「NHKスペシャル 見えた 何が 永遠が~立花隆 最後の旅~」は隔靴搔痒でした

 「やっちまったなあ」ーGWの後半は、風邪で丸々3日間、寝込んでしまいました。熱は1日で下がり、味覚や臭覚や聴覚や第六感や嗅覚まであり、今はかなり回復に向かっていますから、例の、あの、そのお、世界中で知れ渡っている流行り病ではないと思います。が、罹った5月3日はフラフラで、朝起きて、軽くパンとサラダを食べた後、直ぐに就寝。なかなか起き上がられず、13時半になってやっと、ズルズルと布団から這いだし、ヤクルト1本飲んでまた就寝。夕方は17時過ぎに起きて、御素麺を頂いてから、もう18時にはおやすみなさいでした。こんなことは数年ぶりだと思います。

 考えられる原因は、GW前半に、自分が老人だということを忘れて、連日のように1万5000歩近く歩き回って疲れが溜まり、免疫抵抗力が落ちてしまったこと。それでもまだGW後半が残っていて、何かあっても誰にも気兼ねなく休めるので、身体が油断していたことが挙げられます。

 結局、本も1ページも読むことが出来ず、本当に何もできませんでしたが、良い休養が取れたと思い込めば、貴重な時間を有効に使えたことになります。モノは考えようです。この間、酒も煙草ものまず、髭も剃らず、博打もせず、誠に品行方正でした。

東京・新富町「448 リベルマン」ポークジンジャー1500円 「448」は「洋食屋」と読むらしい。それなら、渓流斎は「4871」と書いて、「心配ない」と呼んでもらいます。登録商標申請中(笑)。

 さて、寝込んでしまったお蔭で、先週の話になってしまいます。4月30日に放送された「NHKスペシャル 見えた 何が 永遠が~立花隆 最後の旅~」は大いに期待したのですが、どなたかの意向が反映したのか?、一番肝心なことが分からず、隔靴掻痒の感のままで終わってしまいました。

 私が口癖のように言っている「何が報道されたのかというよりも、何が報道されなかったのかの方が重要」ということの典型でした。

 昨年4月30日に80歳で亡くなったジャーナリストの立花隆さんは、死の間近になって、秘書を務めていた実妹菊入直代さんに対して、「墓も戒名もいらない。遺体はごみとして捨ててほしい。集めた膨大な書籍は一冊残らず古本屋で売ってほしい」と言い残していたそうです。

 この番組では、「立花隆番」として17年間、一緒に教養番組をつくって来たNHKの某ディレクターが、立花氏と出会ってから亡くなるまでを回想する形で進行します。「猫ビル」の愛称があった東京都文京区にある立花氏の書斎兼書庫には5万冊を超える膨大な書籍が棚に埋まっていたのに、最新映像となると、その棚には一冊の本もなく、棚だけが寂しそうにしていました。

 その映像を見てショックにならなかったのは、その2週間以上前に新聞で、立花氏が「自身の名前を冠した文庫や記念館などの設立は絶対にしてほしくない」「立花隆が持っていた本ということではなく、本の内容に興味を持った人の手に渡ってほしい」などと言い残していたという記事を読んでいたからです。さすが、ですね。母校に自分の名前を冠した記念文庫を設立した人気作家さんとは違うなあと思ってしまいました。

 ただ、古本屋さんが何処なのか、その記事には書かれていなかったので、NHKに期待したのですが、番組でも明かされませんでした。恐らく、「古本屋が特定されれば、殺到されて困る」と、誰かの意向が働いたのでしょう。私だって、正直、立花隆の蔵書なら欲しいぐらいですから(笑)。でも、多分、神保町の古本屋に違いないでしょう。彼は毎週のように通っていたといますから。…暇を見つけていつかまた「神保町巡り」をしたいと思ってます。

 もう一つ、この番組でフラストレーションになったのは、彼の墓所が明かされなかったことでした。結局、「樹木葬」となったようで、その場所も特定されて、映像として映し出されましたが、最後まで場所までは明かされませんでした。私は掃苔趣味があるので、場所が分かれば一度はお参りしたいと思っていたのに…。

 あと一つだけ。この番組のタイトルに使われている「見えた 何が 永遠が」は、私も何度かこのブログで取り上げたことがあるフランスの象徴派詩人アルチュール・ランボーの作のはずなのに、ランボーの「ラ」の字を出て来ないのはどうしてだったのかな?

 まあ、テレビという超マスメディアの影響力は大きいので、個人情報保護に細心の注意を払うことを最優先したのでしょう。

「448 リベルマン」から歩いて5,6分にある「新富座跡」の看板=現京橋税務署

 番組内では、色々な「立花隆語録」が出てきましたが、印象に残ったものだけ引用させて頂きます。(ただし、換骨奪胎です)

 ・霊魂はない。人間死んだら無に帰る。

 ・人間は死すべき動物である。どこかで死を受け入れるスイッチを切り替えるしかない。(以上は立花隆の死生観です。でも、死後、天国に行くか煉獄に行くか、西方の極楽浄土か東方の浄瑠璃世界に行くか、それとも地獄に行くのか、といったことを信じている人はその信仰を続けていいと私は思っています。)

 ・知的営みは地下で繋がっている。人間の知識の体系も繋がっている。しかし、知識が細分化し過ぎて、専門家は断片化した知識しか知らない。専門家は総合的なことを知らない。(メディアに頻繁に出演されるコメンテーターと呼ばれる専門家の皆さんにも当てはまるかもしれません。)

 ・記録された歴史などというのは、記録されなかった現実の総体と比べたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に吞み込まれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑み込まれてある。(「エーゲ 永遠回帰の海」)

・「すべてを進化の相の下に見よ」

お世話になりました「『知の巨人』立花隆のすべて」

 昨日10月7日夜10時41分に、東京都足立区と埼玉県南部で震度5強の地震がありましたが、吾人は熟睡中で、揺りかごかメリーゴーランドに乗っている感じで、夢見心地でした。でも、幸いにも、本棚から本が落ちてくることもなく、被害はなし。ただし、本日は電車が間引き運転となり、朝は、駅のホームで何十分も待たされた上、猛烈な通勤・通学ラッシュで長時間の「押しくら饅頭」状態で閉口しました。

 電車内では、捕まり棒に捕まっていましたが、後ろから押されても、筋力が低下していて、腕がブルブルと震えてヘナヘナと倒れてしまいそうでした。我ながら、立派な「老力」がついたものです…。

 大変有難いことに、今朝は、心配してメールをしてくださる方がいらっしゃいました。この場を借りて御礼申し上げます。「この場」といっても、個人的なブログなのですから、「あに、言ってるんだか」ですけどね(笑)。

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 さて、最近読んでいるのは文春ムック「『知の巨人』立花隆のすべて」(文藝春秋、2021年8月16日発行、1650円)です。今年4月に80歳で亡くなった「知の巨人」の追悼本ですが、電車内で読んでいるのが、何となく恥ずかしい気がして隠れて読んでいます。何と言っても「知の巨人」というキャッチコピーが、本人は恥ずかしくなかったのか、訝しく思っていたら、この本の中で、読書猿という人が「『知の巨人』という言葉には違和感がある。個人的には、ほとんど蔑称ではないかとさえ感じられる」と書いておりました。私も同感です。

 何と言いいますか、知識を商業化するようで、違和感というより、嫌悪感を味わいます。確かに、彼は「知の巨人」かもしれませんけど、本人や信奉者やその取り巻き連中が「ニッヒッヒ」と密かに味わっているだけで十分で、日本的繊細さに欠けますね。

 その追悼本ですが、橘隆志(本名)という大秀才が、如何にして立花隆という評論家になったのかといった「人となり」を分析した、その集大成のような本です。本人も対談の中で語っていますが、やはり、5歳の時の「戦争体験」がその後の人生に最も大きな影響を与えたようです。橘家は、どうも「放浪癖」がある人が多かったらしく、立花隆の父橘経雄は、早稲田大学の国文科を出た人で、長崎のミッション系の女学院の教師になったかと思ったら、「勝手に」北京の師範学校の副校長として大陸に渡ります。立花隆は1940年生まれですから、1945年の日本敗戦時は5歳。この大陸からの引き揚げでは混沌状態の中、相当苦労したようで、まかり間違えば、自分も残留孤児になっていたかもしれない、と振り返るほどです。

 父橘経雄の従兄弟が、血盟団事件、五・一五事件で理論的支柱となった右翼思想家の橘孝三郎というのは有名な話ですが、父親の長兄が「山谷のおじさん」と呼ばれた放浪者だったいう話は興味深い。一方、母親の龍子は、自由学園と雑誌「婦人之友」をつくった羽仁もと子(日本人女性初のジャーナリスト)が、戦時色が強くなった1938年に日本に居たたまれなくなって、北京に自由学園北京生活学校をつくって以来、彼女の「信者」となり、最後まで「友の会」の会員として活動したといいます。父親の経雄は戦後、日本に引き揚げてから、その後、「週刊読書人」の専務を務めるなどした人ですから、まあ、家庭内でも蔵書に恵まれたインテリ一家育ちということになります。

銀座・台湾料理「金魚」ルーロー飯と台菜麺 1120円

 この本では、色んなことが書かれていますが、102頁の「東大生たちに語った特別講義」が個人的には面白かったでした。知識の塊の「天下無敵」で、自信満々にしか見えない立花氏ですが、若い頃は何度も自殺しようと思った、と告白しているところに親近感を覚えました。しかも、その原因は「深刻な失恋」だと言うではありませんか。私自身にも「覚え」がありますから、雲の上の人に見えた巨人も、一気に身近に感じてしまいました(笑)。

 もう一つ、一冊の本を書くには100冊以上読まなければ、読むに値するロクなものは書けないという彼の信念には感服してしまいました。できれば、1000冊読むのが望ましい、という彼の格言には卒倒しましたが(笑)。私自身は、普通の人よりほんの少し本は読んでいると思っているのですが、それでも、1カ月に多くても10冊か15冊程度です。文芸担当記者をやっていた若い頃は、月に30~40冊読んでいましたが、2年未満で限界でした。1日1冊以上読むというのは、就寝と風呂に入っている時間以外、歩いていても、トイレの中でも、食事をしていても、全ての時間、読書に費やすことになりましたからね。もう、そんな体力も精神力もありません。もし、今から1000冊読むとなると、10年ぐらい掛かるでしょうね。

 いずれにせよ、立花隆先生にはお会いしたことはありませんでしたが、著作で大変、お世話になりました。途中で「臨死体験」や「脳死」に関する著作に傾いた時、ついていけなくなって離れた時期もありましたが、恐らく、彼の膨大な全著作の5割は読んでいると思います。

 印象に残っている著作は、アトランダムで「『知』のソフトウェア」「日本共産党研究」「宇宙からの帰還」「サル学の現在」「精神と物質」「インターネットはグローバル・ブレイン」「東大生はバカになったか」「武満徹 音楽創造への旅」…などですが、やはり、たった1冊、ナンバーワンに挙げたいのは、「田中角栄研究」ではなく、「天皇と東大」ですねこの本で初めて日本の右翼思想の源流と支流と河口を一気に知ることができ、眩暈がするような知的興奮を味わうことができました。

加害者意識もなくしてはいけない=立花隆著「最後に語り伝えたいこと」

 今年4月に亡くなった「知の巨人」立花隆の遺作「最後に語り伝えたいこと」(中央公論新社、2021年8月10日初版)を読みました。

 遺作というより、過去に雑誌等に発表した論文や講演録や対談の中で、書籍未収録だったものをを即席にまとめたものです。

 第一部の「戦争の記憶」では、2015年に長崎大学で行った講演「被爆者なき時代に向けて」などを収録。第二部「世界はどこへ行くのか」では、ソ連が崩壊した1991年に、21世紀の未来を見通そうと大江健三郎氏と行った対談を収録。ーと、ここまでは目次の丸写しです(笑)。

 立花隆氏の本名は、橘隆志。戦前の血盟団事件、5.15事件の黒幕で、「右翼の巨魁」とも呼ばれた農本主義者の橘孝三郎は、立花隆の父橘経雄(日本書籍出版協会理事など歴任)の従兄に当たる人です。ちなみに、立花隆の兄弘道は、元朝日新聞記者、実妹菊入直代氏は立花隆の秘書を務めていた人でした。

 立花隆は、父経雄が長崎市内のミッションスクールの教師として在職していた1940年に長崎で生まれたことから、広島・長崎原爆について、人一倍以上、関心があったようです。そして、1942年には、父が文部省職員として中国・北京の師範学校副校長となったため、一家で北京に滞在。日本の敗戦で、5歳で引き揚げ者となった経験についても、「日本人の侵略と引揚げ体験 赤い屍体と黒い屍体」に書いています。

 私は結構、立花隆氏の著作は読んでいましたが、自分自身を語ったエッセイなどはほとんど読んで来なかったので、実兄が朝日新聞の記者(後に監査役)だったことなどは知りませんでした。

 しかし、縁戚に橘孝三郎がいたことは知っていました。立花隆が「日本共産党の研究」を発表した時に、「親戚に右翼の巨頭がいるから、立花は共産党批判の本を出版したのだ」と一部の人が批判したりしましたが、実は、橘孝三郎は、「右翼の巨魁」だのと一括りにされるような浅薄な人間ではないことを、実際に何十回も面談して取材した昭和史研究家の保阪正康氏がこの本の「解説」に書いております。

 保阪氏によると、橘孝三郎という人は、人類史に何らかの貢献をさせることで選ばれた「歴史の神」の一人だというのです。保阪氏は昭和史関係で4000人以上の人にインタビューしましたが、その中でも、橘孝三郎は特別な存在で、それだけ、近代日本における知性と感性の優れた人物だったというのです。つまりは、右翼とか左翼といった、そんな浅薄な概念には収まり切れないとてつもない知性と教養と感性の持ち主だったというわけです。

 どうも、橘家という知的家系を見ると、古代の聖武天皇時代の学者肌だった「宰相」橘諸兄の血筋を引いているんじゃないかと思わせるほどです(笑)。

銀座「デル・ソーレ」本日のランチ・パスタ(ドリンク付)1100円

  立花氏は、自分の引き揚げ体験などを書いた「赤い屍体と黒い屍体」の中で、アフリカのコンゴが1960年に独立した際に、多くの白人女性が暴行されたり、輪姦されたりした悲惨な宗主国だった「ベルギー人の悲劇」を書きながら、凄いことを書いていたので吃驚しました。少し引用します。

 …コンゴにおけるベルギー人の苦難は、確かに悲劇に違いないし、むごたらしいものではあると思うけれども、心の片隅では、ザマアミロとい気持ちがあるのを隠すわけにはいかないのである。それは、事態がここまでに至るまでの、コンゴにおけるベルギー人の植民地支配の苛酷な現実を、私が知っているからだ。

 アフリカを支配した列強の中では、比較的温和な政策を取っていたといわれるベルギーではあるが、それが52年の統治の間、毎年、2億ドルもの収奪を続けていたのである。…原住民は二世代にわたって人間の扱いを受けずに、もし、コンゴ人の有能なレポーターがいれば、ベルギー人引き揚げ哀史を顔色なからしめるような分厚い悲劇の歴史を書くことができたはずである。…

 うーん、強烈ですね。

 広島・長崎の原爆、日本大空襲、シベリア抑留、生死を彷徨うほど苛烈な引き揚げ、残留孤児…等々、日本人は被害者ではあったとはいえ、先の大戦では、明らかに日本はアジアの民衆に対しては加害者であったことを決して忘れるべきではない、という立花隆のメッセージだと受けとめました。

◇文芸春秋の皆様へ

 立花隆の1000冊に及ぶ著書を全て読んだわけではありませんが、私が最も知的興奮を覚えて感銘したのは「天皇と東大」です。どうも増刷されていないようで、某ネット通販では、上巻1冊(中古)だけで6000円近い値段が付けられています。是非とも、増刷か復刊してもらいたいものです。宜しくお願い申し上げます。

立花隆氏講演会

今日は、東京・池袋の立教大学で行われた立花隆氏http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E9%9A%86の講演会に行ってきました。1ヶ月ほど前に応募したら当選したからです。この手のものは良く当たります。

タイトルは「日本はどこへ向かうのか~大学と大学教育の未来~」というもので、会場のタッカーホールには1200人ぐらいの人が集まったのではないでしょうか。

講演は大学から招聘されたせいか、3分の1くらいは立教大学の宣伝みたいな話でしたが、さすが、立花さんらしい薀蓄のある話でした。

立教大学は、キリスト教の聖公会の大学です。そのカトリックとプロテスタントをプラスしたような聖公会の伝統の影響から、大学教育には、一つの立場だけを絶対視せず、対立する視点を合わせて飲み込む幅の広さを持つ、と立花さんは指摘していました。いい意味で「あいまいさ」で、大学出身OBを見ればそれが分かる。例えば、マスコミで目下活躍している徳光和夫http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%85%89%E5%92%8C%E5%A4%AB それに、みのもんたhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%82%82%E3%82%93%E3%81%9F 古舘伊知郎 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%88%98%E4%BC%8A%E7%9F%A5%E9%83%8E らは立教出身。彼らを見てみると、早稲田大学出身の田原総一郎、筑紫哲也、久米宏らと比べるとその違いに分かるでしょう。今の世界を悪くしているのは、原理主義です。テロを起こしているのも、正義を振りかざしているのも…。そういう意味で、自由とあいまいさを信奉する立教大学は素晴らしい、と持ち上げるわけです。

面白いことに、黒沢清、万田邦敏、青山真治、塩田明彦、周防正行といった今はときめく新進気鋭の映画監督は、全員立教大学出身で「立教ヌーベルバーグ」と呼ばれているそうです。彼らの共通点は、映画論の蓮見重彦教授の門下だったということです。

もちろん、安倍晋三さんに対する批判も忘れていません。安倍さんが尊敬崇拝する「お爺ちゃん」の岸信介http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8Bについて「安保世代」の立花さんが痛烈に批判するのです。立花さんは東大に1959年入学、ということですから、当然、「安保世代」そのもので、1960年安保騒動では、デモに出かけています。

立花さんは言います。5月19日を境に運動はまるっきり様変わる。5月19日までは、デモ隊は数千人から1万人規模だったが、19日以降は、連日連夜何十万人という人が「岸退陣」のデモを行う。安倍さんは、これまで出版した自著の中で祖父の業績ばかり褒め、安保騒動の時でも、自宅付近に来たデモ隊に対してたじろぎもしなかった、と書いておきながら、この5月19日のことをひと言も書いていない。!と立花さんは言うのです。

5月19日に何が起きたのか?子供だったので、よく覚えていない私などは、「樺美智子さんが殺された日かな」などと思ったのですが、その日は「岸がクーデター起こした日」だったというのです。

5月18日から19日にかけて、岸首相(当時)は、安保特別委員会の審議を打ち切って、議場の中に、警官500人と何と広域暴力団の松葉会http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E8%91%89%E4%BC%9Aの組員300人も入れて、反対派を排除して、わずか30分で議決したというのです。

「そんなことをやったのは、日本の歴史上、ほかに誰もいない」と立花さんは怒るのです。

「岸はやってはいけないことをやった。クーデターに近いことをやった。それで、5月19日を境に『民主主義を守れ』という運動に変わる。彼(安倍)は、安保反対者を馬鹿と力説しているが、この歴史的事実を全く認識していない」と言うのです。

当事者の発言なので、大変重みがありました。