スポーツ紙の報知新聞が今年、創刊150周年ということで、12月6日の紙面から「報知あの時」のタイトルで自社の歴史を振り返った連載を開始しています。(執筆は、内野小百美編集委員)
えっ?報知が150周年なの?と驚く方も多いかもしれませんが、もともと報知新聞は、明治に政論新聞と言われた一般紙とスタートし、大正時代は「東京五大紙」の一角を占めながら、戦時中に読売新聞の傘下になるなど紆余曲折の末、戦後、スポーツ専門紙として再スタートした新聞だったのです。
創刊は明治5年(1872年)6月10日、前島密の支援で、「郵便報知新聞」の題で発刊され、当初週刊でしたが、翌年日刊紙となります。前島密と言えば、「郵便の父」と呼ばれ、1円切手の肖像画にもなっていますが、明治の元勲で内務卿になった大久保利通の晩年に、大久保の右腕として活躍した人でしたね。大久保が暗殺された紀尾井町の現場に真っ先に駆け付けたのも前島密でした。
12月7日付の連載2回目で、報知新聞は「大隈重信、原敬、犬養毅と3人も総理を輩出した」と、その人材の豊富さを誇っておられます。大隈重信は、明治14年の政変で下野した後、自らつくった立憲改進党の政党機関紙として報知新聞にテコ入れします(そのお陰で、主筆だった栗本鋤雲らが退社。)大正10年、東京駅頭で暗殺された原敬は、明治12年から3年間在籍して、仏紙の翻訳、論説などを担当。昭和7年の5.15事件で暗殺された犬養毅は若き頃、通信員となり、明治10年の西南の役を従軍記者として取材しています。
現在、東京・有楽町にあるビックカメラは、以前は百貨店の「そごう」(♪「有楽町で逢いましょう」がその宣伝歌)でした。そして、その前は報知新聞社の本社だった(だから、その名残でビックカメラの7階に「よみうりホール」がある)ことなど、ある程度、報知新聞に関するトリヴィア(雑学的知識)は知っているつもりでしたが、12月6日付の連載1回目に掲載された「報知150年史」の年譜を見ると、知らないことばかりでした。
まず、明治30年(1897年)、編集局に「探偵部」を新設。現在の社会部の元祖、とあります。そっかあ。新聞社の社会部をつくったのは報知新聞社だったんですね。
明治31年(1898年)、「校正係募集」の広告を見て羽仁もと子が入社。後に婦人記者第1号となる、とあります。羽仁もと子は、女性新聞記者の先駆けだったんですね。でも、後に、現在も続いている「婦人之友」を創刊し、夫の吉一とともに自由学園を創設した偉人として名を残していると思います。二人は社内結婚というので、ちょっと、調べたら、夫の吉一は、報知新聞の編集長を務めた人でした。女婿の羽仁五郎は歴史学者、孫の羽仁進は映画監督としても知られています。
まだあります。大正9年(1920年)、「東京ー箱根間往復大学専門学校対抗駅伝競走」創設とあります。現在も続く箱根駅伝をつくったのは報知新聞だったんですね。読売新聞だと思っていました。
昭和3年(1928年)、社員の鶴田義行がアムステルダム五輪200メートル平泳ぎで五輪水泳初の金メダル、とあります。記者ではなかったようですが、戦後は、愛媛新聞の事業部長、監査役などを歴任しています。(同じアムステルダム五輪の陸上女子800メートルで銀メダルを獲得した人見絹枝は大阪毎日新聞社の運動部記者でした。)
報知新聞は、昭和17年(1942年)、戦時下の新聞統制で読売新聞の傘下に入り、「読売報知」となります。戦後の昭和21年(1946年)には夕刊紙「新報知」として復刊、翌年に題字を「報知新聞」に戻し、同24年(1949年)12月30日から朝刊のスポーツ専門紙となり、プロ野球読売巨人軍の広報紙?として現在に至っています。スポーツ紙としては、日刊、デイリー、スポニチに続き4番目だといいます。