何しろ、日本語を母国語にしない外国人の受賞は、芥川賞73年の歴史で初めてだからです。
確かにすごいことはすごいですが、チェコ人のミラン・クンデラがフランス語で「存在の耐えられない軽さ L’Insoutenable legerete de l’Etre」をフランス語で書いていますし、ロシア出身のウラジーミル・ナボコフもケンブリッジで学び、ロリコンの原典になった「ロリータ」を英語で執筆していますので、世界史的な大事件ではないかもしれませんね。
そういえば、万葉集の歌人山上億良も、日本人ではなく百済の帰化人だったという説(中西進氏ら)もあります。もしこの説が正しければ、こちらの方が画期的でしょう。
私は、以前、仕事関係もあり、芥川賞・直木賞といえば、毎回必ず事前に読んでおりました。
しかし、正直、ここ10年、ほとんど(全くではありませんが)読んでいません。一番大きい理由は、「スパイ・ゾルゲ」を撮って”引退”した映画監督の篠田正浩さんが、雑誌のインタビューで「私は、小説は読みません。個人の妄想に付き合っている暇はありませんから」という文言を読んでしまったからです。
その通りだなあ。他人の妄想(たとえ、知的とはいえ)に付き合っているほど、人生は長くないなあ、と確信してしまったのです。
以後、ノンフィクションに転向して、できる限り、読むとしたら、ノンフィクションばかり読むようになったのです。
もう芥川賞といっても、主催者の「売らんかな」商魂が見え見えで、「え?何でこんなのがあ・・・!?」というのが受賞しているので、とても読むに耐えられない(軽さ)なのです。正直、前回の受賞作も、途中で嫌になって、投げ出してしまいました。
でも、今回は久しぶりに読んでみようかなあ、と思いました。天安門事件を扱っていて、選考委員の高樹のぶ子さんが「政治的事件に関わった中国人男性の20年に及ぶ個人史で、私たち日本人の多くはこうした20年を過していない」と発言しているからです。
恐らく、この小説は、中国で出版すれば、発禁処分になっていたことでしょう。そういう意味でも興味があります。