「出版と権力」との関係をもっと知るべき

 魚住昭著「出版と権力 講談社と野間家の110年」(講談社、3850円)をやっと読了しました。読後感は爽快とまではいきませんでしたが、日本を代表する日本一の出版社を通して、誰も知らなかった日本の近現代の裏面史が描かれていました。

 講談社の内部に詳しい事情通から聞いた話によりますと、このような社外秘の文章を、わざわざ部外者の作家に見せて、ノンフィクションを書いてもらったのは、段々、講談社の社内も世代が変わって、昔の事情を知らなくなった若い人が増えてきたため、是非とも若い社員には、創業当時からの講談社の裏事情まで知ってもらいたいという上層幹部の信念によるものだったそうです。

 確かに、どこの大手企業にもある「社史」など、つまらなくて社員でさえ誰も読みませんからね(苦笑)。

 この本が少し勿体ぶったような書き方をするのはそのせいだったのかあ、と意地悪な言い方ですが、納得しました。

銀座「アナム」Bランチカレー980円

 渓流斎ブログでこの本を取り上げるのはこれが3回目なので、今回は後半のことに絞って書きます。後半の主人公は何と言っても、「中興の祖」と言われた四代目社長の野間省一です。この人は、もともと野間家の人間ではなく、夭折した二代目社長恒(ひさし=野間清治・左衛夫妻の息子)の妻だった登喜子(皇族出身)の婿養子として野間家に入った人でした。旧姓高木省一。子どもの頃から神童とうたわれ、旧制静岡高校から東京帝大法学部に入り、卒業後は、大蔵省か内務省に入省してもおかしくなかったのに、南満州鉄道に入社します。省一が、満鉄に入社したのは、後に「新幹線の父」と呼ばれた十河信二の影響が大きかったからだといわれます。省一が旧制静高から帝大に入学する際に、援助を受けたのが静岡を代表する物流会社「鈴与」でしたが、その六代目社長鈴木与平と鉄道省官僚の十河と親しく、その縁で省一は十河と面識があったからだといいます。

 省一の満鉄時代の活躍(哈爾浜鉄道局総務課資料係長秋山炭六らとのソ連情報分析)はスパイ映画にでもなりそうな話ですが、その辺りは長くなるので、本書を読んでください(笑)。

 とにかく、省一は野間家に入り、社長になりますが、戦中に軍部と協力した「戦犯容疑」から戦後、会社から一時追放されます。が、組合の反対を押し切って、社長に返り咲き、創業者の「忠君愛国思想」路線から脱皮して、文芸から美術全集や科学書の「ブルーバックス」に至るまで、総合出版社に育て上げます。

 講談社は、多くの関連会社を持ち、それらは、本社がある地名から「音羽グループ」と呼ばれています。その一つに光文社(カッパ・ブックスや「女性自身」「フラッシュ」などを発行)がありますが、同社は戦時中に陸軍と共同で雑誌「征旗」などを出版していた日本報道社が起源だったとはこの本で知りました。

 もう一つ、キングレコードがあります。戦前、100万部もの大発行部数を誇った大衆誌「キング」から命名されたものでしょうが、この「キング」も戦時中は、敵性用語だから不謹慎だと、当局ではなく、大衆読者からの抗議によって、雑誌名を「富士」と改名を余儀なくされます。加藤陽子著「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(新潮社)みたいな話ですね。

 雑誌「キング」が「富士」に改名しますから、キングレコードも「富士音盤」と改名します。この西宮工場を、さらに「富士航空」と改名して、レコードではなく、航空機部品を生産していたといいます。まさに、出版の世界だけでなく、軍需産業として講談社は戦争に協力していたことが分かります。

北西酒造「村上大介」

 この本は3850円と高めですから、残念ながら、よほどの通か、粋な人しか買わないことでしょう。今は長い「出版不況」のトンネルの中にいますからね。同書によると、雑誌の売り上げがピークだったのは1997年で、実倍額が全国で1兆5644億円でしたが、2018年は5930億円。22年間で売り上げが3分の1近く落ち込んだことになります。(書籍は、雑誌ほど落ち込みが酷くはないものの、1996年の1兆0931億円がピークで、2018年は6991億円にダウン)

 これでは、日販、トーハンといった大手取次会社が赤字を出したり、街の本屋さんが次々と消えてなくなっていくはずです(アマゾンの影響が大きい)。

 でも、通や粋な人だけではなく、本書を読んで色々知ってもらいたいことが沢山あります。戦後の占領軍GHQによる検閲は苛烈で、まさに酷いものでしたが、戦時中の軍部による検閲と顧問団名目の大目付派遣と、顧問料名義の賄賂、たかりの酷かったことです。これでは、米軍を非難すらできなくなります。前回、その陸軍の鈴木庫三中佐の戦後の変わり身の早さのことを書きましたが、日本人だけを、特別に、殊更賛美する人にはこの本を読んでもらいたいと思いました。

鈴木庫三という男=「出版と権力 講談社と野間家の110年」

 先週から魚住昭氏による669ページの大著「出版と権力 講談社と野間家の110年」(講談社)を読んでいます。途中で、「随分、よく調べているなあ」と感嘆したり、逆に、「社外秘の文書を特別に閲覧することができた、と豪語している割には驚愕すべき話は出て来ないなあ」と落胆したりしながら読んでいます。(やはり、同じ時代を扱った立花隆著「天皇と東大」の方が図抜けて面白い)

 この本に関しては、既に、渓流斎ブログの7月23日付の記事「講談社創立者野間清治の父は上総飯野藩士だった」で一度取り上げましたが、3年前に講談社ウエブサイト「現代ビジネス」に連載されていた時分から私は読んでいました。ウエブでは、講談社創立者「野間清治の一代記」(特に沖縄での御乱行)の印象が強かったのですが、改めて通読してみますと、タイトルの「出版と権力」そのものズバリの内容でした。

 まさに、出版、特に、雑誌は「時代を写す鏡」です。その時代の大衆が何を求めているのか?ーそのときの時流に乗らないと、雑誌は売れません。教職者だった野間清治が明治43年に初めて「雄弁」を、翌44年に「講談倶楽部」を次々と発行し、当初の「返品の山」の嵐を乗り越えて成功した時代背景には、自由民権運動後の国会開設や、明治新政府による教育の普及によって識字率が向上したことがありました。

 何と言っても、野間清治は波乱万丈の人です。「講談倶楽部」は、講談だけでなく、桃中軒雲衛門ら当時一世を風靡した浪花節(浪曲)を掲載したところ、講談師43人から連名で、講談速記録の雑誌掲載をボイコットされますが、新たに「新講談」と称して、都新聞の編集室に依頼して新作を発表していきます。後に「大菩薩峠」で有名になる中里介山や股旅物で第一人者となる長谷川伸らが健筆を振るい、売り上げ増に貢献します。

 それにしても、「出版と権力」の話が中心なので、この本で注目すべき中核をなしている物語は、昭和初期の戦時中の軍部による圧力の話です。まさに、近現代史の稗史です。

 中心人物は、陸軍情報部(後に情報局)情報官の鈴木庫三少佐(後に中佐、最終階級大佐、1894~1964年)です。何しろ、戦時体制という時局柄、国家総動員で、「思想教育」に打ってつけのメディアが雑誌でしたから、社会主義やマルクス主義はもってのほか。反戦思想など戦意高揚に反する記事もアウトです。紙の配給から印刷、流通に至るまで生殺与奪権は全て軍部が抑えていますから、軍部の御機嫌を損ねた出版社は倒産しかねません。

 この鈴木庫三という男は、出版社の幹部を呼びつけては、サーベルをガチャガチャといわせて威嚇して編集方針を変更させ、顧問団という名の監視役を社に送りつけたり、謝礼という名の法外な賄賂を受け取ったりします。

 一方の講談社の方は、かなり強かで陸軍のために「若桜」、海軍のために「海軍」を発行して軍部に全面的に協力して、用紙確保に心配なく、莫大な利益を上げていきます。

 日本敗戦後、講談社は戦争協力者として指弾されて、戦前の幹部は一掃され、GHQによる指令もあり、民主主義思想を根幹にした出版社として生まれ変わります。その際に、再登場したのが、戦後も生き延びた例の鈴木庫三さんです。講談社の幹部に会うと、「僕に頼みたい原稿があったらいくらでも書くよ。だいたい民主主義だなんて言ったって、僕はその方の専門家だからねえ」と言い放ったといいます。

 何という変わり身の早さ! 戦時中にあれほど若者たちを戦争に煽って、自分の意に反する言論を弾圧してきたというのに、自らの戦争責任などひとかけらも感じていない。鈴木庫三という男。ジャーナリスト清沢洌から「日本思想界の独裁者」と言われた男。人間ではありながら、良心の呵責や罪悪感など一切持ち合わせていない人間というものがこの世に存在するということを見事に見せつけてくれました。

 

講談社創立者野間清治の父は上総飯野藩士だった

 本日は、ついに東京五輪開会式。やっちまうんですね。(もうソフトボールやサッカー等の予選は始まってますが)

 疫病下のオリンピアード

 後世の歴史家は、2021年の東京五輪をそう名付けることでしょう。既に、東京都内のコロナウイルス感染者が2000人近くに迫り、オリンピック大会関係者も22日現在、78人の感染者が確認されたと公式発表されていますから、今から中止してもいいぐらいなんですけどね。とにかく、歴史上始まって以来、盛り上がりに全く欠けるシラケ五輪です。

 さて、私事ながら、4連休なので、東京都内の博物館にでも行きたいところですが、緊急事態宣言が出されているので、家でじっと本を読んでいます。

浦和・「中村家」 うな重特上4800円

 今読んでいるのは、いつぞやも、このブログで、私の自宅の書斎の机の上には未読の本が「積読状態」になっていることを白状しましたが、その中の1冊です。魚住昭著「出版と権力 講談社と野間家の110年」(講談社、2021年2月15日初版)という本です。2018年から20年にかけて、講談社ウエブサイト「現代ビジネス」に連載されたものを、大幅に改稿して単行本化したもので、私自身もネット連載中の記事は拝読させて頂き、その「面白さ」は既に、痛感しておりました。

 著者の魚住氏は共同通信出身のノンフィクション作家です。私は若い駆け出し記者の頃、共同通信の人には目の敵にされ、意地悪されたり、取材妨害されたりし、また、人海戦術で他社を潰そうとする態度があからさまだったので、今でも共同は、大嫌いな会社なのですが、魚住氏とは接点がなく、著書を通してですが、その取材力には感服しております。

 「出版と権力」は、日本一の出版社、講談社を創立した野間清治の一代記ですが、サブタイトルにあるように、清治の後を継いだ二代目恒(ひさし)から六代目の佐和子社長辺りまでの110年間を総覧しているようです。講談社という一つの出版メディアを主人公に、当時の政治的社会的背景から風俗、流行に至るまで、時代の最先端の空気を他社より先んじてリードする出版人の裏の苦労話も書かれているようです。

 まあ、近現代史の裏のエピソードが満載ですから、面白くないわけないでしょう。

 何しろ、注を入れて669ページという事典のような大著です。ネットで読んだとはいえ、単行本の方は、まだ、最初の方しか読んでいませんが、一番興味を持ったのは、創業者野間清治の先祖の話です。明治11年(1878年)生まれの清治の父好雄は、上総飯野藩(現千葉県富津市)の藩士の三男だったんですね。

◇保科正之の御縁で飯野藩と会津藩は縁戚関係

 飯野藩は慶安元年(1648年)、保科正貞が立藩し、代々保科家が藩主を務めました。家康の孫に当たる正之が、保科家に養子に入ったため、保科家は一時廃嫡になりましたが、その保科正之は会津松平家を興したため、保科正貞が飯野藩を立藩できたわけです。ということは、会津藩と飯野藩は縁戚関係ということで、幕末は、飯野藩も、奥羽越列強同盟の会津藩に馳せ参じて、戊辰戦争で官軍と戦うことになるのです。

 野間清治の父好雄の長兄銀次郎は、飯野藩士19人と脱藩して遊撃隊を結成して官軍と戦いますが、官軍に蹴散らされ、その責任を問われた銀次郎は、飯野藩家老とともに切腹したといいます。

 また、野間清治の母の文(ふみ)は、飯野藩武術指南役・森要蔵の長女で、清治の父好雄は、森要蔵の内弟子だったので、妻の文は師の娘に当たります。森要蔵は、もともとは江戸詰め肥後細川藩士の六男で、北辰一刀流の千葉周作に師事し、神田お玉が池の千葉道場の四天王の一人と称されました。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」などにも登場する剣客です。その森要蔵も三男寅雄(文の弟)ら門弟28人を連れて、会津藩の応援に駆け付けますが、壮絶な最期を遂げます。

 明治の新聞人は、福沢諭吉(「時事新報」)、成島柳北(「朝野新聞」)、栗本鋤雲(「郵便報知新聞」)らもともと幕臣や佐幕派が多かったのですが、野間清治のように雑誌、出版人も佐幕派の血を引いていたとは、感慨深い話でした。

 

魚住昭氏著、講談社の創業者野間清治物語に瞠目

 昨日の台風21号は、関東地方は電車が遅れる程度で、お店は全開、大きな影響はなかったのですが、関西地方は台風襲来で大変だったようです。
 京都にお住まいの京洛先生は「午前中で、商売を切り上げる店が殆どで、『コンビニ』も同じで、アテにできません。大手デパートはすべて『休業』です。交通機関も同様です。JRは在来線は全面運休で、まるで台風を使った『戒厳令』の予行演習、予備訓練です。『家に閉じ籠もって、政府PR機関のテレビでも見ていろ!』という事です」と憤慨されておりました。
 そして、「貴人も、アホなチンピラにアタマに来るより、そうしたチンピラがもっと増殖して、そのチンピラどもによる騒擾事件が暴発、拡大する日本の近未来をもっと予想して、対応しないとダメですよ。そう考えると『戒厳令』の予行演習は必要ですかね」と、何だかよく分かりません。まるで自暴自棄です(笑)。 
 続けて「こんな時に、都内では、世論支持率1%の『国民民主党』が新代表を選んだ、という事ですが、小、中学校の生徒会の会長選びみたいなものです。
 玉木代表以下、”幹部の顔”は、人生の辛酸など舐めたことがない人々で、顔を見たら分かります。これでは、海千山千の自民党の二階幹事長にはやられますね。どうして、こういう”紳士服の青山”のモデルのような容貌の面々が選挙で当選するのですかね? すべて、一票を投じる有権者の責任です。”トランプ批判”するより、日本のマスコミは『有権者批判』と日本人の頭脳構造を分析して、覚醒させる方が先決です」と、全うなことを仰るのです。
 それにしても、「”紳士服の青山”のモデルのような容貌」とは秀逸ですなあ(笑)。まあ、政治家は国民が税金で養っているわけですから、これぐらいの批判には耐えなければならないでしょう。
◇◇◇
その京洛先生、毎日、毎時、ピンと張り詰めたアンテナを張り巡らして情報収集に努めており、私もその「おこぼれ」に預かっております。
 昨日は、講談社の創業者野間清治の伝記をノンフィクション作家の魚住昭氏が、インターネットの「現代ビジネス」で発表しているから是非読むように、と勧められました。
 「大衆は神である」という大きなタイトルで、「現代では批判にも多くさらされている既存メディアはどのように誕生し、大きくなっていったのか。ノンフィクション作家の魚住昭氏が極秘資料をもとに紡いでいく」と銘打っております。
 極秘資料ですから、面白くないわけがありません(笑)。魚住氏は「野間はズボラで、遊び好きで、借金まみれの放蕩生活を沖縄で送ってきた。それでも野心だけは人一倍あったようだ。」と書きます。野間は、東京で一旗揚げる前に、沖縄で教師をしていたことがあります。

 魚住氏は、日本共産党の指導者として有名な徳田球一(とくだきゅういち・沖縄県立中学出身)の証言を引用します。

〈琉球というところは、中学の先生はほとんどよそからきた人だから、琉球人を特別に軽蔑するので、われわれはいつも団結して反抗した。その先生どもは、いずれもいいかげんな検定をとって琉球に流れてきた連中なので、質がわるく、高師(=高等師範学校)をでたものは十五、六人のうち二、三人で、大学など出ていようものなら、くるとすぐ首席か校長になってしまうというありさまだった。そのなかでも、とくにわるい先生だとおもったのは、のちに講談社の社長となった野間清治だった。野間は私が中学一年のときの漢文の先生だったが、漢文などはほとんど知らない。教室では石童丸(いしどうまる=出家した父を探して幼子が高野山を訪ねる仏教説話)の話や、講談、なにわぶしのようなことばかりやっていた>

<しかもかれは、遊廓を宿舎とし、まいにちそこから酔っぱらって出勤した。かれももちろん、いいかげんな検定をうけて流れてきた部類なのだが、収入は一月四十円か五十円とっていたはずで、遊廓にとまっても、一ヵ月十円ぐらい、一里の道を車でおくりむかえされ、さんざん酒をのみ、女あそびをしても二十円ぐらいですんだときだから、らくにやってゆける。だからかれのような人間にとっては、琉球はたしかに天国であったろう。しかし、われわれにとっては、地獄であった〉(『獄中十八年』)

1950年代に作成された講談社の「極秘資料」には、将来の歴史学者やジャーナリストの批判にも応えられるよう、良い事も本人に都合の悪いことも書かれているというので、確かに「超一級資料」と言えるでしょう。
 やはり、ネットでは読みにくいので、早く単行本になってほしいものです。
 【追記】台風21号の影響で、京都の二条城や西本願寺など国宝、重文建築が損傷したそうです。やはり、相当激しかったのですね。