明智光秀の私怨だったのか?=日本史最大のミステリー「本能寺の変」

 日本史最大のミステリーの一つは「本能寺の変」ではないでしょうか。天正10年(1582年)6月、明智光秀が織田信長を急襲した下剋上事件です。

 光秀は重臣として「後入り」なのに、家臣団の中では最初の城持ち(坂本城)になった出世頭なのに、何故、信長を裏切ったのか? 関白太政大臣も務めた近衛前久黒幕説、羽柴秀吉黒幕説、長宗我部元親黒幕説…等々色んな黒幕説や、安土城での徳川家康の接待で粗相があったとして、信長から家臣たちの面前で叱責されて恥をかかされた恨み説などがありますが、真相は不明です。また、信長の遺体が京都・本能寺の現場から見つからなかったということがミステリーに一層の拍車をかけています。

 そんな中、10月11日付の毎日新聞朝刊の紙面で、感染症が専門の早川智日大医学部教授が、「悲劇的な最期を遂げた織田信長」というタイトルで寄稿されており、その中で「信長も降伏を申し入れて来た丹波の波多野兄弟を安土城に招いて斬殺するなど、やっていることはあまり変わりない。このとき、波多野家の城内で降伏交渉の人質になっていた明智光秀の母親が報復として殺害されており、本能寺の変の原因の一つという説もある。」と書かれていたので吃驚です。

 勿論、こちらの不勉強ではありますが、そんな話聞いたこともありませんでした。となると、色んな説がありましたが、光秀が打倒信長を決意したのは、信長の狂気のサディズムにより、結果的に母親が殺されてしまったという怨恨で、その報復に他ならないではありませんか。黒幕なんかいません。私怨です。これで決まり。でも、これまで歴史学者は何をやっていたんでしょうか?今の歴史学者だけでなく、江戸時代、明治から昭和にかけて歴史学者なら知らないはずありません。何故、この「私怨説」が定着しなかったのでしょうか?

 感染症専門の医学部の教授が知っているのに現代の歴史学者が知らないとしたらおかしな話です。

1956年創業の銀座「デリー」ターリー1200円 量多かったす。本文と全く関係ないやんけ!

 そんなわだかまりを持って、ここ数日間、過ごしていたら、たまたま、ネット上で、歴史と文化の研究所代表の渡辺大門さん(文学博士)という方が「【戦国こぼれ話】織田信長が明智光秀の母を見殺しにして、八上城の波多野氏を磔刑したのは真っ赤な嘘」と題する記事を発見しました。投稿されたのは、2年も前の2021年10月17日付です。それによると、明智光秀は波多野氏に自分の母親を人質として送り込む必要はないし、そんな事実は一次史料では確認できない、と結論づけているのです。

 渡辺氏によると、光秀の母親が殺害されたという逸話が載っている文献は、本能寺の変から100年も経った遠山信春著「総見記」(1685年頃)で、史料的に問題が多いとされる小瀬甫庵の「信長記」を元に増補・考証し、脚色や創作が随所に加えられているといいます。

 あれれれ? 光秀の母親人質殺害事件はなかったということですか? だから「なかった」ことは史実として定着し、一般人には知れ渡ることはなかったということなのでしょうか?

 何だか割り切れませんが、少なくとも、早川智日大医学部教授も毎日新聞の編集記者もデスクも、渡辺大門氏の2年前の記事を読んでいなかったことはほぼ確実です。もし、読んでいても敢えて書いたとしたら、まだ、歴史学会では、「光秀の母親、人質殺害」は一つの説として残っているということなのでしょうか?

 何だか分からない。これだから歴史は曖昧で、よく分からないですねえ。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

旧《溪流斎日乗》 depuis 2005 をもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む