、悪徳政治家の代名詞みたいなもので、もう悪玉の大親分のように歴史の教科書で習いますが、最近では、随分、見直されているようです。そもそも、田沼意次が悪の権化に仕立てられたのは、彼の失脚後に寛政の改革を進めた松平定信らを中心とした反田沼派の保守層による儒教的批判に基づいた評価だといいます。つまり、田沼に限らず、慣例として、大方が賄賂によって政治が動いていたということです。まあ、その度合いが、田沼意次は飛び抜けていたということなのでしょう。幕末の井伊直弼大老は有名ですが、井伊家は田沼意次への賄賂で大老職を買ったと言われています。田沼の父意行(もとゆき)は紀州藩の足軽から旗本に取り立てられた人物で、小姓だった田沼意次自身も出世のために、大奥や奥女中らにもかなり賄賂を贈っていたようです。
今、再評価されている田沼意次の政策の特長は、幕府の財政危機を再建するために、緊縮財政策を見直して、重商主義を採用したところにあります。教科書の復習になりますが、問屋、株仲間の育成を強化したり,さらに貨幣の増鋳、長崎での貿易奨励、下総印旛沼の開拓などです。
それまで、幕府は農民ばかりに年貢を納めさせて「税」を収奪していましたが、田沼意次が株仲間を育成させることによって、初めて、商工業者からも「税」を取ることを生み出したといいます。これまで、商人は税を払っていなかったんですね。これは幕府にとって大変な功績であり、日本史上、画期的なことでした。封建主義から資本主義への萌芽が見られたと言ってもいいかもしれません。
で、この辺りは、田沼意次の時代は「木挽町」(こびきちょう=江戸城普請の際、大工らを住まわせた)という地名でした。田沼が老中として改革の先頭に立っていた時の田沼邸は、神田の上屋敷にありましたが、この木挽町の田沼屋敷は、下屋敷で、天明6年(1786年)、彼が68歳で失脚した以降に住んだ、というか、蟄居したところでした。
悪評高い田沼時代ですが、実は、文化の華が開いた時期でもありました。前野良沢、杉田玄白らによって「解体新書」が翻訳されたり、エレキテルの平賀源内が活躍したりしました。田沼自身も、絵師を手厚く保護し、この木挽町の屋敷の一角に狩野派の屋敷を建て、画塾を開かせたのです。江戸奥絵師狩野派は四家ありますが、最も栄えたのはこの「木挽町狩野家」で、明治になっても、近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦らを輩出しています。(東京都中央区教育委員会)