大坂の陣こそ「天下分け目」の戦いだった?=「歴史人」1月号

 久しぶりに「歴史人」(ABCアーク)1月号を購入しました。来年、2024年のカレンダー(平安 源氏物語の世界)が付録として付いているからです。カレンダーが欲しいので買いました、と正直に書いておきます(笑)。

 「歴史人」はここ5~6年買い続けましたから、生意気ですけど、そろそろ卒業したかな、と思ったのでした。同じような企画特集が繰り返されて、同じようなことが書かれているので、「あ、またか」という思いもあったのでした。歴史に関してはかなり精通した気分にもなっておりました。

 でも、それは、やはり「生意気」でした。自分にとって、知らない新事実が湧き出る泉の如く頻出するのです。そりゃ、そうでしょう。

 「歴史人」1月号の特集記事は「大坂の陣 12の謎」でした。ちょうど、NHK大河ドラマ「どうする家康」が最終回を迎え、最後は「大坂の陣」で勝利を収めた徳川家康が亡くなるところで終わっていました。まあ、このテレビ番組とタイアップした格好なので、読者獲得狙いは見え見えです(笑)。いやはや、そんな不遜なことを言ってはいけませんね。内容は実に充実していて、浅学菲才の私が知らないことが多く書かれておりました。

◇淀君は蔑称?

 例えば、「淀君」です。織田信長の妹お市の方と浅井長政の長女で、豊臣秀吉の側室。豊臣秀頼の生母と言われ、それを盾に権勢を振るった人と言われています。この「淀君」とは、私は尊称かと思ったら、全く逆で蔑称だったんですね。当時、最下級の遊女である「辻君」(道端で春を売る女)にこと寄せて「淀君」と呼んだようです。幼名は茶々などがありますが、本来は「淀殿」でした。これは、産所(住居)としてあてがわれた淀古城に因んだものでした。

 もう一つ。大坂冬の陣、夏の陣(1614~15年)は、局地的な戦争で、天下分け目の「関ヶ原の戦い」(1600年)と比べると見劣りすると思っておりましたが、徳川方約20万人、豊臣方も約10万人とかなり大規模な戦争だったことを知りました。実は、関ヶ原の戦いで雌雄が決したわけではなく、まだまだ火種が燻っていて、大坂の陣でやっと決着が付いたことが歴史の正当な解釈でした。 

 何で、歴史の教科書などで大坂の陣が関ヶ原の戦いより重視されなかったのか? それは、豊臣方として、大野治長や真田幸村(信繁)、それに黒田家の元重臣後藤又兵衛(基次)、土佐の長宗我部盛親らは有名ですが、それ以外は「牢人衆」として十把一絡にされてしまい、後の徳川政権によって、まるで烏合の衆扱いされていたからだと思います。

 しかし、よく見ると、「牢人衆」の中には、関ヶ原の戦いで西軍に属して、領地を没収された大名の子息らも少なくなかったのでした。大谷吉治は、石田三成の片腕だった大谷刑部吉継の子、石川康長は、家康の元家老で秀吉方に出奔した石川数正の子、増田盛次は、秀吉の五奉行の一人増田長盛の次男、細川興秋は、小倉藩主細川忠興の次男(三男が嫡子となったため出奔した)、浅井井頼は、浅井長政の庶子(ということは淀殿の異母きょうだい)らがいたことを見れば明らかです。

 あと、大河ドラマ「どうする家康」を見ていると、評定(ひょうじょう)らしき重要な場や、仲介交渉役として多くの女性が登場するので、あの封建的な女性差別の時代ではあり得ず、フィクションのドラマかと思っていましたら、史実だったんですね。徳川方の和議の使者となったのは、家康の側室阿茶局(武田家の家臣飯田直政の娘)で、豊臣方の窓口となったのが、淀殿の妹初(常高院)だったことは歴史的事実でした。ドラマの時代考証さま、疑ってすみませんでした。

 最後に、豊臣秀頼は、「秀吉の実子ではないのではないか」という憶測が現在でもあります。有力なのが、淀殿の乳母大蔵卿局の子息の大野治長、秀吉の重臣片桐且元、それに石田三成説まであります。しかし、歴史家の加来耕三氏は、秀吉は天下人になって灸をすえ、漢方を服用し、温泉に浸かったりして努力していたことから、「秀吉の実子」説を唱えておりました。

 となると、淀殿と秀頼の自害で豊臣家が滅亡したことはかえずがえすも残念でした。嫡子ではないにせよ、北条氏や織田家でさえ、江戸時代~現代も残りましたからね。

【追記】2023年12月19日

 やはり、大坂の陣は、歴史のターニングポイントでしたね。近世の城郭の建築ラッシュになったのが、1600年の関ケ原の戦いから1614年大坂冬の陣までの慶長年間だったというからです。関ケ原では、加藤清正、福島正則、黒田長政ら旧豊臣方の活躍で勝利したため、徳川家康も仕方なく論功行賞として領地を与えなくてはなりませんでした。彼らが壮大な城を建築すれば、徳川方も防御とし多くの城を建築せざるを得ません。名古屋城などは、全国の大名をかき集めて公儀(天下)普請で行った他、西に睨みを効かすために、井伊直政には石田三成の所領を与えて彦根城をつくらせ、藤堂高虎には安濃津城を任せたりしましたから、大坂の陣まで戦国時代は続いていたという見方は正しいのではないでしょうか。

姓名に五音が全て含まれていると良い事があるかも?

 日本の歴史上の人物で「三大英傑」と言えば、

 織田信長(1534~82)享年47歳

 豊臣秀吉(1637~98)享年61歳

 徳川家康(1543~1616)享年73歳

 の3人ということで、相場が決まっています。冠に「戦国時代の」と付くべきかもしれませんが、日本史上の「三英傑」と言えば、この3人で決定しても差し支えないでしょう。

 この3人の中で人気度で言えば、恐らく、信長が一番でしょう。続いて、秀吉、最後が家康。多分、家康は「たぬきじじい」の陰口通り、如才がない陰謀家のイメージが焼き付いているからでしょう。

 しかし、信長は、最も信頼していた家臣明智光秀に裏切られて、47歳で自刃し、天下統一一歩手前の志半ばで終わっています。

 秀吉の晩年は猜疑心の塊で、無謀な朝鮮出兵を繰り返し、秀頼に家督を譲って、末代まで豊臣政権安泰を構想しましたが、家康によって、秀吉自ら神として祀られていた豊国神社や奈良の大仏(15メートル)より大きい京都大仏(19メートル)まで破壊され、歴史上から抹殺されようとしました。

 その点、家康は、戦国の世を収めて、260年も続く徳川政権を樹立することに成功しました。治水も含め、風水に基づいた都市整備(江戸城の鬼門に寛永寺、裏鬼門に増上寺、その他、周囲に目黒、目白などの不動尊を配備)、徳川家が断絶しないよう「御三家・御三卿」の創設や「大奥」などを設置し、金地院崇伝や天海上人、三浦按針らのブレーンを側に配置して、自ら亡き後の100年後、300年後を見据えて計画しています。「長寿こそ天下取りの秘訣」を熟知していた家康は「健康おたく」で、自ら薬草園をつくって、薬を調剤するなどしていたといわれます。

 もしかしたら、後世に影響を与えた最重要人物として、たった一人を挙げよと言われれば、この徳川家康になるかもしれません。私は一票を入れます(笑)。

 さて、この徳川家康という名前ですが、実は、「とくがわ・いえやす」の発音の中に「あいうえお」と五音が全て揃っているのです。織田信長には「い」と「え」がありません。豊臣秀吉には「あ」と「う」がありません。これは、単なる姓名占いかゴロ遊びではありますが、「そっかー」なんて思ってしまいます。

 ところで、このブログ《渓流斎日乗》の主宰者は、高田信之介(たかた・しんのすけ)と言います。これは、世を忍ぶ仮の姿と言いますか、諱(本名)ではなく、筆名ですが、驚くべきことに、何と、この筆名には偶然にも「あいうえお」の五音が全て含まれていたのです。「やったー」です。

 だから、何なの?と言われてしまいそうですね(苦笑)。失礼しました~。

旧友を訪ねて 43年ぶり再会も=名古屋珍道中(上)

 5月15日(日)~16日(月)、一泊二日で、名古屋に住む大学時代の旧友K君のお見舞いも兼ねて、小旅行を敢行しました。1日目だけは、大学時代の後輩で、今や有名私立大学の教授にあらせらる山上君もお住まいの浜松から飛び入り参加してくださり、実に充実した日々を過ごすことができました。

 とはいえ、最初からかなりのトラブル続きで、まるで我々の人生を象徴しているかのようでした(苦笑)。何しろ、山上君とは大学卒業以来一度も会ったことがなく、42年か43年ぶりの再会。K君とも、彼は記憶力抜群で、最後に二人で会ったのが、東京・銀座で、2008年12月31日以来だといいいますから、14年ぶりぐらいです。

 三人の共通点は、同じ大学の音楽倶楽部仲間ということです。それでも、43年ぶりともなると、昔の面影も何もなく、浦島太郎さんが玉手箱を開けて、「あっと言う間に、お爺さん~」ですから、果たしてうまく再会できるのやら…。

 待ち合わせ場所は、新幹線出口(太閤通口)を降りた「銀の時計」前ということでしたが、「いない!」。K君に電話しても出ない。それじゃあということで、山上君に電話しても出ない!どないなっとるんねん???もしかして、反対側の出口(桜通口)かな?と思って、右往左往して銀の時計に戻ったら、いたいた。「あれっ?電話したのに」と二人を責めると、「あれ?え?」と悪びれた様子もない。お爺さんは耳が遠いので電話が鳴っても気が付かないことが判明しました。これがトラブルの第一弾、先が思いやられます。

名古屋・豊国神社

 この後、私の宿泊するホテルに荷物を預けて、タクシーで向かったところは中村公園です。ここは天下の豊臣秀吉の生誕地であり、豊国神社が建立されていました。

名古屋・豊臣秀吉生誕地

 豊臣秀吉は、名古屋生まれだったのです。看板にある通り、「秀吉は1536年、木下弥右衛門の子として生まれた」とあります。この木下弥右衛門がどんな人物だったのか、諸説ありますが、単なるドン百姓(差別用語)ではなく、中村の長(おさ)だったという説があります。つまり、村長さん、恐らく大地主か庄屋クラスでしょう。秀吉は、最底辺のどん底から這いあがって立身出世した歴史上最大の人物とされますが、もともとある程度裕福な特権階級だったんじゃないかと思います。哀しいかな、無産階級では教育も受けられませんし、ゼロだと何も生まれませんから。

太閤秀吉功路 最終地点の碑除幕式(名古屋・中村公園)

 たまたま、公園内で、「太閤秀吉功路 最終地点の碑」の除幕式を地元の名士を集めてやっておりました。

 何の碑かと思ったら、秀吉の馬印「せんなり瓢箪」でした。

名古屋・秀吉清正公園

 中村公園内に他に何かあるか探してみました。

名古屋・中村公園内「初代中村勘三郎(1598~1658年)生誕地記念碑」

 ありました、ありました。「初代中村勘三郎(1598~1658年)生誕地記念碑」です。えっ?歌舞伎役者で、中村座の座頭だった勘三郎はここで生まれたんですか。

 看板などの情報によると、中村勘三郎は、豊臣秀吉の三大老中の一人、中村一氏の末弟・中村右近の孫だと言われてます。兄の狂言師・中村勘次郎らと大蔵流狂言を学び、舞踊「猿若」を創作したといいます。 元和8年(1622年)江戸に行き、寛永元年(1624年)、猿若勘三郎を名乗り、同年江戸の中橋南地(現東京・京橋)に「猿若座」(のちの「中村座」)を建てて、その座元(支配人)となった人です。

 秀吉と勘三郎が同郷人だったとは。

 公園内には「秀吉清正記念館」もあったのでちょっと覗いてきました(無料)。清正とは、後に肥後52万石の大大名になる加藤清正のことで、清正もここ中村生まれです(1562年)。父親は、刀鍛冶・加藤清忠だったようです。

 尾張出身の戦国武将は、ほかに、織田信長、森蘭丸、前田利家、柴田勝家、池田輝政、福島正則、蜂須賀小六、山内一豊…と錚々たる武将を輩出してます。

 名古屋の人は、今回の小旅行で、あまり親切な人がいませんでしたが、著名な戦国武将が生まれるくらい生存競争が激しい土地柄なのかしら?

 ただし、地元の人の話では、中村公園がある中村区は土地が低く、名古屋駅の西側は、亀島や津島といった地名があるように古代中世は陸続きではなかったようです。

 逆に名古屋駅の東側の東山などは、地名の通り、「山の手」で現代も高級住宅街が多いということでした。

名古屋城

 次に向かったのが、名古屋城です。中村公園から「メ―グル」と呼ばれる「なごや観光ルートバス」に乗りました。

名古屋城

 メ―グルは1乗車210円ですが、一日乗車券(500円)を買うととても便利です。名古屋城に入城するには普通は一般500円ですが、メ―グルカードを見せると、割引で400円。この後、入った徳川美術館と庭園徳川園も通常は一般1550円ですが、やはり、メ―グルを提示すると1350円で済みました。メ―グルは2回(420円分)しか乗りませんでしたが、入場券で300円分割引を受けたので、十分に元が取れたのです(笑)。

 タクシーの運転手さんは「名古屋には観光するところがない」とぼやいてましたが、名古屋観光するなら、メ―グルはお勧めです。ただし、本数が少ないのでご注意。

名古屋城 石垣ファンにはたまらない
名古屋城 石垣フェチにはたまらない

 名古屋城の天守は現在、工事中で中に入れないことは知っていたので、お目当ては「本丸御殿」でした。3期にわたる工事で、2018年から全面的に公開されるようになりました。

名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿

  期待通り、見応え十分でした。バチカンのシスティーナ礼拝堂に匹敵するぐらいです。日本美術の粋が集まっています。

 本当に圧倒されました。

名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿・上洛殿(三代将軍家光をお迎えするために増築)
名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿

 残念ながら、「本物」は、昭和20年の米軍による空襲で焼失してしまいました。名古屋城は、昭和11年に指定された「国宝第1号」ですからね。米軍は、それを知って、爆撃したに違いありません。米国人は野蛮な文化破壊者ですよ。ロシア人を批判する資格があるのかしら?と、つい興奮してしまいます。

 本丸御殿は、復元ですが、世界に誇れます。感嘆感服致しました。今回、これを見るだけで名古屋に来た甲斐がありました。

元祖てんむす千寿と愛知の地酒「関谷酒造」の「蓬莱泉」ワンカップ こりゃうめえ

 あ、その前にランチは、K君が3人分用意してくれました。天むすの元祖「千寿」と愛知の地酒「関谷酒造」の「蓬莱泉」ワンカップです。これが旨いの何の…。これまた、名古屋に足を運んだ甲斐がありました(笑)。

名古屋・徳川美術館と庭園「徳川園」

 次に向かったのが徳川美術館と庭園「徳川園」です。大変、大変失礼ながら、口から泡を吹いて驚くような見たことがないようなお宝は展示されていませんでした。(尾張)徳川家代々の本当の秘宝は、蔵にあるんでしょうね(笑)。

名古屋・庭園「徳川園」大曽根の瀧

  徳川美術館では、どういうわけか、春季特別展が開催されていて、安藤広重の「東海道五十三次」と「木曽海道六拾九次」の全作品が展示されていました。山上君は静岡県出身で、「東海道五十三次」で描かれた蒲原(本当は雪は降らない)や三島や見附や舞浜などは馴染みの深い地元の名所なので、食い入るように見つめておりました。

名古屋のシンボル・テレビ塔

 次に向かったのが、現代の一番、名古屋らしい所ということで、久屋大通り公園にあるテレビ塔です。

 久屋大通り公園は、何となく、札幌の大通公園に似たイメージがありましたが、すっかり変わってしまい、公園の両脇は、超高級ブティックやレストランが並び、随分、敷居が高くなりました。

名古屋「御園座」懐かしい!

 そうそう大変なことが起きました。今回起きたトラブルの究極の極致です。K君が、スマホを無くしたことに気が付いたのです。恐らく、午前中に出掛けた秀吉生誕地の中村公園内で置き忘れたのではないか、ということで、公園事務所や近くの交番に電話しましたが、まだ届け出はありませんでした(いまだ探索中)。

 普通だったら、パニックになるのに、K君は肚が座っているというか、あまり動揺しません。仏教的諦念に近いんです。でも、早く見つかることを願っています。

 今回一緒に合流してくれた山上君は、夕方の新幹線で帰るというので、地下鉄の「栄」駅で別れました。一緒にお酒でも飲もうと思っていたのに本当に残念でした。

名古屋の居酒屋「大甚本店」閉まってたあ

 今回の小旅行は「トラブル続き」だった、と書いた通り、最悪だったのは、本日のハイライトだった「夜のお楽しみ」が日曜日だったせいなのか、予定していたお店が全て閉まっていたことでした。まず、K君が学生時代から通っていた、名古屋一の老舗居酒屋「大甚本店」(創業明治40年、伏見)が閉まっていました。そして、御園座近くの「大甚中店」も閉まっていました。

名古屋・伏見 バー「バーンズ」

 しかも、K君が1カ月も前から考え抜いてくれていた「二次会」用の老舗著名バー「バーンズ」までこの日は「貸し切り」で中に入れませんでした。

 どないなっとるんねん??? 

名古屋・串カツ屋

 仕方がないので、伏見駅の近くにあった串カツ屋さん「串かつでんがな」に飛び込みで入り、この後、名古屋駅にタクシーで向かいました。

名古屋ミッドランドスクエア42階「スカイプロムナード」800円のはずが

 K君が「どうしても見てもらいたい」ということで、駅前に聳え立つ超高層ビル「ミッドランドスクエア」の42階「スカイプロムナード」に連れて行ってくれました。(名古屋には超高層ビルは、駅前にある3棟ぐらいしかありません)

名古屋ミッドランドスクエア「スカイプロムナード」360度の視界で、名古屋城も見えます

  ここは入場料が800円ですが、K君の「身体障害者手帳」を提示すると、その付き添いまでロハで入場できたのです。

 周囲は若いカップルばかりで、お爺さんの二人連れは、何となく異様な雰囲気でした。

 でも、今回、山上君と再会したのは43年ぶりのこと。ということは、43年前は彼ら若いカップルはまだこの世に生まれてもいなかったに違いありません。感慨深いものがあります。

 2日目の16日(月)の話は次回に続きます。

「戦国武将の国盗り変遷マップ」が面白い=「歴史人」

 今、とてつもない本を読んでいます。本というより雑誌ですが、永久保存版に近いムックです。「歴史人」という雑誌の11月号(KKベストセラーズ)で「戦国武将の国盗り変遷マップ」という題で特集しています。本屋さんでたまたま見つけました。(執筆は小和田哲男静岡大名誉教授ら)

 知らなかったことが多かったので勉強になります。私は、全国の「お城巡り」を趣味にしているので、大変参考になります。

 私自身の見立てですが、日本の歴史の中で、最も興味深い時代は、何と言っても「戦国時代」だと思っています。だから、多くの作家が戦国ものをテーマにしたり、NHK大河ドラマでもしばしば扱われたりするのです。人気面でも戦国時代がナンバーワンでしょう。これに続くのが、「幕末・維新」と「古代史」でこれでベスト3が出そろった感じです。

 そう言えば、「維新の三傑」と言われた人物でも、やはり戦国時代の信長、秀吉、家康の三巨頭と比較されると見劣りします。人間的スケールの大きさが違います。殺すか殺されるか生死の境目で生きざるを得なかった過酷な時代背景が戦国時代の英傑を産んだともいえます(幕末もそうですが)。勿論、個人的には一番生まれたくない時代ですけれど(笑)。だからこそ、憧れのない代わりに、そんな過酷な生死の境を生き抜いた英傑には感服してしまうのです。

 戦国時代とは、応仁の乱(1467年)から大坂の陣(1615年)までの約150年間を指します。まさに下剋上の時代で、食うか食われるかの時代です。臣下にいつ寝首をかかれるか分かりません。本書は「戦国武将の国盗り変遷マップ」と称していますから、時代ごとの勢力地図が示されて、その分布が一目で分かります。

 例えば、小田原北条氏の三代目氏康は、1546年の河越合戦(埼玉県川越市)で勝利を収め、扇谷上杉氏を滅亡させ、古河公方や関東管領家を弱体化することによって、ほぼ関東全域の支配権を確立します。しかし、氏康は1559年に氏政に家督を譲った後は、上杉謙信の侵攻に悩まされ、一時期は、北条氏の関東の領土は奪われて半減したりすることが、マップで一目瞭然で分かるのです。(氏政は後に奪還して北条氏の最大の領地を拡大しますが)

 内容は大学院レベルだと思います。私が学生時代に習った北条早雲は、出自の分からない身分の低い成り上がり扱いでしたが、実は、室町幕府の申次衆という高い身分の伊勢氏出身で、最近(とは言っても数十年前)の研究で、伊勢新九郎盛時(伊勢宗瑞)だったことが認定されました(北条に改名したのは二代目氏綱から)。早雲の姉(または妹)の北川殿が駿河の守護今川義忠に嫁いだことから、早雲も京都から駿府に下り、家督争いになった今川氏のお家騒動に積極的に関わり、氏親~義元の擁立に貢献します。戦乱の絶えない世で、今川家の軍師として活躍し、後に小田原を中心に、今川家をしのぐ領土を拡大していきます。

 一方、九州の戦国武将は、島津氏や大友氏、大内氏ぐらいしか知りませんでしたが、佐嘉(佐賀)城を本拠地にした龍造寺氏が北九州で勢力を誇り、一時「三国鼎立」時代があったこともこの本で知りました。特に、龍造寺隆信(1529~84)は「肥前の熊」の異名を取り、少弐氏(冬尚)を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築きましたが、島津・有馬氏の連合軍との沖田畷の戦い敗れ、滅亡します。(代わりに肥前を治めたのが、龍造寺氏の重臣だった鍋島氏。ちなみに、お笑いの「爆笑問題」の田中裕二氏の祖先は、この龍造寺氏の家臣でしたが、敗退後に田中氏は武士をやめて帰農したことをNHKの番組でやってました)

 また、他の日にNHKで、専門家による戦国時代の最強武将を選ぶ番組をやってましたが、九州一の武将は立花宗茂が選ばれました。えっ?誰? 彼は大友家の猛将、高橋紹運の長男で、同じく大友家の重臣立花道雪の養子になりましたが、関ヶ原の戦いでは西軍に就いたため、改易されました。しかし、余程人望が高かったのか知略を怖れられたのか、二代徳川秀忠の時代に筑後柳川城主に復帰します。でも、この人、この雑誌ではちょこっとしか出て来ないんですよね。大きく取り上げられているのが、島津家の領地を拡大した島津4兄弟の義久と義弘です。この2人なら、さすがの私でも知っています。

 日本史上最大、最高の「成り上がり」は、武士でもない庶民から関白の地位にまで上り詰めた豊臣秀吉でしょうが、織田信長も、尾張の守護斯波氏の守護代の家臣からの成り上がりで、徳川(松平)家康も、三河の守護細川氏の家臣からの成り上がりで、名を残した戦国大名のほとんど(毛利元就、松永久秀らも)が室町時代の権威(守護職)を下剋上で倒して成り上がったことがよく分かります。

 ついでながら、前半で、畠山政就⇒畠山義就、細川勝元⇒細川政元といった明らかな単純ミスが散見し、どうなるかと思いましたが、それ以降はあまり誤植もないようです。

歴史を塗り替える新事実には驚くばかり=Nスぺ「戦国~激動の世界と日本~」

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

いやあ、これまでの歴史観が百八十度引っ繰り返ってしまいましたよ。「これまで自分は、何の歴史を学んできたんだろう?」と呆然とするぐらいの衝撃がありました。 

 今年7月11日に放送されたNHKスペシャル「戦国 ~激動の世界と日本~」第1集「秘められた征服計画 織田信長×宣教師」と第2集「ジャパン・シルバーを獲得せよ 徳川家康×オランダ」のことです。

 恐らく皆さんは御覧になったと思いますが、私は見ていませんでした。でも、心優しい友人たちが録画したDVDを貸してくれました。本当に驚きました。見ていて何度も「そういうことだったのか」と膝を打ち、解けなかった複雑なジクソーパズルが繋がった感じがしました。

 「新発見で迫る戦国日本の真実」と銘打っていますから、歴史学者さえも知らなかったことかもしれません。とにかく、バチカンにあるイエズス会ローマ文書館に所蔵されている初公開の宣教師文書やオランダ国立公文書館が所蔵する「世界初の株式会社」と言われているオランダ東インド会社の平戸オランダ商館文書などの記録や報告書から、これまでの歴史を塗り替える新真実が発見されたのです。

 日本の戦国時代とは、応仁の乱が始まる1467年から、徳川家が豊臣家を滅亡させて全国統一を完成させた大坂の陣の1615年までの約150年間のことを指しますが、単なる狭い国土での内戦に過ぎないかと思っていたら、実は、当時世界最大の帝国スペイン(旧教)と新興国オランダ(新教)との代理戦争の側面があったという驚くべき事実があったのです。グローバリズムは20世紀末に始まったわけではなく、東インド会社の登場の17世紀初頭から始まっていたのです。シカゴ大学のケネス・ポメランツ教授が指摘するように、「戦国時代の日本は、まさに世界史の最前線にいた」のです。

◇スペインの日本征服計画

 第1集の「秘められた征服計画」では、スペインが宣教師を先兵というか、隠れ蓑にして、いや、諜報機関として日本人を洗脳して、挙句の果てには植民地として征服してしまおうという計画があったことが、宣教師から国王フェリペ2世への報告書などで浮かび上がります。フェリペ2世は、「征服王」の異名を持つ野心家です。スペインは、宣教師を先兵にして中南米からアジアにかけて広大な植民地を獲得してきました。

 しかし、戦国時代の日本は、世界でも稀に見る軍事大国で、メキシコやペルーやフィリピンのように簡単に植民地化できないことから、最終目的である中国の明を日本の軍事力を利用して征服するという計画にひとまず変わっていきます。

 宣教師たちは、戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いでのし上がってきた尾張の弱小国の織田信長に目を付けて取り入ります。その情報収集能力と先見の明は大したものです。これではスペインではなくスパインです(失礼しましたあ)。信長もスペインの持つ銃などの武器が欲しいので宣教師たちを利用します。信長は宣教師たちを通して得た最新鋭の銃を使って、長篠の戦い(武田家が滅亡)や石山本願寺での戦い(仏教勢力が衰退)に打ち勝ち天下統一に近づきます。一方で、宣教師たちは、キリシタン大名高山右近(摂津)らに信長に参戦するよう働きかけていたのです。

 この間、日本は世界でも稀にみる軍事大国になり、鉄砲は西洋より性能が良い国産化に成功します。(弾丸の鉛はタイの鉛鉱石の鉱山から発掘されたものだったことにも驚きました) 

 信長が本能寺の変で亡くなった後、宣教師たちは逸早く、豊臣秀吉に接近します。しかし、秀吉の方が一枚上手で、スペインより先に明への遠征を企み、その前に朝鮮出兵します。しかも、小西行長らキリシタン大名を最前線に送り、彼らの弱体化を図り、バテレン追放令まで出します。さらに、秀吉はフィリピンに密偵を派遣し、スペインの富を強奪する企みまでし、宣教師たちに「秀吉は傲慢と野心の塊」と報告書に書かせます。番組では触れてませんでしたが、秀吉がバテレン追放令を出した背景には、宣教師が日本人を奴隷にしてルソン島に運ぶ奴隷船の先兵になっていたことを見抜いていたからだという説もあります。

 ◇大坂の陣はスペイン対オランダの代理戦争

 第2集の「ジャパン・シルバーを獲得せよ」では、当時の日本は銀山王国で、佐渡銀山では多い時は年間100トンと世界の産出量の3分の1もの大量の銀を産出していたという驚くべき事実が明かされます。これまで「日本は資源が出ない」と教えられてきたので、引っ繰り返るほど驚きました。

 この銀に目を付けたのが、スペインとの独立戦争を戦っていた新興国オランダでした。東インド会社のジャック・スペックス商館長は徳川家康に接近し、オランダは、スペインのような布教や領土獲得の野心はなく、ただ貿易による利益を追求したいだけだと説得して、家康の望む大量の武器弾薬を売りつけます。これらの武器が関ケ原の戦いや大坂の陣などに使われます。特に大坂の陣では、大坂城の豊臣秀頼側にスペインが付き、まるでオランダとスペインとの代理戦争の様相を呈します。最後は、徳川方がオランダ製のカノン大砲を500メートル離れた遠方から大坂城を攻撃して勝利を収めます。この大砲購入により、銀貨1万2000枚分、重さ97トンもの銀が日本からオランダに渡り、オランダがスペインとの独立戦争に打ち勝つ原動力になったのです。

◇日本初の外人部隊か?

 話はこれで終わらず、オランダとスペインの「植民地争奪戦争」は続き、特に、スペインが支配していた現インドネシアのモルッカ諸島へ、何と日本人のサムライが傭兵として派遣され、オランダがスペインの要塞を奪取した様が、オランダ国立公文書館の報告書に出ていたのです。そこには、積荷リストとして、火縄銃や刀、槍のほか、「ユウジロウ 月7万2000円(換算)、ヤサク 月7万2000円、ソウエモン 月8万8000円」などと日本人の名前とその月給まで書かれていたのです。

 戦国の時代が終わり、仕事がなくなった武士(サムライ)たちが海外に職場に求め、スペインの要塞を陥落させ、オランダ人からは「スペインを駆逐するのに日本人傭兵が大いに役立った」と報告書の中で言わしめていたのです。

 このほぼ同時代に、欧州では三十年戦争(1618~48年、哲学者デカルトも参戦)があり、オランダが勝利し、スペインが敗れて衰退するきっかけとなりますが、この時オランダが使った大砲の銅は「日本産」だったというのです。世界史の大転換の中で、日本はすでに、グローバリズムに取り込まれ、「貢献」していたことも驚きです。 

 この番組を見て、「本当に歴史を書き換えなければならないのではないか」という思いを強くした次第です。(あくまでも個人的な感想でした。南蛮人がキリスト教を武器に日本征服を企んでいたことが、500年経ってやっと公文書初公開で明らかになるとは!驚きを通り越して恐怖すら感じます)

日本人はなめられているのか?

スペイン・トレド

今朝方、天下のNHKさんのラジオニュースが繰り返し放送してましたが、東京・渋谷でハロウィーンのお祭り騒ぎにまぎれて、軽トラックが横転させられた事件で、外国人の男が任意の事情聴取に対し、「日本のハロウィーンはクレージーで、毎年このようなことをやっていると聞いていた。渋谷に行けば酒を飲んで騒いでも捕まらないと思った」と話していたそうですね。

えっ?わざわざ極東のくんだりまで来て、捕まらないから、騒乱目的でやって来たとな?

そう言えば、先月末、「職が見つからず、ストレスからやった」と、20件以上もの都内の公衆トイレを詰まらせたり、破壊したりした中国人も逮捕されましたね。

スペイン・トレド エル・グレコ作

随分、日本もなめられたものです。燃料税に反対したパリのデモなら少しばかり分かりますけど、外国人には日本とは甘い国だと見られていたんですね。

最近、急に降って湧いてきた「徴用工」裁判で、韓国最高裁(大法院)が立て続けに日本企業への賠償命令を発しているのもそうです。1965年の日韓請求権協定で消滅したはずの個人請求権を認めるのはおかしいはずですし、国際法に違反するのは明白で自明の理。私が日ごろ批判している安倍政権に対しては、珍しく賛同します。断固とした態度を貫いてほしいものです。

スペイン・トレド

外国人労働者についても、出入国管理法改正で、これから14業種で最大35万人弱を受け入れようとしてますが、大丈夫なんでしょうかね?

わずか短期滞在の外国人観光客でさえ、観光庁の役人と旅行業界と製造・小売り業界が結託して「ガンガンガン」と銅鑼を鳴らして煽動したおかげで増え続け、2017年は何と2379万人も訪日。おかげで、騒音やマナー違反、無用な混乱と混雑を招く「観光公害」が叫ばれているのですから、長期に及べば、移民と同じになり、騒音やごみや風紀問題、自治会費の未納など周辺住民との軋轢と摩擦が頻出することでしょう。

そもそも、外国人労働者は、日本のことを「裕福な国」「夢の国」「安心安全な国」「黄金の国」と期待して来るのでしょう。そして、実際に来て、蛸壺のような部屋に押し込められ、最低賃金以下の賃金で働かされ、長期時間外労働をさせられても手当がない、と涙を流して、恨みを持って告訴します。

しかし、実態は、4年生大学を出た日本の若者でさえ、まともな職がなくて非正規やアルバイトに甘んじている国です。40歳になり、もう将来結婚できないのではないかと諦めているのが実相です。何と言っても、政府の最大の仕事とは、自国民の雇用を守ることではないでしょうか。

そして、日本は裕福な国ではなく、貧富の格差が異様に激しく、低賃金で雇わなければやっていけない中小企業が多いというのが実態なのでしょう。

不当労働行為をされた外国人が日本政府を非難する気持ちは分かりますし、当然の権利ではありますが、その前に、自国民の雇用を守らず、海外に出稼ぎに行かせる母国の政府を非難するべきではないでしょうか。ノーベル平和賞をもらった「国家最高権力者」の国もあるぐらいですから。

日本に過大な期待と幻想を持ってもらっても、それは冷静に日本の実態と現実を見ていないということになります。

どんな偉い学者や政治家や評論家や法律家や新聞記者も建前論ばかりです。自分たちだけは裕福な安全地帯にいるから、他人事のような皮相な論理しか展開できないのです。

日本人同士でさえ、話し合っても分かり合えないのが今のご時勢です。

スペイン・トレド

その点、豊臣秀吉や徳川家康は偉かった。伴天連を追放し、耶蘇教を禁じた背景には、カトリックのイエズス会が、奴隷貿易商と結託して、日本人を拉致してルソン島に売り渡す仲介をしていたことを見抜いていたからです。まさに、自国民保護政策です。宗教以前の話です。なぜなら、プロテスタントのオランダや英国、それに中国などとは鎖国と言いながら、貿易を続けていたわけですから。

今日は、随分極論、暴論でしたか? でも、おとなしい飼い慣らされた羊のままでは、現実肯定で、それこそ怠慢の誹りを免れないのはないでしょうか。

元号について知識が増えました

所功、久礼旦雄、吉野健一共著「元号 年号から読み解く日本史」(文春新書)は、大変読み応えありました。

僭越ながら、それほど易易と読み飛ばすことができないでしょう。中級から上級読者向けです。まず、「薬子の乱」や「承久の変」といった歴史上の出来事の年代や天皇や藤原氏の系図が頭に入っていないとスラスラ読めないはずです。

私がこの本の中で興味深かったことを2~3点挙げますと、日本の元号は、本来、朝廷内で難陳され、天皇が最終的に裁可して改元されていましたが、やはり、時代を経て、時の最高権力者が元号を決定していたことがあったことでした。平安時代の藤原道長が自邸で、改元を決定していたことはさほど驚きませんが、例えば、織田信長は「天正」、豊臣秀吉は「文禄」「慶長」、徳川家康は「元和」の改元に意見を申し入れたか、直接、選定していたというのです。

もう一つは、年号の読み方については、特に朝廷や幕府から伝達されていなかったということです。改元を伝える「お触れ」などには、一部の地域では、読み方を「ルビ」として記載した例もありましたが、ほとんど各地に任されていたというのです。例えば「慶長」は「けいちょう」か、「きょうちょう」か、「宝暦」は「ほうれき」か「ほうりゃく」かなど、当時の史料でも読み方が一定していないというのです。

「へー」ですよ。日本語の漢字の読み方は「呉音」読みから「漢音」読みまで色々ありますから、日本語は難しい。ま、そこがいい所かもしれませんが(笑)。

現代人は、元号というのは、「一人の天皇陛下に一つ」、つまり、「一世一元」が当たり前だと思いがちですが、それは、明治以降の話であって、それ以前は天皇一代の間に何度も改元が行われてきました。おめでたい「祥瑞」(吉兆)が出現(例えば、白い雉とか)した時とか、都に疫病や天災、戦災に遭った時とか、60年に一度回ってくる「辛酉」(中国では革命が起きると言われた)や「甲子」(革令)の年に、改元したわけです。

幕末の孝明天皇朝(在位20年弱)は、「嘉永」から「慶応」まで6回も改元され、途中の「万延」と「元治」は1年しか続きませんでした。

江戸幕府や大名のお抱え儒学者、例えば、著名な林羅山や藤田東湖、それに山崎闇斎や新井白石らもかなり、改元に際して意見を申し入れていたことも、この本で初めて知りました。

「明治」は、15歳の天皇が「御籤を抽き聖択」、つまり、候補の中からクジを引いて決められたということで、これも驚き。

今では、本家本元の中国は、元号を廃止して西暦を使っていますから、元号は「日本的な、あまりにも日本的な」ものになっています。「日本書紀」の記述から初代神武天皇が紀元前660年に即位し、その年を紀元1年とすると、天保11年(1840年)は皇紀2500年に当たり、当時の知識人たちはしっかりと明記していたことには感心しました。

その100年後の昭和15年(1940年)、日本は盛大に「皇紀2600年」の祝賀会を挙行しました。零式戦闘機、つまりゼロ戦は、この年に製作されたのでそのように命名されたことは有名ですね。

来年は改元の年で、どんな年号になるのか、個人的には興味津々です。

大師号と法然上人

銀座「保志乃」鯖味噌煮定食980円

昨日の続きですが、「大師は弘法に、太閣は秀吉に、黄門は光圀に取られたり」という言い伝えがあるそうです。出展は分かりません。他に様々な言い方もあります。

まず、太閣は、大辞林によると、摂政または太政大臣の敬称。のちには、関白を辞して内覧の宣旨をこうむった人。または関白をその子に譲った人を指します。関白職を養子秀次に譲った豊臣秀吉が最も有名ですが、平安時代の藤原頼通を始め、太閣と称した人は日本の歴史上たくさんおりました。しかし、いつの間にか、太閣と言えば、豊臣秀吉のことを指すようになったのです。

黄門は、「中納言」職の唐名です。 それが、徳川光圀の通称(水戸黄門)となり、今では名前と勘違いされるほどです。

京都・建仁寺 copyright par Kyoraquesensei

さて、肝心なのが、大師号です。

大師号とは、もともと中国で、徳の高い高僧に朝廷から贈られる名のことでした。日本では、866年(貞観8年)7月、清和天皇より天台宗の開祖最澄に「伝教大師」、円仁に「慈覚大師」を贈られたのが初めと言われます。

それが、いつの間にか、大師様と言えば、真言宗の開祖空海に贈られた「弘法大師」のことを指すようになったのです。

実は、太子号を最も多く持つ高僧は、浄土宗の開祖法然房源空上人なのです。1697年(元禄10年)に東山天皇から円光大師を贈られ、その後、500年遠忌から50年ごとに加謚され、最近では2011年(平成23年)の800回忌で、今上天皇から法爾(ほうに)大師を贈られました。

何と、お一人で八つの大師号をお持ちなのです。

◇大師号の一覧

大師号 僧名 宗派 西暦・元号 勅賜(天皇) 備考
円光(えんこう)大師 法然房源空(1133~1212) 浄土宗 1697年(元禄10年) 東山天皇
東漸(とうぜん)大師 法然房源空 浄土宗 1711年(宝永8年) 中御門天皇 500回忌
慧成(えじょう)大師 法然房源空 浄土宗 1761年(宝暦11年) 桃園天皇 550回忌
弘覚(こうかく)大師 法然房源空 浄土宗 1811年(文化8年) 光格天皇 600回忌
慈教(じきょう)大師 法然房源空 浄土宗 1861年(万延2年) 孝明天皇 650回忌
明照(めいしょう)大師 法然房源空 浄土宗 1911年(明治44年) 明治天皇 700回忌
和順(わじゅん)大師 法然房源空 浄土宗 1961年(昭和36年) 昭和天皇 750回忌
法爾(ほうに)大師 法然房源空 浄土宗 2011年(平成23年) 今上天皇 800回忌
弘法大師 空海(774~835) 真言宗 921年(延喜21年) 醍醐天皇 真言宗開祖
道興大師 実慧(じつえ) 真言宗 空海の高弟
法光大師 真雅(しんが) 真言宗 1828年(文政11年) 空海の弟、貞観寺建立
本覚大師 益信(やくしん) 真言宗 1308年(延慶元年) 花園天皇 円城寺開山
理源大師 聖宝(しょうぼう) 真言宗 1707年(宝永4年) 東山天皇 醍醐寺、東大寺東南院建立。東密小野流の祖
興教大師 覚鑁(かくばん) 真言宗 江戸時代 新義真言宗祖、伝法院流の祖
月輪(がちりん)大師 俊芿(しゅんじょう) 真言宗 泉涌寺の開基
伝教大師 最澄(767~822) 天台宗 866年(貞観8年) 清和天皇 天台宗開祖
慈覚大師 円仁 天台宗 866年(貞観8年) 清和天皇 恐山開基
慈慧大師 良源 天台宗 第18代天台座主。「厄除け大師」
智証大師 円珍 天台宗 寺門派開祖
慈摂大師 真盛 天台宗 天台真盛宗の祖
慈眼大師 天海 天台宗 1648年(正保5・慶安元年) 後光明天皇 徳川家の参謀
無相大師 関山慧玄 臨済宗 明治天皇 妙心寺の開基
微妙大師 授翁宗弼 臨済宗 妙心寺2世
円明大師 無文元選 臨済宗 後醍醐天皇皇子
承陽大師 道元(1200~1253) 曹洞宗 1879年(明治12年) 明治天皇 曹洞宗高祖
常済大師 瑩山 曹洞宗 1909年(明治42年) 明治天皇 曹洞宗太祖
真空大師 隠元(1592~1673) 黄檗宗 1917年(大正6年) 大正天皇 黄檗宗の祖
華光大師 隠元 黄檗宗 1972年(昭和47年) 昭和天皇
見眞大師 親鸞(1173~1263) 浄土真宗 1876年(明治9年) 明治天皇 浄土真宗開祖
慧燈大師 蓮如 浄土真宗 1882年(明治15年) 明治天皇 中興の祖
聖応大師 良忍 融通念仏宗 1773年(安永2年) 後桃園天皇 融通念仏宗の祖
証誠大師 一遍(1234~1289) 時宗 1940年(昭和15年) 昭和天皇 時宗開祖
立正大師 日蓮(1222~1282) 日蓮宗 1922年(大正11年) 大正天皇 日蓮宗開祖

(表はbukkyo.netを基に引用作成しました)

こうして見ていきますと、日本の伝統仏教は13宗56派と言われておりますが、天台宗より古い奈良の南都六宗の法相宗、華厳宗、律宗の開祖には大師号はなく、意外にも臨済宗の開祖栄西(1141~1215)には大師が贈られていないようです。

明治時代は「廃仏毀釈」の嵐で、かなり寺院が荒廃したと伝えられていますが、これまた意外なことに道元や親鸞らが大師号を贈られたのは、明治天皇だったんですね。

なかなか奥が深いものです。

加藤廣著「明智佐馬助の恋」

 勝毎花火

公開日時: 2007年8月9日

加藤廣著「明智佐馬助の恋」を読了し、これで、やっと加藤氏の「信長の棺」「秀吉の枷」上下と合わせて「本能寺三部作」を読み終えることができました。

 

最初に織田信長がきて、続いて豊臣秀吉、それなら3部作の最後は徳川家康かな、と思ったら、最後は、明智光秀の娘婿が主人公だったです。おめでたい私は、何故明智なのか、最初分からなかったのですが、著者の加藤氏は「明智左馬助の恋」の後書きで、種明かしをしています。

 

同じ主題(ここでは「本能寺の変」)を3つの角度から複合的に捉えて、その立体像を明らかにして歴史的真相に迫る。これは、黒沢明監督の映画「羅生門」(原作は芥川龍之介「藪の中」)と井上靖の「猟銃」から手法を学んだということを書いています。東京空襲を経験した著者は、3点からサーチライトを照らして敵機を捕らえて撃墜していたことを見た経験を語っています。著者曰く「三次元自動焦点」方式です。

 

本能寺の変という歴史的ミステリーは、信長の遺体が忽然と消え、遥か彼方の中国地方で毛利軍と対峙していたはずの秀吉が、他の武将よりも逸早く情報をキャッチして、「中国大返し」と呼ばれるアクロバチックな帰還で、光秀を山崎の合戦で打ち破って、天下を取ってしまうのです。それはどうしてなのか、なぜそんなことができたのか、というものでした。

この3部作を読んでいない人は、この先、読むとつまらなくなるのでやめておいた方がいいと思いますが、加藤さんは、信長暗殺を、秀吉「主犯」、光秀「未遂犯」説を採っています。

いやあ、面白かったですよ。著者の執筆の基本姿勢は「勝者に悲哀を、敗者に美学を」ということですから、今、逆境にいる人が読んだら、随分、救われると思います。

特に、私がこの中で一番面白かったのは、「秀吉の枷」の上巻ですね。秀吉の諜報活動が事細かく分析されていますが、まさに情報は力なり、情報収集能力の差で天下を取った証左をまざまざと見せ付けてくれます。

昨日の答え

1、ハンブルパイ

2、ブラックサバス

3、マウンテン

4、アニマルズ

5、新聞広告

賄賂

 帯広動物園

お中元の季節ですね。

私は、基本的に中元も歳暮も賄賂だと思っています。ですから、親しい人には贈りません。いや、親しくない人にもあまり贈りません。一応、サラリーマンなのですが、会社に入って20年以上、贈ったことがありませんでした。

 

それが、あることがきっかけで、贈ることになったのです。Xさんからのアドバイスでした。「贈ってごらんなさい。その人の意外な一面が分かって面白いですよ」というのです。

 

それで、試してみました。黙って受け取る人。贈られたら、すかさず贈り返してくる人。「もう、こういうことはやめてください」という人。本当にさまざまでした。しかも、そういうことを言いそうな人が、黙って受け取り、どう見ても悪っぽい人が意外と潔癖で、「こんなことやめようよ」と言ってきたりしました。

確かに意外な一面が分かりました。

加藤廣著「秀吉の枷」(日本経済新聞社)には、羽柴秀吉の桁違いの「お歳暮」のことが事細かに明らかにされています。もちろん、贈答先は織田信長です。

天正九年十二月二十二日のことです。

信長への献上品は、御太刀一振、銀子一千枚、御小袖百、鞍置物十疋、播州杉原紙三百束、なめし革二百枚、明石干し鯛一千枚、クモだこ三千連。これに織田家の女房衆に進呈する小袖が二百点。(中略)これらが秀吉の安土城外の外屋敷を出発して安土城に向かったのが夜明けである。(中略)しかし、先頭が門をくぐったのに、末尾の荷駄はまだ秀吉の外屋敷を出ていなかった。これだけでも秀吉の歳暮戦略は天下に鳴り響いた。

やはり、百戦錬磨の歴史上の人物は桁違いです。